育児休暇を終えて戻ってみたら、私の居場所がなかった 第3話(最終話)
~それでも私は、この人生をあきらめない~
前回までのあらすじ
育休から復帰した佐伯美優は、温かく迎えられながらも、かつての居場所を失ったような孤独を抱えていた。後輩たちは成長し、会社は自分がいなくても回っていた。それでも少しずつ新しい役割を見つけ、自分の価値を取り戻していく。職場での居場所は見つかり始めた。けれど心の奥には、まだ言葉にできない苦しさが残っていた。それは仕事ではなく、一番近くにいる夫にも本音を言えなくなっていたことだった。
「もう少し頑張れば楽になれる。」 私はずっとそう思っていた。
けれど人生は、次々と新しい課題を運んでくる。
それでも不思議と絶望はしなかった。
一人で抱え込むのをやめたから。
完璧を目指すのをやめたから。
これは、思い通りにならない人生を、それでも愛そうと思えた私の物語。
プロローグ
「やっと落ち着いたね。」
夕食の後だった。
悠斗はリビングで宿題をしている。
夫は食器を片付けていた。
美優は湯気の立つマグカップを両手で包みながら、ふとそんなことを思った。
確かにそうだった。
育休復帰直後の混乱はもうない。
職場には居場所ができた。
仕事にも慣れた。
夫とも本音を話せるようになった。
以前のように、一人で苦しさを抱え込むことも少なくなった。
少し前まで夢に見ていた毎日が、今ここにある。
それなのに。
人は不思議なものだと思う。
苦しみが消えれば幸せになれると思っていたのに、
苦しみが消えると、今度は別の不安が顔を出す。
その日の午後。
人事システムから届いたメールを美優は思い出していた。
時短勤務終了まで残り三か月となりました。
対象者の皆さまは上司との面談を実施してください。
何度も読んだ文章だった。
内容は分かっている。
いつか来ると分かっていた日だった。
それでも胸がざわついた。
時短勤務終了。
その言葉は、
ひとつの区切りを意味していた。
復帰直後は、
ただ毎日を乗り切ることで精一杯だった。
一年後には、
職場の居場所を作ることに必死だった。
さらにその後は、
家庭の中で本音を取り戻そうとしていた。
そして今。
人生はまた新しい問いを投げかけてくる。
これからどう働くのか。
これからどう生きるのか。
仕事は。
家族は。
自分自身は。
考え始めるときりがなかった。
「ママ。」
悠斗の声で我に返る。
「ん?」
「この漢字あってる?」
ノートを抱えて見せに来る。
美優は隣に座った。
「惜しいなあ。」
「またまちがえた。」
悠斗が肩を落とす。
その姿がおかしくて、思わず笑ってしまった。
「大丈夫。」
気付けばそう言っていた。
「何回でもやれば覚えるよ。」
悠斗は不満そうな顔をしながらも、再び机へ向かった。
その後ろ姿を見ながら、
美優はふと思った。
私自身はどうだろう。
間違えながら生きることを、
本当に自分に許せているだろうか。
いつからだろう。
人生に正解があると思うようになったのは。
仕事も。
育児も。
夫婦関係も。
全部うまくやれなければならないと思っていた。
少し前までは。
だけど今は違う。
違うはずなのだ。
するとスマートフォンが震えた。
実家の母からだった。
珍しい時間だった。
美優は少しだけ嫌な予感を覚える。
「もしもし?」
電話の向こうで母が笑った。
その声に少し安心する。
だが次の言葉に、美優は思わず表情を曇らせた。
「実はね、病院で検査することになったの。」
静かな夜だった。
けれどその瞬間、
人生がまた動き出した音がした。
ずっと思っていた。
もう少し頑張れば楽になれると。
職場の悩みがなくなれば。
夫婦の問題が解決すれば。
子どもが成長すれば。
きっと楽になると。
でも人生は違った。
ひとつの山を越えれば、
また新しい景色が現れる。
新しい悩み。
新しい不安。
新しい選択。
それでも。
不思議と絶望はなかった。
なぜなら、
もう知っていたからだ。
人生は、
問題がなくなる場所へ向かう旅ではない。
思い通りにならない現実の中で、
それでも誰かと笑い、
それでも前へ進み、
それでも生きていくものだということを。
その時の美優はまだ知らなかった。
これから訪れる出来事が、
これまでで一番大きな問いを彼女に投げかけることを。
そしてその問いの先で、
ようやく彼女が
「この人生をあきらめない」
と心から言えるようになることを。
第一章 また始まる
「時短勤務終了まで、あと三か月ですね。」
上司の言葉に、美優はゆっくりとうなずいた。
会議室の窓から春の日差しが差し込んでいる。
人事面談の時間だった。
年に一度のキャリア面談。
特別なものではない。
それでも今日は少し緊張していた。
「体制としては、来年度から通常勤務を想定しています。」
部長は穏やかな口調で続けた。
「もちろん急に全部変えるつもりはありません。」
「はい。」
「ただ、佐伯さんにはそろそろ中核メンバーとして動いてもらいたいと思っています。」
美優は小さく笑った。
嬉しかった。
本当に。
育休復帰直後の自分に聞かせたら、きっと泣いて喜んだだろう。
職場の居場所がなくなったと思っていたあの日。
会議中に保育園から電話が鳴り、「すみません」を繰り返していたあの日。
そんな自分が再び期待されている。
それは大きなことだった。
しかし帰りのエレベーターの中で、美優の胸は少しだけ重かった。
期待されることは嬉しい。
それなのに素直に喜べなかった。
なぜだろう。
デスクへ戻る。
パソコンの画面を見つめる。
メール。
会議。
資料。
いつもの仕事が並んでいる。
だが、その隣には別の未来も見えていた。
来年の春。
悠斗は小学生になる。
そして自分はフルタイムになる。
頭の中で二つの出来事が重なる。
保育園の閉園時間。
お迎え。
延長保育。
病児保育。
それらは今までの仕組みだった。
小学校は違う。
先輩ママたちから何度も聞いていた。
「保育園の方が楽だったよ。」
その言葉を聞くたびに、美優は冗談だと思っていた。
でも最近になって分かり始めた。
あれは冗談ではなかったのだ。
学童はある。
けれど終了時間は早い。
夏休みもある。
宿題もある。
学校行事もある。
子どもは大きくなるのに、
親の手はまだ必要なのだ。
むしろ別の形で。
「難しい顔してますね。」
ふいに木村が声をかけてきた。
美優は慌てて笑う。
「そんなことないよ。」
「本当ですか?」
「うん。」
また嘘をついた。
最近は夫に本音を話せるようになった。
でもまだ、
自分自身にも話せていない本音がある。
怖かった。
時短勤務終了が。
以前は望んでいたはずなのに。
前に進みたい。
もっと仕事もしたい。
そう思っていた。
でも現実が近づいてくると怖い。
仕事を増やしたら、
家はどうなるのだろう。
悠斗はどうなるのだろう。
私はまた、
全部抱え込んでしまうのだろうか。
その夜。
夕食の後。
美優は人事面談の話を夫にした。
「そうか。」
夫は静かにうなずいた。
「もうそんな時期か。」
「うん。」
「どうしたい?」
その問いに、
美優はすぐ答えられなかった。
数年前なら即答していただろう。
もっと仕事をしたい。
もっと挑戦したい。
もっと成長したい。
と。
でも今は違う。
仕事も好きだ。
家族も大事だ。
どちらかを選びたいわけではない。
それなのに、
人生は時々、
選択を迫ってくる。
「分からない。」
美優は正直に答えた。
夫は笑わなかった。
否定もしなかった。
ただ静かに聞いてくれた。
「そっか。」
その一言だけだった。
でも不思議と安心した。
昔の自分なら、
すぐに答えを出そうとしていた。
正解を探していた。
でも今は違う。
答えが出なくてもいいと思える。
分からないまま考えてもいいと思える。
それは以前にはなかった変化だった。
寝る前。
悠斗の部屋をのぞく。
布団を蹴飛ばして眠っている。
相変わらずだ。
美優はそっと布団を掛け直した。
すると悠斗が寝返りを打つ。
小さな声で何かをつぶやく。
よく聞き取れない。
でも思わず笑ってしまう。
人生は不思議だ。
やっと落ち着いたと思ったら、
また新しい課題がやってくる。
居場所を見つけた。
本音を話せるようになった。
それでも人生は待ってくれない。
次の問題を連れてくる。
でも以前のような絶望はなかった。
少しだけ怖い。
少しだけ不安。
それでも、
前ほど一人ではない。
美優は寝室へ向かいながら思った。
もしかすると人生とは、
問題をなくしていくものではなく、
向き合える自分になっていくものなのかもしれない。
そして新しい春は、
静かに近づいていた。
第二章 小学生の壁
「保育園の方が楽だったよ。」
昼休み。
社員食堂で向かいに座った藤原課長が、コーヒーを飲みながら言った。
美優は思わず笑った。
「それ、みんな言いますよね。」
「みんな言うのには理由があるの。」
藤原は真顔だった。
その表情を見て、美優の笑顔が引きつる。
「そんなに大変なんですか?」
「大変。」
即答だった。
「びっくりするくらい。」
その日の午後。
美優は藤原の言葉を何度も思い出していた。
悠斗の小学校入学まで、あと半年。
ランドセルも決めた。
学用品の説明会にも参加した。
少しずつ準備を進めている。
どこかで、
「保育園が小学校になるだけ」
と思っていた。
しかし最近になって先輩ママたちの話を聞くたびに、不安が大きくなっていた。
小学生になると、
親の負担が減ると思っていた。
ところが現実は逆だった。
学童のお迎え時間。
長期休暇。
宿題の確認。
授業参観。
PTA。
名前だけ聞いてもよく分からない。
それなのに、皆が口をそろえて言う。
「保育園時代の方が楽だった。」
それが何より恐ろしかった。
その週末。
美優は一人で小学校の入学説明会へ参加した。
体育館には不安そうな保護者が並んでいる。
配られた資料は分厚かった。
登校時間。
持ち物。
学童の手続き。
緊急連絡網。
年間スケジュール。
説明が進むたびに、
美優の頭の中でカレンダーが埋まっていく。
入学式。
家庭訪問。
個人面談。
夏休み。
夏休み。
その文字を見た瞬間、美優は固まった。
四十日近くある。
当然だ。
自分にもそんな時代があった。
だが今は違う。
私は働いている。
夫も働いている。
四十日間の昼間をどうするのだろう。
現実が突然、具体的な形を持って目の前に現れた。
帰宅後。
テーブルに資料を広げながら、美優は深いため息をついた。
「そんなにすごい資料?」
夫が笑う。
「笑い事じゃない。」
「え?」
「見て。」
学童の案内を渡す。
夫は読み始める。
だんだん表情が曇っていく。
「なるほど……。」
しばらく無言。
「これは。」
夫が言う。
「けっこう大変そうだね。」
美優は思わず笑った。
ようやく分かった?
そう言いそうになった。
しかし次の瞬間、
夫も同じように困った顔をしていることに気付く。
二人とも初めてなのだ。
親になるのも初めて。
小学生の親になるのも初めて。
正解なんて誰も知らない。
その事実に少しだけ肩の力が抜けた。
その夜。
悠斗がランドセルのパンフレットを抱えてきた。
「ぼく、もうすぐいちねんせい!」
満面の笑顔だった。
誇らしそうだった。
美優は微笑む。
「楽しみ?」
「うん!」
「なにが楽しみ?」
悠斗は少し考えて言った。
「ともだちいっぱいつくる。」
なんとも子どもらしい答えだった。
勉強じゃない。
成績じゃない。
将来の不安でもない。
ただ友達が楽しみ。
それだけ。
美優は思わず笑った。
私たちはまだ始まってもいない未来を不安がっている。
でもこの子は、
未来を楽しみにしている。
どちらが正しいのだろう。
その夜。
布団に入ってからも眠れなかった。
時短勤務が終わる。
悠斗は小学生になる。
生活は変わる。
今までのやり方では回らないかもしれない。
また失敗するかもしれない。
また壁にぶつかるかもしれない。
けれど。
職場に復帰した頃の自分なら、
きっと絶望していただろう。
無理だと思っただろう。
でも今は少し違う。
怖い。
それは本当だ。
けれど絶望ではない。
なぜだろう。
しばらく考えて、
ようやく答えに気付く。
私は知っているのだ。
人生は、
問題がなくなって楽になるものではないということを。
育休復帰もそうだった。
職場の孤独もそうだった。
夫婦のすれ違いもそうだった。
乗り越えたら終わりではなかった。
その先にも新しい課題が待っていた。
そして今回も同じだ。
小学生の壁。
きっと大変だろう。
でも。
きっと何とかなる。
何も根拠はない。
それでもそう思えた。
以前の美優は、
「一人で何とかする」
と思っていた。
今の美優は違う。
「一緒に何とかする」
と思えた。
隣では夫が眠っている。
その向こうでは悠斗が寝返りを打っている。
思い通りにならない未来。
でも、
思い通りにならなかったから出会えた人たちがいる。
そのことを思いながら、
美優は静かに目を閉じた。
そして、新しい春は確実に近付いていた。
第三章 理想と現実
日曜日の午後だった。
悠斗はリビングでランドセルのカタログを広げている。
夫はソファで新聞を読んでいた。
窓から春の日差しが差し込み、穏やかな時間が流れている。
そんな何気ない休日だった。
「ママ。」
悠斗が顔を上げた。
「ん?」
「ぼく、小学生になったらさ。」
目を輝かせながら言う。
「ともだち百人つくる。」
思わず笑ってしまう。
「百人?」
「うん!」
「そんなに?」
「できる!」
満面の笑顔だった。
その無邪気さが愛おしい。
美優は思わず頭を撫でた。
その夜。
悠斗が眠った後だった。
美優は一人でリビングにいた。
テーブルの上には、
小学校説明会でもらった資料。
学童の案内。
勤務制度変更のお知らせ。
そして一冊のノート。
何となくページをめくる。
そこには数年前の自分がいた。
育休前の自分。
二十八歳。
二十九歳。
三十歳。
勢いがあった。
自信もあった。
未来への期待もあった。
その中に一枚のメモが挟まっていた。
社内研修の時に書いた将来設計だった。
『35歳までに管理職になる』
『大型プロジェクトを率いる』
『海外案件に挑戦する』
『仕事を通して成長し続ける』
美優はしばらくその文字を見つめた。
懐かしかった。
そして少し胸が痛んだ。
当時の私は、
こうなると思っていなかった。
育休を取ることも。
職場で居場所を失ったと感じることも。
夫婦で本音を話せなくなることも。
母の体調を心配する日が来ることも。
人生はもっと単純だと思っていた。
努力すれば報われる。
計画すれば実現できる。
そう信じていた。
だからこそ、
現実との違いに戸惑っていた。
翌週。
会社で同期の加藤と話す機会があった。
加藤は管理職になり、
部下を持ち、
忙しそうに働いている。
「大変そうだね。」
美優が言う。
すると加藤は苦笑した。
「めちゃくちゃ大変。」
「でも順調そう。」
「全然。」
加藤は即答した。
「理想と全然違うよ。」
その言葉に美優は驚く。
加藤はずっと順風満帆に見えていた。
昇進している。
成果も出している。
でも本人は続けた。
「もっとできると思ってた。」
「管理職になったら余裕ができると思ってた。」
「でも現実は毎日失敗してる。」
そう言って笑う。
その笑顔はどこか疲れていた。
美優は帰り道、その言葉を思い出していた。
理想と現実。
それは自分だけではないのかもしれない。
みんなそうなのかもしれない。
結婚したら幸せになると思っていた。
子どもが生まれたら落ち着くと思っていた。
昇進したら自信が持てると思っていた。
でも現実は違う。
結婚しても悩む。
親になっても悩む。
昇進しても悩む。
人生は、
何かを手に入れたら完成するものではなかった。
その夜。
夫がコーヒーを淹れながら聞いた。
「何考えてるの?」
美優は少し笑った。
「昔のこと。」
「懐かしくなった?」
「うん。」
少し考える。
そして正直に言った。
「昔の私はね。」
「もっとちゃんとした大人になれると思ってた。」
夫が吹き出した。
「それ、分かる。」
「でしょ?」
「俺も思ってた。」
二人で笑う。
「もっと余裕があると思ってた。」
夫が言う。
「落ち着いた父親になると思ってた。」
「私は落ち着いた母親になると思ってた。」
また笑う。
現実は全然違う。
今でも焦る。
今でも迷う。
今でも失敗する。
でも、
その現実を少し笑えるようになった自分がいた。
美優は窓の外を見た。
春の夜空だった。
若い頃の理想は眩しかった。
でも今振り返ると、
あの理想には一つだけ足りないものがあった。
失敗する自分だ。
弱い自分だ。
迷う自分だ。
人生は完璧な未来予想図のようには進まない。
予定外の出来事が起きる。
遠回りもする。
立ち止まることもある。
けれど。
その中で出会う人がいる。
学ぶことがある。
大切なものが増えていく。
昔の理想とは違う。
でも。
今の人生は、
本当に失敗だったのだろうか。
美優は静かに首を振った。
違う。
思い通りにはならなかった。
けれど。
思い通りにならなかったからこそ、
今ここにいる。
その事実を、
少しずつ受け入れられるようになっていた。
そしてその頃から、
美優の中で小さな変化が始まっていた。
理想を追いかけることよりも、
現実を愛することの方が、
もしかしたら難しいのかもしれない。
そんな考えが、
静かに芽生え始めていた。
第四章 老いていく親
母の検査結果を聞きに行く日だった。
平日の午後。
美優は半日休暇を取り、実家の最寄り駅へ向かっていた。
電車の窓の外を眺めながら、胸の奥がざわついていた。
大きな病気ではない。
母はそう言っていた。
電話の声も普段通りだった。
それでも不安は消えない。
「病院で検査することになったの。」
あの日の言葉が頭から離れなかった。
病院の待合室で母を見つけた。
「ごめんね。仕事休ませちゃって。」
母はいつものように笑った。
その笑顔を見て、美優は少しだけ安心する。
だが座った瞬間、違和感を覚えた。
母が小さく見える。
気のせいかもしれない。
でも確かに以前より背中が丸くなっている。
髪にも白いものが増えていた。
診察の結果は深刻なものではなかった。
年齢による体力の低下。
定期的な通院が必要。
今すぐどうこうなる話ではない。
医師の説明を聞きながら、美優は何度もうなずいた。
安心した。
本当に安心した。
それなのに。
病院を出る頃には、別の種類の不安が胸に広がっていた。
帰り道。
母と二人で喫茶店に入った。
子どもの頃から通っていた店だった。
小さなテーブル。
昔と変わらないコーヒーの香り。
母は楽しそうに話している。
悠斗のこと。
仕事のこと。
最近見たテレビ番組のこと。
何も変わらないように見えた。
しかし会話の途中、
母がふと漏らした。
「最近ね。」
「うん。」
「階段がちょっと大変なのよ。」
美優は思わず顔を上げた。
母は笑っている。
でもその言葉は妙に重かった。
階段が大変。
それだけのことだ。
誰にでも起きることだ。
でも美優は初めて実感した。
母も年を取っている。
当たり前だった。
美優が年を重ねているのだから。
母だって同じだけ年を取っている。
それなのに、
どこかでずっと変わらない存在だと思っていた。
帰宅した夜。
美優は古いアルバムを開いた。
実家から持ち帰ったものだった。
そこには幼い頃の写真が並んでいた。
運動会。
遠足。
誕生日。
どの写真にも母がいる。
若くて元気で、
何でもできる人だった。
熱を出せば朝まで看病してくれた。
転んで泣けばすぐに駆けつけてくれた。
進路に迷った時も話を聞いてくれた。
大人になった今もそうだ。
困った時には真っ先に電話している。
でも。
その母にも頼れなくなる日が来るのだろうか。
考えた瞬間、
胸が締め付けられた。
「どうした?」
夫が隣に座る。
美優はアルバムを見せた。
「母の昔の写真。」
夫もページをのぞき込む。
「若いな。」
「ね。」
二人で笑う。
しばらくして美優はぽつりと言った。
「親って、年取るんだね。」
夫は何も言わない。
ただ静かに聞いている。
「当たり前なのに。」
「うん。」
「今日、初めて怖くなった。」
夫はゆっくりうなずいた。
そして静かに言った。
「俺も最近思うよ。」
「え?」
「父さん、前より歩くの遅くなった。」
その一言で、
美優はハッとした。
私だけじゃなかった。
夫も同じ景色を見始めている。
子どもが成長する。
親が老いる。
自分たちも年を重ねる。
人生は前に進む。
嬉しいことだけじゃない。
寂しいことも一緒に連れて。
その夜。
悠斗の寝顔を見ながら、
美優は静かに思った。
数年前まで、
人生の課題は仕事だけだった。
評価。
昇進。
成果。
でも今は違う。
家族がいる。
守りたい人が増えた。
だから悩みも増えた。
それは不幸なことだろうか。
美優は首を横に振る。
違う。
大切なものが増えたからこそ、
失うことが怖くなったのだ。
それはきっと、
愛している証拠なのだと思った。
窓の外では夜風が木々を揺らしていた。
人生は思い通りにならない。
親も老いる。
子どもも成長する。
自分だって変わっていく。
それは少し寂しい。
けれど。
もし何も変わらなかったら、
今の幸せも存在しなかった。
美優は写真の中の若い母に微笑みかけた。
そして静かにアルバムを閉じる。
人生は変わる。
だからこそ、
今この瞬間はかけがえがない。
そのことを少しずつ理解し始めた時、
美優の中でまた一つ、
人生との向き合い方が変わり始めていた。
第五章 夫の転機
「少し相談があるんだけど。」
その言葉を聞いたのは、金曜日の夜だった。
夕食を終え、
悠斗が宿題をしている横で、
夫は珍しく真剣な顔をしていた。
美優はすぐに気付く。
仕事の話だ。
しかも、あまり軽い話ではない。
「どうしたの?」
夫は少し迷ったあと口を開いた。
「異動の話がある。」
美優の手が止まる。
一瞬だけ時間がゆっくり流れたような気がした。
異動。
その言葉に、
以前に夫からで聞いた話がよみがえる。
かつて夫は、
地方拠点の責任者の話を断っていた。
美優に負担をかけたくないから。
育休復帰したばかりだったから。
何も相談せずに。
一人で。
だが今は違う。
夫は先に話してくれた。
それだけで大きな変化だった。
「今回は?」
美優が聞く。
夫は少し笑う。
「前みたいな転勤じゃない。」
「うん。」
「本社の新しい部署。」
「へぇ。」
「かなり大きな仕事になる。」
嬉しそうだった。
でも同時に不安そうでもあった。
それが美優には分かった。
「やりたいの?」
夫は少し驚いた顔をした。
そして小さく笑った。
「実はやってみたい。」
その顔を見て、
美優も自然と笑った。
久しぶりに見た表情だった。
仕事の話をしている時の夫の顔。
結婚する前。
よく見ていた顔だった。
未来の話をする時の顔。
夢を語る時の顔。
最近は見ていなかった。
いや。
見ようとしていなかったのかもしれない。
「じゃあ、やればいいじゃない。」
思わずそう言った。
夫は困ったように笑う。
「簡単に言うなあ。」
「簡単じゃないの?」
「全然。」
夫はテーブルの上に置いた資料を見つめた。
「たぶん帰りは遅くなる。」
「うん。」
「出張も増える。」
「うん。」
「責任も大きくなる。」
その言葉の意味が分かる。
家族の時間は減る。
今まで通りにはいかなくなる。
夫は続けた。
「だから迷ってる。」
美優は黙る。
一年前の自分なら、
どう感じただろう。
たぶん不安しか見えなかった。
仕事が増える。
家庭が回らなくなる。
また全部私に来る。
そう考えたかもしれない。
でも今は少し違った。
夫も悩んでいる。
夫も人生を生きている。
夫にも挑戦したいことがある。
その当たり前のことが、
今なら見える。
「ねえ。」
美優は静かに言った。
「なに?」
「やらなかったら後悔する?」
夫はすぐには答えなかった。
少し考える。
そして正直に言った。
「すると思う。」
その言葉を聞いた瞬間、
美優の胸に何かが落ちた。
ああ。
私と同じだ。
仕事が好き。
家族も大切。
どちらかを捨てたいわけじゃない。
だから苦しい。
夫も同じ場所にいるのだ。
「じゃあやった方がいい。」
美優は迷わず言った。
夫は驚いている。
「本当に?」
「うん。」
しばらく沈黙が流れる。
やがて夫が言った。
「その代わり。」
「うん?」
「また家族会議しよう。」
美優は笑った。
家族会議。
本音が言えなかった以前なら出てこない言葉だ。
以前の二人は、
一人で抱えて、
一人で決めて、
一人で苦しんでいた。
でも今は違う。
悩みを共有する。
不安も共有する。
答えが出なくても一緒に考える。
それが自分たちのやり方になり始めていた。
その夜。
悠斗が眠ったあと、
二人は久しぶりに将来の話をした。
仕事。
お金。
小学校。
親のこと。
十年後。
老後。
夢。
不安。
全部。
完璧な答えは出なかった。
むしろ課題は増えたかもしれない。
でも不思議だった。
話せば話すほど、
希望も増えていった。
人生には正解がない。
どちらを選んでも不安は残る。
けれど。
一つだけ確かなことがあった。
私たちは、
未来を怖がるために話しているのではない。
未来を一緒につくるために話しているのだ。
寝る前。
美優は窓の外を見た。
夜空には小さな月が浮かんでいる。
人生は思い通りにならない。
仕事も。
子育ても。
親の老いも。
夫婦の未来も。
だけど。
思い通りにならないからこそ、
支え合う意味があるのかもしれない。
そんなことを思いながら、
美優は静かにカーテンを閉めた。
そして気付かないうちに、
「未来への不安」は少しずつ
「未来への覚悟」へと変わり始めていた。
第六章 全部は守れない
四月。
新年度が始まった。
街には真新しいランドセルを背負った子どもたちが歩いている。
悠斗もその一人だった。
大きなランドセルがまだ身体に馴染まず、少しだけ歩き方がおかしい。
その後ろ姿を見送りながら、美優は笑った。
「行ってらっしゃい。」
「いってきます!」
元気な声。
その姿を見ていると嬉しくなる。
同時に、少しだけ不安にもなる。
フルタイム勤務が始まって三週間。
生活は想像以上に慌ただしかった。
朝は以前より一時間早く家を出る。
仕事も増えた。
会議も増えた。
任される役割も増えた。
それ自体は嬉しい。
ずっと望んでいたことでもある。
だが、その代償も確実に増えていた。
ある日の夕方。
時計を見る。
十八時二十分。
予定していた会議が長引いていた。
議論は佳境だった。
顧客への提案方針が決まる重要な場面。
以前なら最後までいたいと思っていた。
いや、今も思っている。
しかし学童のお迎え時間が迫っていた。
胸がざわつく。
残るべきか。
帰るべきか。
その瞬間、
一年前の自分を思い出した。
保育園から電話が鳴るたびに苦しんでいた頃の自分を。
結局、美優は席を立った。
「申し訳ありません。」
自然に口から出た。
しかし次の瞬間、
ふと笑ってしまった。
また言っている。
もう必要ないはずなのに。
会議室を出た後、
美優は少しだけ肩を落とした。
学童へ向かう道。
春の夕暮れ。
オレンジ色の空。
本来なら穏やかな景色だった。
しかしその日の美優の心には余裕がなかった。
会社のこと。
悠斗の宿題のこと。
母の通院日程。
夫の新部署の件。
頭の中は常に何かで埋まっている。
仕事も頑張りたい。
母親としてもちゃんとしたい。
娘ではないが、親のことも気になる。
妻としても支えたい。
全部大切だ。
全部捨てたくない。
だから苦しい。
その夜。
悠斗は宿題を前に泣いていた。
「わかんない!」
算数だった。
ひらがなならよかった。
しかし数字になると急に難しく感じるらしい。
美優は隣に座った。
「大丈夫。」
そう言おうとして、
途中で言葉が止まる。
大丈夫。
本当に?
悠斗も。
自分も。
大丈夫なのだろうか。
「もう!」
悠斗が鉛筆を投げた。
その瞬間だった。
「ちゃんとやりなさい!」
美優は思わず声を荒げた。
部屋が静まり返る。
悠斗が固まる。
そして小さくうつむいた。
「ごめんなさい……。」
その姿を見た瞬間、
美優は胸が締め付けられた。
違う。
怒りたかったわけじゃない。
悠斗が悪いわけじゃない。
余裕がないのは自分だ。
完全に自分だ。
その夜。
悠斗が寝た後、
美優は一人でダイニングに座っていた。
情けなかった。
仕事も中途半端。
母親としても失格。
また同じことを考えている。
以前の自分に戻ったみたいだった。
すると夫が隣に座った。
「大丈夫?」
以前なら、
その言葉に傷ついていたかもしれない。
でも今は違う。
美優は正直に答えた。
「大丈夫じゃない。」
夫は黙って聞いている。
「全部ちゃんとやりたいの。」
「うん。」
「でも全然できない。」
「うん。」
「仕事も。」
「うん。」
「悠斗のことも。」
「うん。」
「母のことも。」
「うん。」
涙が出そうになる。
「全部守りたいの。」
その言葉を聞いた夫は、
しばらく考えていた。
そして静かに言った。
「無理だよ。」
美優は顔を上げた。
夫は続ける。
「全部守るのは無理。」
あまりにもあっさり言うので、
思わず笑いそうになった。
「ひどい。」
「ひどくない。」
夫は笑う。
「俺も最近やっと分かった。」
「何が?」
「人生って、全部は守れない。」
その言葉は優しかった。
諦めろと言っているのではない。
現実を受け入れていいと言っているのだ。
夫は続ける。
「その代わり。」
「うん。」
「その時、一番大事なものを選ぶしかないんじゃないかな。」
美優は黙る。
昔の自分は、
全部できる理想の人生を目指していた。
仕事も百点。
育児も百点。
夫婦関係も百点。
親孝行も百点。
でも現実は違う。
そんな人生は存在しない。
それを認めるのは悔しかった。
だけど、
少しだけ救われる気もした。
窓の外では夜風が吹いていた。
人生は思い通りにならない。
守りたいものも増えていく。
だから全部を完璧には守れない。
でも。
完璧に守れないことは、
愛していないこととは違う。
その当たり前の事実を、
美優は少しずつ理解し始めていた。
そしてこの夜を境に、
彼女は人生に対する大きな勘違いに気付き始める。
幸せとは、
すべてを手に入れることではない。
限られた時間の中で、
大切なものを選び続けることなのかもしれない、と。
第七章 それでも支えてくれる人
「すみませんでした。」
美優は深く頭を下げた。
会議室の空気は重かった。
大型案件の顧客向け資料。
数値の更新ミスが見つかったのだ。
幸い大きな損害にはならなかった。
提出前に発覚したため修正も間に合った。
だが担当者としての責任は消えない。
会議が終わった後も、
美優はしばらく席を立てなかった。
情けなかった。
こんな初歩的なミス。
昔の自分ならしなかった。
そう思ってしまう。
頭の中で、
またあの声が聞こえる。
もっとちゃんとやれたはず。
仕事も。
育児も。
家庭も。
全部。
完璧に。
しかし今の美優には、
その声が間違っていることも分かっていた。
分かっている。
それでも苦しい。
感情は簡単には追いつかない。
夕方。
木村がコーヒーを持ってやってきた。
「佐伯さん。」
「ん?」
「元気ないですね。」
美優は苦笑した。
「まあね。」
「気にしてます?」
「そりゃ気にするよ。」
木村は少し考えてから言った。
「僕、佐伯さんがミスしたの初めて見ました。」
「ひどい言い方。」
思わず笑う。
「いや、本当に。」
木村も笑う。
「でも。」
そこで真面目な顔になった。
「僕ら、いつも助けてもらってます。」
「……。」
「だから今日は僕らがフォローしただけです。」
その言葉に、
美優は言葉を失った。
以前だったら、
そんな言葉は信じられなかっただろう。
私は迷惑をかける側。
支えられる側。
そう思っていた。
でも違った。
今の自分は、
誰かを支える側にもなっていたのだ。
気付いていなかっただけで。
その夜。
仕事を終えて学童へ向かう途中、
藤原課長からメッセージが届いた。
「今度ランチ行こう」
短い文章。
思わず笑う。
一年半前もそうだった。
自分が苦しい時、
藤原課長はなぜか気付く。
翌週。
ランチの席で。
美優はぽつりとこぼした。
「最近また、自信なくしてます。」
藤原は笑った。
「あら。久しぶり。」
まるで風邪の話でもするような口調だった。
「ミスもしたし。」
「うん。」
「悠斗にも怒っちゃうし。」
「うん。」
「母のことも気になるし。」
「うん。」
「全部中途半端で。」
そこまで言って、
美優は苦笑した。
「これ、第1話の頃と同じこと言ってますよね。」
藤原は静かにコーヒーを飲んだ。
そして、
ふっと笑った。
「違うよ。」
「え?」
「全然違う。」
美優は首をかしげる。
藤原は言った。
「あの頃の佐伯さんはね。」
「うん。」
「全部一人で何とかしようとしてた。」
その言葉に胸が反応する。
確かにそうだった。
弱音を吐けなかった。
助けを求められなかった。
迷惑をかけることが怖かった。
「今は違う。」
藤原は続ける。
「ちゃんと苦しいって言えてる。」
「……。」
「支えてもらってることにも気付いてる。」
「……。」
「だから成長してる。」
美優は黙った。
成長。
そんなふうに考えたことはなかった。
ミスして。
悩んで。
落ち込んで。
そんな自分を成長と呼べるのだろうか。
その時、
藤原が笑いながら言った。
「私ね。」
「うん。」
「四十代になって思ったの。」
少し窓の外を見た。
「人生って。」
「うん。」
「強くなるゲームじゃないんだよ。」
美優は息を呑む。
「どういうことですか?」
「支えられるのが上手になるゲーム。」
その言葉が、
胸の奥深くへ落ちていった。
帰り道。
美優はその言葉を何度も思い出していた。
強くなるのが目的じゃない。
支えられるのが上手になる。
昔の自分は逆だった。
誰にも頼らないことが強さだと思っていた。
弱音を言わないことが強さだと思っていた。
全部背負える人間になろうとしていた。
でも現実は違った。
夫がいた。
職場の仲間がいた。
母がいた。
藤原課長がいた。
そして悠斗もいた。
数えれば、
たくさんの人に支えられていた。
その夜。
悠斗が眠ったあと、
美優はノートを開いた。
しばらく考える。
そして静かに書いた。
私はずっと強くなろうとしていた。
でも本当に必要だったのは、
一人で頑張る力ではなかった。
助けてもらう勇気。
支えられることを受け入れる勇気だった。
書き終える。
窓の外には夜空が広がっていた。
人生は思い通りにならない。
失敗もする。
迷いもする。
不安も消えない。
それでも。
振り返れば、
いつも誰かがいた。
自分が気付いていなかっただけで。
そして美優は少しずつ理解し始めていた。
人生は、
完璧に生きるためのものではない。
支え合いながら生きるためのものなのだと。
第八章 人生には締切がない
母の通院に付き添った帰りだった。
空は薄い灰色の雲に覆われていた。
雨が降りそうで降らない。
そんな中途半端な空模様だった。
美優と母は、病院の近くにある小さな公園のベンチに座っていた。
診察は無事に終わった。
大きな異常はない。
定期的に検査を続ければ大丈夫。
そう言われた。
安心した。
本当に安心した。
それなのに、どこか心が晴れなかった。
「疲れた?」
母が聞く。
「ううん。」
美優は首を振る。
本当は少し疲れていた。
仕事。
家事。
悠斗の小学校。
母の通院。
夫の異動話。
最近は常に何かを考えている気がする。
母はそんな美優の顔を見て苦笑した。
「あなた、昔から難しく考えすぎるのよ。」
「そんなことないよ。」
「ある。」
即答だった。
思わず笑ってしまう。
しばらく沈黙が流れる。
公園では幼い子どもが遊んでいた。
付き添いの祖父らしき男性がその姿を見守っている。
その景色を見ながら、母がぽつりと言った。
「私ね。」
「うん。」
「若い頃、五十歳になったら人生が落ち着くと思ってた。」
美優は少し驚いた。
母にもそんな時代があったのだ。
「でも全然だった。」
母は笑う。
「五十歳になったら仕事で悩んだ。」
「六十歳になったらおばあちゃんになった。」
「七十歳が見えてきたら今度は健康のこと。」
「結局、悩みって終わらないのよ。」
美優は思わず笑った。
「夢がない話だね。」
「そう?」
母も笑った。
「私は逆だった。」
「え?」
「終わらないって分かったら安心した。」
その言葉に美優は首をかしげる。
母は続けた。
「若い頃はね。」
「悩みがなくなる日が来ると思ってたの。」
「うん。」
「仕事が軌道に乗れば。」
「結婚すれば。」
「子育てが終われば。」
「老後になれば。」
「きっと楽になると思ってた。」
美優は黙った。
それはまさに今の自分だったからだ。
もう少し頑張れば楽になる。
フルタイムに慣れれば。
悠斗が大きくなれば。
母の体調が安定すれば。
いつか落ち着く。
いつか安心できる。
ずっとそう思ってきた。
母は空を見上げた。
「でもね。」
「人生って締切がないのよ。」
美優はその言葉の意味を考えた。
人生に締切がない。
母は続ける。
「仕事なら終わりがあるでしょ。」
「うん。」
「試験にも締切がある。」
「うん。」
「でも人生は違う。」
穏やかな声だった。
「悩みがなくなる日なんて来ない。」
「全部解決する日も来ない。」
「だからね。」
そこで少し笑った。
「完成しようとしなくていいの。」
その瞬間、
美優の胸に何かが落ちた。
完成しようとしなくていい。
今まで考えたこともない言葉だった。
美優はずっと、
人生を完成させようとしていた。
良い母親になろうとしていた。
良い社員になろうとしていた。
良い妻になろうとしていた。
でもどれも完成しなかった。
だから苦しかった。
まるで締切に間に合っていない気分だった。
しかし母は言う。
人生には締切がない。
完成もしない。
途中のまま続いていく。
その事実が不思議と心を軽くした。
帰り道。
駅までゆっくり歩く。
母は以前より歩くのが遅かった。
でも、その歩幅に合わせて歩く時間は嫌いではなかった。
子どもの頃。
母はいつも前を歩いていた。
今は違う。
同じ速さで歩いている。
人生とはこういうことなのかもしれない。
役割が変わる。
環境が変わる。
悩みも変わる。
でも続いていく。
夜。
帰宅した美優はノートを開いた。
最近は眠る前に少しだけ書く習慣ができていた。
白いページを見つめる。
そして静かに書いた。
私はずっと、 人生を完成させようとしていた。
でも人生は作品じゃない。
今日も途中。
明日も途中。
きっと最後まで途中だ。
そこでペンが止まる。
少し考えた後、
もう一行だけ書き足した。
だから私は、 未完成のまま生きていていい。
書き終えると、
自然と微笑みが浮かんだ。
窓の外には夜空が広がっている。
人生は思い通りにならない。
悩みもなくならない。
不安も消えない。
でも。
それを知ったからこそ、
焦らなくていい気がした。
人生には締切がない。
だから今日できなかったことがあってもいい。
今日うまくできなくてもいい。
また明日がある。
そう思えた夜だった。
第九章 未来の自分に会いにいく
土曜日の朝だった。
珍しく予定がなかった。
悠斗は友達と公園へ出掛けている。
夫は休日出勤だった。
家には美優一人だけ。
久しぶりだった。
完全に一人になる時間は。
洗濯を終えた。
掃除も終わった。
買い物も済ませた。
やることはまだある。
だが、その日は不思議と何もしたくなかった。
コーヒーを淹れる。
窓際の椅子に座る。
静かな部屋。
聞こえるのは時計の音だけだった。
こんな時間、いつ以来だろう。
子どもが生まれてから、
いや、それより前からかもしれない。
いつも何かに追われていた。
仕事。
家事。
育児。
予定。
責任。
やるべきこと。
常に次のことを考えていた。
でも今日は違う。
久しぶりに立ち止まっている。
その時だった。
棚の奥から一冊のノートが目に入った。
何年も前から使っているノート。
育休前。
育休からの復帰した頃。
夫に正直に気持ちを打ち明けることができた頃。
そして今。
迷った時にだけ書いてきたノートだった。
美優はゆっくりとページをめくる。
若い頃の文字。
勢いのある文字。
自信に満ちた文字。
泣きながら書いたページ。
怒りを書きなぐったページ。
迷いの言葉。
希望の言葉。
その全部がそこにあった。
あるページで手が止まる。
『私はもう、昔の私に戻らなくていい。』
その次のページ。
『支えていたつもりだった。支えられていたのは私だった。』
美優は思わず微笑んだ。
どちらも自分が書いた言葉なのに、
少し遠い人の言葉にも感じる。
あの頃は必死だった。
とにかく苦しかった。
でも今振り返ると、
ちゃんと前へ進んできていた。
その時ふと、
藤原課長が以前言っていた言葉を思い出した。
「未来の自分から今の自分を見たら、どう見えると思う?」
当時はよく分からなかった。
だが今日は少し考えてみたくなった。
もし十年後の私がいたら。
四十五歳の私。
悠斗は中学生だろうか。
夫は相変わらず忙しいだろうか。
母はどうしているだろう。
私はどんな仕事をしているだろう。
想像してみる。
しかし不思議だった。
昔の自分なら、
真っ先に役職を考えていた。
管理職か。
事業責任者か。
どんな成果を出しているか。
そんなことばかり。
でも今は違う。
最初に浮かんだのは、
笑っている自分だった。
理由は分からない。
でも、
笑っていてほしいと思った。
それだけだった。
その瞬間、
胸の奥で何かが溶けた気がした。
私はずっと、
未来を成果で測ろうとしていた。
昇進。
年収。
実績。
肩書。
だけど。
本当に欲しかった未来は、
そんなものだっただろうか。
違う気がする。
もちろん仕事は大事だ。
成長もしたい。
挑戦もしたい。
でも、
それだけではない。
夕方。
悠斗が帰ってきた。
「ただいま!」
汗だくの顔。
膝には擦り傷。
「転んだの?」
「うん!」
なぜか誇らしげだった。
「痛くなかった?」
「いたかった!」
そして笑う。
「でもまた走った!」
美優は思わず吹き出した。
単純だ。
転ぶ。
痛い。
でもまた走る。
それだけだ。
人生も同じなのかもしれない。
失敗する。
傷つく。
落ち込む。
それでもまた歩く。
完璧になってから進むのではなく、
不完全なまま進む。
その夜。
悠斗が眠った後、
美優は再びノートを開いた。
新しいページ。
白いページ。
しばらく何も書けなかった。
そしてゆっくりとペンを動かす。
十年後の私へ。
あなたはきっと、 今よりもっと失敗している。
今よりもっと迷っている。
それでも、 今よりもっと笑っていてほしい。
そこで一度ペンを置く。
そして最後に一行だけ書き足した。
未来は、正解を探しに行く場所じゃない。
生きていく場所だ。
書き終えた瞬間、
胸が少し軽くなった。
人生は思い通りにならない。
きっとこれからも。
でも。
未来は敵ではない。
乗り越えるべき試験でもない。
評価される場所でもない。
生きていく場所だ。
そう思えた時、
美優は少しだけ未来を好きになれていた。
そしてその小さな変化が、
やがて人生そのものを受け入れる大きな一歩へとつながっていくのだった。
第十章 あの日ほしかった言葉
金曜日の夜だった。
ようやく一週間が終わった。
リビングの時計は二十三時を回っている。
夫も悠斗も眠っていた。
静かな夜だった。
美優は一人でノートを開いていた。
最近はこうして振り返る時間が少し増えた。
忙しさは変わらない。
むしろ以前より忙しい。
それでも立ち止まることを覚えた。
ページをめくる。
古い文字が並んでいる。
育休前の自分。
復帰直後の自分。
第1話の頃の自分。
第2話の頃の自分。
どれも同じ自分なのに、
まるで別人だった。
ふと、一つのページで手が止まった。
そこにはヨレヨレの字が残っていた。
『もう無理かもしれない』
復帰して三か月ほど経った頃のページだった。
美優はしばらくその文字を見つめる。
思い出す。
あの頃のことを。
仕事では何もできなかった。
会議についていけなかった。
保育園からの呼び出しが続いた。
熱。
咳。
胃腸炎。
休んでは謝る。
戻っては謝る。
また休んで謝る。
そんな毎日だった。
夜中。
悠斗が熱を出して眠れなかった日もある。
夫も疲れていた。
自分も疲れていた。
それでも朝は来る。
会社へ行かなければならない。
母親でいなければならない。
妻でもいなければならない。
ずっと何かに追われていた。
そして何より苦しかったのは、
誰にも言えなかったことだった。
「つらい。」
その一言が。
あの頃の自分は、
強くなろうとしていた。
迷惑をかけない母親に。
迷惑をかけない社員に。
迷惑をかけない妻に。
なろうとしていた。
だから余計に苦しかった。
美優はゆっくり目を閉じた。
もし今、
あの頃の自分に会えたら。
何と言うだろう。
最初は、
ありきたりな言葉が浮かんだ。
頑張れ。
大丈夫。
いつか良くなる。
でも、
どれもしっくりこなかった。
なぜなら、
あの頃の自分は十分頑張っていたからだ。
これ以上頑張れなんて言えない。
大丈夫とも言えない。
実際、
あの頃は大丈夫じゃなかった。
毎日泣きたかった。
逃げ出したかった。
辞めたいと思った日だってあった。
だから。
本当に必要だった言葉は、
別のものだった。
その時だった。
寝室のドアが少し開いた。
夫だった。
「まだ起きてたの?」
「うん。」
夫は隣に座る。
「何見てるの?」
「昔のノート。」
夫はページをのぞき込む。
そこには、
あの頃の苦しさが残っている。
しばらく黙って見ていた夫が言った。
「よく頑張ったね。」
美優は顔を上げた。
夫は優しく笑っていた。
「本当に大変だったもんな。」
その瞬間だった。
胸の奥が熱くなる。
なぜだろう。
藤原課長にも励まされた。
仲間にも助けてもらった。
たくさんの言葉をもらった。
でも今、
一番心に響いた。
「よく頑張ったね。」
ただそれだけ。
評価でもない。
励ましでもない。
解決策でもない。
ただ、
頑張っていたことを認めてもらえた。
それだけだった。
美優は静かに笑った。
そして気付いた。
あの頃の私が欲しかったのは、
正しい答えじゃなかった。
もっと頑張る方法でもなかった。
未来の保証でもなかった。
ただ、
苦しかった自分を認めてほしかったのだ。
そのままの自分を。
不完全な自分を。
頑張り過ぎていた自分を。
夫が寝室へ戻った後も、
美優はしばらくノートを見つめていた。
そして新しいページを開く。
白いページだった。
ゆっくりとペンを動かす。
あの日の私へ。
大丈夫と言わなくていい。
強がらなくていい。
完璧じゃなくていい。
少し考える。
そして最後の一文を書く。
そのままのあなたで、十分よく頑張っている。
書き終える。
不思議だった。
涙は出なかった。
代わりに、
心が静かだった。
窓の外には月が浮かんでいる。
人生は思い通りにならない。
あの日の自分が望んだ未来とは違う。
でも。
あの日の自分が想像できなかった幸せも、
今ここにはある。
夫がいる。
悠斗がいる。
支えてくれる人たちがいる。
そして何より、
自分自身を少しだけ許せるようになった自分がいる。
美優はノートを閉じた。
人生とは、
理想の未来へたどり着くことではないのかもしれない。
傷ついた過去の自分を、
優しく抱きしめられるようになることなのかもしれない。
そんなことを思いながら、
静かに明かりを消した。
そして物語は、
いよいよ最後の核心へと近づいていく。
第十一章 人生を好きになる練習
五月の終わりだった。
雨上がりの朝。
美優は駅へ向かう道を歩いていた。
空気は少し湿っている。
空は曇っていた。
それでも不思議と気持ちは穏やかだった。
もちろん最近の生活は楽ではない。
フルタイム勤務。
小学生になった悠斗。
母の通院。
夫の新しい仕事。
悩みは減るどころか増えている。
それなのに以前のような息苦しさはなかった。
その日、会社で若手社員の中村から相談を受けた。
「佐伯さん。」
「どうしたの?」
「ちょっと相談いいですか。」
珍しく真面目な顔だった。
会議室で向かい合う。
しばらく悩んだ末に、中村は言った。
「最近、自分が全然だめで。」
美優は黙って聞く。
「頑張ってるつもりなんです。」
「うん。」
「でも成果も出ないし。」
「うん。」
「周りと比べると全然で。」
苦笑しながら続ける。
「もっとちゃんとできると思ってたんですよね。」
その言葉を聞いて、
美優は思わず笑ってしまった。
中村が不思議そうな顔をする。
「なんで笑うんですか。」
「ごめん。」
美優は首を振った。
「私も同じこと思ってたから。」
「佐伯さんも?」
心底驚いている。
その反応が面白かった。
昔の自分も同じだった。
自分よりちゃんとしている人は、
悩んでいないと思っていた。
迷っていないと思っていた。
そんなはずないのに。
「ねえ。」
美優は聞いた。
「中村くん。」
「はい。」
「今までの人生で。」
少し考える。
「完璧だった時ってある?」
中村は考え込む。
しかしすぐに苦笑した。
「ないですね。」
「私もない。」
二人で笑う。
それだけの会話だった。
けれど美優は気付いていた。
少し前の自分なら、
こんなことは言えなかった。
完璧じゃない自分を認めることができなかったから。
帰宅すると、
珍しく悠斗が落ち込んでいた。
「どうしたの?」
ランドセルを下ろしたまま、
うつむいている。
「今日ね。」
「うん。」
「かけっこ負けた。」
美優は思わず笑いそうになった。
大事件らしい。
本人にとっては。
「悔しかった?」
「うん。」
「いっぱい?」
「いっぱい。」
本気で落ち込んでいる。
少し考えてから、
美優は隣に座った。
「ママも今日ね。」
「うん?」
「会議でうまく話せなかった。」
悠斗が顔を上げる。
「ママも?」
「うん。」
「じゃあ負けたの?」
その発想がおかしくて吹き出してしまう。
「そうかもしれない。」
悠斗は少し考える。
そして言った。
「じゃあ明日がんばればいいじゃん。」
あまりにも単純な答えだった。
でも、
その言葉に美優は救われた。
そうか。
明日がある。
それだけのことだ。
前にで母が言っていた。
人生には締切がない。
だから今日うまくいかなくても終わりじゃない。
それなのに大人になると忘れてしまう。
一回の失敗で、
人生全体を評価してしまう。
その夜。
悠斗が眠った後、
美優はベランダに出た。
夜風が気持ち良い。
遠くに街の灯りが見える。
数年前の自分を思い出す。
職場で居場所を失ったと思っていた自分。
夫に本音を言えなかった自分。
未来に怯えていた自分。
あの頃の私は、
人生を攻略しようとしていた。
正解を探していた。
失敗しない方法を探していた。
でも。
人生は攻略するものではなかった。
生きるものだった。
笑う日もある。
泣く日もある。
失敗する日もある。
うまくいく日もある。
その全部を引き受けて進んでいく。
それが人生だった。
その時、
スマートフォンが鳴った。
夫からだった。
「帰り遅くなる。ごめん。」
以前ならため息をついたかもしれない。
またか。
大変だな。
そう思ったかもしれない。
でも今日は違った。
美優は返信する。
「了解。頑張って。」
送信した後、
ふと笑う。
人生は思い通りにならない。
今日もそうだ。
明日もそうだろう。
でも不思議だった。
最近、
そんな人生が少し好きになり始めていた。
完璧じゃない自分。
予定通りに進まない毎日。
失敗だらけの人生。
それでも。
全部ひっくるめて、
悪くないと思えた。
そして美優は、
ようやく気付き始めていた。
人生を好きになるとは、
成功することではない。
思い通りにならない毎日と、
少しずつ仲良くなっていくことなのだと。
その小さな気付きが、
次の章で彼女を物語最大の結論へと導いていく。
第十二章 それでも私は、この人生をあきらめない
六月の終わりだった。
梅雨の晴れ間。
空は驚くほど青かった。
美優は会社の窓からその空を見上げていた。
昼休みだった。
コーヒーを片手に、一人で休憩スペースに座っている。
いつもならメールを確認したり、午後の資料を見返したりしている時間だった。
でも今日は違った。
ただ空を見ていた。
理由は自分でもよく分からなかった。
最近の毎日は相変わらず慌ただしい。
仕事は以前より責任が増えた。
悠斗は小学生になった。
母は定期的な通院が続いている。
夫も新しい部署で忙しい。
問題は一つも減っていない。
むしろ増えている。
それなのに。
なぜだろう。
少しだけ幸せだった。
ふとそんなことを思う。
数年前の自分だったら信じなかっただろう。
悩みがなくなったら幸せになれると思っていた。
仕事が落ち着いたら。
子育てが楽になったら。
評価されたら。
もっと余裕ができたら。
そうなれば幸せになれると思っていた。
でも違った。
人生は、
苦しみが終わる場所へ向かう旅ではなかった。
午後。
学童から連絡があった。
「悠斗くんが転びまして。」
一瞬、胸がざわつく。
だが大した怪我ではなかった。
擦り傷だけ。
電話を切ったあと、
美優は小さく息を吐いた。
以前の自分なら、
そこで一日中落ち込んでいたかもしれない。
ちゃんと見てあげられていない。
もっと早く迎えに行くべきだった。
また自分を責めていただろう。
でも今は違った。
心配はする。
もちろんする。
でも、
自分を責めることは少なくなった。
子どもは転ぶ。
失敗もする。
大人だってそうだ。
私だってそうだ。
その日の夜。
悠斗は誇らしそうに膝の絆創膏を見せてきた。
「いたかった?」
「うん!」
「いっぱい?」
「いっぱい!」
そして次の瞬間、
満面の笑顔で言った。
「でもな、ちゃんとなけなかった!」
美優は思わず吹き出した。
悠斗なりの成長らしい。
ほんの数年前までは、
少し転んだだけで大泣きしていた。
今は違う。
痛い。
怖い。
それでも立ち上がる。
その姿を見ていて、
美優は胸が熱くなった。
子どもはすごい。
前を向くのが上手だ。
そして大人は、
いつの間にかそれを忘れてしまう。
寝かしつけが終わった後。
美優はノートを開いた。
これまでの数年間。
何度も自分を支えてくれたノートだった。
ページをめくる。
『もう無理かもしれない』
『私はどこへ消えたのだろう』
『支えられていたのは私だった』
『未完成のまま生きていていい』
たくさんの言葉が並んでいる。
どれも本当だった。
どれも間違っていなかった。
そして最後のページを開く。
白紙だった。
美優はしばらく考える。
何を書こう。
この物語の最後に。
自分は何を残したいのだろう。
かつての自分へ。
そして、
今同じように苦しんでいる誰かへ。
ゆっくりとペンを走らせる。
人生は思い通りにならない。
そこで一度止まる。
そして続ける。
仕事も。
家族も。
子育ても。
人間関係も。
もう一行。
何度も失敗する。
何度も迷う。
さらに書き続ける。
それでも。
それでも私は、
この人生をあきらめない。
美優はペンを置いた。
静かだった。
涙は出なかった。
代わりに、
胸の奥が温かかった。
完璧な人生ではない。
理想通りでもない。
思い描いていた未来とも違う。
けれど。
失敗した日も。
迷った日も。
泣いた日も。
誰かに支えられた日も。
全部含めて自分の人生だった。
そして今なら思える。
幸せとは、
問題がなくなることではない。
思い通りにならない毎日を、
それでも生きていこうと思えることなのだと。
リビングの灯りを消す。
寝室へ向かう。
夫が眠っている。
悠斗が眠っている。
守りたい人たちがいる。
そして、
自分自身もいる。
美優はそっと微笑んだ。
人生はまだ途中だ。
きっとこれからも悩む。
不安もなくならない。
でも、それでいい。
人生には締切がない。
人生には正解もない。
だから私は今日も、
不完全なまま前を向く。
その足取りは決して軽くない。
それでも確かだった。
窓の外には、
明日へ続く夜空が広がっていた。
そして美優は静かに目を閉じる。
もう少し頑張れば楽になれる。
そんな日を待つのではなく。
今日という一日を生きた自分を認めながら。
思い通りにならない人生を、
それでも愛そうと思いながら。
エピローグ
それから三年が過ぎた。
季節は春だった。
桜の花びらが風に舞っている。
美優は会社の窓から、その景色を眺めていた。
あの日と同じように。
育休から復帰したばかりの頃、
不安と焦りでいっぱいだった自分が見上げていた空と同じように。
けれど。
あの頃の自分と今の自分は少し違っていた。
仕事は相変わらず忙しい。
悠斗はもう四年生になった。
学童は卒業し、友達と遊びに行くことも増えた。
母は定期的に通院している。
夫も管理職になり、帰宅が遅い日も少なくない。
人生は相変わらず慌ただしい。
悩みもある。
心配事もある。
将来への不安だってなくなったわけではない。
それなのに。
不思議と幸せだった。
その日の午後。
部署に新しく復帰した女性社員が挨拶に来た。
まだ三十代前半だろうか。
表情は明るい。
でも目の奥には隠せない緊張があった。
美優には分かった。
かつての自分と同じ顔だったから。
「佐伯さん。」
「はい。」
その女性は少し言いにくそうに笑った。
「実は少し不安で。」
美優も笑う。
「うん。」
「ちゃんと両立できるでしょうか。」
その言葉を聞いた瞬間、
数年前の記憶が鮮明によみがえった。
保育園へのお迎え。
終わらない仕事。
周囲への申し訳なさ。
居場所を失ったような感覚。
夫にさえ本音を言えなかった夜。
全部。
本当に全部。
昨日のことのように思い出せた。
女性社員は続ける。
「皆さんみたいにできる気がしなくて。」
美優は少しだけ空を見上げた。
そして静かに笑った。
「できないよ。」
女性社員が目を丸くする。
「え?」
「今でもできてない。」
思わず笑い声が漏れる。
女性社員も困ったように笑った。
「本当ですか?」
「本当。」
美優はうなずく。
「今でも失敗するし。」
「今でも悩む。」
「今でも落ち込む。」
少し考える。
そして続けた。
「でもね。」
「はい。」
「できるようになることがゴールじゃなかった。」
女性社員は黙って聞いている。
「私ね。」
昔の自分を思い出しながら言った。
「完璧な母親になろうとしてた。」
「完璧な社員になろうとしてた。」
「完璧な人生を生きようとしてた。」
少し笑う。
「無理だったけど。」
二人で笑う。
そして美優は最後にこう言った。
「大丈夫。」
言葉を選ぶ。
昔の自分が欲しかった意味で。
「うまくできなくても大丈夫。」
「迷っても大丈夫。」
「途中でも大丈夫。」
「人生って、完成させるものじゃなかったから。」
その女性の目が少し潤んだように見えた。
仕事を終えた帰り道。
美優は駅へ向かって歩いていた。
夕日が街を染めている。
スマートフォンが鳴った。
夫からのメッセージ。
『今日は少し早く帰れそう』
続いてもう一通。
『帰りにアイス買う?』
思わず吹き出す。
何年経っても変わらない。
美優は返信する。
『買ってきて』
少し考え、
もう一行書き足す。
『ありがとう』
送信する。
顔を上げる。
空は茜色だった。
思い通りにならない人生だった。
仕事も。
育児も。
夫婦関係も。
自分自身のことも。
計画通りだったことなんて、ほとんどない。
でも。
計画通りじゃなかったから、
出会えた景色があった。
支えてくれる人がいた。
愛おしい毎日があった。
そして何より、
今の自分がいた。
美優は立ち止まり、空を見上げた。
人生はこれからも続いていく。
また失敗するだろう。
また悩むだろう。
また立ち止まるだろう。
それでもいい。
それでも私は、
この人生をあきらめない。
なぜなら。
思い通りにならなかった人生は、
思っていたより、ずっと美しかったから。
春の風が桜の花びらを運んでいく。
美優は少しだけ微笑んだ。
そして、
自分の人生の続きを生きるために、
いつもの帰り道を歩き始めた。
『育児休暇を終えて戻ってみたら、私の居場所がなかった 最終話』 完
