「嫉妬」は人生の「道しるべ」 #嫉妬祭り
「嫉妬」は、ずっと自分のそばにあった。
ただの黒い感情ではない。
それは時に悔しさになり、憧れになり、何者かになりたいという渇望へと変わる。
振り返れば、「嫉妬」はいつも本当に欲しいものへと導く「道しるべ」だった。
中学生の頃 – 火の丸を背負う同世代への嫉妬
テレビに映る浅田真央さんを見て、「嫉妬」した。
同じ年に生まれたのに、彼女はすでに世界と戦っていた。
国を背負い、メディアに取り上げられ、たくさんの人に応援されていた。
一方、自分は神戸の田舎で、学校帰りにTSUTAYAで立ち読みし、100円でマクドに5時間居座り、コンビニ前でたむろするヤンキーにビビりながら、からあげクンを買って帰っていた。
『これが「青春」ってやつだ』と思っていた。
「何かに本気で打ち込んでいれば、あの場所に立てたのか?」
なんて考えたことはなかった。
ただただ、羨ましかった。
高校生の頃 – 才能の壁にぶつかる嫉妬
陸上競技、100m走に熱中した。
努力すれば強くなれると信じていた。
中学校の卒業式で、「オリンピックで金メダルを取ります!」と大声で宣言した。
しかし、現実は甘くなかった。
市の決勝には進めても、県大会では準決勝止まり。
その先にいる選手たちは、「自分より努力している」から強いわけではなかった。
生まれつきの体のバネ。
筋肉の質や身長の差。
走るために生まれてきたかのような身体能力。
彼らは、そういうものを持っていた。
一方、自分は筋肉がつきづらく、むしろガリガリだった。
ユニフォームを着ると、頼りなく細い体。
おじいちゃんみたいだった。
「努力では届かない才能がある」
それを突きつけられた時、ムキムキでイケメンな友達に「嫉妬」した。
大学生の頃 – スタバでの挫折と嫉妬
「スタバで働くの、かっこよくない?」と軽い気持ちで始めた。
バリスタの手際の良さ、滑らかな接客に憧れた。
しかし現実は違った。
レシピが全く覚えられない。
オーダーが入るたびに焦る。
女子高生に見つめられながらする作業の手は震えた。
ホイップクリームを乗せようとすれば暴発し、ぐちゃぐちゃになった。
ミルクを泡立てれば飛び散った。
カップの外にラテアートを描いた。
そして、半年で辞めた。
「世の中のバリスタって、みんな天才なんちゃうん?」
シュッとして、愛想も良くて、テキパキとこなす。
そんなイケメンバリスタに「嫉妬」した。
でも、お好み焼きにかけるマヨネーズだけは、キャラメルマキアートのシロップのように綺麗にかける自信がある。
社会人になって – “きちんとした社会人”への嫉妬
「これをやって」と言われるたびに、「そもそも、なんでやらないといけないの?」と考えてしまう。
どうしてみんなは、何も疑問を抱かずに淡々とこなせるのか、不思議だった。
社会のルールに順応し、迷わず動ける人たちが羨ましかった。
自分は、いつも「なんでなんだろう?」と深く考えてしまう。
もし戦時中に生まれていたら、敵よりも先に味方に撃たれていた気がする。
納得できぬまま、指示に従うことができなかった。
でも今は分かる。
自分の納得できる理由がないと動けない。
「ただ言われたから」ではなく、「こうしたほうがいい」と思える理由が欲しい。
だから、無理に“ちゃんとした社会人”にならなくても良いと思えるようになった。
むしろ、ちゃんとした社会人になんてなりたくない。
なぜ嫉妬してしまったんだろう?
昔の「嫉妬」は、ただの苦しみだった。
手が届かないものへの妬みや羨望が強かった。
しかし今、その「嫉妬」は変わった気がする。
もう浅田真央さんへの羨ましさも、
陸上競技での悔しさも、
スタバでの挫折もない。
なぜなら、「諦めた」からだ。
無理なものは無理。
そっちはそっちが得意な人に任せる。
自分が目指すべき方向が見えてきたからこそ、「嫉妬」は「道しるべ」に変わった。
嫉妬は道しるべである
今、「嫉妬」しているのは、自分の名前で生きている人たちだ。
自分の言葉、行動、姿勢で世界を動かしている人たちに憧れている。
彼らのように生きることが自分の目指すべき道だと思っている。
しかし、その人たちが歩んできた道には、見えない部分での苦しみや葛藤があったはずだと思うようになった。
今ある「嫉妬」の中には、「リスペクト」も混じっている。
「嫉妬」の対象は、自分と同じ方向に進んでいる先輩や仲間のように感じるようになった。
ただの競争相手ではなく、自分が目指すべき道を先に歩んでいる人たちだ。
いつかそんな人たちと、お好み焼き屋さんに行って語り合いたい。
鉄板を囲んで、手を震わせながらマヨネーズをかけるのだ。
