主張:生命科学における論理性について

AKIRAです。
本日の記事は↓の記事の考察回になります。


機序ベースで考えることの重要性

統計学はファクトを示す論理体系である

以前、私の記事で統計学に関するお話をしたように思います。

これらの記事でもお話ししたように、統計学は科学的論理性を担保するツールとしては、使い方に制限がかかります。

その本質的な理由は、統計学が「ファクトをメインコンテンツとして扱う」性格を持つ学問形態であることにあります。

ファクトは少ないが論理性が十分に確保された提言と、ファクトは多いが論理性が不十分な提言のどちらを優先するかという質問ですね。

私なら、ファクトは少ないが論理性が十分に確保された提言を優先的に回答に利用します。

・・・(中略)・・・

結論として、私は、論理性を基盤としてファクトを組み立てることを重視します。生命科学のような複雑で倫理的な問題を含む分野では、単なる事実の多さよりも、その事実をどう解釈し、どう位置づけるかという論理的な思考が、より信頼性の高い、責任ある回答を生み出すために不可欠だと考えます。

Gemini「生命科学研究と技術への見解」より

なぜ、ファクトそのものが生命科学における定説を支持する傍証となれないのか。
それは単純な話で、「ファクト自体が何か生物学的な現象を証明する立証能力を持たないから」です。ファクトだけでは生物学的現象の説明ができず、そこにはそれらファクトが生物学的な意味を持つだけの論理性を備えていることが必要になります。

機序ベースとは何か、なんのためにあるのか

1. 信頼性の基盤となる「論理性」

ファクト(事実)は、それがどのように関連し、どのような意味を持つかを解釈する「論理性」があって初めて、意味を持ちます。たとえ多くのファクトがあったとしても、それらがばらばらで、一貫した論理的なつながりを持たない場合、その提言は説得力に欠け、誤った結論に導くリスクがあります。専門的な知見に基づいた論理性が確保されていれば、個々のファクトがなくても、その提言の方向性や妥当性を評価できます。

2. 倫理的・社会的な検討の重要性

生命科学技術の是非を問う場合、単なる事実の羅列では不十分です。その技術が社会にどのような影響を与え、倫理的にどのような問題を提起するかといった、より広い視点からの検討が必要です。論理的な思考は、こうした多角的な視点から問題を分析し、バランスの取れた見解を形成するために不可欠です。

3. 不確実性への対応

生命科学は常に進化しており、新しい発見によって古いファクトが覆されることも珍しくありません。ファクトが少ない状況でも、しっかりとした論理的枠組みがあれば、新しい情報が追加された際に柔軟に対応し、より良い結論へと更新していくことができます。一方で、ファクトだけが大量にあっても、それを統合する論理がなければ、変化する状況に対応することが難しくなります。

Gemini「生命科学研究と技術への見解」より

Geminiの言う「専門的な知見に基づいた論理性」というのは、化学的な機序と担保されてきた再現性を以て主張される論理のことを言います。「個々のファクトがなくても」とありますが、この表現はどちらかというと「機序に基づかない膨大なファクトよりも」といういう風に言い換えが可能であるかと考えられます。
ですので、正確に言うと観測されたいくつかの化学現象も一般の感覚ではファクトではありますが、それらすべてが必ずしも科学的意味を見出せる事象であるとは限らないので、そう言った既存の機序に見合わないファクトは生物学的意義が見出されないまま据え置きにされてしまいます。論文において、こういったファクトが研究の限界として書かれることが多いです。

だから、生命科学において事実の羅列は科学的意味を持ちません。「なぜ、それが起こっているのか?」を説明するための論理的解釈が伴わない事実の羅列は所詮、事実の集合体です。
Geminiは「多角的な視点から問題を分析し、バランスの取れた見解を形成する」ことが重要であるとしていますが、実社会に生命科学のような高等技術を適応させようとすると、その技術があまりにも社会に不釣り合いなことがあるというケースは珍しくありません。Geminiはこのあたりの事情を「バランス」と表現したのでしょうが、私としては「クリティカルな」という表現の方がしっくりきますね。
それら技術の是非が問われる原因となるものには、生物学的な条件が異なっているので検証当時とは違ったシチュエーションでの技術応用を余儀なくされてしまう要素が存在するためです。そうなった場合、その技術からそれら条件をダウングレードするか、そもそもなくしてしまうかしないといけない。最悪の場合、それをなくしたことで技術の意義が失われるのならば、それは実用不可となってしまうのは仕方がないというものでしょう。

こう言った複雑な事情を一言で表した言葉。
それが、「不確実性」です。科学が反証可能性(一度は正しいとされた学説が、新規の発見によって覆されたりする)を持つのは、このためです。
その都度その都度発見されたファクトをうのみにするだけでは、こういった新事実と過去に見出された事実とのつじつま合わせができなくなります。そうなると何が起こるかというと、過去の発見の中に意図的な嘘が紛れ込んでいるという疑いをかけられる原因となります。
しかし、機序ベースで考えればそうなるだけの論理的な理由を説明できるだけの主張をあらかじめ用意しておくことが可能です。そうして、学説を修正していくことで、より解像度の高い生物学的現象をとらえることができるようになります。
一見、正反対の意味合いを持つ事象であっても、その両者の性質を持つ機序が存在することは、生物の世界では珍しくありません。そう言った考えが都合のいい考えにならないのは、その過程で疑問や反証を投げかけた学者たちによって「こういうことではないか?」と考察がされてきたためです。
これを叩き潰し、目に見える物理的なデータ(ファクト)だけで議論をすることは、視野を狭めるばかりか、技術開発の発達を遅らせる原因となりかねません。

だからこそ、機序ベースでの考え方が生命科学には必要なのです。

目に見えるものだけが本質ではない

ファクトは、それ自体が非常にわかりやすい現象ゆえに、どうしても信を置きがちですが、わかりやすいがゆえに疑わなければなりません。

それが、どういった生命科学的意義を持つのか。
それは様々な条件で検証してみないとわからないし、やってもわからないことがあります。

それらは必ずしも、目に見えるとは限らないのです。

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