キャラクターとは
さっき、松本大洋せんせいのXの投稿をみかけた。
大人と子供の違いについて、なんらかの質問箱みたいなツールで問われていて
『確信を持てずに揺らいでいられる人は、年齢に関わらずかっこいい大人だと感じてます。』
と仰られていた。
マジでそうだ!って思い至る。
『確信を持てずに揺らぐ』
ってのは創作においても、必要条件なのかもしれない。
その態度は非合理に生きていくことでもある。
人間関係におけるコストもコストに仕分けしない、人と対峙する際に相手を早計に決め付けないという態度だ。
それってキャラに対する態度の傾向でもある。
最近、私、キャラクターを考える時に失敗を恐れるあまり、構造に必要な属性から逆算しようとやっきになってたんだけども。
まあ、そのキャラが、見えない見えない。
シナリオに演繹法と帰納法ってあるけども、
演繹法とは、抽象的な原理から具体を導く方法である。物語なら、「この役割が必要だから、この性格にしよう」という発想だ。
一方、帰納法とは、多様な具体から共通性を抽出する方法である。現実の人間を観察し、その特徴を抽象化してキャラクターへと昇華する。
しかし、演繹法も帰納法も、どちらも既知の世界を扱う方法だ。
結局は、そのどちらかではまだ見ぬキャラって作りようがない。
人もキャラも、「ハイ分かった」という瞬間より、むしろ「まだ分からない」という宙吊りの状態を保ち続けることで、その人物は作者の予想を超え始めるのかもしれん。
これは人間理解ともよく似ている。
他者を早く理解したいという欲望は、同時に他者を固定してしまう危険を孕む。
ラベリングやカテゴライズみたいなやり方だ。
一方で、理解できなさを引き受けたまま関係を続けるなら、人はその都度、新しい側面を見せ続ける。
創作もまた同じなんだろうと思う。
未知のキャラクターとは、演繹法でも帰納法でもなく、その両者を往復しながら、それでもぜんぜん決めきれずに右往左往す?過程の中でしか出会えないんだとおもう。
「分からん」という状態は、不完全さではない。
未知が現れる余白で、可能性の塊だ。
