1-12-第12部:命の重さか勝利の重さか中世ファンタジー小説:黎明の器たち】
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序章:笑い合う未来を託された者は| 精霊術ファンタジー/黎明の器たち
正門の上風は乾いていた。300maの高さがそのまま胸にのしかかり、下を覗けば梯子が幾筋も伸び、領主軍の兵が蟻のようによじ登ってくる。正門そのものには誰も手を出さない。堅すぎるからだ。狙いは左右の壁面。そこだけが生きた道に見えた。
フリガマールは城壁の縁から視線を外し、指に食い込む革手袋の感触を確かめた。ここにプラミストルンがいたなら、いや、彼だけではない。副団長たち四人のうち一人も生きていれば、正面は”水”で守れた。あのとき守り切れなかった自分の判断が、いま空白の壁面に影を落としている。部下のいないところで悔いは胸の内に沈める。
「団長、右の梯子、二筋増えました。」
「よし、弓隊の内半分を石落としに変更する。右はパラモール、左をミルリバーニに任せる。行けっ!」
第一騎士団は淡々と動いた。防御側の”定石”に従い、登り切った者だけを確実に落とす。梯子の根元には石が飛び、縁では槍が待つ。矢は節約し、近接で止める。静かな勝ち方だ。城壁の上には秩序があり、まだ余裕があった。
「団長、正門右手――西側に赤衣の列。」
伝令の声に、フリガマールは首だけを動かした。丘の麓に紅が並んでいる。風に揺れる布は炎に見え、列の後ろには騎士団が壁のように立つ。彼らは城壁上からの矢が届かない距離を守っている。列の先頭で、女が右手を上げた。その背から想結の者たちが寄る。胸の奥で、冷たいものが広がった。
「騎士団は槍を置き大盾を持って投石隊を保護せよ、急げ!」
「大盾を持つ者は敵の火焔攻撃に備えよぉ!」
分厚い盾が縁に並ぶ。鉄の匂いが鼻を刺す。フリガマールは息を止めた。紅の列が一拍だけ静まり、次の瞬間、空気が歪んだ。見えない筋が押し寄せ、城壁の上に”熱”が走る。
「来るぞ、構えろ。」
火焔は矢のように速かった。盾に直撃した瞬間、衝撃とともに金属が鳴き、縁の石が焦げた。四発の火焔が城壁上の騎士達に叩きつけられた。大盾を支える騎士たちの腕が沈む。誰も倒れない。耐えた。耐えたが、盾の裏側にまで熱が回り、握った手に高熱が伝わる。甲冑の内側に汗が流れ、鼻を抜ける蒸気に息が詰まる。
「水だ、掛けろ。」
「掛けます――!」
用意の水が白い湯気に変わり、一息で消えた。鉄は”赤”に近い。とても握れない温度だ。フリガマールは歯を食いしばった。
「予備の大盾をここへ上げろ。急げ。」
「はっ。」
運び手が走る。だが距離がある。下から上げるには時間がかかる。
――頼む間に合ってくれ!
黒い甲冑を纏った騎士団の後ろに守られた精霊術隊は動きを緩めない。騎士の肩越しに、女流精霊術者が手を挙げている。
丘の麓で想結が始まっている。精霊を宿しているのを、城壁の上でただ見詰めるしかなかった。フリガマールは周囲を見渡し、選択肢を数えた。いま縁に残れるのは大盾を持つ者だけ。だがその盾はすでに手放す他ない温度だ。二撃目が来たら、とても全員を守り切れない。
「弓と軽装は階下へ降ろせ。大盾を持たない者も階下へ退かせよ。縁は大盾を持つ者だけで塞ぐ。」
「しかし団長、それでは守りが薄くなります。」
「構わぬ。生かすことを先に置け。一人も命を落とさすな。」
命令は静かだったが、胸の奥では心臓が速い。フリガマールは盾を持つ者の肩に手を置く。触れた手袋越しに伝わる震えは、恐怖ではない。限界まで使った筋肉の反応だ。
胸の奥に、長く沈めた後悔の重みがわずかに疼く。誰も責めず、誰にも悟らせず、それでも彼の中でその痛みは絶えず息をしていた。過去に戻れぬ判断が、今も壁の上で影を落としている。だがその悔いは、次を生かすための糧でなければならない。歯を食いしばり、フリガマールは視線を前へ戻した。
「よく耐えてくれた。あと一度だ。ここを堪えてくれ。」
「お任せ下さい、団長。」
丘の下で紅が揺れ、若き術者が一歩前に出た。肩がわずかに上下し、顔は少年のようにまっすぐだ。彼は城壁の”右上”を見据えた。放つ先にいるのは、盾の列と、その陰で登攀軍を叩く騎士たちだ。
「来る――。」
二撃目は斜めに滑るように迫り、縁の上空から急降下した。先ほどより速い。火の筋が大盾を叩いた瞬間、金属の唸りが重なって城壁が震えた。熱は盾を通り抜け、腕へ走る。握力が、消える。
「下がれ、下がれ!」
フリガマールは叫び、背中を押した。盾が一枚、二枚と石の上に倒れ、通路に空白ができた
熱はなおも残り、拾い上げる余裕もない。焦げた鉄が息を吐くたびに軋み、誰も手を伸ばせなかった。
予備はまだ届かず、水もすぐに蒸気へ変わる。焦りが胸を締めつける中で、フリガマールは歯を食いしばった。
「団長、盾は――もう全てございません!」
「わかっている。城壁の縁での攻防を止め、全員、階段付近へ。形を崩すな、集結だ。」
命令は敗走ではない。再配置だ。縁から離れた瞬間、”穴”が生まれる。だがいまは焼けつく場に人を置くほうが損だ。フリガマールはそう判断した。判断の重さが肩に落ちる。彼が守るのは城壁ではなく、人だ。
「見てください!」
若い騎士が指差した。下で止まっていた梯子が再びかかり、領主軍が息を吹き返したように登る。火に守られた彼らは自信を取り戻し、手が速い。縁に届く動きが目に見えて早まる。
「槍を持てる者を階段前に集めろ。弓は階下で備え。上がってきた者だけを階段付近で対処せよ。絶対に階段を守れ!火焔が来た場合は、階段内に退去せよ!」
「了解!」
ショリノワルン隊は止まらない。丘の後方でシュトレイゼル騎士団が壁のように立ち、赤衣の前進を守る。城壁の上からの矢は届かない。安全圏からの三撃目が準備されている。フリガマールは縁の影で、一瞬だけ目を閉じた。耳の奥に、かつての水音が蘇る。プラミストルンの声は、もうどこにもない。空いた穴の上を、誰かが歩かねばならない。
「団長、敵が城壁の縁に手を掛けました。来ます!」
「階段前、抑えろ。倒すだけでいい。押し返しは狙うな。階段から不用意に離れるな!」
最初の一人が城壁上に躍り出た。槍が一斉に伸び、膝、腰、胸を突く。重装の鎧は厚い。だが三点を取れば崩れる。よろめいた男が後ろへ落ち、梯子が軋む。すぐに次が来る。波は切れない。
「団長、あの火の精霊術隊が、来ます!」
階上の見張り塔からの衛士が伝える。丘の麓で、赤衣たちが再び構えを整えている。今度は”三発目”だ。想結の列が重なり、放現の手が上がる。オパルマンドが短く息を吐いたのが見えた。
「ここまでだ。」
フリガマールは自分に言い聞かせるように低く言い、階段付近の隊へ声を放つ。
「全員階段内へ退避!槍の集結を崩すな。火焔の射出を見たら全力で階下へ退避せよ。」
騎士たちが頷き、位置を詰める。誰も叫ばない。足音だけが重なる。熱で乾いた喉に血の味が滲む。
「団長、盾はもう――。」
「いい。いまは人を残せ。ここで焼かれたら、次が繋がらない。」
階段の上で、フリガマールは後ろを見た。下へ降りる通路は狭い。焦りは最悪の敵だ。彼は片手を上げ、落ち着けと合図した。前には領主軍の兜が並び、後ろでは自軍の肩が触れ合う。揺れる呼吸が一つの”音”になって続く。
「お前ら落ち着け!」
「団長、次が来たら我々はここを突破されますよ!」
若い声だった。フリガマールは短く顔を振った。
「大丈夫だ。俺はシュトレイゼルを知っている。見ろ、敵が城壁上を走っているだろう?」
フリガマールが刺した指先には、登攀が加速し、数人が城壁上に達していた。登り終えた領主軍の騎士が腰に佩いた大剣を抜きゆっくりと階段付近に向かってきている。まもなく密度の戦いが始まる。今まで散々石と矢を浴びて来た領主軍の目は血走りまなじりを上げて不敵な笑みを浮かべていた。
「団長もう駄目です。火焔も来ます!」
「俺を信じて前を見ろ、槍を持て!」
階下から大声が聞こえる。
「どけぇどくんだぁ!」「隊長大盾を持ってきましたぁ!」
そして各階段には大盾が次々と届く。
「でかした。これでここはまだ持つぞ!」
階段の出入り口を大盾数枚で隙間なく埋める。
フリガマールは正門の上の物見台にあがり、石穴の僅かな隙間からシュトレイゼルの動きを見詰めていた。
火の筋が胎動のように震えていた。地を伝う熱が呼吸と重なり、赤衣の列が息をひとつにする。ショリノワルンの両腕は震え、掌の内で精霊の圧が膨れ上がっていた。皮膚の下を焼くような熱が脈動し、全身の血が沸騰するかのようだった。
オパルマンドの肩もひくりと跳ねる。彼らはもう、外界の声を聞く余裕などなかった。自らの肉体の中で暴れる”炎”を押さえ込み、形を与え、放つまでの刹那に命を削っていた。呼吸は短く、息を吐くたびに喉が焦げた。
――あと少し。この熱を、放てば。
思考の隅に勝利が浮かぶ。だがその瞬間、風を裂くような声が飛び込んだ。
「ショリノワルン! やめろ、その先に味方がいる!」
器精者には届くはずのない声が、集中に閉ざされた心の壁を叩いた。シュトレイゼルの咆哮だった。
ショリノワルンはこのまま、腕を振り下ろそうとするが何かがその手を支えるようだった。胸の奥に何かが刺さる。彼の声が、精霊よりも強く響いたのだ。
脳が膨張する。呼吸が止まる。腕の内側で暴れる精霊が放現を求めて軋む。
意識の輪郭が溶け、精霊と自分の境が曖昧になる。自分の魂が精霊に引きずり出去れるような感覚。
――このまま一緒に溶けて行っても構わない。
一瞬、そんな甘い破滅が胸の底に芽生える。恐怖と陶酔が入り混じり、精霊が自分の心臓を鼓動の代わりに打っている気がした。
「……だめだ、放現目標変更……抑えろ!」
その刹那、自分の耳に、脳に、声が響いた。精神の世界の端に、彼の声が刺さる。
彼女は奥歯を噛み締め、指先を震わせた。
隣のオパルマンドが呻くように叫ぶ。器を握る手が痙攣し、青白い光が暴走寸前でうねる。
背後の想結士たちも悲鳴を上げ、地を這うように器精を解解こうとするが止まれない。火を放つという契約を守らねば、全員が精霊に焼かれる。
「ショリノワルン! 門を狙え、正門だ! 左に逸らせ!」
シュトレイゼルの怒声が重ねて飛ぶ。
ショリノワルンは何かを感じ、無意識に顔を上げた。
――何かが聞こえている……?……炎を正門へ――!
焦点の合わぬ視線がゆらりと揺れ、やがて城壁の下にある正門を捉える。血の滲む唇が微かに震えた。
ショリノワルンの意思は、今まさに放たれようとしていた精霊たちへの軌道修正を命じた。心の奥の精神の塊を、握って捻るような感覚が薄れそうな意識の中で実行された。
シュトレイゼルの言葉を聞き取った、オパルマンドが全身の力で火焔の軌道を正門へずらした。その手で隣の術者に手を当て大声で叫ぶ。
やがて炎は一息に解き放たれる。炎の舌が風に煽られ、広がる音が耳を裂いた。熱が押し寄せ、皮膚を刺すような光が走る。炎がただ燃えるのではなく、空気を押しのけながら進んでくる。精霊の力が、物理の重さを伴って襲いかかる。
炎の奔流が城壁の上から軌道を変え、正門へ向けて放たれる。空気が裂け、地が鳴り、熱が爆ぜた。
けれど、右端の術者のひとりはその声を拾えなかった。耳が焼け、視界は赤一色。放たれた火焔の塊は最初の命を守ったまま走り、右の階段付近に飛び込んだ。
轟音。
そこにいた領主軍の八人が、燃え上がる光の中で一瞬にして沈んだ。声を上げる間もなく、鉄が焼け、人の形が灰へと変わる。
爆風が壁面を揺らし、近くの者が顔を覆った。
階段へ殺到していた領主軍の兵たちは恐怖に凍り、背を振り向く。さっきまで共に登っていた仲間たちが、ただ燃える塊と化していた。
ショリノワルンは両腕をだらりと下ろした。体の芯から力が抜け、膝が折れる。
火の残光が瞼の裏で渦を巻く。
彼女は唇を噛み、焼けついた息を吐いた。
――あれは……仕方ないわ……途中で放現目標を変えることなど、できるものじゃない……
その視線を受け止めながら、シュトレイゼルはただ静かに頷いた。
責める暇などない。まだ戦は続いている。
焦げた空気の中で、彼は次の淡々と命令を下す。
「これより我が軍も城壁に攻勢をかける。赤衣は放現の姿勢を保て。敵をけん制し続けろ。合図があれば即撃ちだ。」
「了解。」
「前列、前進準備。盾を寄せ術者を矢から守れ。」
騎士たちが足を踏み鳴らし、列の隙が消える。ショリノワルンは後ろ手に合図し、オパルマンドは呼吸を整えた。まだいける。あと三、四いや五は撃てる。焦りの代わりに、体の芯に冷たい糸を通す。
前進の手を振り降ろそうとしたその瞬間、シュトレイゼルの背に”嫌な気配”が刺さった。胸の奥で脈が一拍遅れ、空気の流れが変わるのを感じる。戦場の喧噪の中に、微かに”欠けた音”がある。理由が名付けられないまま、彼は顔を上げる。
「……しまった!」
背後の本陣を探った。物見台に立つ腹心ワタオパが、風を裂いて両手を水平に広げ、交差させる。止まれ、の合図。いつも冷静な彼が、風に逆らってまで全身で叫んでいるように見えた。胸が冷えた。何かが途絶えている。シュトレイゼルは唇を結び、南の空を一瞥する。左翼からの伝令が、戻ってこない。胸の奥で、戦場の均衡が崩れた音がした。
――っく!俺としたことが城壁攻略の不調に逸ったか!
南の森が重く沈んでいるように目に映る。――なぜガスカナスティ隊が戻っていない事に気付かなかったんだ!ガスカナスティはホルンを聞いて前進しているのか!このまま森の縁に出れば、城壁の投射を浴びるぞ。左翼には我が命が届いていない。今、前へ出せば、彼らを見殺しにしてしまう……なぜ今まで気づかなかったんだ!ワタオパ……
再び丘の上に目を走らせると、ワタオパが肩を揺らし物見台の縁に手をかけ沈む姿が映った。
シュトレイゼルは眉間に皺を寄せ、騎士団に告げる。
「全軍、作戦変更!」
声が走り、団員の目に驚きが走る。鎧が触れ合い、短いざわめきが生まれた。
「団長なぜです!今なら押せます!押しきれます!」
「違うのだ……味方が焼ける。南だ。ガスカナスティを止めに向かう……」
総員に恐怖の表情が浮かぶ。
ショリノワルンが一歩寄る。
「指示を。放現は維持できます。」
「では維持を頼む……威嚇姿勢で敵を正門前で縫い止めておけ。撃ちは私の合図でのみ。くれぐれも勝手に撃つな。」
「了解。」
彼女は振り返り、列に短く伝える。赤衣は姿勢を保ち、器を下げない。力は抜かないが、火は出さない。苦しい待機だが、指が震えないのが彼女の強さだった。
シュトレイゼルの声をショリノワルンは素直に聞き入れる。それは命令というよりも彼の戦況を読む力に対して全幅の信用を置いていた。互いの立場は異なれど、互いに判断に迷いのないことを認め合っていた。
オパルマンドは息を荒げていた。全身を走る熱が、自分の正しさを証明しているように思えた。仲間が焼け、命が溶ける音を耳にしてなお、彼は次を撃つ準備を整えられるゆとりを持っていた。
「いいじゃねぇか!あんな奴ら、もろともぶち込んでやりゃこっちは勝てる!あいつらには済まないがここを落とせば全軍の死はもっと減らせるぞ!」
──パァン!
ショリノワルンの手の平がオパルマンド頬を打った。
「上官命令に口答えをするな!貴様は士気を乱したいのか!」
──今は許して。分かってる。これが正しくないことを……
オパルマンドは赤くなった頬に手を当てただ俯く。そこには先ほどの精霊術者としての超越的な能力など、みじんも感じさせないただの子供のような横顔だった。
「すまない……オパルマンド君だったかな。私も大局を思えば君の意見に賛成だ。しかし、私は彼らの命を国王から預かっている。わかってくれ……」
そう言ってシュトレイゼルは右手で肩にを優しく叩く。しかし左手の中では強く、拳が作られていた。
シュトレイゼルは副官に向き直る。
「全軍を反対に分ける。モリブリッドを隊長にして南端城壁付近へ展開。ガスカナスティの突撃を中止させ、彼らを守りつつこちらへ戻ってきてくれ。」
そう言って南の森を指さした。
「城壁付近では盾で弓矢や石から身を守りつつ、城壁側から森の中に入って行け。剣は抜くな城外に敵はいない。城壁ふきんでは隊列を気にするな。全力で森の中にてガスカナスティ隊と合流せよ。」
「はっ。」
伝令が走る。列が回頭し、土が鳴る。ショリノワルンは正門前に視線を置いたまま、声だけを落とす。
「……オパル……あと何撃打てますか。」
「……まだ撃てます。五までなら確実です……」
「わかったわ。みんな待つのよ。気を抜かないで。」
「はい。」
「オパル……ごめんね……」
ショリノワルンはオパルマンドにだけ聞こえるほどの小さな声をそっとかけ、前を過ぎる。
「…………」
熱い頬に触れることもなくただ俯いていた。
正門前には焦げた跡が残り、ゆらめく熱気が地表を揺らす。敵の登攀は一瞬鈍り、背の列に動揺が走っている。階段付近はさきほどの誤射で間が空き、押し上げる声が乱れている。
「団長、出撃して参ります。必ずやガスカナスティ隊連れ戻ります。」
「頼んだモリブ……」
彼は一度だけ本陣を仰いだ。物見台のワタオパが小さく頷く。それだけで意図は通じた。焦りは速さを生むが、乱れも生む。彼は歩幅を一定に保ち、声を張る。
「それではモリブリッド隊は、南端城壁付近に前進せよ! 健闘を祈る!」
「了解!」
モリブリッドが出撃した。黒い鉄の脚が土を蹴り、鎧の列がうねるように前へ動く。
熱が引く間もなく、音の層が変わった。轟きではなく、低く脈打つような振動。遠くで何かが“動き始めた”音がした。戦場の空気が、次の波を待つように一瞬だけ息を潜める。
列がうねり、正門前から南へ向きを変える。盾が前で光り、槍の先が揃う。ショリノワルンは最後に正門を振り返った。炎は沈み、熱だけが残る。彼女は小さく息を吐いた。
「合図があれば撃つ。合図がなければ、撃たない。それだけよ……」
「はい、副隊長。」
赤衣は静かに立ち、敵に”いつでも来る火”を見せ続ける。シュトレイゼルの列は土煙を引き、南へ伸びた。森の縁が近づく。彼は心の中で名を一つ呼ぶ。間に合え。いまは焼かない。いまは守る。勝ちは、その先にあるはずだ。
