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「その涙を 忘れてはいけないよ」と言われた日 〜人生の原点となった師長の言葉〜

看護師になったばかりの頃。
まだ何もかもが必死で、目の前のことについていくのが精一杯だった頃のことです。


初めて受け持った患者さんが亡くなりました。


癌の末期の患者さんでした。
近い未来に最期の時が来ることは分かっていました。

それでも、いざその瞬間が近づいたとき、
私は何をしていいのか分からず、動けず、ただ立ち尽くしていました。

心臓が弱まり、
やがて静かに止まりました。

隣では奥様が泣いていました。

目の前で命が終わる瞬間。
ただただ無力でした。

私は何もできない自分が悔しくて、
愛する人を亡くし泣いているその光景が悲しくて、
気づけば涙が止まらなくなっていました。

そんな私に 師長は こう言ってくれました。

「その涙を、今流しているその涙を忘れてはいけないよ」

そして、こう続けました。

「でもね、木村(私の旧姓です)がそうやって泣いているだけでは何も変わらない」 

「木村だからできることがある。
木村にしかできないことがあるよ」

そう言ってくれた師長の顔
声のトーン
今でも忘れません。

「優しさ」という言葉では足りない
すべてを包み込むようなあたたかさ
道迷う私を導くような光

絶対忘れない。
ずっと大事にしていこう。

そう心に刻みました。


あの日からずっと、私は自分に問い続けてきました。

「私にしかできないことは何だろう」

「私だからできることは何だろう」

その問いを胸に、
看護師としてたくさんの命の時間に
寄り添わせていただきました。


これまで私は、その言葉を
「看護師としての原点」として大切にしてきました。

でも、ふと気づきました。

20数年積み上げてきた看護師としてのキャリア。
子育てがひと段落した今
そのキャリアを手放そうと思った今
これからの自分の人生をどう過ごそうか
思いを巡らせていたら…
あの時の師長の顔が浮かんできました。

あの言葉は

「看護師としての私」への言葉でもあり
「私そのもの」へのメッセージでもあったのではないかと。

「木村にしかできないことがあるよ」

あのときすでに、
教えてくださっていたのかもしれません。


息子を授かったとき、私は

「ふつうはどうするのか」ではなく、
「私はどうしたいのか」を考えていました。

どこで産みたいのか。
どんなふうに子どもを育てたいのか。
どんな時間を大切にしたいのか。

そんなふうに考え
私は助産院でのお産を選び、
保育園や幼稚園ではなく
自主保育という道を選びました。



世の中の「ふつう」から見ると、
少し違う選択だったかもしれません。

でもどんなときでも、

「この子にとって何がいいだろう」
「私はどうしたいだろう」

そんなふうに考えて、
一つひとつ選んできました。


気づけば息子はすっかり大人なり、これから自分の翼で世界へ羽ばたこうとしています。
そんな息子を見て、ふと思いました。



私は、私の人生をどう選んできただろう?



看護師になり、
そのまま看護師として働き続ける。
看護師として極めていく。

それはとても素晴らしい道。

でも、どこかで

「ふつうはこうだから」

そう思って歩み続けてきたのかもしれません。

息子の道をあれこれ考えながら
選んできたように、

本当は私自身の道も、
もっと自由に考えていいのではないか。

息子を育ててきた時と同じように、
今度は私が私のために

「看護師」という枠にとらわれることなく
どんなことにわくわくするのか。
何をしているときに心が喜ぶのか。
私にしかできないことは何なのか。

ありのままの「私」としてできること。

それをこれから、
少しずつ見つけていきたいと思っています。


師長が贈ってくださった最高のメッセージを胸に
次は「私が私を育てる番」。

「人生を変えた言葉」「人生の原点になった言葉」
みなさんにはありますか?
キラキラした言葉のプレゼントを胸に
共にかけがえのない人生を歩んでいきましょう。

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