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ダイバーシティと聞くと、うっ!とアレルギー反応が出てしまう気持ちを言語化した話

ダイバーシティ、多様性。
なんだか好きになれない。

大事なことは分かっている。多様な人がいて、みんなが幸せに生きられるような社会を構築する。
その通りだ。

それでも、なにか好きになれないのはなぜだろうか。


ダイバーシティはなんのため?

当たり前すぎるからだろうか?
大事大事だと言うけれど、なんのために大事なのかはあまり語られない。

ダイバーシティには二つの意味がある。

ひとつは自然科学における概念。
種多様性や遺伝的多様性。色んな特徴の生き物や個体がいれば、環境の変化に適応できるものが一部残る。それこそ、過去には隕石が落ちてきても生物は生き残ったのだ。

もうひとつは社会科学における概念。
文化多様性、地域多様性、価値観の多様性。
人間社会が発展していくためには、文化的な多様性が必要だとされている。だから、ひとつの社会に多くのバックグラウンドや価値観を持った人がそれぞれ受け入れられるべきだと。


つまり、多様性とは、生物全体であったり国家であったり会社組織で合ったりといった集団が、環境変化に合わせて生き残ることを目的として、大事だとされているのだ。

ダイバーシティの歴史

ダイバーシティの概念が社会に入ってきたのは1965年のアメリカ。
「ダイバーシティ」(人種・肌の色・性別・出身地・宗教・ジェンダー・人種・民族・年齢等の違い)による雇用差別に対して訴えられるようになった時だ。
その後、企業の競争力を高める人事戦略として、多様な人材を組織内で融合する「ダイバーシティ&インクルージョン」の考え方が広がった。

ダイバーシティは雇用と密接に紐づいて、社会に浸透してきたのだ。

現在、ダイバーシティの概念は雇用・企業の枠を超えて広がってきている。
例えばジェンダー多様性がそうだ。企業の競争力強化というよりは、すべての人が安心して自分らしく生きられる社会を目指す、という文脈で語られている。

少し自分の話を

生まれはダイバーシティとはなんの縁もないような片田舎、
という訳ではないが、郊外という程度の田舎出身だ。
近くに住む人たちの多くは、昔からその場所の住んでいる、そんな土地だ。

地方銀行というのはダイバーシティから縁遠い組織だ。
その地で生まれ、その地で育ち、一生その地で過ごすであろうと思っている人が入ってくる。
自然、似たような人が多くなるものだ。

そもそも組織というものが、ある程度同質性のある人を引き寄せるのは当然のことだ。

NPO組織には、なにか社会問題の解決に貢献したい人が集まるし、ベンチャーには大きくリスクをとってでも成果をあげたい人が集まる。
地方銀行には、その地に縁が深い人が集まる。
まあ、当たり前の話だ。そして例に漏れず、私もその地に縁の深い人間だという訳である。

同質性とはなにか。

「あ・うんの呼吸」というものがある。
なにも言わなくても伝わること。誰かがAという行動を取れば、当然次はBという行動を取ってあげないといけないよね、という共通認識。
嫌われる言葉を使えば「常識」。

同質性が高いと常識の共有が進む。言葉多く語らずして、伝わる範囲が増える。価値があると思うことが多く共有される。

最も同質度が高いのが家族であろう。例えばこういうことだ。

この同質度、共感度のサークルは人によって違う。会社・学校より友人が内側な人もいるだろうし、動物ってサークルがある人もいるだろう。

同質度が近ければ、親密度も上がる。人は共通点の多い人を好きになるものだ。

そもそも「仲間」とは共通項を持つグループを指す言葉だ。
家族や親戚であれば血縁、会社であれば目的、学校や国家は属性を共有している。
そして、共有する項が多ければ多い程、同質性は高くなり、強い仲間意識に繋がっていく。

なんとなく、ダイバーシティが好きになれない理由が見えてきた。

「強い仲間意識」に反する概念だからだ。

会社は家族なのか

昭和な話をしよう。

会社とは家族なのだ。そういう考え方がある。

家族主義
家族内にみられる人間関係生活態度ないし意識を、家族以外の社会集団へも広げ適用しようとする考え方。また、これに基づく制度慣習

引用:デジタル大辞泉

同じ会社に属するメンバーは家族だった。そうあろうとしていた。
今もまだ、50~60代でそう考えている人は多い。
同じ場所で働き、仕事が終われば飲みに行き、仕事論を指導される。家族よりも長い時間を過ごす。当然、家族ぐるみで付き合う。週末にはBBQなんかのイベントが催される。
家族だからこそ、真剣に怒る。なんとかしてやろうと指導する。

改めて文字にするとひどい組織のように見える。働き方改革が進んだ今、もう受け入れられるものではない。
だが、私は家族主義的組織を実際に体験している。悪いものではない。
なんと言えばいいんだろうか。言語化が難しいが、すごく単純に言えば、「愛」を感じるのだ。

別に目を剥いて怒って、私が成長したからって、なにか大きな利益が上司にある訳ではない。いや、むしろフラストレーションを貯めてたんじゃないだろうか。何度も同じことを言っても変わらないことに。

それでも、時間と体力を使って指導してくれたのは、合理性で説明できるものではない。ただ、家族だから、仲間だから、当然のこととして行われていたのだ。

会社は、村からただの箱へ

なぜ会社はこのような家族的な組織となったのだろうか。

これは村社会の崩壊が関係している。
昔、稲作が主たる産業であった頃と場所。
稲作は一家族では行えない。水利は大規模なものが必要だし、労働力も収穫時に一家族では心もとない。
村は水利やもやい(労働力の互助組織)を提供しており、運命共同体であった。

村社会は悪いもの。閉塞。陰湿。村八分。
そんなイメージが付き纏うが、稲作を行う上で、村は大事なものを提供してくれていた。村なしには明日食っていけない。
だからこそ、誰かが水を独り占めしないよう、フリーライドしないよう相互に見張らなければならなかった。だからこそ、掟を破れば村八分にあった。
逆に言えば、掟を守り、ちゃんとした村人として認めれられば、家族が食べていくことができ、自分たちが生きていく場所を与えられたのだ。


しかし、村社会は崩壊した。
資本主義化が進み、みんなが都会人化したはいいが、所属する組織がなくなった。
自然、会社は新しい受け皿として村化していった。
田舎の村を出て都会で会社員をやりだした人たちは、会社という新たな村に住み始めたのだ。
そして、家族主義的会社が作られていった。

今までの日本において、企業は多くの役割をになってきた。
営利企業としての側面も持ちながら、社会の中におけるいわゆる村としての側面も持っていた。

そこには昔ながらの村と同じしきたりがある。
入社後、飲みに連れまわされて一発芸をさせられるのは、さながら通過儀礼のようなものだ。

同じ苦難をこえ、同じ釜の飯を食べた仲間。いや、家族になる。


村が崩壊した後、日本人は一度、会社に村性を求めた。
そして今、その新しい村に対してまた、閉塞・陰湿・村八分といったイメージを抱き、拒絶している。そんな家族主義的会社が今、崩壊している。

会社はあくまで会社。利益を追求する団体。同じヴィジョンは共有すれど、決して村ではない。ただ、人が所属する箱だ。

当たり前と言えば当たり前。

だが、本当にそうであれば、村崩壊の後、会社に村性など求めなかったのではないだろうか。
村、つまり高い同質性にはなにかメリットがあるのではないだろうか。

村が提供する最大のメリット。それは安心感だ。
高い同質性を求められる代わりに、村に認められる村人である限り、家族が食べていくことができ、自分たちが生きていく場所を与えられる。

これこそが村の最大にして唯一のメリットではないだろうか。

ダイバーシティの副作用を考える

なぜ会社という新しい村は崩壊しつつあるのか。

そもそもだ。会社を家族だと思っているのもおかしい。
そんなこと、イヤだと思う人もいるじゃないか。みんな色んな都合がある。土日に会社の人と会ってなんになる。仕事終わりにまで、なんで上司に説教されなきゃならないんだ。
ただ、同じ目的を共有するだけの組織じゃないか。

その通りだ。
ダイバーシティの持つ冷たさが、ここにある。

みんな色んな都合がある。事情がある。
それは尊重すべきだ。まったく反論はない。

しかし、それぞれの都合・事情を認めれば認めるほど、会社という組織の同質度サークルは外側へと広がる。
同質度が下がり、多様度が上がっていく。
同質度と多様度は相反する概念だ。

では、同質度が下がる(多様度が上がる)と、あるいは多様度が上がる(同質度が下がる)とどうなっていくのだろうか。

あけすけに言えば、家族のピンチは命を賭してでも助ける。家族主義的会社の仲間なら、命に関わらない程度なら助ける。同じ地域の人なら怪我する程度なら助ける。同じ国家の人ならば、多少の金銭で解決するなら助ける。

しかし、家族に対しては間違っていると思ったら強く正そうとする。それは倫理的な問題でもそうだ。例えば、豚肉食はよくないと思えば家族には強く強要しようとするだろう。
では、会社の仲間ならどうだろうか。そこまでの強要はしないだろう。でも、もっと成長を目指そう!もっと強くなろう!という会社が共有している理念であれば仲間に強要するかもしれない。
では、地域の人ならどうだろうか。そういう倫理的なことは強要しないだろうが、ポイ捨てなんかは辞めてほしいし、隣人の家は綺麗にしててほしい。国家なら?全世界の人なら?

遠くなるほど、助けなくなるが同質性の強要もしなくなる。近くなるほど、助けるが同質性を強要する。

これが多様性の持つ作用であり副作用だ。

自由を得、強要されることはない。代わりに、身の振りかまわず助けてもらえるようなこともなくなる。

大きな組織はこれでいい。
世界全体、西側諸国、国家。こんな大きな括りならこれでいいのだ。
各個人が持つリソースは限られている。どうせ、国民全員が国民全員に対して身の振りかまわず助ける社会なんて現実的ではないのだ。

そういうレイヤーでは多様性を重視すべきだ。

しかし、レイヤーが落ちてくるとそうではなくなる。
レイヤーが落ちるごとに多様性より同質性の重みを増やしていかなければならない。なぜなら、同質性こそ仲間意識の源泉だから。

だから、私は戸惑う。
家族であるべき企業に多様性の波が襲ってきたからだ。

承認なき社会

今、多様性が認められつつある。
この社会でいまだに足りないものはなんだろうか。
それこそが承認だ。

多様性を認めてほしいと言う言説。
その次には、この社会の中に居場所がほしいと言う。

それはそうだ。
だが、多様性を推進しても居場所は見つからない。
多様性が与えてくれるのは「排除されない自由」だ。

承認がほしければその次の段階に進まなければならない。
多様性が担保された大きな組織の中で、同質性の高い小さな集団に所属すること。そして、この小さな集団こそが、居場所を与えてくれる。

世界で、日本で、居場所を探しても見つからない。
人ひとりはそれほどまで大きな存在ではない。
居場所は小さなところにしか見つけられないのだ。

多様性議論は言葉足らず

つまりだ。
多様性に関する議論があらゆるレイヤーで同様に行われていることが問題なのだ。

世界も国家も企業も家族も、すべてのレイヤーで同じような多様性があるべきな訳ではない。
各レイヤーごとにあるべき多様性と同質性がある。

大きいレイヤーでは、高い多様性が望ましく、誰も排除されない大きな組織がつくられる。
小さいレイヤーでは、相応に高い同質性が望まれ、各個人に居場所を与える。

村に高い多様性は必要ない。
多様な村があることが大事なのだ。

多様性議論をする際には、どのレイヤーの多様性を語るのか明確にしなければならない。

世界で求められる多様性をひとつの村に求めてはいけない。
逆に村のリーダーは、自分の村に求められる同質性をもっと明確に発信しなければいけない。

地域の同質性で言うと兵庫県芦屋市の話が分かりやすい。
芦屋では、高級住宅街であることを守っていくために、厳しい建築規制がされている。ポイ捨て禁止とかは当然として、自宅に植える木の本数なんかまで規制されているのだ。

では、芦屋にはお金がない人は住めないというのか!植物アレルギーの人(寡聞にして聞いたことはないが)は住めないじゃないか!

そうなのだ。芦屋市はそういう同質性を住民に求めているのだ。だから、芦屋が守られている。

会社もそう、もっと小さなチームでもそうだ。
組織のリーダーであるならば、多様性を大事にするのと同じように、どういう同質性を求めるのか、発信することが重要だ。

しかし、昭和の匂いが残る企業文化を知る読者諸君は、小さなチームならまだ家族主義的会社が息を吹き返すなどと勘違いしてはいけない。
どうしても私たちは会社に村性を求めてしまう。しかし、もうそれは認められない。
会社のレイヤーは高くなってしまった。
現代の会社組織においても求められる同質性とはビジョンだ。
決して家族主義に戻ることではない。

では、過渡期を生きる私たちはどうすればいいのだろうか。
会社以外で新しい村を作らなければならない。

例えば推し活も現代の村だ。
同じアイドルを推す仲間。彼ら彼女らはその点において、高い同質性を持ち、居場所を確保している。

例えば趣味のサークルでもいい。会社内で気の合う仲間同士で勉強会を作るのもいい。旅行会でもいい。オンラインサロンも新たな時代の村だろう。

家族的会社という幻想にいつまでもしがみついてはいけない。

新しい村を探そう。新しい村を作ろう。
結局、私たちはどこかに居場所を作らなければ生きていけない。

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