#6_02【読書】「テヘランでロリータを読む」を読んだのでイランについて少し考えてみました。
こんにちは。
前回はナフィーシーと7名の生徒による「ロリータ」の読書会でした。
今回の第二部の「ギャツビー」では小説・グレート・ギャツビーの内容を巡って生徒同士のディベートが発展します。
筆者のアイデアで行われる事になった生徒同士による「ギャツビー裁判」。西洋化を測った上で政治を展開する王政と、それにより出来てしまった超格差社会に反発した国民が政治とイスラム社会の政教一致を目指します。そんな民衆が巻き起こすイデオロギー闘争に「ギャツビー裁判」が重なります。
※因みに秘密の読書会「ロリータ」が行われたのは1995年でしたが、「ギャツビー裁判」は1980年で教授はまだテヘラン大学で赴任してました。ちょうどイラン革命が終わった頃の話に遡ります。
ギャツビー
この第2部は、ナフィーシーが米国から帰国して最初に教授として勤めた"テヘラン大学"での様子を回想してます。第一部の時のような「読書会」ではなく、今回は学部での授業です。西洋文学である「グレート・ギャツビー」についてディベート(裁判)する事になり、その風景がこの第二部の要になってます。
しかしナフィーシー教授は「ギャツビー裁判」の前に日々思うことを様々な角度で語ってるんですが、学部での風景とは全く別なところでこんな回想をしています。
1979年1月16日に国王レザー・シャー2世が国外脱出してから、同年2月1日にホメイニが帰国するまでの短い期間、民族主義者の指導者のひとり、シャプール・バフティヤールが首相になった。バフティヤールは当時の反政府勢力指導者の中で、ことによるともっとも民主的で先見の明のある人物だったが、他の指導者は彼のもとに集まって支援するどころか、彼に敵対し、ホメイニと手を組んだ。
バフティヤール首相はただちに秘密警察を解体し、政治犯を釈放していた。
バフティヤールを拒否し、パフラヴィー王朝の代わりにはるかに反動的で専制的な体制の成立に手を貸してしまったことで、イランの民衆も知的エリートも、よく言って深刻な判断の過ちを示したのである。
国王のレザー・シャー2世は1963年(イラン革命の前)に、白色革命なるものを達成していて近代化を推し進めていました。
(白色革命とは近代化政策です。主な目的は農地改革。農地改革の目的は平等な利益分配であり封建的な小作制度を解消することでした。当時のイランの大地主はほぼイスラム教宗教指導者で小作人と地主の間に明確な主従関係が出来てしまっていたのです。他にも女性の参政権を認め、識字率の向上も目指しました。因みにフランスの人口動態学者 エマニュエル・トッド は男性の識字率が50%を越えると革命が起きて、女性の識字率が50%を越えるとテイクオフという(経済発展と出生率変換) 現象が起きると言ってます。しかしイランはこの後のイラン革命によって起きた政治体制の変換で世界の潮流から逆流してしまいます。そのテイクオフが起きる前に新たな革命が起きてしまったのです)
そして石油資源の収入が莫大に増加していた国は急激なインフレを起こし国王や政治家と、一般の労働階級の人間たちの貧富の差が激しくなってしまいます。
ホメイニ師による先導で国民感情が一気にイスラム政権に傾きイラン各地でデモが起きるんです。もはや国民の膨張したイデオロギーを抑えきれなくなった国王は国内にいられなくなりボーイング機を運転してエジプトへ亡命します。(自分で飛行機運転するの凄い。)
しかし予め亡命することが既に決まっていた国王シャーは "シャプール・バフティヤール" を首相に立てていました。
(バフティヤールは首相就任後、秘密警察の解体や政治犯の釈放、報道の自由化など可能な限り民主化へ向けた政策を施しました。) 当時のイランに必要だったのは、なにもイデオロギー革命ではなくて経済的な構造改革だったのです。
バフティヤールは元々野党で国王のシャーとは対立する立場でしたが、ホメイニ師のイスラム法統治による政教一致にも反対していて国王の要請を受け、彼は短い期間ながら民主化をできる限り測りました。
しかしそんな彼の活動も虚しく石油危機や中東戦争で拡がった宗教的なイデオロギーに先導された時の流れには逆らえませんでした。
(イランは地理的にもアラブのすぐ横に位置していて周辺国は全てイスラム教国。オセロのように囲まれた大きな物語の中のイランは、政教一致するっていうのが一番自然だったのかも知れない。たとえそうだったとしても、バフティヤールが引き続き国の政治を指揮してたらどうなっていたかとは思います。少なくとも政教分離はしてた訳だし、親米だって続いていた。)
ズラしのエレジー
この章のメインは学部の授業で行われた「ギャツビー裁判」です。
そのギャツビー裁判に行く前にはすでに学部生たちは授業の中でギャツビーを読み始めてました。
教授は言います。「ギャツビーを選んだのは別に当時の政治情勢の為じゃなくて、"グレート・ギャツビー" が名作だから」です。
(先に「小説 グレート・ギャツビーのあらすじ」を説明しておきます。毎晩パーティーを開くギャツビーの隣に引っ越して来たニック(物語の中の語り手。デイジーのいとこ) 。ニックはある時、ギャツビーがデイジーという既婚女性 (夫のトムは資産家) に恋してるということを知ります。ギャツビーが毎晩パーティーしてるのもいつかデイジーがここに来るかもしれないという気持ちからです。(因みにデイジーの夫トムにもマートルという美人の愛人がいました。その愛人マートルにもジョージという夫がいます。) ギャツビーはお酒の密輸で一定の富を得ていました。ニックの取り持ちで急速に仲を縮めるギャツビーとデイジー。ある時ギャツビーとデイジーの2人は、デイジーの運転で誤ってマートルを轢き殺してしまいます。しかしギャツビーがマートルを轢いた事にして、ギャツビーが罪を被ります。それで怒ったマートルの夫・ジョージはギャツビーを銃で射殺、その後自分も銃により自害します。)
ここで教授は生徒たちへグレート・ギャツビーの中の一文を紹介します。
作中、トム(デイジーの夫)の家にギャツビーが来た時のギャツビーとデイジーとの会話です。
「あら」とデイジーは大声をあげた。
「あなたとても涼しそうね」
二人の目が合い、この世のすべてを忘れて、二人はひたと見つめ合った。
彼女は振り切るように視線をテーブルに落とした。
「あなたとても涼しそうね」デイジーは繰り返した。
この会話のポイントは"この世のすべてを忘れて" という箇所だと思いました。この一文で二人の気持ちを想像させるし、前後の文がさらに生きてきます。
視線を落としたデイジーは熱くなった胸を落ち着かせギャツビーにもう一度言います。「あなたとても涼しそうね」
授業を終えたある日、ニヤージーという男子生徒が教授の所へ来てこう言います。
「あの小説は不道徳です。若者に悪いことを教えます。彼らの心に悪影響を与えます。分かるでしょう?」と、味のしないガムの様な質問。
教授はそんな質問に対して「分からない。だってギャツビーはフィクションだし、恋愛ハウツーものじゃないから。」と答えます。
ニヤージーは言います。「アメリカ人にとっては良いかも知れない。でもこの国の革命的な若者向きではないですよ。」
それに対して教授は思いついたように言います。「それなら (最近巷で流行っている) 公開裁判をギャツビーでやりましょう。」
さらに「ニヤージーは検察としてこの本の罪を立証して下さい」とつけ加え裁判官(ファルザーン)と弁護人(ザッリーン)も決まって「ギャツビー裁判」がクラスの中で始まりました。
飾り付けのスローガン
こうして始まった裁判に
早速、検察官役のニヤージーは言います。
「イスラームは敬虔な生活に導く上で文学に特別な役割を命じた世界で唯一の宗教。革命が始まって以来、西洋は我々の敵だという事実を言ってきた。それは我々の文化根元に対する邪悪な攻撃のせいだ。それは我がイマーム (預言者ムハンマドの後継者) が文化的侵略と呼ぶものだ」「堕落したパフラヴィー朝(王政)では、価値観はひどく堕落していて、不倫は罰せられずむしろ奨励されている。この主人公のギャツビーは何者でしょう?ペテン師、姦夫、嘘つきこんな男に同情よせている。この家庭破壊者を!」「この本のただ一つの長所は、アメリカ社会の不道徳と頽廃を暴露している所だ。しかし、我々はこのようなクズを取り除く為に闘ってきたのだし、このような本は発禁にすべきだ。それに我々の革命は西洋の物質主義もアメリカの製品も要らない。」
ニヤージーの困った点は、興奮し原稿無しでもなお、口調が1本調子なコトだった。
それに対して弁護人役のザッリーンという生徒が発言します。
「事実、ギャツビー自身が彼女の魅力の一つにお金の響きがあることをニックに伝えてます。ただこの小説は貧乏な若いペテン師のお金に対する愛の話ではない。」「確かに彼らは私たちとは違います。しかしあなただって私たちと違うのです。これは富をめぐる物語ですがニヤージー氏が強調するような低俗な物質主義の話ではありません。」
ザッリーンは教授に問います。
「この本を選んだ目的は何も富裕層を擁護することではないという点に異論はないですよね?」
教授は突然の質問に驚いたがこのテーマの重要な点を強調するチャンスとも思い直しこう伝えます。
「こうした作品において、想像力とはすなわち "共感する能力" の事です。他者の経験のすべてを体験することは不可能ですが、フィクションの中でなら極悪非道な人間の心さえ理解できるのです。いい小説とは人間の複雑さを明らかにし、すべての作中人物が発言できる自由を作り出すものです。この点でこの作品は民主的であるといえます。多くの優れた作品と同じように「ギャツビー」の核心にも共感があります。他者の問題や苦痛に気づかないことこそが最大の罪なのです。見ないというのはその存在を否定することです」
教授はこの物語を単なる不倫の物語なのではなく、夢の喪失の物語だと伝えたかった。
それでもニヤージーは言います。
「でも先生、人妻と関係を持つことは何も複雑なことではありませんよ。どうしてギャツビー氏は自分の妻を持たないんですか?」
と、パッサパサのコッペパンみたいな質問。
ザッリーンは言います。
「じゃあ、ヴェールをしない女は娼婦で悪魔の手先だと言うスローガンはどう考えろっていうの?」
するとニヤージーは「ここはイスラム国家だ。それは法律だ」と言います。
それに反応した弁護側の ヴィーダー という生徒が反論します。「法律?あなたたち(新政府)が法律を勝手に変えたんでしょ。そんなの法律?ナチス・ドイツで黄色い星をつけるのだってそうじゃない。ユダヤ人は星をつけるべきだったていうわけ?」
これも思いますよね。
いくら偉そうにスローガンだって言ったって、ただ生きるのに(ヴェールをつけるべきとか、黄色い星をつけなきゃいけないとか)そんなの関係ないし。
少なくとも原始時代の人間にはそんな概念がなかったし、そんなこと考えもしなかったと思う。
小さな村などでは宗教というものが、その共同体の人間には、もしかしたら良いように作用してるのかも知れない。
だけどこれは他人軸が行き過ぎると本質を見失う典型だと思った。
結局、裁判官役の生徒も教授も正式な評決はしなかった。
生徒たちの純粋な議論に、白黒なんてつけられない。
評決をしなかったというより出来なかったのだと思う。
しかし教授にとって学生が示している興奮こそが最上の評決だったと、回想しています。
最後にザッリーンは "グレート・ギャツビー" についてニヤージーにこう伝えます。
この本は夢を大切にするとともに夢に用心することを、誠実さは思わぬところにあることを教えてくれる。
私はこの本を読むことが楽しかったし、それも大切なことなんです。
分かるでしょう?
遣り残しの革命
ここで思うのは、今、同じ人たちと同じコト(ギャツビー裁判)をしたらどうなるんだろうと言うことです。
(未だに当時からイスラム法政権は続いてる訳だし、最高指導者は変わってはいるもののイランの政治体制はそのものは変わってない。)
あの当時の(ニヤージーだけではなく)検察側に立った生徒たちと、現在も当時と同じことを言うのだろうか。
結構変わった人もいれば、立場上同じこと言う人も居るという所でしょうか。
もしそうだとしたら結局同じ事ですよね。立場で言う事が変わるだけなんだから。
それは社会全体が本質を見失ってるような気がしますよね。
だけどこの社会に永久不変がないように、もう一度この「ギャツビー裁判」をしてみたいと思ってる生徒は実は何人かはいるんじゃないかって思うんです。
みんな40年も時が経てば大分状況は変わってるし、結構丸くなって(大人になって)ギャツビーへの見方も変わってるとも思うんですよね。
裁判どころか和気あいあいとなる気がするし、それこそ希望ですよね。
"彼ら" が望んでた「イスラム教」と、もう一方の "彼ら" が望んでた「自由」。
この2頭が並び立つのは可能か不可能か。
本当の所は分からない。
でもそうなれば、それこそ教授が望んでた本当の革命なんだと思う。
因みについ先日(2026年2月28日)、第二代のアーヤットラー・アリ・ハメネイ師が(イスラエル/米国の攻撃により)亡くなった時に国民の大半は体制の崩壊を願ったようです。
現在の最高指導者(2026年)は第3代アーヤットラー・モジダバ・ハメネイ師でアリ・ハメネイの息子です。
(所で「アーヤットラー」とはシーア派のイスラム法の学者が指導者になる時に得る称号みたいです。
イラン革命以来イランの最高指導者になった学者は(現時点;2026年8月)3名いて順に
アーヤットラー・ルーホッラー・ホメイニ
アーヤットラー・アリ・ハメネイ
アーヤットラー・モジダバ・ハメネイ
となります。)
革命からすでに47年経っていてイスラム法政権の政治基盤が安定しており、仮に政治体制が崩壊したとしても民主化するとは限らないみたいです。
※次回は第3部「ジェイムズ」と第4部の「オースティン」の感想を書いてまとめようと思ってます。 よろしくお願いします。



