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【歴史】『江源武鑑』と田中政三①

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【歴史】観音寺騒動について|赤田の備忘録

偽書とみなされる『江源武鑑』

近江国の歴史を調べる際、特に「佐々木氏」を語った書物として、良くも悪くも知名度の高い『江源武鑑』は現在、歴史家の間で「偽書」であるとして評価の対象にならないというのが共通認識となっている。

しかし、果たしてそれが、正当な考察を経た上で成り立っている意見なのであろうか、本文では『江源武鑑』の再検討を主張する立場の田中政三の意見を紹介したい。

・偽書とする評価

しかし、年代に多くの間違いがあり、他の史料から裏づけのとれない独自のエピソードが多い。また義実・義秀・義郷の発給文書は、明らかな偽文書(例:『弘文荘書目』)を除き、1通も確認されておらず、同時代史料に彼らの実在を裏づけるものは存在しない。また、これらの人物を実在とする文書館に於いても齟齬がある。京極氏が所蔵していた『六角佐々木氏系図略』では義秀の子で、『江源武鑑』での六角義郷に該当する人物は「義康」という諱になっている。

(Wikipedia「江源武鑑」内容より引用。)

田中の意見を紹介する前に、『江源武鑑』を偽書と決めつけた歴史家の共通認識とは一体どのようなものであったのか、偽書とする代表的な人物を確認したい。

神戸能房
寛文(1661年 - 1673年)年間に成立した神戸能房の『伊勢記』では「加入筆、有義秀・義弼等之作名、皆偽也、彼沢田氏郷者」と、すでに沢田源内による偽書であるという評価が行われていた。

建部賢明
また江戸時代中期の和算家建部賢明は『大系図評判遮中抄』において沢田源内が「偽て定頼朝臣の長子に大膳大夫義實と云ふ名を作り、その子修理大夫義秀、其子右兵衛督義郷三世を、新たに佐々木の系中に建て丶、己れか父祖とし、義賢朝臣承禎をして義秀か後見なりとす」と捏造であると指摘した。また「義実・義秀・義郷」の三代は

・『中古国家治乱記』
・『異本難波戦記』
・『三河後風土記』
・『武家高名記』
・『浅井始末記』
・『 浅井三代記』
・『東国太平記』
・『日本将軍伝』
・『諸家興亡記』
・『武家盛衰記』
・『東海道驛路鈴』

等の書籍で取り入れられているが、建部は「浅智の輩」によるものだとしている。建部は林羅山の『将軍家譜』や林鵞峰の『日本王代一覧』等にこれら三人が記載されていないことを指摘し、また三人のうち誰ひとりとして花押が伝わっていないとしている。

伊勢貞丈
故実家の伊勢貞丈も『安斎随筆』で『江陽屋形年譜』などとともに沢田源内による偽書であるとしている。

『近江輿地志略』
享保19年(1734年)に発刊された『近江輿地誌略』でも『江源武鑑』の説に触れて「武鑑の説信用するに足らず」「偽書也」と断じられている。

成島司直
『徳川実紀』の編纂を行った成島司直も『改正三河後風土記』の序文で、三河後風土記撰者考というものが掲載され、その中で、沢田源内が『三河後風土記』の撰者であると断定し、彼が江源武鑑・武家系図という書を偽り作り、世に刊行して世俗を欺きたり、と言及している。

(いずれもWikipedia「江源武鑑」参照。)


以上のような人物・書籍を以って、『江源武鑑』は「偽書」であると評価され、またその著者は「沢田源内」であるとする説が広まっているのが現状である。

このような『江源武鑑』批判に対し田中は、どのような受け止め方をしているのだろうか。以下は、彼の著書『近江源氏』 1巻(まぼろしの観音寺城)における田中の反応である。

近代の史家などからは偽書という汚名をきせられて悪評が高いが、筆者は一般に言いふらされているような偽書だとは思わない。同書の一部には多少の誇張やフィクションの含まれていることは認めるが、全体として確実な史料を元にして、大筋は史実を伝えているものだと信じている。

(田中政三『近江源氏』 1巻(まぼろしの観音寺城)、弘文堂書店、1979年、297-298頁。)

このように、盲目的に偽書ではないと述べているのではなく、ある一定の虚構が含まれていることを認めながらも、それが全てではなく、そこに価値を見出すことができるのではないか、というのが田中の言う所なのである。

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【歴史】『江源武鑑』と田中政三②|赤田の備忘録

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