【歴史】観音寺城における戦闘一覧
さて、前回までは田中政三氏の『近江源氏』1巻(まぼろしの観音寺城)を参考にして
観音寺城と屋敷・防衛設備、佐々木氏の嫡流問題、『江源武鑑』と沢田源内、観音寺城落城の真相などをテーマに取り上げ、補足を加えながら見てきた。
↓前回はコチラ。
【歴史】観音寺城落城の真相~織田信長と足利義昭~|赤田の備忘録
しかし、同書も終わりが近づいてきたので、ここでひとまず田中氏の著書から離れて紹介を終え、より自由に筆者の興味関心のある所を取り上げていこうと思う。
(論文の影響を引きずって、こんな文体になってしまっているが、論文ではなくもっとユルいレポートやメモのようなものだと思って書いていきたいので、その点は悪しからず。)
今回は、Wikipediaから観音寺城で起こった戦いについての記事を参考に(パクって)、個人的なメモとして必要な部分を切り取り、要約して残しておきたい。
歴史・沿革
〈六角氏系図①〉
六角泰綱(1) ― 頼綱(2) ― 時信(3) ― 氏頼(4・6) ― 義信(5)
〈京極氏系図①〉
京極氏信(1) ― 満信 ― 宗氏(4) ― 高氏(5) ― 高秀(6) ― 高詮(7)
※京極氏2代は氏信の四男・宗綱、3代は宗綱の子・貞宗。
・1335(建武2)年
古典『太平記』によると南北朝時代に、南朝・北畠顕家軍に備えて北朝・六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには観音寺城はすでに築かれていたと考えられている。
ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。
・1351(観応2)年9月
観応の擾乱の最中、近江国にて足利直義の兵が南朝と連合して、足利尊氏方にあった佐々木道誉(京極高氏)や六角氏頼・直綱兄弟らを破り、敗れた道誉らが当時「佐々木城」と呼ばれた観音寺城に逃げ込んで籠城している。
〈六角氏系図②〉
六角氏頼(4・6) ― 満高(8) ― 満綱(9) ― 久頼(11) ― 高頼(12) ― 氏綱(13)
※六角氏頼の嫡子・義信が5代となったが早世したため、京極高氏(佐々木道誉)の孫・京極高詮を六角氏7代に迎えた。しかし、氏頼の晩年に子・満高が生まれたため、京極高詮は後見を務めた後に京極家へ戻り京極氏7代となり、満高が六角氏8代となった。
※10代は満綱の嫡男・持綱であったが一揆に攻められ父と共に自刃したため、持綱の弟・久頼が11代となる。
〈京極氏系図②〉
京極高詮(7)― 高光(8) ― 持清(11) ― 勝秀
※京極氏9代は高光の嫡男・持高であったが子がなく39歳で死去したので、高詮の次男・高数が10代となる。嘉吉の変で高数が討たれると持高の弟・持清が11代となる。
応仁の乱
室町時代の応仁の乱では、六角高頼が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたのである。応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開される。
・第一次観音寺城の戦い
細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男・勝秀は、六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。
数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡した。
・第二次観音寺城の戦い
応仁2年11月初め、陣代山内政綱が京都より帰国し観音寺城の防備を固めた。弓削の戦いで六角高頼に敗れた六角政堯・京極持清の連合軍は、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。
※六角政堯は、六角久頼の甥で、高頼の従弟にあたる。
同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城に攻撃を開始。山内政綱は防戦したが守ることができず、火を放ち敗走し、高頼方の武将は焼失した観音寺城を修築、三度立てこもることになる。これに対して京極軍は多賀高忠や六角政堯を派兵、鎮圧に向かわせた。高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になり、京極軍を撃退することに成功する。
※多賀高忠は、京極高数の次男で多賀家を継いだ人物。京極持清とは従弟にあたる。
・将軍による追討
その後、高頼が幕府御料地を侵略した際には延徳元年(1489年)9月に9代将軍足利義尚の親征(鈎の陣)を、延徳3年(1491年)8月には従弟の10代将軍足利義稙の親征を受けたが、高頼は二度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回している(長享・延徳の乱)。
→将軍による六角討伐についてはまた別で取り上げたい。
その後の戦闘
・1502(文亀2)年
六角高頼の被官である伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、六角高頼は音羽城に退避。
その後和議を結ぶ。
・1516(永正13)年
再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏のもとに降った。
・1525(大永5)年
六角定頼が江北に出陣していた隙をつき、伊庭氏が3度目の観音寺城を攻撃。
この時は留守居役の後藤左衛門が対処した。
・1563(永禄6)年
観音寺騒動が勃発。謀殺された後藤賢豊縁故の諸将が城下に乱入。放火により観音正寺などが焼失。
以上!
