【歴史】岡左内の考察まとめ
1. 系譜と出生地についての考察
岡左内は、武勇⚔・蓄財💰・キリシタン♰などの面から有名な人物である。
(諱は「定俊」とも言われるが、本文では本人が用いた確証のある「左内」を用いる。)
岡は伊達政宗を退けるほど勇猛な武士でありながらも、部屋中に黄金を並べてその上で寝転ぶことを好むような変人でもあったという。しかしその一方では、熱心なキリシタンとして会津に神学校や宣教所を建て布教に努めるなど、物語や諸記録に残されている逸話はどれも強烈で面白い人物である。
とりあえず(岡定俊 - Wikipedia)を参考にしてもらえればと思う。
さて、岡左内は1万石の武将でありながらも、その出身や家系が定かではなく、文献によって書かれていることはまちまちである。しかしいずれも、突拍子のないものばかりという訳ではなく、大別して出身は以下の2箇所に分けられると思う。
① 若狭国太良庄
② 近江国日野
ちなみにWikipediaの説明ではその生まれとして前者が採用されていることが確認できる(執筆時2024年12月9日時点)。
では、それぞれについて早速、詳しく見ていきたい。
① 若狭国太良庄
若狭国太良庄は、現在の福井県小浜市太良庄にあたり、JR東小浜駅の北東約1kmに位置する、日本海からほど近い山に囲まれた地域である。
1.1 若狭武田氏流の山縣氏の一族とする説
岡左内は若狭国を治めていた武田氏の一族・山縣氏の生れであったとする説がある。
『越前若狭地誌叢書下巻』によると、岡左内は山縣賴統の孫かつ盛俊の子であるとし、当初は「山縣右馬允秀俊」を名乗っていた。しかし、父盛俊が岡掃部助成俊の養子となった為にそれに応じて名を「岡左内助定俊」と改めたという。
(杉原丈夫、松原信之共編『越前若狭地誌叢書 下巻』松見文庫、1973年、220-21頁。)
山縣氏と言えば、甲斐武田家の四天王に山県昌景が挙げられるなど、武田家における重臣の一族であろう。
また『系図綜覧』には、山縣下野守盛信の子政信の項に「天正若州滅亡之時年十五岡定俊扶佐之」とありことからも、岡左内は山縣氏の関係者であった可能性が高い。
(国書刊行会編『系図総覧』国書刊行会、1925年、145頁。)
もしこのような名家に生れたのだとすれば、武田家臣山県氏に生れたと明確に名乗っていてもおかしくないが、このように伝えられなかったのには何か事情があったのだろうか。
この疑問について考えるならば、幼少時頃の状況を読み解く必要があろう。
もともと小浜という場所は、1440(永享12)年、武田信栄が若狭守護職を任命されたことに始まる名族・若狭武田氏が代々治める土地であった。しかし戦国時代になると、近辺の朝倉氏や台頭してきた織田信長などに若狭武田氏は翻弄されてしまい、ついには滅亡してしまうなど変動が激しかった。
こういった状況にあって、城の歴史を見ても武田の家臣であった山県氏がこの戦禍に巻き込まれたことは間違いなく、太良庄には太良庄城(別名:賀羅岳城)があるが、『日本城郭大系 第11巻』の「賀羅岳城」の項目を見ると、以下のように説明される。
城主の山県氏は、永享十二年(一四四〇)に若狭守護となった武田信賢の被官下野守信政を祖とする。[……]元亀元年(一五七〇)に織田信長に対立した武田信方らが、山県孫三郎の籠もるガラガラ城を攻めたとの記録があり(『言継日記』)、キャラとガラと語呂に類似性があり、信方の攻撃した城が賀羅岳城だった可能性が高い。城の廃棄は、丹羽長秀によるものか、おそらく天正十二年頃と思われる。
この記述からも、山県氏は織田信長の朝倉攻めの際、既に朝倉氏によって平定され従属していた若狭武田当主・武田元明とその叔父・武田信方を見限り、織田方として武田方と争ったのであろう。
これら山県氏族のうち、岡左内の祖父とされる頼統(よりずみ)と下野守の関係性についてはっきりしたことは分からないが、両者は同族であったのだろうと推測できる。また、天正十二年に廃城となっていることからも、丹羽長秀による統治の中でその所領は没収されたか所替えとなったか定かではないが、この土地を離れ失うこととなったために曖昧な形で伝わった可能性もある。
(また、『若狭郡県誌 : 訳文』では賀羅岳城主は「山縣民部亟政秀」とあることからも、当時の伝承には多くの疑問点が残る。)
以上では、岡左内の山縣氏出身説を述べたが、そもそも岡はその名字からもすでに山県氏ではなく岡氏の人物である。次にこの岡氏についてどのような一族であるのか確認したい。
『系図綜覧』によると、岡左内は「岡成俊」の子であるとされている。ここでは成俊について、「江州岡地頭・刑部左衛門尉」であると書かれているが、この成俊は『越前若狭地誌叢書下巻』で前述した父・盛俊が養子となった「岡掃部助成俊」のことであろうか。官位名は異なるものの、諱は二字とも合致しているため、偶然とは思えない。
更に系譜を遡ると、以下のようになる。
〈系譜〉
定俊 (岡左内) — 成俊 (江州岡地頭・刑部左衛門尉) ―
信俊 (馬淵・多賀彦七郎・刑部太郎) ― 信茂 (馬淵弥七郎) ― 信澄 (右馬頭) ―
信清 (安芸守) ― 満頼 (右馬頭) ― 満春 (布施) ―
信成 (甲州武田・伊豆三郎・兵庫頭・刑部大輔・上野介・甲斐守・左馬頭・従四位下)
この武田信成(武田信成 - Wikipedia)は甲斐武田氏の嫡流で八代にあたる当主であり、岡左内はその八世孫としているのである。この系譜には「養子」とは書かれず、また「盛俊」の名前も確認できない。また、近江の地頭職であるならば、山県政信の記述にある、「天正若州滅亡之時、年十五、岡定俊扶佐之」とはどういった意味をもつのか疑問が残る。
どちらにせよ、小浜の武田氏から離れてひとまず近江の岡氏についても調べるのが良さそうなので、次はそちらを見ていきたい。
② 近江国日野
近江国日野は、現在の滋賀県蒲生郡日野町のことで、代々佐々木六角氏重臣の蒲生氏が治め、近江商人(日野商人)による商いで栄えた町である。岡左内にとって最初の主君が蒲生氏郷であり、蓄財を楽しみとした彼にとっては非常に縁の深い地域と言える。
さて近江の、特に日野周辺の岡氏について調べた時に、複数の岡氏が蒲生家に仕えていたであろうことが判明した。
1.2 蒲生家世臣・岡惣左衛門の末裔とする説
『近江蒲生郡志 巻8』「岡氏邸趾」の項によると、岡氏について以下のように記述される。
岡氏は蒲生氏の世臣なり 日野町大字木津に邸趾を存す、岡惣左衛門は享禄四年四月六日蒲生定秀に従ひ箕浦合戦(坂田)に戦死せり、世々惣左衛門の名を襲ふ、孫惣左衛門は氏郷に従ひ會津にて五千石を領す、有名なる岡左内は其裔なり。
ここでは、岡左内は蒲生氏に仕える「岡惣左衛門」を名乗る家系の末裔だという。
また、『近江蒲生郡志 巻7』「法興寺」の項にも岡一族に言及がある。
法興寺は日野町木津に在り、此地は蒲生氏の臣岡宗左衛門の邸地なるにより一に岡寺と稱す、附近に岡半兵衛重政、岡源八、岡孫作、岡左内等の邸趾あり、古へ天台宗の寺にして岡一族の菩提寺なりしといふ、延寶元年六月眞宗大谷派に歸す。
「惣」と「宗」のように漢字は異なるものの、昔はかなり適当なもので、音さえ合っていれば「十」と「重」や、「九」と「久」のように同音で補うことも多くあったと考えられるので、この両者は同一人物か同一の家系の者であろう。
さらに『近江蒲生郡志 巻3』には、この岡氏は代々「惣左衛門」を襲名し、その本姓は「太秦氏」であるといい、その証拠として、天文十八年綿向神社棟札に「岡宗左衛門太秦秀憲」とある。また、安土浄巌院過去帳に「天正八年三月二日日野岡越中守殿心暁正安」や、天正十五年の綿向神社奉加帳に「岡惣左衛門」「岡藤三」「岡九兵衛」の名がみえるという。
(滋賀県蒲生郡『近江蒲生郡志 巻3』蒲生郡、1922年、326-327頁。)
以上のように、日野には岡姓を名乗るものが複数おり、前回述べた『系図綜覧』による岡左内は武田氏流の岡氏で「清和源氏」であり、この惣左衛門家の本姓である「太秦氏」とは異なっている。また、蒲生家臣の石高と名前が併記された「會津分限帳」なるものが記載されているが、そこには「八千石 岡左内」と「二千石 岡惣左衛門」の両者が同時に見られるため、両者が同一人物ではないことは明白である。また、岡左内も日野に住居を有していたことは想定でき、木津という地域にはたしかに「木津岡山城跡」という城郭跡が現在の法興寺の場所にあったとすることは事実である。しかし、その付近に岡左内を含む岡氏の邸宅があったことが分かる史料の出典は不明で歴然とせず、城跡についても「岡宗左衛門」という武士がこの寺を屋敷にしっと伝わるのみであり、岡左内を岡惣左衛門の一族と断定できる証拠は見つからなかった。
せめて岡左内が本姓を含んだ署名をしてくれれば良かったのだが…。
1.3 馬淵氏流青地氏の流れを汲むとする説
次に、岡左内を「青地氏の流れを汲む者である」とする記述があることについて考えたい。
『蒲生氏郷のすべて』の「岡左内」の項では、「佐々木六角氏の重臣青地氏の流れを汲み、永禄十一年(一五六八)の六角氏没落後、青地氏と縁戚であった蒲生氏に仕える。」とあり、岡左内はこの家系に連なる人であったとしている。
青地氏とは、佐々木氏より分かれた馬淵氏の支流にあたる家であるので、本姓は「宇多源氏」である。また、「蒲生氏と縁戚であった」というのは、蒲生氏郷の祖父・蒲生定秀の妻が馬淵氏の娘であったことから、その次男で氏郷の叔父にあたる茂綱が青地長綱の養子となったことを指すと考えられる。岡左内が具体的にどのような関係性をもっていたかについて明示した資料はないが、ここで前回記した岡左内の系図を再び見てみると、ある可能性が浮かんでくる。
1.4 複合説 (筆者の持論)
〈系譜〉
定俊 (岡左内) — 成俊 (江州岡地頭・刑部左衛門尉) ― 信俊 (馬淵・多賀彦七郎・刑部太郎) ― 信茂 (馬淵弥七郎) ― 信澄 (右馬頭)〈以下略〉
左内の祖父・曽祖父にあたる信俊や信茂を見ると、その号に「馬淵」を用いていることが分かる。つまり、信茂の代に武田氏より馬淵氏(あるいは青地氏)の一族へ養子に出て家を継ぎ、この家が岡氏を名乗ったのではないかと考える訳である。また補足として、前述の青地氏へ養子に入った「茂綱」がいたが、この前後に「茂」を諱に用いる人物が青地氏に複数いることが確認できた。
また、左内の祖父にあたる信俊は別の号として「多賀」をも用いているため、信俊はあるいは養子としてこの家に入ったか、多賀氏へ養子に行った可能性もあり、その子・成俊の代から岡氏を称したとも考えられる。(多賀氏は佐々木京極氏の重臣である。)
そして最後に、左内と「成俊」の関係である。最初の説で「山縣氏説」を述べたが、この系図では養子であっても簡略化して書かれてあると想定すると、この親子間も養子関係なのではないかと推測できる。
つまり、武田氏に生れた信茂が近江の馬渕氏(青地氏)の養子となり、その子信俊も同国近江の多賀氏からの養子(あるいは多賀氏の養子)として家を継ぎ、その子成俊の代に岡氏を称すようになった。しかし成俊にも子がなかったので若狭武田氏の流れを汲む山縣氏から養子を迎えて継がせ、それが岡左内であったのではないか、という説である。
血筋的には清和源氏武田氏流の流れを汲み、家系的には宇多源氏馬渕氏流、あるいは中原氏流多賀氏の岡氏といえる。
以上を突拍子のない説と思われるかもしれないし、筆者自身も全てが正しいとは決して思わないが、複雑な養子関係や、戦国時代という四百年以上続いた佐々木六角氏が滅亡するような動乱の時代にあって家系が正しく伝えられることは難しく、岡左内も同様であったことだろう。
蒲生氏郷の主君であった名門・佐々木六角氏でさえ、その嫡流について沢田源内の『江源武鑑』の真偽を巡って現在でも議論が展開されるなど、明らかでないことは検証を重ねる他ないのである。
(ちなみに筆者は『江源武鑑』を偽書と決めつけず、色眼鏡なしに根本の部分から徹底的に検証究明すべきであると思っている。)
岡左内については、まだ研究が進んでいないことが多くあるが、ひとまずその家系と出身地についての考察は以上としたい。
2.岡重政と兄弟説
しばしば岡左内に関する文献を読んでいると、彼と蒲生家家老・岡半兵衛重政を兄弟とする説が見受けられる。そこで今回は、蒲生家中にあってトップクラスの重要人物であった両者が、本当に兄弟であったのか、また、違うならこの説はどこから来たのかについて考えたい。
2.1 兄弟説
さて、早速ではあるがこの「兄弟説」を唱えるものの代表ともいえる文献について見ていこう。それは意外にも自治体誌の『近江日野町志』である。その上巻「岡半兵衛」の項では以下のように伝える。
岡半兵衛重政は岡越後守(岡左内)の弟なり。従軍の事諸書に見えず。蒲生秀行の再び會津を領し六十萬石を食むに至り、半兵衛を擧げて仕置奉行の筆頭とし、後三萬石を給せらる。
更に、「町野左近助の室祖心尼」の項で「祖心尼」(通称:阿能)について説明する際にも、同様のことを伝える。
[……]町野長門守幸仍に嫁せり。而して阿能の生める女子名「たあ」なる者蒲生の家臣岡左内(越後守)の弟半兵衛の子、吉右衛門の室となり、女子を擧ぐ。是れ即ち徳川三代の将軍家光の愛妾「ふりの方」なり。家光の子千代姫後靈仙院といへるはふりの方の生める所なり。
また冒頭の記述から、『近江日野町志』で述べられる兄弟説は伯爵松浦厚著「素行山鹿甚五左衛門」なる文章を参考にしたものであることが分かった。そこで筆者が調べた所、松浦伯爵の記した『素行子山鹿甚五左衛門』という書籍がたしかにあり、そこには以下のように書かれていた。
家光の妾たりしふりの方は、千代姫(後に靈仙院)の生母であって、ふりの方の父は、會津の岡吉右衛門(蒲生飛騨守の家中)。吉右衛門の父は半兵衛。半兵衛の兄の左内は、同蒲生家に仕へて越後守と稱し、弟の町野庄右衛門これも蒲生家に仕へて居たのである。
この記述では、どちらかというと徳川家との外戚関係において岡重政の家系を重視しているような書き方であり、岡左内はついでのような印象を受ける。また、単に推測からこのような記述が起こったのか、何か明瞭な史料を基にしているのかは不明である。
2.2 非兄弟説
次にこの「兄弟説」を否定するものについて見ていきたい。その代表ともいえるのが、前稿でも登場した『近江蒲生郡志 巻3』である。そこでは、両者の家系について言及しており、以下のようにはっきり異なる系統であることを述べている。
岡半兵衛重政は同姓異族なり、伊勢人にして始め片岡半七と稱し氏郷に仕へ扈従たり
また、『史料徳川夫人伝』「自証院殿之伝系」の項においても、以下のように書かれる。
岡半兵衛は三万五千石を領し[……]本国は摂州松阪辺にて、始めは片岡と名乗り江州に住居し、故あって岡氏に改称し、氏郷に従属す。又、岡越後守は壱万石を領し、奥州猪苗代の城を相守る。其始岡左内と称す。是も江州の住士にて半兵衛重政とは別家なり。
これらから、岡左内と岡重政は兄弟ではなく、共通して重政は「伊勢」の出身で、始めは「片岡氏」を称していたことが説として存在することが分かる。筆者が前稿で考察したように、岡左内の出身は、「山縣氏」で生まれは「若狭」であると考えられるので、両者は合致しないことが分かる。
2.3 兄弟説の根拠は何か
結局、「兄弟なのか否か」ということについては、両方の主張があるものの、これらは共に明瞭な史料を以って論じられたものではなさそうである。そこで、再び「兄弟説」に着目し、その出処を探ってみた所、どうやらその根拠として、江戸時代中期の幕臣・木村高敦が将軍吉宗の命により記した『武徳編年集成』という歴史書の記述を挙げることがあるということが分かった。
そこには蒲生氏郷が木造具政の籠る戸木城を攻めた際、敵将・畑作兵衛重正という人物をある兄弟が打ち取ったというもので、この兄弟こそが左内と重政とするのだということであるらしい。『武徳編年集成』「巻30 天正12年7月~12月」の1584(天正12)年8月15日の項にある記述は以下の通りである。
岡源八郎(時ニ十八歳後義太夫ト改ム)畑作兵衛ト組デ危キ處其弟半七重政(後半兵衛ト改ム)幼弱ニテ能首ヲ取テ馳歸リシガ是ヲ見テ畑ヲ一太刀斬ト均ク源八郎刎返メ作兵衛ガ首ヲ得ル
これ自体が何を参照した記述であるのか不明ではあるものの、成立が1741(寛保元)年頃であることを考えると、後年の松浦伯爵はここから引用したのかもしれない。また、岡左内の初名を「源八(郎)」と紹介するものが多々見られるが、それもここに由来するのだと思われる。
果たしてこの記述に出てくる「岡源八郎」は本当に「岡左内」と同一人物なのだろうか。
2.4 別人と考えられる「岡源八郎」と「岡左内」
結論から述べると、筆者はこの両者は同一人物ではないと考える。また、その理由は以下の通りである。
① 「岡左内」・「岡源八」両名の邸趾跡がある。
② 「岡左内」・「岡儀太夫」が併記されている。
③ 事跡と年代が一致しない。
それぞれの理由について詳しく見ていきたい。
① 「岡左内」・「岡源八」両名の邸趾跡がある。
こちらは既に述べた『近江蒲生郡志 巻7』「法興寺」の項を再引用するが、法興寺(日野町木津)に在る岡宗左衛門の邸地の附近には、出典は定かではないが、岡半兵衛重政、岡源八、岡孫作、岡左内等の邸趾があったとしている。
(『近江蒲生郡志 巻7』、弘文堂書店、1980年、645頁。)
ここでは、「岡源八」と「岡左内」にはそれぞれ屋敷があり、別人であるように認識しているのである。もし同一人物であったならこのような表記はしないだろう。
② 「岡左内」・「岡儀太夫」が併記されている。
こちらもすでに述べた文書であるが、蒲生家には「會津分限帳」が残され、蒲生氏郷時代の禄高を知ることができる。その中で「岡氏」を称する者のうち、上位五名を抜き出したのが以下である。
8000石 岡左内
4000石 岡半兵衛
2000石 岡惣左衛門
2000石 岡市左衛門
1200石 岡儀太夫
このように「岡左内」と「岡儀太夫(源八郎)」は同時に併記され、禄高が異なっていることからも明らかに別人であることが分かる。
③ 事跡と年代が一致しない。
最期に年代の不一致である。
木造氏の戸木城攻略の時、前記の通り源八郎の年齢は当時「十八歳」であると書かれている。これは逆算すると、岡源八郎の生年は1566(永禄九)~1567(永禄十)年頃であることになり、この戦以前の岡左内の活躍として知られるものには、1570(元亀元)年の手筒山の戦い、1578(天正六)年の摂津攻め、1584(天正十二)年の伊勢小山戸(小倭)の陣などが挙げられるが、同一人物であったとするならば最初の記録と考えられる「手筒山の戦い」の時には「四歳」であった計算となり、戦で活躍したなどとは到底有り得ない。
以上のように、両者は別人であると考えられるが、「岡源八郎」という人物が実在したのもまた事実であり、その人物こそが本当の岡半兵衛重政の兄に当たるのであろう。
また補足として、岡左内には「岡左衛門佐清長」という左内の「甥」に当たり、左内死後に猪苗代城代・蒲生家筆頭家老となった人物がいるが、これほどの人物であっても岡重政系図にその記載はなく、また左衛門佐の父親について言及した史料は一切見当たらないなど、親子関係であるとするには不自然な点が多い。
3. 生没年の考察
さて続いて、岡左内の生没年についての考察をしていきたいと思う。
Wikipediaの岡左内の項を見ると、その生没年は1567(永禄十)から1622(元和八)年と書かれており、ここでは左内が55歳で没したことになっている。
果たしてこれは本当に正しいのだろうか。
3.1 生年は推測に過ぎない
岡左内の生年が1567(永禄十)年の生年であるという説がどこから来ているのかを考えた際、筆者には心当たりがあった。それは、前回の記事で検証した木村高敦の『武徳編年集成』「巻30 天正12年7月~12月」の1584(天正12)年8月15日の項、戸木城の木造具 政包囲戦の際の記述である。
ここで登場する「岡源八郎」の年齢の記述を逆算すると、1566(永禄九)~1567(永禄十)年頃となり、岡左内とは年代が合致せず、違う人物であったことをすでに述べたが、どうやらWikipediaではこれらを同一視し、その生年としているようなのである。
初陣がいくら早くとも「四歳」ということは有り得ず、しかもその人物が戦で活躍したなど到底信用できる訳がない。
3.2 本当の生年はいつだったのだろうか
では一体、いつが本当の岡左内の生年だったのか、ということについて考えた時、結論から言えば、今のところ明確な年代は分からないというのが実情であろう。
岡左内についてこれまで、その家系や出生地、兄弟などを考察してきた通り彼に関する史料は断片的なものしか存在せず、生年についても同様、それを記したものはない。
ただ、彼の戦の記録として確かとは言えないが、1570(元亀元)年時点で、後に義弟・浅井長政による裏切りによって窮地に立たされることとなった織田信長の朝倉攻め(金ヶ崎の退き口)の前哨戦ともいえる手筒山の戦いにおいて、岡左内は活躍したと『氏郷記』に伝わっている。
これを正しい記述と考えるならば、またこの時、岡左内が20歳頃であれば、1550(天文十九)年の生まれ、さらに若く15歳頃であったなら1555(弘治元)年の生まれとなり、それぞれ72歳、67歳で没したことになる。
また、以前紹介した文献に『系図綜覧』があり、ここで山縣政信について「天正若州滅亡之時、年十五、岡定俊扶佐之」という記述があることを紹介した。1570(天正元)年、岡左内は手筒山の戦いにも見られるように、朝倉攻めに参加していたのだとすると、この時に山縣氏と接触していた可能性は考えられるだろう。
(また、「年十五」とあるのは山縣政信のことだと思われるが、もしかしたら岡左内のことを指しているのかもしれない。どちらにせよ、両者の年齢は近かったのではないだろうかと筆者は推測する。) 〈更なる検証は必須〉
これらはあくまで想定であり確証がある訳ではないが、次に没年やその他の記述を見て、そこから生年を紐解くことができないか考えてみたい。
3.3 没年は1622(元和八)年あたり
前記の文章の書き方からも察しの良い方はお気づきかもしれないが、筆者は岡左内の没年齢を1622(元和八)年あたりでほぼ確定させて良いのではないだろうかと考えている。
またその理由として、岡左内の死亡に関する以下の存在を挙げる。
① 没年に言及した史料二点
② 『會津陣物語』の記述
③ 生存を確認できる最古の史料
以下では、これらについて解説を加える。
① 没年に言及した史料二点
ここで言う史料とは次のものである。
・『一六二三年六月十日付、ジョアン・マテウス(・アダミ)の米沢、若松、最上地方に関する報告』(以下「報告」)
・『会津猪苗代城主城代録』
「報告」は1975(昭和五十)年、ポルトガル南部より持ち込まれたもので、猪苗代に滞在していたイエズス会宣教師ジョアン・マテウス・アダミの残した記録である。アダミは宣教師として1620年から会津で活動を始め猪苗代に居住したが、キリシタン弾圧が強まり左内が亡くなると長崎へ向かい、後に殉教する。
記録には、猪苗代では1622年5月から迫害の発端となった出来事が記され、その中に岡左内の「死」について触れた箇所が存在している。
ここでの岡左内(岡野越後)は、「日本でもその名がよく知られている優れた武将であった。」としながらも、「高齢に達してからは閉じ籠りがちになり、さらに卒中の発作に襲われて言葉も発することができない状態」であったというから、かなり老衰していたであろうことが読み取れ、甥とのキリスト教の棄教を巡る対立の末、棄教を果たした後は、当時十二歳であった城主の息子が病気のために亡くなり、その数日後に老人・岡左内自身も亡くなったとある。
(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第2期 第3巻 (1619年-1625年)』同朋舎出版、1997年、189-204頁。)
つまり、岡左内が亡くなったのは、1622(元和八)年五月から翌年にかけての時期であると考えられるのである。次に『会津猪苗代城主城代録』を見ると、岡左内の死の記録について以下のようにある。
元和八年戌八月岡越後死去ス、磐梯山の南麓エケ沢ニ葬ル
※ここでいう「エケ沢」とは小字の「池沢」のことであるらしい。
ここでも1622(元和八)年としており、前述の期間に相当する。また、「八月」とあるから、迫害が始まってから三ヶ月後のことであったのだろうか。
② 『會津陣物語』の記述から
岡左内が上杉家に仕えていた時代、1600(慶長五)年以降の猪苗代城代は水原常陸介親憲でという武将であった。そして、その小姓として仕えたのが「新国庄蔵」という、後に『會津陣物語』(『東国太平記』の基となった物語)を記した「杉原彦左衛門」である。
杉原が物語に記した岡の死の記述は以下の通りである。
蒲生宰相殿代に左内病死する砌、遺物として黄金三万両、正宗の太刀一腰を忠郷へ差上ぐ、又黄金三千両と景光の力を中書殿へ進上す、傍輩にもそれぞれに遺物を遣はし、日来の借手形、鋏箱一つにありけるを焼いて棄て申し候
つまり、蒲生忠郷の代に亡くなったと分かり、忠郷の代とは1612(慶長17)年から1627(寛永4)年の間であるので、岡左内が亡くなったとされる1622(元和八)年を含んでいる。
ただし、岡左内死去の時にはすでに杉原(当時は新国)はすでに米沢に移っていたと考えられるため、どのようにこの情報を得たのかについては不明である。
③ 生存を確認できる最古の史料
岡左内は1621年(元和七)年にはまだ、存命であったと考えられる史料がある。
『蒲生家分限帳』(弥勒寺本)である。ここには、猪苗代城代・岡越後守・10000石と記されており、また甥の左衛門佐は7800石と記されている。
(山ノ内岺生『会津文化財 第4号』会津文化財調査研究会、1984年、28-45頁。)
これらを総合的に見た時に言えるのは、依然として確実な断定はできないが、
1621(元和七)年までは存命で、1627(寛永四)年までには高確率で死去している。その中でも、1622(元和八)年かその翌年に死去した可能性が高く、1622(元和八)年八月が具体的かつ埋葬地まで記されているため妥当なのではないか、ということである。
また、上記の没年を生年と併せて考えた時に、やはり岡源八郎(当時十八歳)が岡左内であったとすると当時55歳頃にも関わらず、高齢で病気がちの老人と称されているのは不自然である。ただしこれが67~72歳頃ならば、まだその記述は可能性として有り得るかもしれない。
4. 周辺親族の考察
すでに岡左内の系譜については、尊属(先祖)方面にある程度の考察をしてきており、また岡重政とは兄弟ではないことも考察した。今回はその他、岡左内周辺の親族関係について記述等から取り上げてみたい。
4.1 岡左衛門佐清長
不明な点の多い岡左内という人物であるが、その親族として最も著名であるのが「岡左衛門佐清長」であろう。
一般的に左衛門佐は、左内の「甥」であると言われ、左内死後に猪苗代城代を務めた人物でもある。また左内の生前から、キリシタン弾圧の風潮が高まってくると自らもキリシタンであったが改宗し、お家継続のため左内に改宗を迫り、手段を問わなかったので左内は改宗を余儀なくされたと言われている。積極的にキリシタン弾圧を推進したことでも知られ、伯父の家臣・コスモ林主計を改宗しなかったとして会津で斬首に処している。
1627(寛永四)年の蒲生忠郷死後は、伊予松山藩主となった忠郷の弟・忠知に仕えて仕置家老となったが、家臣間での争いを起こしたことで幕府に咎められ追放処分となった。
(その後の動向は不明。)
この左衛門佐に関して、その実在はほぼ確実であると考えられる。その根拠として例えば、前述の1621年(元和七)年の史料『蒲生家分限帳』(弥勒寺本)には、左衛門佐は7800石と記されていることが挙げられ、またその他、以下のような数々の古文書類に岡左衛門佐清長の署名と花押が確認できる。
・『耶麻郡湯達沢新田村佐賀牛右衛門文書』
元和八(1622)年八月の湯達沢新田村の役を免じている文書。(『猪苗代町史』)
・『会津郡芦原村肝煎七左衛門文書』
芦原村と田代村の間での山境をめぐる議論について、元和七(1621)年十月十八日付で蒲生氏の奉行達が署名した文書。
(『新編会津風土記 巻之三十六』)
・『大沼郡八重松村文書』
八重松村と日玉村の水論について、元和七(1621)年八月二十五日付で蒲生氏の奉行達が署名した文書。
(『新編会津風土記 巻之七十二』 )
・『若松原町国安太吉文書』
慶長十九年七月九日付の文書で、兼定という人物に八木十五石、清太郎という鍛冶に五人扶持が与えられたという内容の文書。
(『新編会津風土記 巻之十九』)
これら多くの文書にその名が見え、『蒲生家分限帳』(弥勒寺本)にも「越後守甥」と明記されているので、その実在と関係性には疑いようがない。
(※ただし、その父親については一切不明。)
4.2 岡左衛門佐の妻子
左衛門佐の妻子については唯一、前回の記事で紹介したジョアン・マテウス・アダミの「報告」の中で記述されるものに限られるが記録がある。ここでは、キリシタン迫害を進める夫を持ちながらも内密でキリシタンになった人物と記されている。
左衛門佐の妻は、非常に賢明で分別ある婦人であった。彼女は読み書きができたので、ドチリナ・キリシタン、その他信仰に関する書物が手に入ると、まだ異教徒であったが、強い好奇心と熱意をもってそれらの書物を読み始め、徐々に私たちの信仰に愛情を抱くようになった。[……]この婦人はその夫には内密でキリシタンになった。[……]今やその婦人は、その手本と徳操をもって腰元たちとともに信仰に励んでいる。[……]その夫はすでに妻がキリシタンになったことを知っており、一度は力ずくで、嫌がり泣きじゃくる彼女からコンタツを取り上げたことがあるが、今のところは知らぬふりをし、彼女はデウスへの愛ゆえに、いかなる仕打ちをも甘受する覚悟を決めている。彼女の幼い子供が密かに父親の部屋に行き、コンタツを取り返して深い喜びのうちにそれを母に渡した。
上記の記述から、左衛門佐にはキリシタンとなった妻と幼い子供がいることが分かる。また妻のキリシタン信仰について「今のところは知らぬふりをし」とあることからも、為政者としてではなく、家族としての左衛門佐の人情の一面が垣間見える。
4.3 岡左内の正妻と婦人、息子と娘婿
岡左内の家族についてもアダミの「報告」により数名が明らかになっており、特に妻と婦人に関しては以下のように書かれる。
(かっこ内は筆者による補足。)
(左内は)本妻であるキリシタンの妻を追い出し、その代わりに別の女を娶っていた。この婦人はまだ洗礼を受けていなかったが、この聖なる洗礼を受けることを切望しており、祈りや断食をし、その他の慈善の業を行って、キリシタンのような生活をしていた。とりわけ彼女は、すでに何年もの間……として…仕えていたが、家の世話をし病んだ老人(左内)の看護に尽くす以外余念がなかった。
本妻はその後、司祭の協力により左内が呼び戻し無事和解したと言われ、またこの婦人は本妻侍女となって、それまで受けていた名誉と肩書きを投げ出したので人々に感銘を与えた、と記述されるが、この出来事が後の手段を厭わない強硬的な改宗を引き起こしたという。
というのも、以前に重臣たちが本妻を連れ戻すことを進言してきたが左内は聞き入れなかったのに対し、司祭の時には素直に聞き入れ従ったからである。非キリシタンであった甥の左衛門佐や娘婿の茂兵衛らは、(弾圧の風潮のある中で)このままにしておけば、家臣の反発が起こることや、左内がキリシタンであることが世間にますます知られて領地を追われる可能性を危惧し、当時十二歳であった左内の息子に棄教を承諾する連判状を強要するように迫ったのだと言う。
さて少し本題から逸れてしまったが、これらの記述から、左内には本妻と婦人、子に当時十二歳の子息と、(おそらくその姉であろうか)娘とその婿に茂兵衛なる人物がいることが確認できる。
1622(元和八)年に、当時左内の息子が12歳であったとすれば、その生年は1610(慶長十五)年の生まれとなるので、かなり晩年の子であったのだろうか。また同記録には、娘婿(茂兵衛)も四ヶ月後に病気で亡くなったとある。
また本妻に関しては、明治二十四年刊の『柏原織田家臣系譜』によると「蒲生家臣岡左内妻」として掲載されており、宇多源氏佐々木義賢の四男・高一の三女であるという説があることを示しておきたい。
(篠川直編『柏原織田家臣系譜』「源姓生駒氏」1891年。)
4.4 物語による岡左内の子と孫
次に、以前紹介した杉原彦左衛門の『會津陣物語』やその後、国枝清軒によって編集された『東国太平記』や『武辺咄聞書』による親族の記述について見ていきたい。ここでは、岡左内の子を「左衛門」、その子(左内の孫)を「源五郎」としており、物語によって若干の出来事や記述が異なっているものの、子の名は左衛門で、その子の源五郎は忠知が伊予松山藩に移された時に浪人したことなどは大方共通している。
また同物語に、岡左内出陣の際、我々は常日頃から備えてきたのだから特別な準備は必要ない。むしろ他の者が今、戦準備をしているので、彼らが常日頃楽しんでいた芸能は戦前に嗜む者がおらず、明日終わるかもしれないこの人生なので、戦の前にこそ芸能を楽しむべきだ、と言って役者を呼び、子の左衛門にも能をさせたと書かれてあるので、著者は岡左内の子の名前を明らかに「左衛門」と認識していたことが分かる。
4.5 『蒲生家分限帳』による親族
こちらも既出であるが、1621(元和七)年のものと思われる分限帳に以下の人物が確認できた。
・小姓一番 岡左平次 300石 (左衛門左従弟)
・小姓二番 岡浦右衛門 400石 (左衛門左従弟)
「左衛門左従弟」とあるので、岡左内の子と考えるのが妥当であろう。しかし、この時はまだ左内も存命で「老臣・岡越後守・10000石」と記されているので、もし左内の子であるならば「岡越後守子」などの表記でも良いはずであり、また「左衛門」の名も記されていないことに疑問が残る。
あるいは「左衛門」は左内の甥「左衛門佐」と混同したものかもしれない。
考察・検証の足りない部分も多くあるため、今後気の向いた時に進めることができれば、と思っているが、卒論のために筆者が調べた岡左内の周辺事項の紹介はひとまずここで終了しようと思う。最後に次回、史料や参考文献の記載をしておくので、興味をもった方は調べていただいて、新たな考察や文献などあれば是非コメントに残していただけると有難い。
5. 参考文献とおまけ
5.1 参考文献
・会津若松史出版委員会編『会津若松史 第8巻』会津若松市、1967年。
・会津若松史出版委員会編『会津若松史 第12巻』会津若松市、1967年。
・浅野三平『上田秋成の研究』桜楓社、1985年。
・アーミン・H・クレーラ、エヴェリン・M・クレーラ『会津のキリシタン』会津農村伝道センター、2006年。
・猪苗代町史編さん委員会『猪苗代町史〔第3集〕歴史編』猪苗代町、1982年。・『近江蒲生郡志 巻7』、弘文堂書店、1980年。
・浦川和三郎『東北キリシタン史』日本学術振興会、1957年。
・『近江蒲生郡志 巻8』、弘文堂書店、1980年。
・木村高敦『武徳編年集成 上』名著出版、1976年。
・国書刊行会編『系図総覧』国書刊行会、1925年。
・滋賀県蒲生郡『近江蒲生郡志 巻3』蒲生郡、1922年。
・滋賀県日野町教育委員会編『近江日野町志 上巻』臨川書店、1972年。
・篠川直編『柏原織田家臣系譜』「源姓生駒氏」1891年。
・杉原丈夫、松原信之共編『越前若狭地誌叢書 下巻』松見文庫、1973年。
・高柳金芳『史料徳川夫人伝』人物往来社、1967年。
・平井聖[ほか]編『日本城郭大系 第11巻』新人物往来社、1980年。
・福島県歴史資料館『福島県史料情報 第24号』財団法人福島県文化振興事業団、2009年。
・間島勲『岡左内 主君景勝に軍資金をだした奇人武士』(シリーズ人物検証(16)闘将 直江兼続)、1998年。
・松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第2期 第3巻 (1619年-1625年)』同朋舎出版、1997年。
・溝部脩「学術講演 マテウス・アダミの生涯と会津のキリシタン」『カトリック研究所論集』7号、仙台白百合女子大学カトリック研究所、2002年。
・宮川尚古(黒川真道編)『関原軍記大成4(国史叢書)』国史研究会、1916年。
・矢田俊彦、福原圭一、片桐昭彦『上杉氏分限帳』高志書院、2008年。
・山内強『会津のキリシタン:家臣団の伝道 雪原の殉教』1984年。
・山ノ内岺生『会津文化財 第4号』会津文化財調査研究会、1984年。
・早稲田大学編輯部編『通俗日本全史 第17巻 北陸七国志(馬場信意) 新編東国記,東国太平記(杉原親清撰 国枝清軒重訂)』早稲田大学出版部、1913年。
5.2 おまけ
岡姓の蒲生家臣の一覧表を挙げておく。
天文十八年綿向神社棟札
・岡宗左衛門太秦秀憲
安土浄巌院過去帳
・岡越中守殿心暁正安
天正十五年の綿向神社奉加帳
・岡惣左衛門
・岡藤三
・岡九兵衛
『近江蒲生郡志 巻7』「法興寺」の邸宅跡
・岡宗左衛門
・岡半兵衛重政
・岡源八
・岡孫作
・岡左内
會津分限帳
・岡左内 8000石
・岡半兵衛 4000石
・岡惣左衛門 2000石
・岡市左衛門 2000石
・岡儀太夫 1200石
・岡源之丞 1000石
・岡五郎助 700石
・岡〇〇 700石
・岡爲兵衛 500石
・岡九蔵 500石
・岡助七郎 500石
・岡忠次郎 500石
・岡九兵衛 500石
蒲生家分限帳
役職・記載名・石高(記載事項)
・老臣 岡越後守 10000石
(猪苗代城代)
・老臣 岡左衛門佐 7800石
(越後守甥)
・弓鉄砲右手 岡越中守 1300石
・弓鉄砲右手 岡市左衛門 1500石
・小姓一番 岡左平次 300石
(左衛門左従弟)
・小姓二番 岡左太右衛門 600石
・小姓二番 岡浦右衛門 400石 (左衛門左従弟)
・馬廻り一番 岡助太夫 100石
・馬廻り二番 岡又左衛門 200石
・馬廻り二番 岡七郎左衛門 200石
・馬廻り二番 岡藤蔵 200石
・馬廻り四番 岡留之助 150石
・馬廻り五番 岡源之丞 180石
・馬廻り五番 岡長之助 150石
・馬廻り七番 岡七兵衛 100石
・馬廻り九番 岡次郎左衛門 400石
・馬廻り十番 岡小右衛門 150石
・馬廻り十二番 岡十右衛門 200石
・馬廻り十二番 岡平兵衛 150石
・百騎組 岡清三郎 100石
・百騎組 岡惣兵衛 100石
・百騎組 岡八兵衛 100石
・百騎組 岡清助 130石
【歴史】岡左内の考察まとめ
2024年12月16日。
