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【歴史】幻の山岳城・観音寺城④

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【歴史】幻の山岳城・観音寺城③|赤田の備忘録

さて観音寺城の設備等についてはそろそろ説明を終えて、歴史の面についても触れたい所ではあるが、最後に今回の記事で、数多くの曲輪の中でも目立つ女性名の曲輪である「お茶子」とその伝説や、「和歌」と観音寺城の関係、在地武将の城館について紹介をして締めくくりたいと思う。

・お茶子

以前の記事で、観音寺城の城域は16に区分されると説明をし、その16の区分の中の「お茶子谷筋」に位置する曲輪名に「お茶子」があったことを書いた。

文字の通り、この曲輪は「お茶子の方」という佐々木氏の愛妾であった女性の曲輪であると伝えられ、今もその跡の一部と付近に「お茶子地蔵」と呼ばれる地蔵が現存している。
この女性についての伝説は諸説あるが、大筋は以下のようである。

お茶子は伝説では、観音寺山の東麓、川並村の民家の娘であったが、ある時城主の目に留まり妾となったという。城主の寵愛を一身に受け子をなしたお茶子であったが、これを妬んだ女たちが悪計を企みおとし入れ、城主までも信じてしまったために捕らえられ、ついには殺されてしまったという。
この横死の後、夜な夜なお茶子の忍び泣きする声がかすかに聞こえ、亡霊がさまよったので、この霊を鎮めるためにいつのころか石地蔵がお茶子谷の上、吹越峠に立てられたのだという。

以上がことのあらましであるが、このお茶子という女性に関しては、前述したような川並の民家の娘とか、石塚村の豪族の娘といった具合に様々な伝承があり、実のところは定まっていない。

・お茶子実在について

また以前は、この「お茶子」という女性はあくまで伝説だと考えられていたが、佐々木一族木村氏の人と推測される木村重要(しげよし)の記した『江侍聞伝録』という古記録が発見されたことでその存在に実在の可能性が出てきた。

この記録は1672(寛文十二)年に記録したものであるというが、そこには「お茶子」に関することが連綿として以下のように書き伝えられていたのである。
(※以下は筆者による要約である。)

神崎郡伊庭城主の伊庭下総守の娘を「オシヤ子」といい、屋形(朱色字:義実)の妾に入り寵愛深く、屋形の次男を設けたという。「オシヤ子」は常に自分の息子が当主になることを望んだが、屋形の長男(朱色字:義秀)がいるのでどうしようと考えた所、密かに毒を購入したといい、そしてこれが露見したために牛割きにされてしまった。
これを聞いた父伊庭下総守は激怒し、出仕を止めて籠城する。後詰めを親戚であった岡山城の九里三郎左衛門に頼み、佐々木氏と対立したが、八幡表黒橋にて両者とも打ち取られてしまったという。

また、安土町小中にある正念寺は、六角義実が幼少で亡くなったわが子の徳松丸を弔うために、弘治元年に創建したと伝えられるが、この徳松丸を考証すると義実とお茶子の間に生まれた子供であるらしい。

つまり、伊庭氏は佐々木氏の重臣一族であり、このお茶子の物語は単なる伝説ではなく、実話がいつしか誇張されたものではなかろうかと考えられるのである。
(同書、224-234頁。)

※また、「徳松」は誤りで「篤松」が正しいとする。

・武士と文化

さて次に、少し脱線して、先に紹介した庭園から派生して『近江源氏 1巻 (まぼろしの観音寺城)』の中でも触れられている、武将たちの文化への意識の高さを窺うことができる「和歌」と観音寺城の関わりについても紹介したい。

あまたの将士は、常に高い文化の中に心のうるおいを求めて集団の生活を営んでいた。しかし分解に沈溺して安逸奢侈に流れず、節度を持ち、治にあっても乱を忘れず領国を守るため常に武備に心がけていたものと思う。

(同書、53頁。)

観音寺城における記録として、1551(天文二十)年に当時の当主・佐々木義実が主催となって、多くの武将を集めて歌会を催したことが記録として残っている。
その名も「佐々木武備百人一首」である。

その参加者には、室町幕府将軍の足利義輝を始めとして、畠山義忠、細川晴元、武田義統、朝倉義景、長岡藤孝、京極高吉、木造具教、三好長俊、黒田重隆、浅井祐政などに加え、多くの佐々木家臣が確認でき、当時の武士たちにとって武芸のみならず、教養が必要だったかを読み取ることができる。
(同書、53-54頁。)

・在地武将の城館

観音寺城輩下の旗頭たちの本拠地に数多く見られる城館について補足をしたい。その名称は「掻き上げ城」と呼ばれており、以下のようなものを指す。

掻き上げ城
この城は平地に、おおむね正方形の区画で、外側に幅三間(六メートル)ぐらいの深い濠で一定地域の周囲をかこみ、掘り上げた土砂はみな濠の内側に形を整えて盛り上げ土塁(土手)を造り、その内部を城屋敷として住居その他の建物を立て、二方ないし四方の濠には橋を架け、橋先の土塁に切り通しを設けて、そこには問または木戸を構え、土塁上には竹または篁竹などを植えて一帯を竹藪化し、密生した竹藪を防壁とする中施の築城法による、城砦を兼ねた土豪の居館である。

竹藪を防壁に利用
竹藪は外部からは内部の様子がごく見きわめにくいが、逆に内部からは外部がはっきりと見通せる一種不思議な効果をもっている。[……]敵が侵入しようとしても、竹が密生していると容易に中を潜り抜けられないし、また外から火矢などを放たれた時、障害の役目もつとめる。[……]種類によって弓や、矢竹ともなり、また竹槍などの武器ともなるし、一節を切れば水入れとなる。[……]その他あらゆる方面の生活用具への利用は、いちいち説明するまでもない。竹こそは城に無くてはならない必要物資、生活資源である。

(同書、92-93頁。)

城館と聞けば、堅牢なものを想像しがちではあるが、近江国では生活と一体化して佐々木配下の武将たちは領地を治めていたのである。

さて、観音寺城や配下の城館についてはこの辺りにしておいて、次回からはその歴史、佐々木一族について見ていこうと思う。

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【歴史】観音寺騒動について|赤田の備忘録


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