ショートショート 「私、どろんします」 #アマノ文筆クラブ
「私、どろんします」そう言って君は消えた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、テーブルの上の写真立てを照らしている。ソファの背もたれには、君がいつも羽織っていたカーディガンが無造作に掛けられ、クッションにはまだ君の体温が残っているような錯覚を覚える。
洗面所には歯ブラシが二本、並んだまま。ドライヤーのコードは中途半端に巻かれ、そのまま時間を止めている。冷蔵庫を開ければ、君が好んでいたヨーグルトや、賞味期限の近い豆乳が静かに主張している。
クローゼットには服がぎっしりと詰まっている。香水の微かな残り香が、扉を開けた瞬間に鼻をかすめ、思わず目を閉じた。ベッドの枕元には、読みかけの小説。しおり代わりのレシートには、君との買い物の記憶と記録が残っていた。
理由も告げず、行き先も告げず君は消えた。けれど、どこを見ても君の存在が染みついていて、部屋全体が君の不在を声高に告げている。まるで、魂だけが抜け落ちた抜け殻のように、生活の形だけがそこに残されていた。
「どこに行ったんだ…俺の全財産を持って…」
それから更に三ヶ月が経った…。
警察にも相談した。探偵にも依頼した。けれど、君の痕跡は煙のように掴めず、名前も住所も、すべてが偽りだったようだ。SNSのアカウントは削除され、携帯は解約され、共通の知人もいなかった。まるで最初から存在しなかったかのように、君は僕の世界から「どろん」した。
僕は、かつての生活の残骸を一つずつ処分していった。そしてもう探すのも諦めた…。諦めたけど、街角で君の姿を無意識に探してしまう自分に気づき、思わず笑ってしまう。
「馬鹿は死んでも治らないか…」
そう呟いたが、僕はどこか晴れやかだった。騙されたことよりも、愛したことの方が、まだ少しだけ重かった。そう思うことにした…。
完
(本文743字)
あとがき
甘野充さんの企画『アマノ文筆クラブ』お題「私、どろんします」に参加させて頂きました。
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