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『アスファルトの蜻蛉(かげろう) —— 東京・野良犬たちの協奏曲』...短編小説です。

【紹介文】麻布十番のバーで知り合ったおじさんたちのお話の中の1つが
小説になりそうだったので書いてみました。女でもAIに頼ればこんなものが書けるんです。凄い時代になりましたね。テーマは「末端ピーポーへ夢を」。30年以上も前のお話ですが、かなり事実をいじってます。人物や建物はもちろん架空の存在にしておきました。それと携帯はスマホということにしました。政治や歴史のお話ばかりしていたのでたまには別世界に行ってみたくなりました。でも、私の専門は国際政治なので小説は息抜き程度にしておこうと思っています。それはそうと昭和って楽しそう!

「俺の喉は、武器だ。この声で、冷たい東京の空を切り裂いてやる」
夢を抱いて北の国から上京した男、エイジ。 しかし待っていたのは、「花の都」とは程遠い、冷酷なアスファルトの現実だった。 挫折、貧困、そして孤独。

小説:アスファルトの蜻蛉(かげろう)

「這いつくばってでも生きてやる」

その言葉が、また俺の喉元までせり上がって、苦い胃液と一緒に飲み込んだ。

東京へ来て、もう何年になるだろう。 北の田舎駅、白い息を吐きながら握りしめたボストンバッグの感触は、今でも昨日のことのように手のひらに残っている。あの頃の俺にとって、この街は「花の都」だった。まばゆいネオン、洗練された人々、そして何よりも、無限のチャンスが転がっている場所だと思っていた。

だが、現実は違った。

深夜2時。環状線の高架下。 俺はコンビニの袋をぶら下げて、薄汚れたガードレールに腰掛けていた。 目の前を通り過ぎる高級車。ビルの隙間から見えるタワーマンションの灯り。そのどれもに、俺には手の届かない「値札」がついているように見えた。

「擦り切れたカバンひとつ、か……」

俺は自嘲気味に呟いた。 あの日、バッグに詰め込んだのは着替えなんかじゃなかった。根拠のない自信と、青臭い夢と、故郷への反骨心だけだった。

東京は花など咲かない場所だった。あるのは無機質なアスファルトと、人を値踏みするような冷たい視線だけ。 何度、悔しさに唇を噛んだだろう。 何度、理不尽な頭を下げただろう。

仕事がうまくいかず、上司に罵倒された夜。 なけなしの金で入った居酒屋で、周りの楽しそうな笑い声が耳障りで仕方なかった夜。 「お前には無理だ」と、誰かの声が幻聴のように聞こえる夜。

俺は自分の舌を思い切り噛み切りたくなる衝動を抑え、ただ黙って笑うしかなかった。

ふと、夜空を見上げる。 星など一つも見えない。街の明かりにかき消された、濁った空だ。

俺は自分が、まるで羽の薄い蜻蛉のように思えた。 このコンクリートジャングルの中で、どこへ飛べばいいのかもわからず、ただ必死に羽ばたいているだけの、頼りない存在。

「ああ、幻の蜻蛉よ どこへ……」

口ずさむと、少しだけ鼻の奥がツンとした。 幸せってやつは、どこにあるんだろう。 故郷に残してきたあの景色の中だったのか。それとも、まだ見ぬこの街のどこかにあるのか。

地面に視線を落とすと、アスファルトの裂け目から、名もなき雑草が一本、枯れそうになりながらも生えていた。 踏まれても、排気ガスにまみれても、そこにしがみついている。

俺は飲みかけの缶ビールをあおり、立ち上がった。 足元には、まだあの日のボストンバッグは見えない。 けれど、俺はまだここにいる。 この街の冷たさに負けて、逃げ帰るわけにはいかないんだ。

「お前はどこへ飛んで行く」

夜風に向かって、誰にともなく問いかけた。 答えはない。 ただ、明日もまた、このアスファルトを蹴り上げて生きていくしかない。

俺はポケットに手を突っ込み、猫背を少しだけ伸ばした。 地を這うような暮らしでも、見上げる空だけは、誰のものでもないはずだから。

花の咲かないこの東京(まち)で、俺はもう少しだけ、羽ばたいてみようと思う。

小説:続・アスファルトの蜻蛉 —— 泥だらけの羽

東京に来て、五度目の冬が過ぎようとしていた。

俺の掌(てのひら)は、あの頃よりも少しだけ分厚く、そして汚れていた。 「花の都」なんて言葉は、もう口にすることもない。ここにあるのは、日々の糧を得るための労働と、コンクリートに染み付いた排気ガスの匂いだけだ。

あのボストンバッグは、押し入れの奥で埃を被っている。 中身のなかった俺は、今や身の丈に合ったスーツを着て、愛想笑いも覚えた。理不尽な上司に頭を下げる角度も、いつの間にか完璧になっていた。

「……これでいいのか」

雑踏の中、ふと立ち止まる。 スクランブル交差点の大型ビジョンには、流行りのアイドルが笑顔を振りまいている。誰も彼もがスマホを覗き込み、他人のことになど関心を示さない。

俺は、この街に染まったのだろうか。 「焦げ付くほどに夢見てた」あの輝きを手に入れるどころか、俺自身が、この無機質な街の一部になり下がってしまったんじゃないか。

その時、一陣の風が吹いた。 ビルの谷間を縫うような、冷たくて強い風だ。

「おい、邪魔だぞ!」 背後から舌打ちが聞こえた。俺は無意識に「すみません」と呟き、道の端へ寄る。

情けねえな、と心の中で毒づく。 あの頃、ガードレールに腰掛けて睨みつけた夜景は、今ではただの残業帰りの背景に過ぎない。舌を噛み切るほどの悔しさは、アルコールで薄めて飲み込むことを覚えた。

けれど。

ふと足元を見ると、水たまりに夕焼けが映り込んでいた。 泥水だ。誰かが踏みつけた跡のある、濁った水たまり。 だが、そこには確かに、赤く燃えるような空が映っていた。

俺の心臓が、ドクリと音を立てた。

「まだだ」

口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど低く、熱かった。 ボストンバッグを捨てたわけじゃない。夢を諦めたふりをして、傷つくことから逃げていただけだ。

俺はネクタイを少し緩めた。 この街のルールに従順なふりをしながら、腹の底ではまだ、誰にも媚びない牙を研いでいる。 幸せの形なんて、誰かが決めたショーウィンドウの中にはない。この泥水のような毎日を、這いつくばってでも生き抜いた先にしか、俺の「蜻蛉」は飛んでいないんだ。

「お前はどこへ飛んで行く」

数年前と同じ問いを、今度は自分自身の胸に突きつけた。

明日になればまた、理不尽な朝が来るだろう。 薄っぺらなプライドは何度も傷つけられるだろう。 それでも、俺はこの足で立っている。

俺は顔を上げ、茜色に染まり始めたビルの隙間を睨みつけた。 羽は泥だらけかもしれない。傷だらけでボロボロかもしれない。 だが、飛べないわけじゃない。

「見てろよ……」

俺は雑踏の中へと、再び歩き出した。 以前のような闇雲な歩みではない。 アスファルトを踏みしめるその足音だけが、今の俺の、確かな鼓動だった。

小説:続々・アスファルトの蜻蛉 —— 喉元の導火線

その日、俺は帰宅途中に吸い寄せられるように、裏通りの古びたリサイクルショップへ足を踏み入れていた。

埃っぽい店内。家電や古着の山に埋もれるようにして、一本のアコースティックギターが置かれていた。 ボディには傷があり、弦は錆びかけている。値札には、居酒屋の一回分にも満たない金額が書かれていた。

「……何やってんだ、俺は」

苦笑しながらも、手が勝手に伸びていた。 ネックを握った瞬間、指先が熱くなった。中学校の頃、遊び半分でいじくり回していたあの感触。 俺には、他人に自慢できるような学歴も職歴もない。だが、ガキの頃から一つだけ、誰にも負けないものがあった。

『お前の声は、腹の底に響くんだよ』

悪友にそう言われたことを思い出す。 教わったわけでもないのに、リズムが脈打つように体に刻まれている。デタラメに歌っても、それがメロディになった。ノートの隅に書き殴った詩に節をつければ、周りの連中が妙に静まり返って聞き入ったものだ。

大人になるにつれ、そんなものは「金にならない遊び」だと捨ててきた。 だが、この東京の冷たい風に吹かれ続け、俺の喉はずっと、叫びたがっていたのかもしれない。

俺はそのギターを買って帰った。

狭いワンルームのアパート。 安っぽいチューハイを開け、ギターを抱える。 チューニングを合わせるだけで、数年のブランクが埋まっていく気がした。

ジャラァーン……。

乾いた音が、薄い壁の部屋に響く。 Fコード。Gコード。指が痛い。だが、その痛みが心地よかった。

「あー……」

一度、喉を鳴らしてみる。 腹に力を入れ、声を絞り出す。 自分でも驚くほどの声量だった。部屋の空気がビリビリと震えるのがわかる。 俺の喉には、まだ「怪物」が棲んでいた。 誰にも媚びず、綺麗事も歌わない、野良犬のような怪物だ。

机の上にあったチラシの裏に、ボールペンを走らせた。

『踏みつけられたアスファルト 睨みつけたビルの空』 『擦り切れた鞄に詰めたのは 嘘と強がりと 錆びた夢』

言葉が、堰(せき)を切ったように溢れ出てくる。 今まで飲み込んできた理不尽、悔しさ、惨めさ。それらがすべて「歌詞」という弾丸に変わっていく。

俺はギターを掻き鳴らし、歌った。 隣の住人が壁を叩く音がした。 「うるせえ!」と怒鳴り声も聞こえたかもしれない。 いつもなら縮こまって謝るところだ。

だが、今の俺は止まらなかった。 ギターの音量はさらに上がり、俺の声は夜の闇を切り裂くように咆哮した。

汗が流れ落ちる。心臓が早鐘を打つ。 これだ。俺が探していた「生きている実感」は、ここにあったんだ。

歌い終わった時、俺は肩で息をしながら、震える手で缶チューハイを煽った。 まだ何者でもない。 明日もまた、満員電車に揺られて死んだ顔で働く日々が待っている。 一銭の金にもならない、ただの騒音かもしれない。

それでも、俺はニヤリと笑った。 久しぶりに見た自分の顔は、あの頃のようにぎらついていた。

「へへっ……、悪くねえな」

俺はギターを壁に立てかけた。 それはまるで、戦場へ向かう兵士が銃を置くような仕草だった。 戦いは、これからだ。

小説:路上の狼煙(のろし)

金曜日の夜。新宿駅、南口。 人の波は、まるで巨大な濁流だった。家路を急ぐサラリーマン、派手な服を着た若者たち、観光客。誰もが自分の世界に没頭し、他人のことなど視界に入れていない。

俺は歩道橋の端、邪魔にならない場所に陣取った。 心臓が嫌な音を立てていた。アパートで一人で吠えるのとは訳が違う。ここでは、俺はただの「異物」だ。

ギターケースを開け、足元に置く。 それが「賽銭箱」代わりだ。 通行人の冷ややかな視線が突き刺さる。「何だこいつ」「邪魔だな」。言葉には出さずとも、その目が語っている。 膝が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。

「……やるしかねぇだろ」

俺はギターを抱えた。 マイクもアンプ(拡声器)もない。武器はこの身一つと、リサイクルショップで買った安物のギターだけ。

ジャラン。

喧騒にかき消されそうな、頼りないコード音。 誰も足を止めない。当然だ。 俺は息を吸い込んだ。肺がはち切れんばかりに、夜の空気を吸い込む。

そして、歌い出した。

『拝啓、クソッタレな東京へ!』

その瞬間、俺の喉から放たれた声は、自分でも制御できないほどの熱量を帯びていた。 腹の底から突き上げるような咆哮。 リズムは正確無比だが、その歌い方はまるで、誰かに殴りかかっているようだった。

道ゆく人の何人かが、ビクッとして振り返る。 だが、俺は目を閉じ、アスファルトに向かって叫び続けた。 上手く歌おうなんて気はない。ただ、この胸に溜まった泥のような感情を、音に乗せて吐き出したかった。

『夢見がちなボストンバッグ 蹴り飛ばされた路地裏で 俺たちは何を待ってる?』

サビに入ると、声はさらに太く、鋭くなった。 駅のアナウンスも、車のクラクションも、俺の声が切り裂いていく。 天性のリズム感が、ギターの拙い演奏を補って余りあるグルーヴを生み出していた。

一曲歌い終えたとき、俺は肩で息をしていた。 汗が目に入る。 恐る恐る目を開ける。

拍手はない。 歓声もない。 ほとんどの人間は、またすぐに歩き出していた。 「うるさいな」と舌打ちして通り過ぎるサラリーマンもいた。

現実は、こんなもんだ。 ドラマみたいに、いきなり黒山の人だかりなんてできやしない。

俺は苦笑し、ギターケースを閉めようとかがみ込んだ。 その時だ。

チャリン。

乾いた金属音がした。 見ると、ギターケースの中に、一枚の100円玉が転がっていた。

顔を上げると、ヨレヨレのスーツを着た、くたびれた中年男が立っていた。 男は何も言わなかった。ただ、深く疲れた目で俺を一瞥し、小さく頷くと、また雑踏の中へと消えていった。

たったの100円。缶ジュース一本も買えない金だ。 だが、その硬貨は、街灯の光を反射して、どんな宝石よりも輝いて見えた。

俺の歌が、誰かに届いた。 この巨大なコンクリートジャングルの中で、たった一人、名も知らぬ誰かの足を止めさせたんだ。

震える手で100円玉を握りしめる。 冷たい硬貨の感触が、掌(てのひら)から全身へと熱く広がっていく。

「……ありがとな」

誰にも聞こえない声で呟いた。 これが、俺のプロとしての「初ギャラ」だった。 そして、この夜の冷たい風と、たった一枚の硬貨が、俺の音楽人生の始まりを告げる狼煙(のろし)となった。

俺は再びギターを構えた。 今度は、さっきよりも強く、深く、アスファルトを踏みしめて。

小説:野良犬たちの協奏曲(コンチェルト)

路上に立って一ヶ月が過ぎた。 俺のギターケースに入る小銭は、相変わらずジュース代にも満たない日の方が多い。それでも、俺は毎晩あのアスファルトの上に立っていた。誰かのためじゃない。叫ばなければ、自分が自分でなくなってしまいそうだったからだ。

その夜、いつもの「俺の場所」には、先客がいた。

革ジャンに、金髪。歳は俺より一回り下だろうか。 生意気そうな目をした若者が、高そうなギブソンのギターを抱えて座り込んでいた。 俺の安物のギターとは、艶も音の響きもまるで違う。彼が爪弾くブルースは、生意気なほど洗練されていて、指先がフレットの上を滑らかに踊っていた。

「……おい、そこは俺が使ってる場所だ」

俺は声をかけた。若者は演奏を止めず、横目で俺を睨んだ。

「道路に名札でも付いてんのかよ、おっさん」 「毎日そこで歌ってるんだ。あっちへ行きな」 「嫌だね。ここは音がよく響く。実力のある奴が立つべきだろ?」

若者は挑発的に笑い、ジャラリと派手なコードを鳴らした。 カチンときた。 俺の頭の中で、何かが切れる音がした。

「実力だ……?」

俺は無言でギターケースを置き、自分のギターを取り出した。 若者の目の前、わずか2メートルほどの距離に立つ。 マイクなんてない。アンプもない。 あるのは、この錆びついた喉だけだ。

「上等だ。どっちが『響く』か、試してみようじゃねえか」

若者が鼻で笑い、アップテンポなリフを弾き始めた。速い。巧い。道行く数人が「おっ」と足を止める。 だが、俺は動じなかった。 俺は目を閉じ、腹の底に溜まったマグマを一気に噴火させた。

『ウォオオオオオッ!!』

歌詞ですらない。ただの咆哮だ。 だが、その一撃で、若者のギターの音が空気に飲み込まれた。 驚いた若者が一瞬手を止める。その隙を逃さず、俺はギターを叩きつけるように弾き語り始めた。

『綺麗な指で 何を弾く! 傷のない手で 何を掴む!』

即興の歌詞だった。 俺のコード進行は単調だ。C、G、Am、F。中学レベルの単純な繰り返し。 だが、声の圧力が違う。アスファルトを振動させ、ビルの壁を殴りつけるような声だ。

若者も負けじと、複雑なギターソロを被せてくる。 俺の歌を邪魔し、かき消そうとする音。 だが、不思議なことが起きた。

俺の土着的なリズムと、若者の洗練されたテクニックが、反発しながらも奇妙に絡み合い始めたのだ。 殴り合いのようなセッション。 俺が吠えれば、奴が泣きのギターで返す。奴が速弾きすれば、俺が重い低音でねじ伏せる。

気がつけば、周りには10人ほどの人垣ができていた。 誰も立ち去ろうとしない。 俺たちの殺気立った音が、冷めた都会人の足を縫い止めていたのだ。

「……ハァ、ハァ……!」

曲が終わった瞬間、静寂が落ちた。 拍手はない。ただ、周りの空気だけが熱を帯びていた。

遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。 無許可の路上ライブだ。誰かが通報したのだろう。

「チッ、水入りかよ」

若者が舌打ちをし、素早くギターを片付け始めた。俺も慌ててケースを背負う。 二人は目も合わせず、左右反対方向へと走り出した。

雑踏に紛れる直前、若者が一度だけ振り返った。 その目は、もう俺を「おっさん」とは見ていなかった。 敵意と、ほんのわずかな敬意(リスペクト)が混ざった、野良犬同士の目だった。

「……名前、聞いてなかったな」

俺は走りながら呟いた。 息が切れる。足が重い。今日稼いだ金はゼロだ。 だが、ギターを背負った背中だけは、来る時よりも熱かった。

この街には、俺と同じように牙を研いでいる奴がいる。 馴れ合いなんていらない。だが、孤独ではない。 そう思えただけで、今夜の寒さが少しだけマシに思えた。

俺は闇に溶け込むように、新宿の路地裏へと消えていった。 もっと深く、もっと暗い場所へ。 そこには、まだ俺の知らない「夜の世界」が口を開けて待っているとも知らずに。

小説:野良犬たちの協奏曲(コンチェルト)—— 第二楽章:沈殿する夜

パトカーのサイレンが遠ざかるのを確認し、俺は新宿ゴールデン街の狭い路地へと滑り込んだ。 湿った空気。腐った生ゴミと、安酒の混じった匂い。 表通りの華やかさとは無縁の、東京の「内臓」のような場所だ。

「ハァ、ハァ……」

息を整えながら、ギターケースを抱え直す。 今日は散々な夜だ。稼ぎはゼロ。警察には追われ、謎の若造と喧嘩のようなセッションをしただけ。 だが、不思議と気分は悪くなかった。あの若造とのヒリつくような音のぶつかり合いが、まだ指先に残っていたからだ。

「おい、兄ちゃん」

不意に、背後から声をかけられた。 ドクリ、と心臓が跳ねる。警察か? それとも、この界隈を仕切る怖い人たちか?

ゆっくりと振り返ると、そこには一人の女が立っていた。 派手な化粧に、季節外れの薄着。紫煙をくゆらせながら、品定めするような目で俺を見ていた。

「……何か用か?」 「あんたでしょ。さっき南口で、生意気な小僧とやり合ってたのは」

見ていたのか。 俺は警戒しながら頷いた。

「だったらどうする? 通報でもするか?」 「バカ言わないでよ。アタシがそんな暇人に見える?」

女はフッと笑い、吸いかけのタバコを路上に捨て、ヒールで踏み消した。

「いい声だったわよ。久しぶりに、毛穴が開くような歌を聞いた」 「……どうも」 「で、どうせ金なんて持ってないんでしょ?」

図星を突かれ、俺は口ごもる。 女は胸元の開いたドレスのポケットから、くしゃくしゃになった千円札を一枚取り出し、俺の胸に押し付けた。

「これで一杯ひっかけな。あたしの店、すぐそこだから」

女が指差した先には、『スナック 蜻蛉(かげろう)』という小さな看板が、切れかけた電球でチカチカと点滅していた。

「……なんで、俺に?」 「野良犬には、野良犬の匂いがするからよ。あたしも、昔は歌手になりたくて田舎から出てきた口だからね」

女は寂しげに笑うと、「アケミ」と名乗り、店の中へと消えていった。

手の中の千円札。 それは、さっきの100円玉とはまた違う重みを持っていた。 同情か、気まぐれか。だが、この街の底で生きる人間の体温が、そこにはあった。

俺は少し迷ったが、意を決してその古びたドアを開けた。 カウンターだけの狭い店内。客はいない。 有線放送からは、流行りの歌謡曲が流れている。

「いらっしゃい。適当に座って」

アケミはカウンターの中で、グラスを磨いていた。 俺は一番端の席に座り、ギターケースを足元に置いた。

「歌っていいわよ」 「え?」 「客もいないし、退屈してたのよ。あんたの歌、もっと聞かせてみなさいよ。ここなら警察も来ないわ」

俺は苦笑し、再びギターを取り出した。 防音なんてない、ボロいスナック。 だが、そこは俺にとって、東京に来て初めて与えられた「ステージ」だった。

俺はアケミに向かって、静かに歌い始めた。 激しい咆哮ではない。 夜の街に沈殿する、行き場のない悲しみを掬い上げるような、優しいブルースを。

アケミがグラスに注いでくれた琥珀色の液体が、安っぽい照明を浴びてキラキラと輝いていた。 俺たちは、言葉を交わす代わりに、音楽と酒で夜を溶かしていった。

これが、俺が「夜の住人」たちと深く関わっていくことになる、長い夜の始まりだった。

小説:野良犬たちの協奏曲(コンチェルト)—— 第三楽章:帝王の影

アケミの店に通い始めて、一週間が経っていた。 俺は毎晩のように売れ残りのつまみをかじりながら、カウンターの隅でギターを弾いていた。客のいない時間は練習、酔っ払いが来ればBGM。そんな生活だ。

「あんた、もっとマシな服ないの? ずっと同じジャンパーじゃない」 「余計なお世話だ。これが一番落ち着くんだよ」

アケミとそんな軽口を叩き合っていた、深夜一時過ぎのことだった。

カラン……。

重い木のドアが開く音がした瞬間、店内の空気が凍りついた気がした。 入ってきたのは、初老の男が一人。 仕立ての良いダークグレーのスーツ。白髪混じりの髪をオールバックにし、その瞳は深海のように暗く、静かだった。

アケミの顔色が変わった。 俺は彼女がこれほど慌てて、そして背筋を伸ばすのを見たことがなかった。

「と、富田さん……! いらして下さったんですか」

富田と呼ばれた男は、小さく頷いただけだった。 その所作一つ一つに、無駄がない。俺のようなチンピラ崩れとは違う、本物の「力」を持った人間特有のオーラが漂っていた。

男はカウンターの中央に座ると、指を二本立てた。アケミが震える手で、最高級のブランデーのボトルを取り出す。普段は店の棚の飾りにしかなっていない酒だ。

俺はギターを抱えたまま、動けずにいた。 蛇に睨まれた蛙、という言葉があるが、今の俺はまさにそれだった。男は俺を一瞥もしない。視界にすら入っていないかのように振る舞っているが、その背中が発する圧力が、俺の喉元を締め付けてくる。

「……歌え」

低い声だった。 命令ではない。だが、逆らうという選択肢が最初から存在しないような、絶対的な響きがあった。

「え?」 「聞こえなかったか。歌えと言っている」

富田はグラスを揺らしながら、氷の音を楽しんでいるようだった。 アケミが俺に目配せをする。『早く歌いなさい』という必死の形相だ。

俺は乾いた唇を舐め、ギターを構えた。 指が震える。新宿の路上でヤジを飛ばされた時よりも、何倍も怖い。 この男の前で、半端な真似はできない。直感がそう告げていた。

俺は覚悟を決め、コードを鳴らした。 選んだのは、一番激しい、魂を削るようなナンバーだ。

『赤坂見附のネオンの海で 溺れかけた夢を見たか!』 『嘘と欲望の不夜城で 俺たちは何を売り渡す!』

偶然だった。歌詞の中に「赤坂」や「不夜城」という言葉が混じったのは、俺が以前、日雇いのバイトで赤坂の街を彷徨った時の記憶がフラッシュバックしたからだ。

富田の手が、ふと止まった。

俺は声を枯らし、叫び続けた。 この男のまとっている高価なスーツを、俺の泥だらけの声で汚してやりたい。そんな衝動に駆られていた。

曲が終わると、富田はゆっくりとグラスを煽った。 沈黙が痛い。

「……誰が書いた」 「俺です」

富田は初めて俺の方を向いた。 その目は、値踏みをするような冷徹さと、奇妙な熱気を帯びていた。

「『不夜城』……か」

富田は懐から一枚の名刺を取り出し、カウンターの上に滑らせた。 そこには、『クラブ 不夜城』『マイヤーランスキー』という店名と、代表取締役 富田幸男 の文字だけがシンプルに刻まれていた。

「俺は赤坂でいくつか店をやっている。マル暴の連中からは『赤坂の闇の帝王』なんて大層なあだ名で呼ばれているらしいがな」

富田は自嘲気味に笑ったが、目が笑っていなかった。

「兄ちゃん。お前の歌には、血の匂いがする」 「血……?」 「綺麗事じゃない。生きるか死ぬかの瀬戸際で、もがいている奴の匂いだ。……嫌いじゃない」

富田は立ち上がると、アケミに札束を数枚、無造作に置いた。釣りはいらない、という意味だろう。

「アケミ、いい拾い物をしたな。だが、この街の泥水に漬けておくには、少しばかり惜しい喉だ」

富田は俺の横を通り過ぎざま、耳元で囁いた。

「喉が渇いたら、赤坂へ来い。極上の酒と、地獄を見せてやる」

それだけ言い残し、富田は夜の闇へと消えていった。 残されたのは、甘いコロンの香りと、カウンターの上の名刺。 そして、全身の力が抜けて椅子にへたり込んだ俺とアケミだった。

「……とんでもない客が来たわね」

アケミが深い溜息をついた。 俺は震える手で、その名刺を拾い上げた。 紙切れ一枚なのに、鉛のように重かった。

赤坂、富田幸男。 俺の運命の歯車が、巨大な力によって無理やり回され始めた音が聞こえた気がした。

小説:野良犬たちの協奏曲(コンチェルト)—— 第四楽章:同郷の傷跡

富田が去った後も、店の中には張り詰めた緊張感が漂っていた。 俺はカウンターに置かれた名刺を見つめたまま、動けずにいた。

「……アケミさん。あの人は、何者なんだ?」

ようやく絞り出した声は、掠れていた。 アケミはブランデーをグラスに注ぎ、一気に飲み干してから、ふうっと長い息を吐いた。

「今の姿からは想像もつかないでしょうけどね……あの人も、昔はあんたと同じだったのよ」

「俺と同じ?」

「そう。二十の時だったかしら。宇都宮の高校を中退して、逃げるように上京してきたって聞いたわ」

アケミは遠くを見るような目をした。 俺の脳裏に、さっきの圧倒的なオーラを放つ男の姿と、薄汚れたボストンバッグを抱えた青年の姿が重なる。

「最初は建設現場の飯場(はんば)に入って、泥まみれになって働いてたんだって。その後もトラックの運転手や、油と煤(すす)にまみれる町工場……。とにかく、生きるために何でもやったそうよ」

意外だった。 生まれついての「帝王」だと思っていた男が、俺以上に底辺を這いつくばっていたなんて。

「それにね、富田さん、昔は全然喋らなかったらしいの」 「なんでだ? 不気味さを出すためか?」 「違うわよ。……訛(なま)りよ」

アケミは少し寂しそうに笑った。

「田舎の言葉を笑われるのが死ぬほど嫌で、口を閉ざすようになったんだって。バカにされるたびに、拳を握りしめて、奥歯が砕けるほど悔しさを噛み殺して……。今のあの静かな迫力は、その時に培われたものなのよ」

俺は自分の奥歯を無意識に噛み締めていた。 東京の人間たちの、あの冷ややかな視線。「田舎者が」という無言の嘲笑。 俺が何度も味わってきた屈辱を、あの男も味わっていたのか。

「『俺の体は、アスファルトと泥でできている』……酔った時に一度だけ、そう言ってたわ」

アケミは俺のグラスに、富田が残していった高級ブランデーを注いだ。

「だから、あんたの歌に反応したのよ。血の匂いっていうのは、そういうこと。あんたの中に、昔の自分を見たのかもしれないわね」

俺はグラスを手に取った。 芳醇な香りがする。だが、喉を通る液体は、どこか鉄の味がする気がした。

俺は名刺をポケットにねじ込んだ。 今すぐ赤坂に行けば、何か変わるかもしれない。 だが、今の俺が行ったところで、富田は俺を認めないだろう。 俺はまだ、何も成し遂げていない。ただ吠えているだけの野良犬だ。

「……行くのかい?」

ギターケースを背負って立ち上がった俺に、アケミが声をかけた。

「ああ。まだ歌い足りないんだ」 「赤坂には行かないの?」 「行くさ。……でも、今じゃない。あの人の前に立っても恥ずかしくないくらい、もっと泥水を啜(すす)ってからだ」

俺はニヤリと笑ってみせた。強がり半分、本気半分だ。

店を出ると、冷たい夜風が頬を打つ。 だが、もう寒さは感じなかった。 ポケットの中の名刺が、カイロのように熱を発している気がしたからだ。

「見てろよ、東京……」

俺は新宿駅の方角へ歩き出した。 宇都宮から逃げてきた少年が、赤坂の帝王にまで登り詰めた。 なら、北の果てから来た俺にだって、できないはずはない。

俺の足取りは、来る時よりも強く、地面を蹴り上げていた。 待っていろ、富田幸男。 いつかあんたの店で、あんたが隠してきたその「訛り」が出るくらい、魂を揺さぶる歌を歌ってやる。

小説:野良犬たちの協奏曲(コンチェルト)—— 第五楽章:砕かれた翼、繋がる絆

スナック『蜻蛉』を出て数日後。 俺は歌舞伎町の外れ、人通りの少ないガード下にいた。 表通りは警察の巡回が厳しくなり、追い出されてしまったのだ。

「ケッ、ここじゃ誰も通りゃしねえ」

腐りかけた気分を紛らわせるように、俺はギターを掻き鳴らした。 その時だった。

「おい、兄ちゃん。許可取ってんのか?」

ドスの効いた声。 見上げると、チンピラ風の男が三人、俺を囲んでいた。 目が据わっている。この辺りを縄張りにしているヤクザの下っ端だろう。

「……ただ歌ってるだけだ。場所代がいるような土地じゃねえだろ」 「あぁ? 生意気な口きくんじゃねえぞ!」

リーダー格の男が、俺の胸ぐらを掴み上げた。 酒臭い息がかかる。

「商売の邪魔なんだよ。失せな」 「断る。俺にはここしかねえんだ」 「ほぉ、威勢がいいな。なら、その商売道具、いらねえよな?」

男が俺の手からギターを奪い取ろうとする。 「やめろ!」 抵抗しようとした瞬間、腹に重い蹴りが入った。 息が詰まり、俺はその場にうずくまった。

「へへっ、いい音しそうなギターじゃねえか」 男がギターを高く振り上げる。 地面に叩きつけられる。 俺の、唯一の相棒が。

「やめろぉおおお!!」

俺が叫んだ、その時だった。

ゴッ!!

鈍い音がして、ギターを持っていた男がよろめいた。 誰かが横から飛び蹴りを食らわせたのだ。

「……ダサい音出してんじゃねえよ、下手くそ」

聞き覚えのある、生意気な声。 金髪。革ジャン。 あの時の、ギブソンの若者だった。

「テメェ、何だ!?」 チンピラたちが若者に襲いかかる。 「逃げろ! おっさん!」

若者が叫ぶと同時に、俺の手を引いて走り出した。 ギターをひったくり、俺たちは夜の新宿を全力疾走した。 怒号が背後から聞こえる。だが、迷路のような路地裏を熟知しているのか、若者の足取りは軽かった。

数分後。 とあるビルの屋上にたどり着き、俺たちは大の字になって息を切らせていた。

「ハァ……ハァ……、なんで、助けた?」

俺が問うと、若者はタバコを取り出しながら鼻で笑った。

「勘違いすんな。あんな雑音の中で、お前の下手くそな歌が終わるのが気に入らなかっただけだ」

若者はタバコに火をつけ、紫煙を夜空に吐き出した。

「俺はケンジ。……お前は?」 「……エイジだ」 「ふん、古臭い名前だな」

ケンジは悪態をつきながらも、どこか楽しそうだった。 俺は自分のギターを確認した。ボディに小さな傷が増えていたが、音は出る。 ホッと胸を撫で下ろす。

「なぁ、エイジ」 ケンジが不意に真剣な目で俺を見た。

「俺とお前で、組まねえか?」

「は?」

「俺のテクニックと、お前のそのデタラメな声。……混ぜたら、面白いことになる気がしねえか?」

意外な提案だった。 だが、あの夜のセッションを思い出す。 水と油。氷と炎。 絶対に交わらないはずの二つがぶつかり合った時の、あの爆発的な熱量。

俺はニヤリと笑った。

「俺は協調性ゼロだぞ。お前の洒落たギターに合わせる気はねえ」 「上等だ。俺も合わせる気なんかさらさらねえよ。どっちが生き残るか、ステージの上で殺し合いだ」

ケンジが拳を突き出してきた。 華奢で白い手。俺のゴツゴツした汚れた手とは大違いだ。 だが、その拳には、俺と同じ「渇き」があった。

俺は自分の拳を、強引にぶつけた。

「いいだろう。付き合ってやるよ、クソガキ」

新宿の空には、相変わらず星は見えなかった。 だが、ビルの屋上の風は、今までで一番心地よく感じられた。 野良犬二匹。 これから始まる快進撃、あるいは破滅への序曲が、静かに鳴り響いていた。

小説:野良犬たちの協奏曲(コンチェルト)—— 第六楽章:帝王の棲む城

俺とケンジが組んでからの新宿は、少しだけ色を変えた。 「エイジ&ケンジ」なんてふざけたユニット名はない。俺たちはただ、並んで音を出すだけの関係だ。 だが、その「音」は確実に熱を帯びていた。

俺のドスの効いたボーカルと、ケンジの泣きのギター。 反発し合うはずの二つの音が、夜気の中で奇妙に融合し、道ゆく人々の足を釘付けにした。

「おいおい、今日は千円札が入ってるぜ」 ケンジがギターケースの中身を見てニヤつく。 「端した金だ。……行くぞ、ケンジ」 「ああ? どこへだよ」 「赤坂だ」

俺はギターケースを乱暴に閉じた。 「小銭稼ぎはもう終わりだ。……本丸に殴り込みに行くぞ」


赤坂見附。 新宿の喧騒とは違う、洗練された大人の夜の匂いがする。

俺たちが向かったのは、富田の店ではなく、彼がプライベートのオフィスとして使っているという場所だった。 赤坂レジデンシャルホテル。 TBSの目と鼻の先にそびえ立つ、茶色いタイル貼りの重厚な建物だ。

「へぇ……ここがウワサの」 ケンジが口笛を吹く。 「知ってんのか?」 「ああ。昔は高級ホテルだったらしいぜ。今は分譲マンションになってるが、田倉健とか四田佳子とか、とんでもねえ大物がセカンドオフィスを持ってるって話だ」

エントランスを抜けると、昭和のバブル期を思わせる独特の高級感が漂っていた。 富田はこの一等地の部屋を、10部屋以上も所有しているという。まさに「帝王」の城だ。

エレベーターで最上階近くへ上がる。 廊下を歩いていると、一つの部屋のドアが開き、サングラスをかけた初老の女性と、うなだれた若い娘が出てきた。

女性は俺たちのことなど目に入らない様子で、部屋の中に向かって深々と頭を下げていた。 「ゆきおちゃん、本当にありがとう。このバカ娘も、これに懲りて二度と……」 「いいんですよ。若いうちは誰だって道に迷う。……しっかり見守ってやってください」

部屋の奥から聞こえたのは、あの富田の声だった。 女性と娘が去った後、俺たちは呆然と立ち尽くしていた。 あの女性、間違いなく国民的大女優だ。そしてあの娘は、最近週刊誌で薬物疑惑が騒がれていたドラ娘だ。

「……揉み消したのか?」 ケンジが小声で囁く。 「いや、違う」 俺にはわかった。あれは「救った」のだ。 道を踏み外しそうになった若造を、裏社会の力ではなく、人としての器量で泥沼から引き上げた。そんな空気が漂っていた。

「そこにいるのは誰だ」

部屋の中から、鋭い声が飛んだ。 俺たちは覚悟を決め、開かれたドアの中へと足を踏み入れた。

広いリビングには、革張りのソファと、壁一面のモニター。そして窓の外には、赤坂の夜景が広がっていた。 富田は窓際に立ち、タバコをくゆらせていた。

「新宿の野良犬が、何の用だ」 富田は振り返りもせずに言った。

「吠えに来ました」 俺は短く答えた。 「一人増えたようだな」 富田がゆっくりと振り返り、ケンジを見た。 「こいつはケンジ。俺の……まあ、相棒みたいなもんです」 「へっ、誰が相棒だ」 ケンジが憎まれ口を叩くが、その足は微かに震えていた。富田の放つ覇気が、新宿のチンピラとは次元が違うことを肌で感じているのだ。

「赤坂レジデンシャルホテル……いい城ですね」 俺は部屋を見渡して言った。 「ここには、あんたに救われた人間が何人来るんですか? さっきの女優の娘みたいに」

富田の眉がピクリと動いた。 「……余計な詮索は寿命を縮めるぞ。俺はただ、宇都宮から出てきた頃の惨めな自分を、迷っている若者たちに重ねているだけだ」

富田は吸っていたタバコを消し、ソファに深く腰掛けた。 その目は、かつて飯場で泥にまみれ、訛りを笑われて唇を噛み締めていた少年の目に戻っていた。

「それで? ここまで来たからには、ただの挨拶じゃあるまい」 富田が俺たちを射抜くように見据えた。

「俺たちの歌を、買ってください」

俺はギターケースを開けた。ケンジも無言で愛機・ギブソンを取り出す。 アンプはない。防音完備の高級マンションの一室。生音が響くには最高の環境だ。

「もし俺たちの歌が、あんたの魂を1ミリでも揺らせたら……あんたの店で歌わせてください」

富田は無言でグラスを手に取り、琥珀色の液体を揺らした。 「……やってみろ。つまらなければ、この窓から突き落とす」

冗談に聞こえなかった。 俺とケンジは目を見合わせた。 合図はいらない。俺たちの呼吸は、もうあのアスファルトの上で一つになっていた。

「ワン・ツー!」

ケンジのカッティングが、静寂な部屋の空気を切り裂く。 俺は大きく息を吸い込み、腹の底にあるマグマを解放した。

『ビルの隙間 見上げた空は 誰のものだ!』 『泥にまみれた翼でも 飛べると信じた バカな夜!』

俺たちの「牙」が、赤坂の帝王の喉元へ突き刺さる。 これが、俺たちの挨拶だ。

小説:野良犬たちの協奏曲(コンチェルト)—— 第七楽章:不夜城の狼たち

赤坂レジデンシャルホテルの一室。 窓の外には東京タワーの灯りが滲んで見えた。

俺とケンジは、最後のコードをジャラァーン……とかき鳴らし、肩で息をした。 全力を出し切った。指先がジンジンと痺れている。 広いリビングには、まだ俺たちの放った熱気が渦巻いていた。

富田は、目を閉じたまま動かなかった。 手にしたブランデーグラスの氷が、カランと音を立てて溶けた。

沈黙が痛い。 ケンジが不安そうに俺の方を見る。俺は汗だくのまま、富田の背中を睨みつけていた。 ダメだったのか? 所詮、路上の音楽はここまでなのか?

「……四田さんの娘はな」

不意に、富田が口を開いた。 重く、低い声だった。

「クスリに手を出し、悪い男に騙され、ボロボロになって俺のところへ逃げ込んできやがった。……かつて、行き場を失って震えていた俺と同じようにな」

富田はゆっくりと立ち上がり、窓ガラスに映る自分自身の顔を見つめた。

「俺はこのマンションに、迷い込んできた人間を何人も匿(かくま)ってきた。隣のオフィスには、あの名優・田倉健さんもいる。ここは、表の世界で戦い疲れた人間が羽を休める止まり木でもあるんだ」

富田が振り返った。 その瞳は、もう冷徹な支配者のものではなかった。 かつて宇都宮から飛び出し、泥水を啜りながら這い上がってきた「富田幸男」という一人の男の熱い眼差しが、そこにあった。

「合格だ」

短い言葉だった。だが、それはどんな賞賛よりも重く響いた。

「お前たちの歌には、泥と傷跡がある。それは、ここ赤坂に集まる着飾った連中が、一番忘れてしまったものだ」

富田はサイドテーブルにあった黒いカードキーを放り投げた。ケンジが慌ててそれを受け取る。

「今夜だ。俺の店『不夜城』へ来い。……トリを用意してやる」


赤坂・クラブ『不夜城』

そこは、まさに別世界だった。 重厚なマホガニーの扉を開けると、煌びやかなシャンデリアと、紫煙の向こうに蠢く黒服たちの姿があった。 客席には、テレビで見る政治家、有名企業の社長、そして鋭い眼光を放つ本職の男たちが、高級酒を片手に談笑している。

「おいおい、マジかよ……」 ケンジが喉を鳴らす。足が震えているのがわかった。無理もない。ここは新宿の路上とはわけが違う。失敗すれば、東京湾に沈められても文句は言えない場所だ。

「ビビってんのか、ケンジ」 「バッ、バカ言え! 武者震いだ!」

俺たちはステージ袖でスタンバイしていた。 俺たちの衣装は、いつもの汚れたジャンパーとジーンズ。黒いスーツで固めたバンドマンたちの中で、俺たちは明らかに異質だった。

「次は、オーナー富田の推薦。新宿からの刺客……エイジ&ケンジ!」

司会の声が響き、スポットライトがステージ中央を照らす。 まばらな拍手。怪訝そうな視線。「なんだあの汚い連中は」という囁き声が聞こえる。

俺はステージの真ん中に立ち、マイクスタンドを握りしめた。 アンプを通したハウリング音が、会場の空気を引き裂く。

客席の奥、VIP席に富田の姿が見えた。 彼はブランデーグラスを掲げ、ニヤリと笑った。 『やってみろ』という合図だ。

俺はケンジを見た。 こいつとなら、どこへだって行ける。 俺たちは頷き合い、同時に音を放った。

『ようこそ! クソッタレで最高な、夜の底へ!』

ケンジのギブソンが、今までで一番鋭い音色で泣き叫ぶ。 俺の声が、巨大なスピーカーを通して、赤坂の夜を振動させる。

政治家がグラスを止めた。 ヤクザが身を乗り出した。 ホステスたちが目を見開いた。

俺たちの「狼煙(のろし)」が、ついにこの不夜城で燃え上がった瞬間だった。

小説:野良犬たちの協奏曲(コンチェルト)—— 第八楽章:プラスチックの首輪

『不夜城』でのライブから一ヶ月。 俺たちの名は、赤坂の夜の住人たちの間で密かに囁かれるようになっていた。「喉にドスを隠し持った男たちがいる」と。

そんなある日、富田を通じて一人の男が接触してきた。 **葛城(かつらぎ)**と名乗るその男は、日本最大手のレコード会社『帝都ミュージック』の敏腕プロデューサーだった。

場所は青山の高層ビルの最上階。 床は大理石、壁は一面ガラス張り。俺たちが住むアパートが何百個も入りそうな、広くて無機質な応接室だ。 俺とケンジは、ふかふかのソファに居心地悪く座っていた。

「素晴らしい……本当に素晴らしい声だ」

葛城は、薄い金縁メガネの奥で目を細めた。 仕立ての良いイタリア製のスーツ。手首には高級時計。爪の先まで磨き上げられた、いかにも「業界の成功者」という風貌だ。

「単刀直入に言おう。君たちをデビューさせたい。契約金は……これだ」

提示された書類には、俺たちが一生かかっても拝めないような桁の数字が並んでいた。 ケンジがゴクリと喉を鳴らす。 だが、俺の本能が警報を鳴らしていた。この部屋の空気は、あまりにも綺麗すぎる。俺たちの肺には合わない。

「条件がある」 葛城は、冷ややかな微笑みを浮かべて続けた。

「まず、その汚い格好をやめろ。スタイリストをつける。アイドルとまでは言わんが、もう少し清潔感が欲しい」

俺は黙って聞いていた。

「次に、歌詞だ。君の書く詩は……少々、泥臭すぎる。『死にたい』とか『クソッタレ』とか、今の若者にはウケないんだよ。もっとこう、普遍的な『愛』や『希望』を歌ってもらいたい。作詞家はこちらで一流を用意する」

「……俺の言葉じゃ、ダメだってことか?」 俺は低い声で聞いた。

「ダメとは言わん。だが、売れるためには『洗練』が必要なんだよ。原石は磨かなきゃ光らない」

葛城は、まるで物分かりの悪い子供に言い聞かせるように肩をすくめた。 そして、一番言ってはいけない言葉を口にした。

「最後に……そこの彼だ」 葛城の視線が、ケンジに向けられた。

「ギターはプロのスタジオミュージシャンを使う。君の隣に並ぶには、彼は少々……華がないし、技術も荒削りだ。悪いが、今回はエイジ君、君一人のソロデビューということで話を進めたい」

部屋の空気が凍りついた。 ケンジが俯き、膝の上で拳を握りしめているのがわかった。

「……そうですか」 俺はゆっくりと立ち上がった。 「洗練された衣装。プロが書いた綺麗な歌詞。そして、上手いバックバンド……」

「わかってくれたかね? これがスターへの最短ルートだ」 葛城が満足げに契約書とペンを差し出した。

俺はその契約書を手に取り、 ビリッ!!!! 真っ二つに引き裂いた。

「なっ……!?」 葛城が目を見開く。

「勘違いすんなよ、アンタ。俺は磨けば光る宝石なんかじゃねえ」 俺は破り捨てた紙切れを、大理石の床にばら撒いた。

「俺はただの石ころだ。泥にまみれて、傷だらけで転がってる、路傍の石っころだ! 洗っても磨いても、泥の匂いは消えねえんだよ!」

「き、君! この金額を棒に振る気か!?」

「金で買える魂なら、とっくに新宿のドブに捨ててきた! 俺の歌は、俺の言葉でしか歌えねえ。そして……」

俺はケンジの肩を乱暴に掴んで立たせた。

「俺の横でギターを弾けるのは、この生意気で手癖の悪いクソガキだけだ。上手いだけの『操り人形(プロ)』なんざ興味ねえ!」

「おい、エイジ……」 ケンジが驚いた顔で俺を見る。

「行くぞ、ケンジ。ここは空気が薄くて息が詰まる。……俺たちの居場所は、こんなプラスチックの箱の中じゃねえ」

「……へっ、違げえねえ」 ケンジがニヤリと笑い、葛城に向かって中指を立てた。

「二度とツラ見せんじゃねえぞ、ニセモノ野郎!」

俺たちは背を向け、扉を蹴り開けた。 背後で葛城が何か喚いていたが、俺たちの耳にはもう届かなかった。

エレベーターには乗らなかった。 非常階段を、一段飛ばしで駆け下りる。 息が切れる。膝が笑う。 契約金も、メジャーデビューも、すべてフイにした。 明日の食い扶持すら危うい、元の野良犬に戻っただけだ。

だが、ビルを出て見上げた空は、あの応接室から見た景色よりも、ずっと高く、青く見えた。

「バカだなぁ、お前も」 ケンジが笑いながら言った。目元が少し赤かった。 「お前こそ、あんな大金見せられて、よく我慢できたな」 「バーカ。俺はギブソン弾きだぞ? あんなダサいおっさんの下で弾けるかよ」

俺たちは顔を見合わせ、腹の底から笑った。 アスファルトの匂いがする。排気ガスの匂いがする。 これだ。これが俺たちの「生きてる」匂いだ。

「帰ろうぜ、エイジ。俺たちの戦場へ」 「ああ。……今夜は吠えるぞ」

俺たちは肩を並べて歩き出した。 首輪のない二匹の犬は、決して飼い慣らされることなく、再び荒野へと走り出したのだ。

小説:野良犬たちの協奏曲(コンチェルト)—— 第九楽章:真夜中の周波数

あの日、帝都ミュージックの契約書を破り捨ててから、俺たちの生活は文字通り「兵糧攻め」に遭っていた。

葛城の根回しは完璧だった。 都内のめぼしいライブハウスには「エイジ&ケンジを使うな」という通達が回り、俺たちはステージを奪われた。富田の店『不夜城』だけは俺たちを守ってくれたが、そこに甘えてばかりでは、あの日の誓いが嘘になる。

「へっ、上等だ。箱がねえなら、地べたでやるまでよ」

俺たちは原点に立ち返った。 だが、ただの路上ライブじゃない。俺たちはなけなしの金をはたいて、中古の録音機材を買った。 そして、六畳一間のアパートで、一本のカセットテープを制作した。

タイトルはマジック書きで**『アスファルトの遠吠え』**。 中身は、一発録りの3曲入り。 ノイズ混じりだが、今の俺たちの「殺気」がそのまま真空パックされていた。

俺たちはそれを、リュックサックに詰め込み、深夜の国道沿いにあるトラックターミナルや、早朝の建設現場へ向かった。

「おっちゃん! 眠気覚ましに最高の一本だぜ!」 「騙されたと思って聴いてくれ。あんたたちの怒りを、俺たちが歌ってるんだ!」

最初は怒鳴られた。塩を撒かれたこともあった。 だが、長距離トラックの運転手や、現場で汗を流す男たちは、本能で「本物」を嗅ぎ分ける。 俺たちの歌にある、飾らない泥臭さが、彼らの孤独な夜に突き刺さったのだ。

「……兄ちゃん、これ、すげえな」 「次のパーキングでも仲間(同業者)に配るから、あと10本くれよ」

口コミは、地下水脈のように静かに、しかし確実に広がっていった。 「深夜の国道で、すげえカセットが出回ってるらしいぞ」 そんな噂が、東京の夜の底で囁かれ始めていた。


そして、運命の夜が訪れる。

ある嵐の夜。俺たちはアパートで、いつものようにラジオの深夜放送を聴いていた。 流れているのは、過激な発言で若者から絶大な支持を得ているカリスマDJ、**「毒島(ぶすじま)ジョー」**の番組だ。

『……さて、今夜はリスナーから妙なもんが届いてる』

ラジオから流れる毒島の気怠げな声に、俺とケンジは顔を見合わせた。

『トラック運転手の「一番星」さんからだ。「ジョー、最近俺たちの間で流行ってるテープがある。大手事務所に干された野良犬たちの歌だ。どうしてもお前に聴いてほしい」……だとよ』

心臓が早鐘を打つ。 まさか。

『俺はねぇ、こういう「推し付け」が大っ嫌いなんだよ。素人のデモテープなんて、大抵がゴミだ』

毒島は鼻で笑った。 だよな。やっぱりダメか。 俺が諦めかけたその時。

『……だがな。俺のところにまで圧力がかかってきたんだよ。「エイジ&ケンジという名前は放送で出すな」ってな。帝都ミュージックの葛城さんよぉ、あんたやりすぎだぜ?』

ラジオの向こうで、毒島の声のトーンが変わった。

『俺に指図する奴は、総理大臣だろうが許さねえ。……おい、スタッフ! そのテープ流せ! 責任は俺が取る!』

ザザッ……というノイズ音。 そして、ラジオから流れてきたのは、あのアパートで録音した、俺の荒々しいギターのイントロだった。

『聴いてくれ! これが、東京のドブ板から這い上がってきた狼たちの叫びだ!』

俺の歌声が、電波に乗って全国の夜空へ放たれた。

『踏みつけられたアスファルト 睨みつけたビルの空!!』

アパートの窓ガラスが震えるほどの大音量で、俺たちの魂が響き渡る。 その瞬間、俺は全身が粟立つ感覚を味わった。 今、この瞬間、何十万、何百万という人間が、俺たちの歌を聴いている。 受験勉強中の学生、夜勤明けの看護師、ハンドルを握るトラック野郎、そして……孤独に膝を抱える、かつての俺のような奴らが。

曲が終わると、ラジオの向こうの毒島が叫んだ。

『……おいおい、電話回線がパンクしてやがる! 鳴り止まねえぞ! 「今の誰だ」「もう一度聴かせろ」「涙が止まらない」……!!』

俺はケンジを見た。 あいつは涙でぐしゃぐしゃになった顔で、ラジオに向かってガッツポーズをしていた。

俺たちは勝ったんだ。 金も権力もない、ただの石ころが、巨大なシステムに風穴を開けたんだ。

翌日、アパートの前には、レコード会社の人間……ではなく、何百人もの「同志」たちが、俺たちの歌を求めて集まっていた。 その光景は、後に語り継がれる伝説の始まりだった。

小説:野良犬たちの協奏曲(コンチェルト)—— 最終楽章:荒野の日の出

ラジオでの「反乱」から半年。 俺たちの周りには、とんでもない数の「同志」が集まっていた。 芸能界という表の道は閉ざされたままだ。だが、俺たちにはそんなものはいらなかった。

「箱(会場)がねえなら、俺たちで作ればいい」

俺たちが選んだ場所は、東京湾の最果てにある**「第13埋立地」**。 まだ地図にも載っていない、産業廃棄物と赤土が積み上げられただけの、広大な荒野だ。 客席もなければ、照明もない。あるのは海風と、雑草だけ。

「正気か? 7万人だぞ?」 ケンジが図面を見ながら笑っていた。目が据わっている。 「集まるさ。俺たちと同じ、行き場のない連中がな」


そして、決行の日。 帝都ミュージックの圧力は、最後まで執拗だった。 警察には「暴動の恐れがある」と通報が入り、会場へと続く唯一の橋には、機動隊のバリケードが築かれていた。

「中止だ! ここから先は通さん!」 拡声器を持った警官が叫ぶ。 橋の手前には、徒歩で集まった何万というファンが溢れかえり、今にも爆発しそうな空気が渦巻いていた。

ステージ機材を積んだトラックも足止めを食らっている。 万事休すか。 俺が唇を噛み締めた、その時だった。

『どけぇえええええッ!!』

バリケードの向こう側、埋立地の奥から、地響きのようなエンジン音が轟いた。 1台、2台ではない。100台、いや500台……! 全国から集結した、長距離トラックの大船団だ。 そのボディには、派手な装飾と電飾が輝いている。

「あいつら……!」 ラジオで俺たちのテープを広めてくれた、「一番星」をはじめとするトラック野郎たちだ。

トラックたちは警察の封鎖を内側から破るのではなく、なんと埋立地の「海側」から、作業用の仮設道路を使って突入してきたのだ。

『エイジ! ケンジ! 待たせたな!』 一番星のおっちゃんが窓から身を乗り出し、親指を立てた。 『照明機材なんざいらねえ! 俺たちのヘッドライトがお前らのスポットライトだ!』

数百台のトラックが、ステージとなる瓦礫の山を取り囲むように停車する。 一斉にハイビームが点灯されると、暗黒の荒野が真昼のように照らし出された。

その迫力に気圧されたのか、機動隊の列が割れた。 雪崩を打って、ファンたちが荒野へと駆け込んでくる。 作業服の男、特攻服の若者、親子連れ、サラリーマン。 皆、泥だらけになりながら、俺たちの元へ走ってくる。

混乱の中、一台の黒塗りのハイヤーが、静かにステージ袖に止まっていた。 窓が開き、富田がタバコの煙を吐き出した。 警察の上層部と電話をしているようだ。

『……ああ、責任は全て私が持つ。私の顔に免じて、今夜だけは目を瞑ってもらおう』

電話を切った富田は、俺を見てニヤリと笑った。 「歌え、野良犬ども。ここは日本の法律が届かない、俺たちの解放区だ」


俺とケンジは、トラックの荷台を積み上げて作られた、即席のステージに上がった。 眼下には、地平線まで埋め尽くす7万人の拳。 海風が俺の髪を激しく揺らす。

「うおおおおおおおっ!!」

地鳴りのような歓声が、東京湾の波を打ち消した。 俺はアコースティックギターを高く掲げた。 ケンジがギブソンのボリュームを最大にする。

「聞こえるか、東京!!」 俺はマイクに向かって絶叫した。 「俺たちはゴミ捨て場から生まれた! 磨いても光らねえ、ただの石ころだ! だがな……石ころだって、集まりゃ城壁になるんだよ!!」

『ウオオオオオオッ!!』

「朝まで付き合ってもらうぞ! 喉が潰れて血が出るまで、生きることを叫び続けろ!!」

演奏が始まった。 1曲目からトップギアだ。 観客の熱気で、冬の埋立地に陽炎(かげろう)が立つ。 俺たちは歌った。 理不尽な社会への怒りを。 弱さと、情けなさと、それでも捨てきれない愛を。

時間は瞬く間に過ぎていった。 何時間歌っただろうか。 声は枯れ、指先からは血が滲んでいる。ケンジもフラフラだ。 だが、誰も帰ろうとはしない。

そして、空が白み始めた頃。 ラストナンバーのイントロが流れた。 あの、新宿のガード下で生まれた歌。俺たちの原点。

『這いつくばってでも生きてやる 泥だらけの 俺たちの東京(まち)!……』

7万人の大合唱が巻き起こる。 泣きながら歌う男がいる。肩を組んで揺れる若者たちがいる。

曲のクライマックス。 俺が最後のフレーズを絞り出したその瞬間。

水平線の彼方から、真っ赤な太陽が顔を出した。

強烈な逆光がステージを包み込む。 俺の、ケンジの、そして7万人の顔を、太陽が平等に照らし出した。 汚れた作業着も、安っぽいジャンパーも、全てが黄金色に輝いている。

「見ろ、ケンジ……」 俺は隣でへたり込んでいる相棒の肩を叩いた。 「ああ……すげえな」

俺たちはアスファルトと泥の海を泳ぎ切り、ついに「太陽」を掴んだんだ。

「ありがとう!!」

俺は叫んだ。 言葉にならなかった。ただ、涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔で、何度も何度も頭を下げた。

遠くで、富田がサングラスを外し、静かに拍手を送っているのが見えた。 アケミがハンカチで目を押さえているのが見えた。

俺たちは勝った。 誰かに作られた成功じゃない。俺たちの足で、俺たちの手で掴み取った夜明けだ。

ギターを空へ突き上げる。 そのシルエットは、まるで朝日の中に羽ばたく一匹の「蜻蛉」のように見えたはずだ。

俺たちの旅は終わらない。 だが、この夜のことは、俺も、ここにいる全員も、死ぬまで忘れないだろう。

これが、俺たち「エイジ&ケンジ」の伝説の始まりだった。

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