【創作大賞2026】ムギコの異世界パン屋 第1話「購買のパンと、たった一つの決断」
ムギコの異世界パン屋
~焼きたての幸せ、お届けします!~
【あらすじ】 パン屋を営み、天寿を全うした日本のおばあちゃん。目を覚ますと、魔法が当たり前の異世界で少女ムギコとして生きていた。この世界では料理もパンも魔法で作るのが常識。でもムギコの手には、前世で何万回も生地をこねた記憶が残っている。学園を初日でやめ、たった一人でパン屋を開いた彼女のもとに、冒険者志望の少女ノアと、口数の少ない薬師の青年レイが集まり始める。やがて街では原因不明の病が広がり、誰も気づかない。魔法で焼いたパンが人を蝕んでいることに。汚染された小麦の異変を見抜けるのは、魔法に頼らず自分の手で焼いてきたムギコだけだった。利権のために街を蝕む者たちに、少女は魔法ではなくパンで立ち向かう。
第1話「購買のパンと、たった一つの決断」
購買部の棚に並んだパンは、どれも同じ形をしていた。
丸パン、白パン、木の実のパン。焼き色は均一で、大きさも寸分違わない。魔法で焼いたパンっていうのは、こうなるらしい。
私はその中から一番安い丸パンを手に取って、購買部の隅にあった木のベンチに座った。
入学式が終わったばっかりの校舎は浮ついた空気で満ちてる。新しい制服、新しい顔、新しい未来。みんなキラキラした目で石畳の廊下を歩いていく。
私はパンをちぎった。
……ふぅん。
断面を見る。気泡の入り方が均一すぎる。パン生地の気泡っていうのは本来もっとバラつきがあるもので、大きいのと小さいのが混ざり合って、それが食感の奥行きになる。でもこのパンには、それがない。全部同じ大きさの気泡が、行儀よく並んでる。
鼻に近づける。
小麦の香りは……ある。あるけど、薄い。魔法の火で一気に焼き上げたせいだろう。発酵の途中でゆっくり生まれるはずの酸味とか甘みの層が、ごっそり飛んでる。効率はいい。でも、工程を飛ばした味がする。
一口食べた。
柔らかい。ちゃんと柔らかい。でも噛んでいくと、途中で味が消える。最初の一噛みだけ甘くて、二噛み目にはもう小麦の味がしない。飲み込んだ後に舌に残るのは、かすかな魔力の匂いだけ。
これが、この世界の「普通のパン」。
……なるほどね。
膝の上で、指が動いた。こねる時の感覚。まだ暗い厨房で粉をふるって、水の温度を指先で測って。生地の表面を掌で押して、発酵の具合を膨らみと匂いで見極める。オーブンの中でパンが膨らんでいくパチパチっていう小さな音に耳を澄ませる。
全部、この手が覚えてる。
この手っていうか——前の手、だけど。
前の人生で七十二年間、パンを焼き続けた。最後に焼いたのは、くるみパンだった。もう力が入らなくなった手で、それでも一個だけ焼いた。誰かが好きだったパン。誰だったかな。顔がぼんやりして思い出せない。でも「おいしいね」って笑ってた声だけは、まだ耳の奥に残ってる。
まあいいや。ここは違う世界だし。
購買のパンの残りを見下ろした。均一な断面。均一な焼き色。均一な、何もない味。
魔法ってすごいなとは思う。温度管理も発酵制御もいらない。誰が焼いても同じものができる。失敗しない。効率的。合理的。
でもさ。
パンって、そういうものじゃないんだよ。
残りを全部食べた。食べ物を残すのは性に合わない。前の人生でも、この人生でも。
ベンチから立ち上がって、制服のスカートについたパン粉を払う。十六歳の体は軽い。関節は痛くないし、腰も曲がってない。階段を駆け上がっても息が切れない。
前の人生の終わり頃は、厨房に立つだけで精一杯だった。
それが今、こんなに軽い体をもらって、もう一回やり直せるって言うなら——
教室に戻ると、担任の先生がちょうど話し始めたところだった。
「それでは、クラス分けの説明を行います」
教室がざわっと色めき立った。みんなが待ってた瞬間だ。
「本学院では、入学後に専攻クラスを選択していただきます。魔法職クラス、冒険者クラス、鍛冶・職人クラス、商業クラス。各クラスの詳細はこちらの冊子に——」
冊子が回ってくる。隣の席の子が受け取って、目を輝かせてページをめくった。
水色のショートヘアに、動きやすそうな革のブレスレット。制服の上からでもわかる、鍛えられた体つき。冒険者クラス志望だろうな、と一目でわかった。
その子が冊子の「冒険者クラス」のページを開いて、小さくガッツポーズした。
「戦闘技術、ダンジョン探索、素材採取……うわ、全部やりたい……!」
楽しそうだな、と思った。
冊子が私のところにも回ってきた。パラパラめくる。魔法職。冒険者。鍛冶。商業。
——パン屋は、ない。
まあ、そうだよね。魔法で誰でも焼けるものを、わざわざ専門で学ぶ必要なんてないもんね。この世界では。
冊子を閉じた。
先生が言った。「希望クラスの記入用紙を配りますので——」
私は立ち上がった。
教室が少しだけ静かになった。
「ムギコです」
間を置いた。今朝お母さんから届いてた手紙を思い出す。『入学おめでとう。直接お祝いに行けなくてごめんね。お父さんも遠くから応援してるからね』。筆跡がいつもより少し丸かった。きっと何度も書き直したんだろうな。
ごめんね、お母さん。
「どのクラスにも、行きません」
しん。
「パン屋を、やります」
先生が固まった。冊子を持ったままの手が止まってる。
ざわ、と波が広がった。
「は?」「パン屋?」「クラス分けの日に?」「どういうこと?」
そうだよね。意味わかんないよね。
でもさっき、あの購買のパンを食べて確信した。この世界のパンには足りないものがある。魔法じゃ絶対に補えないもの。時間と、手と、鼻と、耳と、七十二年分の経験。
それを持ってるのは、たぶんこの世界で私だけだ。
だったら座ってる場合じゃない。
「お騒がせしました」
鞄を持って教室を出た。背中にざわめきが追いかけてくる。先生が何か言ったけど、もう聞こえなかった。
石畳の廊下を歩く。高い天井のアーチ窓から午後の光が差し込んで、磨かれた石の床がぬるく光ってた。
——前の人生では、こんな思い切ったこと一度もできなかった。
小さなパン屋を静かに続けて、静かに終わった。幸せだったよ。文句なんてない。でも「もう一回やれたらな」って、最後の最後に思ったのは——嘘じゃなかった。
校門を出た。
風が吹いた。この世界の風は、何かの花の匂いがする。知らない花。知らない風。知らない世界。
でも、風に混じる小麦の匂いだけは、同じだった。
大丈夫。やれる。
今度は——自分で決めた道を、自分の手で。
教室では、まだざわめきが残っていた。
「何あれ」「頭おかしくない?」「パン屋って、パン屋!?」
クラス分けの記入用紙が配られていく。みんな自分の将来を書き込んでいく。冒険者。魔法職。鍛冶屋。
窓際の席で、水色のショートヘアの少女——ノアは、用紙の「冒険者クラス」の欄を見つめていた。
ペンを持つ手が、止まっている。
冒険者になりたい。ずっとそう言ってきた。でもそれは、夢って言ってるうちが一番気持ちいいって、どこかでわかってたから続けてこれただけで。
じゃあ本当にやるってなったら?
全部賭けられるかって聞かれたら——怖くて、たぶん動けない。
あの子は、動いた。
クラス分けの用紙すら受け取らずに、たった一人で教室を出ていった。
「……かっこいいな」
誰にも聞こえない声でつぶやいて、ノアは空っぽになった隣の席を見た。
ペンを、用紙に押し当てた。「冒険者クラス」の欄に丸をつける。
手が、まだ少し震えていた。
第1話 了
いいなと思ったら応援しよう!
わぁ〜!ここまで読んでくれて…本当にありがとう💕
いただいたチップは、ぜ〜んぶ次の記事づくりや有料記事の購入費に使って、またみんなに情報で還元するよ〜✨
応援がめちゃくちゃ励みになるから、これからも一緒に成長していこうね💖