生まれた年で人生の土台が変わるなら、それは自己責任ではない|年金格差と世代の話
朝、こんな見出しのニュースを目にしました。
「Z世代の年金、氷河期より厚く 月10万円未満『4人に1人』に減少」
記事を要約すると、こういう話です。若い世代の間には「将来、年金がもらえなくなるのではないか」という不安が広がっている。けれど実際には、1990年代半ばから2010年代前半に生まれたZ世代のほうが、就職氷河期世代よりも低年金になる人は少ない見込みだ、と。共働きの増加や、高齢になっても働く人が増えていることが、受給額を底上げしているのだそうです。
数字も添えられていました。厚生労働省の2024年の財政検証によると、2004年度生まれで将来の年金が月10万円に満たない人は24.4%。一方、氷河期世代にあたる1974年度生まれは39.1%。バブル期近辺で社会に出た1964年度生まれにいたっては42.6%。
出生年が後になるほど、低年金になる比率は下がっていく。
この見出しだけを読むと、「だから若い世代の不安は誤解で、本当は恵まれているのだから安心しなさい」という話に見えます。
でも、私はそこで止まれませんでした。
この差は、本人が努力したかどうかで生まれた差なのだろうか。
氷河期世代は、望んであの時代に就職したわけではありません。Z世代も、選んでこの時代に生まれたわけではありません。
生まれた年が、十年か二十年ずれていただけ。
それだけで、老後にもらえる年金が、ここまで変わってしまう。
今日は、そのことを考えています。
数字の裏にあるのは、努力ではなく「時期」だった
記事をよく読むと、なぜ若い世代のほうが年金が手厚くなるのか、その理由が書かれていました。
ひとつは、共働きの増加です。専業主婦だった人が減り、厚生年金に入る人が増えれば、将来もらえる額は上がります。1964年度生まれの女性は、配偶者に養われる「第3号被保険者」が中心だった人が34.1%もいたのに対し、2004年度生まれでは13.2%まで下がるそうです。
もうひとつは、働く高齢者の増加です。厚生年金は原則69歳まで加入できる。長く働けば、それだけ保険料を払う期間が延び、受給額も上がります。2004年度生まれは厚生年金の加入期間が平均33.2年と、1964年度生まれの26.3年から大きく伸びる見通しだといいます。
これを読んで、私は思いました。
つまり、若い世代の年金が厚くなるのは、彼らが特別に努力したからではないのです。
長く厚生年金に入れる、共働きが当たり前になっている、高齢でも働ける。そういう「制度と時代の条件」が、たまたま追い風になっているだけです。
裏を返せば、こういうことになります。
この制度は、長く厚生年金に入れた人ほど有利になる。だから、若いころに正社員の入口を閉ざされた氷河期世代には、構造的に不利なのです。
氷河期世代は、新卒のときに企業が採用を絞り、正社員になれず、非正規や無業の期間が長くなった人が多い世代です。厚生年金の加入期間も、賃金も、退職金も、資産形成も、すべてで後れを取りやすい。
しかも日本では、「新卒でどこに入ったか」が、その後の職業人生に長く影響します。
最初の入口の狭さが、四十年後の年金額にまで、静かに連鎖していく。
これは、努力の差ではありません。
生まれた時期の差です。
不安の「種類」が、世代によって違う
ここで、ひとつ立ち止まりたいことがあります。
「データ上はZ世代のほうが恵まれている。なのに、なぜZ世代は不安なのか」
一見すると、矛盾しているように見えます。恵まれているのに、不安。
でも、たぶんこれは矛盾ではありません。
不安の種類が、違うのだと思います。
Z世代の不安は、制度そのものへの不信です。「自分たちが受け取るころには、年金制度がもう壊れているのではないか」という、漠然とした、しかし根の深い疑いです。
氷河期世代の問題は、不信ではなく、もっと具体的な実害です。制度に乗る前の段階で、雇用の機会そのものを奪われた。その傷が、すでに年金、資産、住まい、親の介護負担にまで広がりつつある。
だから、この二つを同じ土俵で比べて、「氷河期より恵まれているのだから黙っていなさい」とZ世代に言うのは、違うと思うのです。
Z世代にも、非正規雇用、奨学金の返済、上がらない賃金、高い住宅費、そしてAIによる雇用の変化という、固有の不安があります。
氷河期世代には、すでに現実になってしまった不利があります。
どちらの不安も本物で、どちらかが偽物なわけではありません。
ここを取り違えると、議論はすぐに「どっちが大変か」の言い争いになってしまいます。
そして、その言い争いの間に、本当に問うべきことが、見えなくなっていきます。
「自己責任」という言葉が、こぼし落とすもの
私たちは、つい「自己責任」という言葉を使います。
うまくいかなかったのは、努力が足りなかったからだ。正社員になれなかったのは、本人の選択の結果だ。老後に困るのは、計画性がなかったからだ。
たしかに、努力で変えられる部分はあります。それを否定するつもりはありません。
でも、と思うのです。
努力する前の「入口」が、世代によって閉じられていたとしたら。
その不利益まで、本人の責任にしてしまっていいのでしょうか。
同じ五十代でも、好景気のときに新卒で正社員になれた人と、氷河期に新卒採用そのものが閉じていた人とでは、スタート地点が違いすぎます。
参考:日本総合研究所「50歳代を迎える就職氷河期世代の“いま”と“これから”」
前者は、努力によって成果を伸ばせた面があります。けれど後者は、努力する以前に、努力を発揮する場所が用意されていなかった。
この二人を、同じ「自己責任」という物差しで測るのは、やはり乱暴だと思います。
努力した人が報われる社会は大事です。でも、努力する前の入口が世代によって閉じられていたのなら、その不利益は、社会全体で補正すべきものなのではないでしょうか。
「自己責任」という言葉は、便利です。一言で、複雑な事情を切り捨てられます。
でも、その言葉が切り捨てているものの中に、本人にはどうしようもなかった「時代の運」が含まれているとしたら。
その社会は、たぶん、かなり冷たい社会です。
本来は、不利な時代に出た世代を厚くするべきではないか
では、どうすればいいのか。
私が考えたのは、こういうことでした。
雇用機会が少なかった時代に社会へ出た人には、年金や再就職、住宅、職業訓練の面で厚く支援する。逆に、好景気や安定した雇用の恩恵を受けてきた世代には、一定以上の資産や所得がある場合、自分で負担できる部分は負担してもらう。
これは、世代と世代を戦わせる話ではありません。
偶然による不公平を、後からならすという話です。
たまたま不況の年に社会へ出てしまった。たまたま採用が絞られた年に大学を卒業した。それは、本人が選んだリスクではありません。地震や病気と同じで、個人の力では避けられなかったリスクです。
そして、個人では避けられないリスクを社会全体でならすことこそ、本来の社会保障の役割だったはずです。
病気、失業、老齢、障害、景気変動。
こうした「自分では選べないもの」を、みんなで少しずつ支え合う。
であれば、「たまたま就職氷河期に生まれた」というリスクも、本来は補正の対象に入れていいはずだと思うのです。
ただし、「生まれ年だけ」で線を引くと、別の不公平が生まれる
ここで、自分の考えにブレーキをかけたくなりました。
「不利な世代を厚く、恵まれた世代に負担を」という考え方は、感情としてはよく分かります。でも、そのまま「何年生まれだから支援」「何年生まれだから負担」と機械的に線を引くと、別の不公平が生まれてしまいます。
なぜなら、同じ世代の中にも、貧富の差があるからです。
氷河期世代でも、大企業に入れて、しっかり資産を築けた人はいます。好景気の世代でも、低所得だったり、病気や介護で苦しんでいる人はいます。
世代でひとくくりにすると、そういう個人差がこぼれ落ちます。
だから、現実的には、二つの軸を組み合わせる必要があるのだと思います。
ひとつは、どの時代に社会へ出たか。
もうひとつは、今、どれだけ負担できる力があるか。
世代による不利を補正しつつ、負担は世代ではなく、その人の所得や資産に応じて求める。
「高齢者だから負担を増やす」のではなく、「十分な資産や高い所得がある人に、応分の負担を求める」。
年金収入の少ない高齢者から取るのではなく、金融資産や不動産収入、高額の年金がある層に、医療や介護や税制の面で少し多く負担してもらう。
この二つの軸を組み合わせないと、本当の意味での公平には近づかないのだと思います。
氷河期世代の問題は、本人だけで終わらない
もうひとつ、考えておきたいことがあります。
氷河期世代への支援は、「気の毒だから助ける」という話ではありません。
放っておくと、その不利は本人の老後だけにとどまらないからです。
低所得、未婚、低年金、親の介護、住宅の不安。こうしたものが重なっていくと、やがて生活保護、医療、介護、そして孤立といった形で、社会全体のコストとして返ってきます。
日本総研の報告でも、五十代を迎える氷河期世代は、所得の改善が道半ばで、老後資金の不足や住まいの不安、親の介護負担が、これから深刻化するおそれがあると指摘されています。
つまり、これは「今、補正しておかないと、あとでもっと大きな社会的コストになって返ってくる問題」でもあるのです。
支援を、施しや同情として考えると、話はこじれます。でも、社会全体のコストを先回りして抑える投資だと考えれば、ずいぶん見え方が変わってきます。
困っている人を助けることが、めぐりめぐって、助ける側の社会も守ることになる。
社会保障というのは、本来そういう仕組みだったはずです。
「どちらが恵まれているか」を争わせないために
このテーマを考えていて、いちばん怖いと感じたのは、議論が「Z世代 対 氷河期世代」の対立に流れてしまうことでした。
若い世代は「自分たちだって苦しい」と言う。
上の世代は「お前たちはまだ恵まれている」と言う。
どちらも、嘘ではありません。だからこそ、噛み合わない。
でも、この言い争いが続くかぎり、得をするのは、たぶん誰でもありません。
世代同士で限られたパイを奪い合っている間、「生まれた年で人生の土台が変わってしまう」という構造そのものは、手つかずのまま残り続けます。
だから、問いの立て方を変えたいのです。
「どちらの世代が恵まれているか」ではなく、「世代ごとに異なる不利を、どう補正していくか」。
Z世代にはZ世代の不安があり、氷河期世代には氷河期世代の実害がある。それぞれ違う形の不利を、それぞれに合った形で補正する。
比べるべきは、世代と世代ではありません。比べるべきは、「本人にはどうしようもなかった不利」と、「それを放置している社会」のほうです。
そう考えると、世代対立は、いちばん避けたい落とし穴のように思えてきます。
どういう社会に住みたいか
このニュースの見出しは、「Z世代の年金不安は誤解だった」と読めるように作られていました。
でも、深く読むほど、私にはむしろ逆のことが見えてきました。
年金は、単なる老後の制度ではありません。
現役時代の雇用の格差を、そのまま老後まで持ち越してしまう装置にもなっている。
長く正社員でいられた人は、老後も手厚い。入口で弾かれた人は、老後まで不利を引きずる。生まれた年の景気が、四十年後の暮らしを、静かに左右している。
そこに気づくべきニュースだったのだと思います。
私は、専門家でも政策の当事者でもありません。だから、正しい制度設計を語ることはできません。
でも、ひとつだけ、確かに思うことがあります。
生まれた年で人生の土台が変わってしまうなら、それはもう、自己責任ではない。
努力した人が報われる社会は、大切です。それは変わりません。
ただ、その「努力」を発揮する入口が、生まれた時期によって閉じられていたのなら。その不利は、本人を責めて済ませるものではなく、社会全体でならしていくものなのだと思います。
たまたま、その年に生まれた。
たまたま、その年に社会へ出た。
その「たまたま」を、誰かの人生の重荷として一生背負わせ続けるのか。それとも、みんなで少しずつ引き受けるのか。
問われているのは、たぶん、私たちがどういう社会に住みたいか、という一点なのだと思います。
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