The Missing Piece【noteでBL 第18弾】
あらすじ
ソングライターのディノは、あらゆる楽器を操り、作曲の才にも恵まれながら、自分の声だけが理想に届かない苦しみを抱えていた。コンテストの会場を逃げ出し、雨のロンドンを彷徨う夜。テムズ川の高架下で、ホームレスの大男・ベンの歌声に出会う。圧倒的な高音に五感を貫かれたディノは、欠けていた最後のピースを確信し、拒むベンに執着する。何でも手に入れた男が、たったひとつの声に跪く、音楽とロンドンの夜の物語。
ふと、振り返るとそこには、期待と羨望と落胆の眼差しがあった。
暗転したホール。
スポットライトが消えた闇の中で、大勢のギラギラとした視線だけが浮き彫りになる。
ディノは息苦しさに背を向け、逃げるように扉を押し開けた。
ホールを背に、雨のロンドンの夜を当てもなく歩く。濡れたアスファルトが、街灯のオレンジ色の光をゆらゆらと反射していた。
右耳にイヤホンを押し込み、ボリュームを上げる。左耳からは、ただ冷たい雨の音が入り込んできた。
歩いていると、川沿いの繁華街に出る。足早に石畳をすり抜けるように歩く。
バーの軒下。女たちがこちらに気づき、目を見開いた。ひそひそとした囁き声が、雨を縫って届く。視線をテムズ川へ逃がし、歩調を速めた。
水飛沫を上げて、女たちが追ってくる。
「ソングライターのディノさんですよね?」
「……」
眉をひそめ、無言でやり過ごす。
「……えー。感じわる」
背中に投げつけられた声を叩き潰すように、ブーツの踵を強く鳴らした。
煩わしい視線から逃れるように階段を下り、エンバンクメントの高架下へ潜り込む。ここなら誰も見向きもしない。ホームレスたちは、通り過ぎる足音に無関心だ。
ようやく手に入れた静寂と聞き慣れた音楽。しかし、スマホの無機質な振動がそれを切り裂く。
画面の表示を見て、舌打ちした。
「なんだよ、ナット」
『一応伝えておくけど、ピアノコンテストは二位だったわよ』
「だろうな」
『マーケティング戦略の一環とはいえ、結果発表前に帰るのはマナー違反じゃない?』
「結果に興味はない」
『先月はバイオリンで三位。全国的なピアノリサイタルでも二位。シンガーソングライターとしても人気沸騰中。……天才は、一体何が不満なの?』
イギリス特有の気取った発音が鼓膜を撫でる。いちいち鼻につく声だ。
「不満なんかない。用が済んだなら——」
『まだ、声を探してるの?』
歩みが止まった。
頭上を覆う重厚な橋。濡れた髪とコートから、雨だれが足元へ落ちていく。
「……」
『あなたの声も、十分に素敵なのに』
慰めたような声に、ディノは奥歯を強く噛み締める。濡れた柱に背を預け、ずるずるとしゃがみ込んだ。
「……ダメなんだよ、俺の声じゃ」
ひび割れた声が零れる。
イヤホンを引き抜き、ナットの声を遠ざけながら通話を切った。
暗がりの中、濡れた膝を深く抱え込む。雨だれの音だけが、等間隔に響く空間。
その冷たいリズムに急かされるように、耳の奥で新しい旋律が浮かんでは消えていく。完璧な音は、常に頭の中にある。それを具現化する楽器も、機材も、技術もすべて手に入れた。
だが、最後に自分の声帯を通した瞬間——そのすべてが凡庸で、無価値なものに成り下がるのだ。
ナットの言う「不満」などという生易しいものじゃない。理想の音だけが、どうしても手に入らない。
「っ……!」
苛立ちのまま、指先で自分の喉元を強く掻きむしった。
ここから理想の音さえ鳴ってくれれば。それだけで、世界はたちまち色づくというのに。
睨みつけるように周囲を見渡す。視界に広がるのは、ひたすらに黒く沈んだモノクロの世界だ。
嫌になるほど雨が降り続き、肌にまとわりつく空気はこれほどまでに湿り気を帯びているのに、自分の中だけがひび割れるように乾いている。
この乾きを自覚するたび、世界はいつも、分厚い膜に覆われたように五感ごと塞がってしまうのだ。
両手で顔を覆い、冷たいコンクリートの柱に額を擦り付ける。ゴン、ゴン、と頭上を通り過ぎる車の振動だけが、柱を伝って無機質に頭蓋骨を揺らした。
塞がれた、無彩色の世界。
そこに、ふと声が落ちてきた。
透明で、どこまでも伸びる高音。
弾かれたように顔を上げ、耳を澄ます。
『Somewhere Only We Know』
ゆったりとした、独特の溜め。原曲の輪郭を崩しながらも、高架下で反響するその声は、暴力的なほどに美しかった。
ふと、振り返るとそこには、ホームレスのような格好をした大男が、ふらふらと歌いながら歩いていた。
男はディノの存在など気にも留めず、気楽に歌いながら前を通り過ぎようとする。
「待ってくれ!」
手を伸ばし、汚れたコートの裾を力任せに掴んだ。
ピタリと歌が止まる。大柄な身体が、ゆっくりと振り返った。
黒ずんだ顔。無造作に伸びた髭と髪。だが、その奥にある深い緑色の瞳だけが、澄んだ光を放っていた。
「……え、なに」
男が怪訝そうに眉を上げる。声が若い。見た目とは裏腹に、自分より年下かもしれない。
「……『Don’t Look Back in Anger』……歌えるか?」
コートを掴んだまま、ディノは男を射抜くように見つめた。男は困惑したように身をよじり、頭をボリボリと掻く。
「えぇ……?歌えるけど、好きじゃねぇよ」
「じゃあ、好きな曲でいいから、歌ってくれないか」
握る手に力がこもる。男は天を仰ぎ、深いため息をついた。
「なんかやだよ……恥ずかしいし」
ディノは周囲を一瞥した。薄暗い橋の下、他の住人たちは毛布やテントの中に引きこもっている。
「俺しか聞いてない。頼む!」
反射的に財布を取り出そうとする。その手を、男の大きな掌が制した。
「わ、わかったって……じゃあ、ワンフレーズだけな」
男は気まずそうに咳払いし、うつむいて大きく息を吐き出した。
そして、顔を上げる。すっ、と息を吸い込む音。
その僅かな所作だけで、橋の下の空気が張り詰めた。鉄橋を叩く雨の音。頭上を過ぎる車の轟音。
男の唇が動く。
『Can……anybody……find me』
空気を切り裂くような、クリアな高音。その瞬間、周囲のノイズが完全にミュートされた。
ディノは息を呑んだ。
薄暗い高架下。
テムズ川の生臭さ、秋雨の冷たさ、錆びた鉄の匂い。淀んだ夜空の色と、頬を打つ風。それらすべてが解像度を上げ、強烈に五感を貫いていく。
『somebody to love……』
原曲とは異なる、彼だけの呼吸。彼だけのリズム。
だが、追い求めていた「音」が、そこにあった。
ふわりと歌い終え、男は軽く肩をすくめた。
「……これでいい?」
立ち去ろうと身を翻すが、コートの裾は掴まれたままだ。男は両手を挙げて降参のポーズをとる。
ディノは絶対に離す気はなかった。
「……名前は?」
男は片眉を上げ、やれやれといった風にため息をつく。
「ベン」
その名を聞いて、ディノはようやくコートから手を離した。そして、そのままベンに向けて真っ直ぐに手を差し出す。
「……ベン。君に、俺の歌を歌ってほしい。君の声を、ずっと探していたんだ」
差し出されたディノの手に、ベンは訝しげな顔をして首を傾げた。
二人の間に、数秒の空白が落ちる。
次の瞬間、堰を切ったように、ミュートされていた世界が暴力的な音量で押し寄せてきた。鉄橋を打ち据える冷たい雨の音。頭上を通過する大型トラックの腹に響く轟音。テムズ川から吹き付ける風が、容赦なく現実を連れてくる。
ベンはゆっくりと首を横に振った。
「……嫌だね。歌うのはそんなに好きじゃない」
踵を返そうとするベンに、ディノは水溜りを蹴って一歩踏み込む。
「好きじゃないやつは歌なんか口ずさまない!」
「……気まぐれだ。もう、歌うことはない」
ベンの深い緑色の瞳に、一瞬だけ、怯えにも似た濃い拒絶の色が浮かんだ。
足早に立ち去ろうとする大男を逃がすまいと、ディノは再び手を伸ばす。ほつれた袖口から覗く、剥き出しの腕を力任せに掴み取った。
「嘘だ」
見上げるディノの瞳は、隙間から入る街灯の光だけを受けて、ギラギラと光っている。
「さっきの声は、気まぐれで出せる『音』じゃない」
「音……?」
ベンが微かに目を見開く。
「何が欲しい?……全部、用意してやる」
「っ……」
ベンの顔から戸惑いが消え、明確な怒りが走った。
「……何もいらねぇ。もう、放っておいてくれ」
低い声が這う。ベンが腕を軽く振るっただけで、ディノの身体はいともたやすく弾き飛ばされ、濡れたアスファルトによろめいた。
ベンはそれ以上ディノを見ることはなく、大きな背中を丸め、逃げるように足早に通り過ぎていく。
ディノは追わなかった。ただ、暗い雨の向こうへ溶けていくホームレスの後ろ姿を見据えていた。
「俺はディノだ。……ベン、また来るからな」
その呟きが聞こえたのか、雨の向こうでベンの肩がわずかに揺れ、一瞬だけ足が止まる。だが、彼は振り返ることなく、再び夜のロンドンへと消えていった。
冷たい雨に打たれながら、ディノは一人立ち尽くす。
しかし、つい先程まで彼を内側から食い破っていた、あの絶望的な「渇き」はもうどこにもない。
耳の奥で、ずっと鳴り続けていた未完成の旋律。そこに、たった今聴いたばかりの透き通る声が重なり合う。
夜の空を見上げる。黒だと思っていた空が、極彩色に輝き始めていた。
ロンドンの冷たい雨は、まだ降り続いている。
だが、ディノの心にはすでに、彼をこの無彩色の夜から引きずり出すための、完璧な音楽が鳴り響いていた。
こちらに飛び入り参加させていただきました。
急きょにもら関わらず、参加を快諾していただきありがとうございます!
今まで短編を書いたことが無く、相互さんがやってるの見て素敵な話ばかりで、ちょっと挑戦してみたくなりました。めっちゃ難しかったです。短編の中でシネマ感を出すには、もっとショートフィルム脳にならねば、と思いました。
とてもいい経験になりました。
また機会あれば参加させていただければと思います!
