月避けの傘
それを、月避けの傘と呼ぼう。
階段を昇っていた。夜にそびえる白いビル群の、一番低く古びた建物に、螺旋階段がついている。最上階へと至る階段だ。なんのためについているのかはわからない。
不意に、風が吹いた。前髪が、あおられた。ごうっという音がして、うなじでひとつに束ねた髪が、後方に流れる。
風。また、風。
頭上を仰ぐと、青い傘が飛んでくるところだった。
地上からの風に持ち上げられて、浮上し、また、降りてゆく。すいっ、すいっと、やわらかな曲線を描き、宙をすべる。目前に迫って、気づいた。
青い傘ではない。黒だ。
それは、外側いちめんに、星空の模様がついた傘なのだった。漆黒の地に、星座模様が散っている。
描かれた星が、点々と光る。点と点を結ぶ線が、白く浮きあがっている。それでいて、内側は一面の青なのであった。白い雲の絵が、まばらな柄を描いている。裏面の生地は、目の覚めるような、まっさおな青だ。
空に向かって手を伸ばすと、届いた。銀色の柄が、手中に収まって、ひんやりと硬い。風に耐えながら夜空にかざすと、それは紛れもない、月避けの傘なのだと理解できた。
月を避ける。
月の光は、狂気を呼ぶという。
ものぐるおしい感情から身を守るため、つくられた傘なのだ。顔の上に置いて、月の光を浴びないために、存在している傘なのだ。
裏地の空の青が、目に沁みた。
ごうっと、風が吹いた。びゅんびゅんと轟音をたて、耳元を走り抜けていく。傘が、飛びたとうとする。
手を離れて、飛んでいく。風に、奪われる。
そう思った時、わたしは階段を降りていた。おぼつかない足取りで、螺旋をくだる。時折、不安定な音をたて、踵が鳴る。乱れた靴音が、カンッ、カンッと、あたりに反響している。両手には、月避けの傘をしっかりと握りしめたままだ。傘が震える。風に震えているのか、わたしの手の力で震えているのかは、わからない。
とにかく、傘をなくすわけにはいかない。風の穏やかな地上へ行くため、わたしはゆっくりと階段をくだって行った。こうこうときらめく月の光を、傘で遮ったまま。
足が、地面に着いた。やわらかな草むらを踏んだ。地を踏みしめて、歩き出そうとした時、わたしは見た。
目の前の、青年を。
枯れ草色のコートを着ていた。俗にトレンチと呼ばれる、薄手のものだ。裾が、絶え間なく風に翻っている。彼は、白く骨ばった手で、目深にかぶった帽子を押さえている。帽子のつばも、風に揺れている。帽子のかげになった黒い前髪のむこう、光る両の瞳を、わたしは確かに見た。
焦点が合っていない。左の眼から放たれる視線が、まっすぐにわたしを射抜いている。睨んでいるのかと見誤るような、強いまなざしだ。そして、右の眼は、わずかに逸れて、わたしの肩越しに月を見つめている。歪んだ双眸が、傘と、帽子と、黒く揺れる髪のむこう、つよく見据えている。
あれを、狂気というのだ。と、思い至った時、
傘が、飛んだ。
あっと思う間もなく、手からはなれ、風にさらわれて、はるか頭上に舞いあがっていく。模様が、反転する。青、黒、青、黒、青空、夜空、また夜空。暗い面が、夜空の一点に吸われて見えなくなってから、わたしははじめて、地上に目を戻した。
彼は、走り去っていた。翻ったトレンチの枯れ草色だけは、視界の端にとらえたように思う。気づいた時には、駆けてゆく後姿の、みるみる遠ざかっていく背中が、豆粒ほどの大きさになるところだった。
足元で、草むらが風にごうごうとなびいている。
頭上では、月が光っている。
彼は、もういない。
届いたのだ、と思うことにした。彼は、必ず手に入れる。わたしがなくした傘を、手に入れるのは彼だ。風が力尽き、月避けの傘が地上に舞い降りる時、彼はきっと手をのばしている。焦点の合わない瞳で、ひたと傘を見つめている。子供のように無邪気な仕草で、両手で傘を受け止めた後、彼はそれを空にかざすだろう。
――月光を、避けるだろう。
傘は、そのためにつくられたのだ。わたしではなく、彼のような者のために。
そう考えれば、少し、気持ちが軽くなる。傘をなくしたのだ、という気持ちが。
あれはもともと、彼のものだった。わたしが間違えたのだ。
月の光が、こうこうと降る。
わたしは平気だ。どんなに月の光を浴びても、いいえ、月がここまで降りてきたとしても、わたしは大丈夫だ。そのように、生きていられる。そのように、つくられたのだから。
ゆっくりと眼を閉じる。月の光が、視界から消える。瞼の闇に、吸いこまれる。
その代わりに。
空から落ちてくる、青と黒の柄の傘を、せいいっぱい背伸びして、受け取ろうとしている。
青年の後姿が、ちらりと見えた。
どうしても、そんな気がしたのだった。
