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完璧な家族 首縊りの家 プロローグ #0

あらすじ

主人公・鷹村は、10歳の頃、とある丁字路にある廃墟に忍び込み、家族写真を拾うが、背後から「完璧な家族になろう……」と囁く得体の知れないものに遭遇する。

それから24年後。認知症の母の介護をする為に、休職して息子と共に福岡にある実家に戻った。しかし、考えていた以上に過酷な介護に日に日に疲弊していくことになる。毎夜徘徊する母、勝手に外へ出てしまう息子。思い通りに行かない日々を過ごしていた。徘徊する母と息子は決まって、あの廃墟の前で見つかる。そこは、トラウマを植え付けた廃墟だった。その廃墟にまつわる過去が明るみになるにつれ、主人公は自分の過去をも思い出さざるを得なくなった。

※2025年4月25日に角川ホラー文庫より、「完璧な家族の作り方」(大幅改稿、改題)として発売されます。note版の「完璧な家族」よりもさらに恐ろしいことが明るみに出ます。お楽しみにお待ちください。

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プロローグ 鷹村 翔太


 その空き家は、丁字路の突き当たりに門を構える、平屋の一軒家だった。

 屋根付きの門には蔦の代わりに虎ロープが張り巡らされている。壊れた扉は半開きで、ロープの効果はなさそうだ。

 長い間、風雨に晒されて、黒く腐った柱は緑色に染まり苔むしている。

 空き家を囲む高いブロック塀から、鬱蒼とした枝葉がはみ出して、蔓性植物が巻き付き、いよいよ野放図に生い茂っている。

 荒れた印象の木々は暗く沈んで見え、まるで、だらりと手を垂らした緑色の怪物だった。

 ブロック塀から剥がれかけた、雨ににじむ売り家の張り紙は、門と同様にどことなく異質で、現実離れしている。

 空き家の周辺には、白い箱のような形の建売住宅が建ち並び、この一角だけが時代に取り残されたように見えた。

 当時、十歳だった私は虎ロープの前に立ち尽くし、自分を取り囲む少年達を直視できずに俯いていた。

 日差しが作る、足下の影だまりを無言で見つめ、どうすべきか逡巡する。

「早よ行きぃ」

 少年の一人が乱暴な方言で私を責付く。

 私は決心が付かず、何度も同い年の少年達と古びた門を交互に見ていた。


 じりじりとした夏の日差しと、道を取り囲むように響く蝉の声が、雨のように肌を打つ。

 額からじっとりと汗が垂れて、それを腕で拭う。黄色いタンクトップに汗がにじんで、肌にへばりついている。

 退屈な夏休みの暇つぶしに、馴染みのない町を一人でぶらぶらと探索するのは、思っていた以上に面白いものだった。

 この頃、私は父の仕事の関係で福岡にあるこの町に引っ越してきたばかりだった。

 元々、父母は福岡の出身だが、赤ん坊の時から関東で育った私にとって、福岡は未知の土地だった。

 言葉も、町の空気の匂いすら違う、福岡にある小さな町。スーパーやコンビニも駅前にあるきりで、三階建て以上の家屋やビルは珍しく、新興住宅が駅を囲むように広がっている。

 やたら点在する公園や空き地、町中に突如現れる畑や田んぼ。それらが全て、私には目新しい。

 古い建て屋の立ち並ぶ、ひと一人通れれば良いほど狭い路地には鉢植えが並び、鉢にはひょろひょろと頼りない花が植えてある。

 くねくねと続く路地裏を抜けて狭い通りに出る。

 車が一台通れるかどうかも怪しい道に乗用車が駐車しているのを見て、どうやってここまで入ってきたか不思議に思った。

 駅前にあるコンビニへアイスを買いに家を出て、その帰り道だった。

 面白がってあちこちの角を曲がるうちに、元来た道を見失っていた。それでも楽しいと思えたのは最初のうちで、アイスを食べ終わる頃には不安に変わっていた。

 とぼとぼと歩く道の先に、子供の集団がいた。公園の入り口にたむろしている少年達は手にサッカーボールを持っている。

 見覚えのある顔ぶれに、すぐにクラスメイトだと気付いた。思わず、足を止めて身構えてしまう。

 一学期の途中で転校してきた私は、すでに出来上がったクラスメイトのグループに混ざれず馴染めないままだった。

 だから、彼らの笑顔に悪意を感じたし、乱暴に聞こえる方言に怯えてもいたのだ。

「おまえ、鷹村っち、言ったっけ?」

 そう言いながら、体格の良い少年が寄ってきて、目を合わせないように縮こまる私の前に立ち、訊ねてきた。

「う、うん」

 私は小柄な子供だったので、ケンカにでもなったらすぐにねじ伏せられてしまうだろう。そんな恐れを抱いてしまうくらい、彼らを傍若無人な人間だと思い込んでいた。

「なんしよん?」

 他の少年も寄ってきて、私を囲んだ。

 何を聞かれているのか、聞き慣れない方言では分からず、私は押し黙るしかなかった。

「どこ行きよん?」

 外国語のような方言を必死で聞き取ろうと耳だけは大きく澄ませていた。

「家に帰ってるとこ……」

 少年達が目配せしている。次に何が起こるか分からず、私は目を伏せた。私など放って、早く公園にサッカーをしに行けばいいのにと、必死で願った。

「ちょ、来ちゃりぃ」

「おまえ、ここら辺初めて?」

 何やら親しげに彼らが私の手を握って、引っ張り出した。

「うん」

「やったら、あそこ行かな」

「やね。あそこ行っとかないかんやろ」

 口々に言う、「あそこ」がなんなのか、さっぱり分からず、しばらく彼らに引っ張り回されて新興住宅地を歩き回った。

 新興住宅地から外れ、古い家並みの区域に入っていく。昭和然とした家々と高いブロック塀に囲まれた道を進んでいく。

 道の先、丁字路の突き当たりに立派な門が見えてきた。

「あそこっちゃ」

 少年の一人が指を差す。

 私は顔を上げて、その古い門を見た。古い門に張り巡らせた虎ロープに不安を感じる。

「ここ、誰も住んどらんっちゃ」

「空き家っちゃん」

「ここ入って、中にあるもん持ってこれたら、一緒にサッカーしよ」

 彼らが何を言っているか、さすがに分かった。ニヤニヤ笑っている少年達の顔つきに、やはり悪意を感じた。

 少年の命令を素直に聞くべきか私は迷った。虎ロープが張り巡らされている門を、呆然と見上げることしか出来ない。

 私を囲む四人の少年達は、私の困り果てた様子を見て、ますますニヤニヤと嫌らしげに顔を歪めて、口々に「早く入れ」と急かした。

 私は空き家に入らずにすむ言い訳が自分の頭の中にない、焦りながら探す。勇気を出して「嫌だ」と言えたらよかったが、日に焼けた体格の良い少年達に囲まれると、圧を感じて何も言えなくなった。

 辛うじて、「勝手に入ったらいけないんじゃないの」と弱々しく漏らす。

 すると、少年の一人が得意げに、「俺は入った。何もなかったっちゃん。普通の家やけぇ」と言い放った。

「そうっちゃ。中に入って、何でもいいけ、取ってきたらいいっちゃん。簡単やろ?」

「早よ、行きぃ」

 口々に「早く行け」と急かし出す。

 何故、空き家といえど他人の家に入らねばならないのか、当時の私には理解できなかったが、今になってみると、それは少年達の仲間になる為のイニシエーションであり、胆力を示す行為だったのだろう。

 私は門を見上げる。開いた扉の向こう側には、鬱蒼と茂った庭木が放置されて四方八方に枝葉を伸ばしているのが見えた。もっと向こうに、玄関のガラスの格子戸が見えて、しっかりと閉じてあるのが分かった。

「鍵がかかってるかも」

 苦し紛れに私が言うと、たたみかけるように少年達が言葉を重ねる。

「鍵はかかっとらんよ」

「みんな、入ったっちゃん」

「ぜんっぜん、怖くなかったっちゃ」

「そうっちゃんね、何も出らんかったし、平気っちゃ」

 その言葉を聞いて、ますます不安になる。彼らが出ないと言っているのは何なのか引っかかる。

「何か出るの?」

 聞きとがめるように訊ねると、少年達が顔を見合わせてクスクス笑った。

「戻ってきたら教えちゃる」

「入らんとね」

「な?」と言い合う姿を見ていると、やはりこの空き家には何かあるのだろうと感じられた。

 背中を押されて、虎ロープが私の胸に当たる。

 渋る私の態度にとうとう痺れを切らして、思わず手が出てしまったようだった。

 少年達は悪びれもせず、今度は強い口調で私に詰め寄る。

「早よ、行けっちゃ」

「俺ら、外で見張っとるし。なんかあったら呼んじゃるけ」

「早よ、行けや」

 肩や背中を小突かれて、よろよろと私の足が虎ロープに当たる。後ろを振り向くと、逃げ場を塞ぐように横一列に少年達が並んでいた。

「戻ってきたら、サッカーに混ぜちゃるけぇ」

 本当にサッカーの仲間に入れてくれるかも分からないし、ここまで強引に詰められると、むしろ仲間になど入りたくない気分になった。

 ただ、自分にはもう逃げ場がないというのは理解できた。

 恐る恐る足を一歩前に出す。体をかがめて、虎ロープの隙間から門の中へ入った。

 背後から、「なんか取ってきぃよ」と声を投げかけられる。少年達の無情な言葉に、私はのどの奥がぐぅっと引きつるのを感じた。

 門の内側に入り込むと、それまで肌を刺していた日差しが遮られたせいか、すぅっと温度が低くなった。

 雑草の青臭い匂いが辺りに充満している。玄関前の庭にぼうぼうと雑草が蔓延り、地面を覆い尽くしている。

 イネ科の植物の葉が、歩く度に脛を引っ掻いて皮膚を掠める。鋭い痛みを感じて足を見ると、うっすらと一筋の血がにじんでいるのが目に入った。

 雑草を避けられるようなものもなく、私は痛みを我慢しながら、石造りの玄関に辿り着いた。

 後ろを振り向くと、門の向こうから、目をらんらんとさせた少年達がじっと私を見ている。

 もう逃げ道はない、このまま玄関を開けて中に入るしかないと、私は諦めて覚悟を決めた。引き返せば、何をされるか分からなかったからだ。

 目の前のガラスの格子戸から中を覗くが暗くて何も見えない。

 心が縮こまるのと同時に、温度が一層下がったように感じた。昼でもなお暗いその空き家に、一人で入り込むという恐怖が、うなじから背筋を通り、尾てい骨をひやっとさせた。

 そっと引き戸に手をかけて、横に引く。鍵はかかってないと言われたとおり、すんなりと引き戸が開いた。

 思わず、後ろを振り向く。門の向こうで少年達が興奮したように手を振っているのが見えた。

 私は引き戸の内側に身を滑り込ませて中に入った。

 途端に、まるで冷蔵庫に入ったような寒気に襲われて、鳥肌が立った。あまりにも露骨に鳥肌が立ったので、さっと手を腕に這わせた。つぶつぶと毛穴が収縮している。

 あれほど暑気に汗を掻いていたのに、嘘のように汗が引いていた。むしろぞくぞくと震えがくる。無意識に両腕に手を這わせて擦っていた。

 暗い玄関の三和土に立つ。引き戸の隙間から外の空気が塊になって押し入ってくる。同時に家の中の空気が蠢くのが分かった。空き家の奥から漂ってくる埃の臭いが鼻を突く。

 玄関には据え付けの靴箱があるきりで、スリッパもなければゴミすらない。上がりかまちに埃がうっすらと積もっているだけだ。

 最近、誰も家の中に侵入していないのか、足跡もついてないのを見て、少年達が口から出任せを言っていたのだと悟った。それともずいぶん昔に入ったきり、何年も経ってしまって新たに積もった埃に足跡が埋もれてしまったのか。

 そのときの私に、それを確かめる術はない。意を決して土足のまま、上がりかまちに足をかけて家の中に入っていった。

 玄関をあがるとすぐ、左右に短い廊下がある。

 目の前に引き戸があった。そこから、埃とも違う、ヘドロのような動物園の臭いを強くしたようななんとも言えない悪臭が漂っている。

 本能的に引き戸を避けて、左へまず曲がる。左手にドアがあり、そっと開けて顔を覗かせた時、真向かいに動く影が目に入り、私は悲鳴を上げてドアを閉めた。

 壁に背中を張り付けて、息を整える。もう二度と目の前のドアを開ける勇気がない。すでにこの空き家から出たくてたまらない。クラスメイトよりも、この家が怖い。

 ただ、そのときの私は無理矢理やらされたのだとしても、何か持ち帰ることはすべきだと思い込んでいた。

 この家は恐いけれど、表に出れば、クラスメイトとのこれからの学校生活が待ち構えている。その長いであろう日々が脳裏を過って憂鬱になった。

 何でもいいから残留物を持ち帰ろうという気持ちを奮い立たせて、今度は反対側へ進んだ。突き当たりにドアが二つあった。どちらも開け放たれている。

 学習机とマットレスだけ置かれたベッドが、それぞれの部屋にあった。もしかしたら子供部屋なのかもしれない。

 ここには子供が二人住んでいたんだろうかと、幼心に考えた。

 部屋は綺麗に片づけられていて、何もなかった。

 売り家と表の塀に張り紙があったが、本当に売りに出しているのかもしれない。

 廊下を歩く度に埃が舞って、私はむずむずする鼻を指で掻きながら、突き当たりを左に曲がった。

 またも左右に分かれた廊下があった。右の突き当たりと目の前にドアがある。まず右の突き当たりのドアを開けた。

 思ったよりも綺麗な洋式便器があった。先ほどの悪臭の源はここではないようだ。私はドアを閉めて戻り、先ほどは通り過ぎたドアを開いた。

 ダブルベッドの輪郭が、閉ざされたカーテンの隙間から漏れる昼の日差しに照らし出される。ドアを開けた反動で、積もった埃が宙を舞って、漏れ出た日差しに当たり、小汚い埃のくせにキラキラと輝いて見えた。

 鼻がむずむずして何度かくしゃみをする頃には肌寒さにも慣れて、心に余裕が出てきた。

 ここは何もない、単なる空き家なのだ。何もないから、持ち帰られるものがなくて反対に困るほどだった。

 部屋を出て、今度はトイレとは反対側の廊下を進む。あの悪臭がかなりきつくなる。躊躇したが思い切ってドアを開けた。

 ドアを開けた瞬間、ハッとする。

 薄暗いリビングとダイニング、キッチンが視界に入る。埃が積もっているとは言え、ぽつんとダイニングに据えられているテーブルと四脚の椅子に、さっきまで誰かが席に着いていたような、やけに生々しいイメージが脳裏に浮かんだ。

 私はゴクリとつばを飲んで、ゆるゆると息を吐いた。鼻で息をすると、強烈な大便の臭いがするので、間が抜けたように口を開けて息をした。

 だれかがいたような気配はまだ漂っている。人の家に上がったときのような緊張感が生じた。

 それまでじっと見つめていたダイニングのテーブルから目をそらして、リビングを眺める。

 天井から下がった照明が大きく揺れている。

 何故、あのとき、私の目には何も映っていなかったんだろうか。もしも、真正面でそれを見ていたら、きっとすぐさま逃げ出していただろうに。

 何も分かっていない当時の私は、そろそろとドアからリビングへと入ったが、何事もなかったので、ほっと息をついた時、床に何か落ちていることに気付いた。

 リビングの中心、照明の下に、紙切れが落ちていた。拾って見てみたら、一枚の家族写真だった。多分この部屋の写真だ。幸せそうに家族が笑って写っている。それを、私は残留物としてポケットに突っ込んだ。

 目的を果たして、すっかり気を緩めた私は、少し余裕が出てきて、警戒を解いた。

 リビングの右手に座敷があった。二十センチほどの段差がある座敷で、奥に押し入れと床の間があった。床の間には棚も何もなく、何かをはめ込んでいたような跡がある。今思えば、それは仏壇だったのかもしれない。

 座敷の畳は痛んでささくれ立っている。素足だったらきっとチクチクと足裏に畳のい草がこすれただろう。

 空の床の間よりも押し入れに寄っていき、私はゆっくりとふすまを開けた。

 上段と下段に分かれた押し入れだった。布団やざぶとんのようなものもなく、空っぽの押し入れに、私はいささかガッカリしてしまった。

「なんだ、何もないじゃん」

 思わず漏れた自分の独り言に、応えるように背後から物音がした。

 私は心臓が飛び上がらんばかりに驚いて、体が固まってしまった。押し入れの前から動けないでいると、その気配はギィギィギィと何かが軋む音を立てている。

 何かいる。

 私の額に冷たい汗が浮かぶ。背中に感じる圧迫感が、氷のように冷たくて重たい。

 やばい、と私は頭の中で連呼していた。

 しかし、恐怖が頂点に達すると思いも寄らぬ行動を取ってしまうのか、私は音の正体が何でもないものだと思いたくて、振り返ってしまった。

 目の前に、さっきまでなかったものがあった。

 照明の下で振り子のように、ギィギィギィと音を立てて揺れている。

 異様に長い首をしていて、舌が口から、目玉が眼窩から、溢れて飛び出している。その目が私をじっと見ていた。

 ゆっくりと視線を降ろすと、床に黒い水たまりが出来ていて、白い蛆虫が湧いている。気がつけば、たくさんのハエがわんわんと部屋中を飛んでいた。

 今の今まで、本当に気付かなかった。すっぽりと死体のことだけが視界に入っていなかった。

 目の前には首吊り死体、背後には別の何かの気配を感じていた。

 背中に寄り掛からんばかりにひっついてくる存在が、痰が絡んだようなゴロゴロとしたと息を漏らしつつ、私の耳元にへばりついてくる。

 全身の毛穴が窄まって、毛が逆立つ。髪の毛が頭のてっぺんまで引っ張り上げられるような怖気が走った。

 口で息をしていたら、思わず声が漏れそうで、声が漏れたらますます気配がひっついてきそうで、私は思わず鼻で息を吸った。

 鼻の奥にガツンと一撃食らったような悪臭に目の前がくらくらし、強烈な吐き気を覚えた。止めようもない嘔吐きを繰り返す。酸っぱいものが喉奥からせり上がってくる。

 気配がとうとう私の背中にのし掛かり、耳元で呻いた。押し潰された喉で辛うじて吐き出される声。

「完璧な家族になろう……」

 その途端、私は吐きながら悲鳴を上げた。腰が抜けて這いつくばり、ダラダラと口から汚物を垂れ流しながら、目の前の押し入れの下段に逃げ込んだ。息をするのも忘れて、ふすまを閉める。しばらく身動きできなかった。ふすま一枚隔てた向こう側に、得体の知れない何かがいる。

 ふすま越しに、「完璧な家族になろう……」と、風のような掠れた声が聞こえてくる。

 ギィギィギィと音を立てながら、何度も私の隠れた押し入れの前を往復している。

 見えたわけではないのに、ふすまの向こう側にいるものが、首を吊った死体だと何故か分かっていた。

 絶対にここから出てはいけない。私は吐くものがなくなって引きつるみぞおちをさすりながら、萎えた足から這い上がる恐怖と闘っていた。

 それがいるふすまから遠ざかろうと、じりじりと尻を奥へ奥へと詰めていった。

 とすっと、尻に何かが当たる。押し入れから出し忘れた布団か何かだろうと、私は咄嗟に振り返った。

 真っ黒に塗りつぶされた闇の中に、二つの白い眼球が浮かんでいた。うがいをするような聞き取りにくい声が、「完璧な家族になろう……」と発した。

 生温かな何かが私の顔に飛び散る。鉄臭いそれが頬を伝って滴った。

 私は自分でも聞いたことがないような奇声を上げて海老反りにのたうち、そのまま意識を手放した。


 気付いたとき、私は病院の清潔なベッドの中にいた。

 両親が心配そうに私を見下ろし覗き込んでいる。

 その後、両親は私の口から何があったのかは聞き出そうとしなかった。多分、思い出させてショックを受けないようにという配慮だったのかもしれない。

 その代わり、何度か警察の人が来て、空き家に入ったことを訊ねてきた。

 怒られるのかと思ったがそうではなく、本当に何があったかを聞き出そうとしていた。

 けれど、もう二度とあの出来事を思い出したくなかったので、固く口を閉ざし、誰にもあの「何か」について説明しようとは思わなかった。持って帰ったはずの家族写真もいつの間にかなくしてしまった。だが、それでいいと思った。

 心の底から、あの空き家に関わり合いたくなかったのだ。


 結局、私が病院に担ぎ込まれた経緯を後から知ったのだが、空き家の中から私の尋常でない悲鳴を聞いたクラスメイトの少年達が、近所の大人に助けを求めて、救急車で病院に運ばれたらしい。

 校長先生と担任の立ち会いの下、少年達は私に謝罪し、それで手打ちとした。

 私はあの廃墟から何も持ち出せなかった。しかし、この一件で、クラスに私の居場所が出来たのは確かだった。



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