忌み地 第七章 結花子 ①
結花子は急いで自分の荷物をまとめ、谷地の家を出ようとしたときに、突然スマホが鳴った。その音に驚いて、慌ててスマホの表示を見ると、壱央からの電話だった。
なぜこのタイミングで彼から電話があるのだろう。今まで無視してきたのに突然なんだろう。訝しく思いながら電話に出ると、壱央の声が聞こえた。
「井野さん。今まで電話に出られなくてすみません。今ご自宅ですか?」
「はい、家にいますけど……。今までどこにいたんですか? 私、何度も電話をしたのに」
思わず、結花子は壱央を詰った。
「すみません。宮古島に帰って祖母について修行してたんです」
「修行を?」
「あなたの家にかかった呪詛やあなたにかけられた呪詛を解くための修行です」
それを聞いて、結花子は安堵してほっと息をついた。一人で戦わねばならないと覚悟していたが、正直不安でならなかった。
「壱央さんに言われたとおり床下を調べたんです。そしたら赤ちゃんの骨がたくさん埋まってる井戸を見つけたんです。井戸はちゃんと魂抜きをして埋めたのに、何も変わらなかった。前より酷くなってるんです。壱央さんは今どこにいるんですか」
「列車に乗ってます。そちらに着くのは夕方になると思います。でもそれより早くその家から逃げてほしいんです」
「どうして」
まさに逃げようとしているのを見透かされたように思った。
「祖母が言うには、井野家には二つの呪詛がかけられてるんです。その家にいたらあなたもおなかの子も危ないんです」
「私、家を出る支度をしたところなんです。でもどこに逃げたらいいかわからなくて」
結花子は雪見障子の向こうにある仏間から、今にも人形たちが迫ってくるのではないか、と恐れながら答えた。
「駅で待ってくれてたら迎えに行きますから、一緒に都心まで行きましょう」
「わかりました。でも、人形はどうしたらいいですか? 捨てても戻ってくるし、どこにいても現れるんです」
結花子は必死に現状を訴えた。人形をそのままにしておけばきっと追いかけてくる気がしたのだ。
「燃やしてください。燃やして呪詛の容れ物を奪いましょう。その呪詛は仏間から出ることが出来ないはずです。それよりももう一つの呪詛が発動してないことを祈るばかりです」
そう言われてみれば、女や赤ん坊たちが出るのは廊下までで、雪見障子より先に行けないようだった。
「もう一つの呪詛って何ですか」
「僕の見立てでは、意図して作った呪詛ではなくて偶然の産物としか。人形を燃やすことでそれが表面化するんじゃないかと」
「燃やせばいいんですね」
「僕が行くまでに燃やせますか」
「頑張ってみます。早く来てください」
結花子は啓示を受けたように感じた。人形と関わっていまだに生きているのは壱央だけだ。その彼が自分のために修行をしてくれた。心強くて涙が出てくる。
電話を切った後、玄関にスーツケースとボストンバッグを置き、庭に面したサッシを開いて、仏間へ行った。
湿気た空気が充満していて、腐臭もいまだに消えない。暗がりの中に人形が鎮座して、ふすまを開けた結花子のほうを一斉に見たように感じたが、何も見なかったと自分に言い聞かせて、両手に持てるだけの人形を掴む。どこからともなく猫の鳴き声が聞こえ始めた。掴み上げた人形には重みがあり、力が抜けた子供のようにぐんにゃりとしている。その感触が視線などよりもずっと気味が悪かった。人形を庭に放ると、ドサリという鈍い音を立てた。それを繰り返して、四十一体の人形を全て庭へ移動させた。
納屋から灯油の入ったポリタンクを持ち出して、中身を人形たちにぶちまけた。手にマッチを持って、マッチ箱の側薬にマッチの頭をこすりつけて火を付けた。
灯油をかけられた人形の表情が、気のせいか険しくなるのがわかった。
急に空気がざわついてくる。まだ夕方には早い時間帯なのに、ふっと日が翳ったように暗くなった。なぜか鮮明さが抜け落ちてモノクロに見える景観に、結花子は目を見張った。足がぬかるみを踏んでいるような、不安定な地面に立っている感覚に襲われて下を見た。
靴が水を踏んでいる。気がつけば辺り一面に葦が生え、地面はぬかるみ、所々水に沈んでいる。目の前にあるはずの人形の山はなく、結花子は無音の湿原にたたずんでいた。
「な、に……?」
状況がつかめず、自分の正気を疑った。けれど靴に染みてくる冷たい水の感覚は夢とは思えない。空を見上げると天弓は雲に覆われてどんよりとしている。重たそうな雲から今にも水が滴ってきそうだ。
葦の向こう側から、静寂を破るように水音が聞こえた。誰かが歩いてくる。軽い足取りではなく、重たいものを背負っているような、ぬかるみを踏みしめる音だ。結花子はただ息を潜めることしか出来なかった。
自分を囲むように生える葦の隙間から、男が全裸の女をかついでいる姿を見つけた。
男は色白の腹が膨れた女を無造作にぬかるみに下ろした。女の手足がぐんにゃりと力なくぬかるみに伸びる。死んで間もないのだろう。
あの男は死体をこの湿地に捨てに来たのだ。なぜそんなことがわかるか、結花子にも見当が付かないが、この情景を何度も見た覚えがある。
男はおもむろに、女の死体の両ももを開いて下半身を押し込み、腰を動かし始めたのを見て目をそらそうとしたが、首が動かない。この光景がなんなのか、結花子はようやく気付いた。谷地の家に越してきてから何度も嫌というほど見せつけられた悪夢だ。きっと犯されている女の魂はまだ体の中にあるのだろう。見開かれた瞳に映すのは、自分を犯している男の顔だった。
男が腰から鉈を取り出した。まだ柔らかな女の腹に鉈を当てて、二つに裂く。体温が残る胎内から血まみれの赤ん坊を取り出した。死んだ赤ん坊はぐったりとして、男の腕の中にある。男に腹の中をかき回された女の首が、かくんと結花子のほうに向いた。その目が助けを求めているように見えた。その目には我が子を奪われたという、深々とした憎しみが込められている。白濁した瞳が結花子に復讐をしろと迫ってくる。
この男は以前から疫病で死んだ孕み女を犯しては、その腹から赤ん坊を奪ってきたのだろう。あまりにも手際がいい、初めてやったとは思えない。男はその赤ん坊をどうするのだろうか。赤ん坊の死体を持ち帰り、何をするのだろうか。追っていきたいが、両足はぬかるみに足を絡め取られたように動かない。
井野家が代々子供を失ってきたことと関わりがあるのだろうか。しかし、この男は仏間で赤ん坊の指を鉈で切り刻んでいた男とは別人だ。
まとまりのない思考が結花子の脳内を駆け巡る。
湿地を埋め立てたのは誰だったか。初代当主は湿原を埋め立てたときに何をしたのか。死体放置の土地をなぜ自分のものにしたのか。そして、井戸を作ったのは誰なのか。四十体の赤ん坊の骨を井戸に捨てたのは誰だろう。代々、当主の第一子がなぜ死ぬのか。初代当主の養子はどこからもらわれてきたのだ。
結花子の脳裏で夢の断片が組み合わさる。
夢の中で、孕み女の腹から取り出した赤ん坊が声を上げて泣く。死体から生まれた赤ん坊はどこへ行ったのか。
走馬灯のように夢に夢が重なっていく。欠けていたピースが少しずつ嵌まっていくような気がした。
最後に、結花子の脳裏をかすめたのは、腹を裂かれた孕み女はどこのピースを埋めるかけらなのだろうと言う疑問。
結花子の手から火の付いたマッチが落ちる。気付いたときには人形が勢いよく燃えている最中だった。錦の着物や質素な麻の着物まで、様々な布地を炎の舌が舐めていく。桐塑に植え付けられた頭部の人毛が焼ける臭いとは違う、肉の焦げていく臭いが灯油の臭いに混じり鼻をつく。夢から覚めたような心地で、結花子は呆然と立っていた。
辺りはすっかり暗くなっていた。それでも庭は人形たちの燃えさかる火に照らされて明るい。
「何してるんだ!」
背後から聞こえた怒声に、結花子は飛び上がらんばかりに驚いた。夢心地の寝ぼけた状態から現実に引き戻された。
「俺たちの福の神が……」
まだ二十時になっていないのに、目の前に夫が立っていた。わなわなと震えて動揺しているのが手に取るようにわかる。
「これは福の神なんかじゃない」
結花子の言葉に、半泣きの夫が庭に靴下のまま降りてきて両手を炎に差し伸べた。
「何言ってる。人形で福の神を作るんだよ。ほら、これを見て。これを人形の中に詰めたら完成するんだ」
そう言って、夫が上着のポケットに手を突っ込み、小さな赤く染まったかけらを摘まみ出した。夫の言っている意味が少しだけわかった。木彫りの人形の中に詰め込まれていた骨のかけらが何なのか。
「でも、この子の命が引き換えなんでしょ」
夫が激しく頭を振る。
「違う、代わりがいるんだ。それを人形に。この子たちが教えてくれたんだよ」
炎に巻かれて人形の頭がバチンと弾けて崩れていく。
「駄目だ、燃やしたら駄目だ!」
夫が炎の渦巻く人形たちの山へ駆け寄っていった。火が付いているにもかかわらず、炎の中へ両手を伸ばして火を払おうとした。
結花子はその様子をジッと見つめていたが、夫が炎に手を伸ばして燃えている人形を取ろうとしたときに、とんと夫を火の中に突き飛ばした。夫が人形に蹴躓き、転んだ。化繊で出来たスーツにあっという間に火が燃え移る。驚いた表情で夫が結花子を見上げた。
「この子の代わりって亜美の子供のことでしょ」
その瞬間、夫が絶叫した。立ち上がろうとするも、人形に足を取られてまた転ぶ。絶叫しながら人形の残骸の上でバタバタと転がり続けた。
それを結花子は無表情で眺めた。炎が全てを浄化するように燃えさかっている。炎に巻かれて夫が次第に動かなくなるのを静かに見ていた。
「どうしたの!」
隣家の悦子が駆け寄ってきて、燃えている寿晶に気付き言葉をなくしたように手を口に当て、一呼吸置いてから叫び始めた。
「きゅ、救急車! 救急車呼んで!」
悦子の夫も駆けつけてきて電話をしている。誰かが消化器を持って来て、燃え盛る炎に浴びせた。リン酸アンモニウムのツンとした臭気が庭中に広がる。
周りが騒がしいのに、結花子はそれに気付いてない表情で焼けただれた夫に目を向けて眺めていた。
「井野さん、座って。気持ちを落ち着かせてね。今から病院に行くけど、一人で大丈夫?」
結花子はゆっくりと顔を上げて、悦子を見やった。
「大丈夫です……」
「旦那さんもきっと大丈夫よ」
優しく話しかけてくる悦子に連れられて救急車に乗り込んだ。
人形の残骸の上で固まっている夫をストレッチャーに乗せて救急隊員が運び入れてきた。夫の口に酸素ボンベを付けられると、わずかに夫が動いた。ピクピク動いていたがやがてその動きは止んだ。
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