リバーサイド■■南には禁止事項が3つある 某所にある、とあるマンション 【中里 亜都里】 ②
キッチン側に備え付けられた急な階段を上がると、実家の自分の部屋より広いロフトがあり、背の低いカラーボックスが壁際に三個置いていて、中は空っぽだった。残念ながら布団は処分されていたので、頭の中の買い物リストに加えた。
ロフトは奥まっているせいか、少し薄暗かった。間接照明がいるなと思い、それも買うことにした。
ロフトから降りて今度は風呂場を見に行く。風呂場に入る手前に洗面台と脱衣所があり、洗濯機も備わっている。風呂とトイレが別になっていて、実家の風呂場よりも真新しく広くて驚いた。
新生活をこんなに綺麗なところで暮らせるのが嬉しくてたまらない。
1Kロフト付き。家具や家電も付いて月二万円は破格だ。社宅のことを教えてもらえて良かった、聞かなかったら知らないままだった。聞かないままだったら、今頃住むところにも困っていたかと思うと背筋がひやりとしてくる。
だから白石さんが玄関に佇んだまま中に入ってこないこともぜんぜん気にならなかった。
「すごくいいですね。内見できて良かったです」
「気に入っていただけて安心しました」
玄関から一歩も動かず、白石さんが手に持った封筒から書類を取り出した。
「簡単にご説明しますね」
そう言って文字が印刷してある紙をわたしに手渡した。
「三つ注意事項がありまして……」
と言って、紙に書いてある文字列を読み上げた。
『二十時以降のエレベーターの使用はお控えください。ゴミ集積所での喫煙はご遠慮ください。夜間の騒音は住人のみなさんのご迷惑になりますのでお控えください』
どれもありがちな内容だったけど、エレベーターのことだけ引っかかった。
「二十時以降、エレベーター使えないんですか?」
素朴なわたしの疑問に、白石さんが説明してくれた。
「オーナーさんからのお願いなんですよ。二十時以降に利用すると不具合が出るらしくて」
「不具合? 故障してるんですか?」
「故障というわけじゃないんです。とにかく夜の利用は控えてほしいとだけ」
オーナーさんの都合では仕方ない。別に三階まで階段で上がるのは苦じゃないので、素直に注意事項を守ることにした。
それに実家にいた頃のことを思うと、エレベーターに変な決まり事があるくらいでここに住むことをやめたり渋ったりするのは馬鹿らしい。義姉や家族から毎日軽んじられ物置に追いやられて自由な時間が少なかったことに比べたら天国だ。
ここではもう自分を押し殺したり、家族のわたしに対する仕打ちを気付かないふりをしなくていい。それだけで、救われた気分になる。
「それじゃあ、これが部屋の鍵です。何か分からないことや困ったことがあったら、いつでもこの電話番号に連絡を下さい」
白石さんから電気水道が使えることを教えてもらい、ガス開栓の仕方やシステムキッチンの取扱説明書などの書類と、まるで宝物のように見える銀色の鍵を受け取った。単なるステンレスの鍵なのに、わたしには光に煌めく特別なものに見えた。
大切にしようと思うと、自然に口元が緩んだ。
「一人暮らし、初めてですか?」
白石さんが鍵を握ってにやけているわたしに聞いてきた。生まれて初めての一人暮らしだけど、不安はひとかけらもなかった。
「はい、でもすごく楽しみです」
すると、白石さんが真顔になって話しかけてきた。
「本当に困ったことがあったら相談してくださいね。電話、して下さいね」
白石さんはとても心配性なのか、それともこれも仕事のうちなのか、わたしには判断が付かなかったけれど、彼女の気迫に押されて思わず頷いていた。
わたしの反応に安心してくれたのか、白石さんが微笑んだ。
「これから買い物ですか?」
布団や生活用品を買おうと思っていたので、その通りだと返事をした。
「散歩してみようかと思ってます」
「いいですね。この辺り、古い町並みが残っていて結構ノスタルジックな雰囲気ですよ」
白石さんにいろいろと教えてもらって、スーツケースを部屋に残していっしょにマンションを出た。彼女の車を見送ったあと、ここからが一人暮らしの第一歩だと気合いを入れて、買い物の為に繁華街へ向かった。
デパートで引っ越しの挨拶に無難なタオルを買ってきた。生活用品を両手に提げて持ち帰り、布団一式は明日配送の手続きを取った。明日からは多分マンションで暮らせると思う。ただ今日は布団とバスタオルがないので、ネカフェで一泊することにした。
とりあえず、手土産のタオルを手提げ袋に入れて挨拶回りに廊下に出た。退社時には少し早い時間だったせいか、三〇二号室は留守だった。二○三号室は空室で、その証拠にドアノブにガス開栓の案内の用紙が透明な袋に入れられて紐で下げられている。改めて出直すことにして、最後に三〇三号室の上階に当たる四〇三号室のインターフォンを鳴らした。二回ほどインターフォンを鳴らしてみたがなかなか出てこないから、もしかするとこの部屋も今は留守なのかもしれない。そう思ってドアから離れたとき、錠の外れる音と軋みながらドアが開く音が背後でした。
ハッとして振り返ると、赤いニットセーターを着た女性がドアを開けてわたしを見ていた。
「どなたですか」
女性に声をかけられて、慌てて駆け寄って頭を下げる。
「あの、三〇三号室に越してきた中里です。これ、つまらないものですけど」
手提げ袋から包みをひとつ取り、両手に持って差し出した。
「下の部屋、新しく入居されたんですねぇ。わたし、堤と言います。よろしくね」
女性は多分三十代後半で、長い黒髪を耳にかけている。優しい声音が耳に心地よくて、何故か緊張がほぐれていく気がした。
「下の部屋って言うことは、社宅に入られたの?」
「はい。オリエント株式会社です。今年からここで働くことになりました」
堤さんってなんだか話しやすい人だなと思いながら、挨拶を済ませてそれじゃあと頭を下げたとき、堤さんが「あのぉ」と遠慮がちに言いよどむ。
何だろうと思っていると、堤さんが恥ずかしそうに口を開く。
「わたし、お料理作り過ぎちゃうから、出来たらでいいんだけど料理をお裾分けしたいの」
「え……と」
困惑して口ごもってしまう。でも、堤さんのはにかみながら話す言葉に、なぜだか強く惹かれてしまった。彼女の言葉を漏らさず聞こうと耳をそばだてた。
「今ビーフストロガノフを煮込んでる所なんだけど、寸胴鍋で作っちゃって、ちょっと……、ね?」
寸胴鍋というとレストランで見かける大きな鍋のことだ。それいっぱいにビーフストロガノフを作っていると言うから、想像して少しおかしくなってしまった。
「ビーフストロガノフは好き?」
「はい、大好きです」
すると、ドアの隙間からビーフストロガノフの良い香りが漂ってきた。
「良かった。じゃあ、このあと持っていっても良いかな?」
「わたしで良ければ……」
「良かった! じゃあ、出来上がったら持って行くわね!」
相当嬉しかったのか、堤さんが両手を胸の前で組んだ。
「とっても助かる」
どれだけ作りすぎたのか聞かないほうが良いだろう。わたしは少し苦笑いを浮かべた。それでも、わたしのことを全く知らない新天地で、新たな人間関係を、円満なコミュニケーションが出来る関係を作れると分かって、激しく心が揺さぶられた。
地元の知人達には変な子供という目で見られてきた。まだ分別が付いていないときにやらかした失敗や昔のいじめっ子のせいで、地元にはわたしの居場所はなくて、家でもいないものとして扱われるか、家族の優越感を満たす為の存在として扱われてきたから、堤さんに純粋に優しく接してもらって、わたしは簡単に感激してしまったのだ。
白石さんにしても、田舎よりこうした小都市部の人のほうが心が広いのだろうか。わたしなんかに優しくしてもお返しするものなんてないし、思いつかないのに。
「わたし、お料理をするのが趣味なの。ただ、一人じゃ食べきれないくらい作っちゃうから、もらってくれるとすごい嬉しい」
本当にそう思っているみたいで、声が弾んでいるように思えた。
「こちらこそありがとうございます」
堤さんの優しい言葉がわたしの心に染み入ってきて、優しくされるのがこんなに温かなものだったんだってしみじみと感じてしまう。
「わたしで良かったら……」
もう一度頭を下げると、部屋に戻った。
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