リバーサイド■■南には禁止事項が3つある 火事 【中里 亜都里】
翌朝、早くから家を出るという川添先輩にほぼ追い出されるようにして、わたしはマンションを出た。
これからどうしようと悩みながら、スーツケースを持って繁華街まで歩いて行った。ネカフェに入り、仮眠を取ったり漫画を読んだりして過ごした。我ながら時間を有効活用できてないのは分かってる。でも、今は町を散策したり映画を見たり美術館に行ったりするような心の余裕がない。
仮眠を取ってようやく十八時になった。
この数日で財布のお金がどんどんなくなってきて、心許ない。なんとかネカフェで済ませるならあと二日は過ごせそうだ。ホテルに泊まったりしたらこの三倍はかかるだろうし、ゴールデンウィークに空いているホテルなんてない。
十八時になると■■はもっと人が多くなる。芋洗い状態とまでは行かなくても似たような混雑振りだ。
雑踏を避けて歩いていると、自然と繁華街を外れてマンション近くまで戻ってきていた。古い町並みと階層の高い商業ビルが混在する風景だ。
空はオレンジ色と紺色が複雑に混ざり合って、そろそろ夕闇に包まれそうだ。
外灯がポツンポツンと点き始める。外灯の明かりの届かない薄闇の中で全てが濃い紺色に沈んでいる。ますます光と闇を隔て、影を濃く見せている。
マンションの裏手通りを歩いていることに気付いた。なんだか見覚えがあると思ったら、廊下から見下ろした景色だ。ちらほらと看板に明かりが点っている。とても気になっていた純喫茶っぽい店の前に立ち止まる。
チカチカと明滅し照明が切れかけている、白地の看板に『るみにえ』と手書き風の黒いフォントで書かれてある。だけど表のガラス窓には『樫の木』とあった。どうやら昼間は喫茶店で、夜は明け方までスナックのようだ。
前々から気になっていたのもあって、わたしは好奇心からドアを引いた。
カランコロンと涼やかな鈴の音が響く。
「あら、いらっしゃい」
スナックを耳にしたことはあっても実際に入ってみたことがなかったので、勝手に想像していた。スナックのママは厚化粧で変な声音で喋るとか。
でも、出迎えてくれたママはエプロンをした七十歳くらいの小柄なお婆さんだった。
カウンターにはすでに先客がいてコーヒーを飲んでいる。薄い頭を隠すようにニットの帽子をかぶり、きれいに刈り揃えた白い髭を蓄えている。多分ママと同じ七十歳くらいに見えた。
わたしのスーツケースを見て、おじいさんが声をかける。
「ここには観光できたの?」
わたしは自分の格好とスーツケースに目をやって、苦い笑いを浮かべる。
「いえ、その……、観光客じゃないです。ここの正面にあるマンションに住んでます」
すると、二人が興味深そうな様子で口々に「へぇ」と呟いた。
「あなた、あそこに住んでるの?」
家が近くにあるのに帰らずにスーツケースを持っているわたしを、ママが不思議そうに見つめた。
「はぁ」
店内には五人掛けのカウンターと四人掛けのボックス席が二つ、二人掛けのボックス席が一つあった。きょろきょろと見回して二人掛けに座ろうとしたら、老人から声をかけられた。
「ここに座れば良いのに」
なんで声をかけられたか分からなくて戸惑っていたら、ママが老人の飲みかけのカップにコーヒーを注ぎながら言う。
「なんか、事情があるんじゃないの?」
「そっちに座ったら話が出来ないからねぇ」
何か根掘り葉掘り聞かれるのか、ここに入って失敗したかなと身構えると、老人が椅子を回してわたしのほうを向く。
「あのマンションに住むなんて奇特だね」
なんだか『リバーサイド■■南』のことを知っていそうな口ぶりだ。そうなると、わたしも老人達に話を聞きたくなった。
勧められるままに、老人の隣に座った。
「あのぉ、あそこについて何かご存じなんですか?」
すると、ママと老人が顔を合わせる。
「あのマンションは近所じゃ有名よ」
ママが言った。老人がその言葉に続ける。
「ついこの間もまたボヤを出したし、人が死んだろ?」
確かにたくさんの野次馬が近所中から集まった。みんなあのマンションに何かあると知ってるんだ。
「あそこには何か謂れがあるんですか」
「謂れというかねぇ、あそこは土地が悪いのよ」
「伊東さんもなんであそこ買ったのかねぇ」
「どういうことですか?」
「何か頼む?」
ママに言われてコーヒーをお願いした。
「そういえば、なんでそんなに荷物を持ってるの。帰るんじゃないならどっかに行くとこなのかい?」
老人がわたしのスーツケースをやたら気にしている。
「どこかに行くというか……、あのマンションに帰りたくなくて」
わたしは正直に告げた。ここで誤魔化したらあのマンションのことを詳しく聞けないかもと思ったからだ。
老人とママが、わたしの返答を聞いて『さもありなん』というふうに頷いている。
クローゼットで見たものは焼けて炭になった人間だと思う。人間があんなに大量に焼けて死んだから、土地が悪いんだろうか。火事に関連する夢を何度も見ているし、この人達が何かヒントをくれるかもしれない。じゃないと、何をしてはいけないのか分からない。夢の通りにしたらわたしは確実に死ぬ気がする。
「あそこねぇ、マンションが建つ前はアパートだったのよ」
「え? 駐車場じゃなかったんですか」
白石さんに教えてもらったことと違うので驚いた。
「駐車場にして、一旦土地を寝かせたんだろうね」
「でも、寝かせただけじゃダメだったのよねぇ」
どういうことだろう。
「駐車場の前はアパートで、やっぱり火事で全焼して何人か死んだんだよ」
「いつ頃の話なんですか?」
「わたしが若い頃からだから、だいたい五十年くらい前かな。今までにわたしが知ってるだけで二回は燃えちゃったわね」
ふんわりとコーヒーの香りが漂ってきた。
「二回もアパートが燃えたんですか?」
「いやいや、一回目は一軒家で二回目がアパート」
老人がコーヒーをすすりながら訂正した。
「どれも不審火だったんですか?」
マンションのボヤが不審火だったと聞いたので、関連があるのかと疑った。
「酷い話だよ……。アパートの火事はよく覚えてるよ。ガス自殺を図った女性がいてね、爆発した上、全焼して。人がねぇ」
「そうそう、何人もね」
「いつ頃の話なんですか」
老人が思い出そうとしてか、目玉を上に向けた。
「そうだなぁ……。確か、アパートは二十三年くらい前かな」
わたしが生まれる前の出来事なんだ。
「すごい昔ですね」
すると、ママがおかしそうにクスクス笑う。
「二十三年なんてあっという間よ、わたしらからしたら。ついこの間みたいな感じで」
「それでも俺が覚えてる一番古い火事は、無理心中で焼死した親子だなぁ」
親子の無理心中、それも焼死、と聞いてわたしは背中からうなじまでゾワゾワと寒くなった。あの声、あの夢。あれはやっぱり親子なんだ。どんな理由かは分からないけど、過去に実際にあったことだったんだ。
「家が焼けたあと、かなり長い間、女の幽霊が出るって噂が立ったな」
「幽霊?」
夢で見た過去のことなら、聞けるだけ聞いておかないと何があるか分からないと思って、もっと詳しく教えてもらうことにした。
「うん。半裸の女が立ってるって噂でね。体中黒く炭になっててな、死んだ娘かどうか判別もつかない幽霊だったらしい」
半裸で体が炭になって黒い……。あの黒い人間はやっぱり焼け焦げて死んだ人間だったんだ。黒い人間で出来た山も過去に死んだ人達なんだ。
過去に起こったことがどうして夢に出るんだろう。わたしがしてはいけないことは火事に関係すること? でもやっぱり火に関係することを避けるくらいしか思いつかない。過去のことを夢に見るのは初めてのことだから。一体どんなメッセージをわたしに送っているんだろう。
「なんで、火事が何度も起こるんだろう……」
わたしが呟くと、二人が顔を見合わせた。
「それは、さっきも言ったけどあそこが悪い土地だからよ」
「悪い土地……?」
老人が胸ポケットからたばこを取り出した。
「吸っても良いかな?」
「あ、はい」
たばこに火を付けて口にくわえると、たばこの先がジジジと赤く点る。深く吸って、顔をちょっと背けると一気に吐き出した。
「うん。悪い土地って言うのはな、人がたくさん死んだってことなんだ。ただ死んだわけじゃなくて、元々この辺りは江戸時代から遊郭があってな、戦後も長いこと赤線が近くにあった。それだけでは悪い土地にはならないが、マンションを建てるとき、あそこから古い年代の骨が大量に出てきたんだよ。江戸時代に寺があったらしくてな、明治の頃に移転したんだ。ひいじいさんが言ってたけどな、そのとき無縁さんだけ移動させなかったそうなんだ」
「あそこはねぇ、骨の上にマンション建てちゃったのよ。だから何が起こってもおかしくないわね」
ほんとほんとと、二人は頷きあった。
そのあとは、二人とも近所の噂話に花を咲かせ始め、わたしはその話に相づちを打っておとなしくしていた。
お通しを出されてお酒を勧められたから、コーヒーしか頼まずに出るのはダメかもと、ビールを二杯飲んだ。その頃になると近所から常連客がやってきてカウンターに座ってママや老人と話し始めたので、そっとお会計をした。
請求された料金に驚いたけど、スナックでは普通なのかもと素直に払う。まだ二十一時で、ひと晩外で明かすわけにも行かなくて、またネカフェに行くことにした。
ネカフェに行くと財布はスッカラカンになる。しかもキャッシュカードを通帳と一緒にマンションの部屋に置いてきてしまった。今夜戻るのはとてもじゃないけど無理だと思ったので、明日、なんとかしようと決めた。
翌朝、キャッシュカードと通帳を取りにいかなくちゃと、躊躇う足を無理矢理に『リバーサイド■■南』に向けた。気が進まないけど、一文無しで■■を彷徨くわけにはいかない。
エントランスを通って階段を三階まで上り、一番奥のわたしの部屋の前で立ち止まる。ドアノブに鍵を挿そうかどうしようか迷う。どうしても一人でこの部屋に入る勇気が出ない。クローゼットの前を通って、大事なものを入れたチェストに行くまでに何があってもおかしくない。穴だって部屋から逃げ出すときはなかったけど、今はあるかもしれない。
隣の部屋の川添先輩は帰省しているし、堤さんに何度もお願いするのは気が引けるし、それともお願いしたほうがいいんだろうか。どこまで頼って良いか加減が分からない。
どうしようもなくて、わたしはドアの前に蹲って途方に暮れていた。
日差しの角度が変わり、太陽が少しずつ上がってくる。新聞配達のスクーターが裏の道を通り過ぎるのがエンジン音で分かる。
時刻を確かめると八時になろうとしていた。
勇気を出して部屋の中に入ろうかと迷い始めたとき、頭上から声をかけられた。
「あれ? どうしたの?」
わたしは聞き慣れた声に思わず顔を上げる。
「堤さん……」
逆光を浴びて堤さんの顔がよく分からないけど、覗き込むように腰をかがめている。疲れきっているせいか、なんだか堤さんが大きく見える。その手には容器を持っていた。
「おはよう」
こんな所に蹲っているわたしを変に思っただろうか。
「おはようございます……」
堤さんは気にもしてないらしく、わたしに容器を差し出す。
「これ、作り過ぎちゃったから。昨日はどうしたの? 留守みたいだったけど」
「あ、あの……」
今は受け取れないと言おうと思って立ち上がった。
「今日は遠慮します……。いらないっていうより食べれないから……」
「食べれない? 具合でも悪いの?」
「違うんですけど……。その……、もし良かったら玄関で待っててくれますか? 実は一人で部屋に入るのが怖くて」
わたしは急いで鍵を開けて玄関に堤さんを招き入れた。
「わたし、ここで待ってれば良いの?」
「待っててください。お願いします」
急いで部屋に上がり、ベランダ側へ迂回してクローゼットを避けた。チェストの引き出しを開けて通帳とキャッシュカードと保険証など貴重品を掴むとバッグに詰め込み、クローゼットに目を向けないように玄関へ走った。
電気の点いてない薄暗い玄関に、容器を持った堤さんが佇んでいる。わたしは堤さんと一緒に外へ出た。
キャッシュカードを取りに行っている一瞬の間に決めた言葉を口にして頭を下げる。
「あの、またお願いして良いですか」
「どうしたの」
「今夜泊めてください……」
しばらく堤さんが黙っていたので、わたしは不安になって顔を上げた。
「今夜だけじゃなくても良いよ」
その言葉を聞いて、わたしは泣きたくなるくらいほっとした。毎日どこに寝泊まりしたら良いのか分からなくて、ずっと胸が苦しかったから。もう悩まなくて済むと思って心から安心できた。
「ありがとうございます!」
普通、何かあったのかとしつこく聞かれると思ったけど、堤さんはわたしの言葉をスッと受け入れてくれた。
わたしは堤さんに付いていって、四〇三号室に上がらせてもらった。
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