屍喰い蝶の島 御先様 ③
恐怖と混乱で悲鳴が漏れる。自分の狂乱を止めることができない。必死で木の枝を掴もうとするが、痛くて掴めず、枝は手をすり抜けていく。
誰も助け手などおらぬのに、救いを求めて金切り声を上げてしまった。
死ぬる覚悟すらなく逃げ惑うだけで、何の策も取れなかった。諦めの念が心を占めたとき、いきなり首が絞まった。ぐうっと喉が鳴る。息苦しさに手足をばたつかせた。
首根っこと髪を掴まれたまま、崖を引きずり上げられる。あまりの痛みに顔をしかめると涙が目元からあふれ出た。
ああ、死ぬる。殺すならば、早うせい!
わたしは喉が裂けそうな程に絶叫した。
「おお、活きがええな。姫とは思えんばあ躾がなっちょらん」
髪を掴まれたまま、地面に引き倒されて引きずり回される。
殺せ殺せ、とわたしは泣き叫んだ。
「おい、火丸。これでええか」
「おう、山を下りるぞ。誰か背負うちゃれ」
手足を縄でぐるぐる巻きにされ、抵抗もできず、男の背に担がれて和田津に連れ戻された。
体の自由は奪われたが、口はまだ残されている。わたしは喉が枯れるほどの大声で「殺せ」と声を張り上げた。
次の瞬間、頬を乱暴に張り倒されて唇が切れ、鼻血が垂れた。
「黙れ」
横を歩いていた火丸がわたしの頬を何度も何度も張り倒した。痛みと張り倒されたことで頭が揺れて、気を失いそうになる。口の中に血が溢れてあぶくと一緒に流れ出た。
ずいぶん長い間、朦朧としていたら、不意に地面に放り投げられた。背から落ちて息が詰まる。かすむ目で懸命に辺りを見ると、遠巻きに和田津の者どもが見物していた。このざまを嗤うために来たのか。
「てふ様!」
だれかがわたしの頭を支えて膝に乗せてくれた。まだ頭の中が震えて、声は聞こえても視界が二重になって見える。
「てふ様、てふ様」
わたしの口元をだれかが拭ってくれている。この声は住職だろうか。温かな滴りがわたしの頬に落ちてくる。ご住職が泣いている。まもなく死ぬるわたしのことを嘆いてくれているのだろうか。
「彦左殿と三郎殿が……!」
彦左と三郎がどうかしたのだろうか。そうだ、あの二人は逃げおおせたのだろうか。わたしが小屋で繕い物をしていたときは、多分海へ出掛けたと思う。あのまま崖沿いに泳いでいけば大浦だ。岩礁が多いと言っていたから、船では近づけないだろう。
「恒世に……!」
火丸の父親がどうしたというのか。
「首を……!」
声を詰まらせながら、ようやくそう言って、住職は嗚咽を上げた。
「彦左……三郎……?」
わたしは二人の名前を呼んで、辺りを見渡そうとした。不意に日が陰った。顔の上に何かがかざされた。ポタポタと滴る生温かな液体が、わたしの頬から鼻先に垂れた。ぷんと錆臭いような、魚をさばいたときのような匂いがする。視線を上に向けた。
火丸が、彦左と三郎の首を持って立っていた。わたしは驚いて声も出なかった。ようやく、事態が飲み込めたとき、思わず声が出た。
「嘘、嘘、嘘……! 彦左……! 三郎! 嘘、嘘じゃ、嘘じゃ嘘じゃ嘘じゃ!」
縛られた縄をもがいて解こうとしたが無駄だった。
「嘘じゃない。ちゃんと見ろ。今からこれを宗順殿に描いてもらう。平家の奴らを殺いて、首を届けるだけで食い物を下さる夜須様は誠にええ領主や」
都を落ち延びて、ずっとずっとともにいた。今や兄とも言える存在の彦左と三郎が、こんな下衆に首を斬られるなど、あってはならぬ。決してあってはならぬことなのに、何故このような……、惨たらしいことになるのだ。
「それにしてもきれいな顔がわやだ。顔を冷やしてもらえ。屋敷に着いたら、体も洗うてもらえ。新しい打衣も用意しちゅー」
何を言うておるのだ、この男は。殺すならば、今すぐ殺せ! 枯れた声で必死に訴えた。けれど、声はしゃがれて力も入らず、微かな吐息のように漏れ出た。
恒世の屋敷は惣領屋敷と呼ばれている。屋敷と言いつつ、粗末な家だ。その屋敷が山裾の急峻な坂にへばりつくように建てられている。
そこに連れていかれ、泥まみれ血だらけの体を漁師の女房達に洗われ拭われた。腫れてじんじんとする顔と、切り傷だらけ、マメの潰れた皮膚に軟膏を塗られる。
殴っていたぶるならば、傷の手当てをする必要などなかろうに。きれいな打衣も必要ない。
歩けないわたしを、男が負ぶって座敷に連れていった。恒世の女房らしき女が、わたしを支える。目の前にひげ面の恒世と、下衆な顔の火丸が座っていた。
「だれか話したか?」
火丸の問いかけに恒世の女房は首を振る。
「てふ、なんぼ京の姫といえども、こがな姿になるとそこら辺の婢と変わらんなぁ」
わたしは精一杯、火丸を睨みつけた。
「今は興が乗らんが、いずれ傷が治った頃、改めて相手をしちゃろうか」
火丸の顔が野卑に歪んだ。
厭な予感に、怖気が走る。後ずさろうとしたら力が入らず、板張りに転がった。
わたしはこれを境に、惣領屋敷に閉じ込められた。
辱めを受けて首を吊りたくとも、いつも和田津の女房どもに代わる代わる見張られて、京にいた頃のように下の世話を自分一人ではさせてもくれなかった。最初のうち、舌を噛み切ろうとして、猿ぐつわをかまされた。格子窓を両手で壊そうとして手を縛られた。口を塞がれて、腕も縛られ、横たわるしかない。
めそめそと自分の運命を嘆き悲しむことなどしたくなかった。隙を見て逃げ出し、命を絶ちたいと思っていた。
夜になれば、忌まわしい訪いがある。心の内で何度も数を数えたり、好きな歌を詠んだりして、早く果ててしまえと辛抱するしかなかった。
口惜しい、憎い、そればかりを念じ、わたしの上に被さる火丸が死ねば良いと思う。得物があれば眉間に突き立ててやりたいと、睨みつける。その目つきが気に入らないと見えて、度々目隠しをされた。
いつまでこんな地獄が続くのか。いっそのこと殺して欲しい。いや、火丸と差し違えて死んでもいい。その代わり火丸を魚をさばくように切り刻んでやろう。
いつしか憎しみだけがふつふつと育っていく。隙を見て殺してやると思うようになったら、死ねなくなった。おとなしいふりをするのを学び、そのうち拘束が解かれた。
締め殺しの木が見える部屋に移された。柵で塞がれた小さな庭で、井戸と締め殺しの木だけがある。
閉じ込められているのは変わりないが、女房の監視も和らいで、自由が増えた。
笑いもしなければ泣きもせず、無表情のわたしでも火丸は気にならぬらしい。征服したい、支配したいだけだから、屈服するまでこの生活は続くのだろう。
我が身を嘆き悲しむだろうと和田津の者どもは思うていたようだ。ふてぶてしいツラだという者が増えて、時折柵の向こうから覗いてきてはわたしをはやし立てた。
幾月が過ぎても心折れぬわたしに、火丸は次第に飽きてきた。火丸の来ぬ夜が少しずつ増えた。どうにしろ、火丸にとってわたしは面白き玩具なのだ。最初の頃よりも今のほうが火丸はいつでもわたしを殺すのに躊躇はせぬだろう。いつでも殺せると侮っている。わたしはそれを利用しようと思うた。
ある日、男どもが小舟で漁へ出掛けてからまもなく、まだ日も出ぬ薄暗い朝に激しい雨が降り始めた。大粒の雨に打たれて、庭木や井戸の蓋がばらばらとうるさい音を立てる。
わたしは雨の音で目を覚まし、御簾を上げて外を見やった。
雨音が蛙の声すら打ち消すほどの激しさの中、微かにわたしを呼ぶ声がしたように思った。聞き違いかと御簾を降ろそうとしたとき、もっとはっきりとわたしの名前が聞こえてきた。
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