忌み地 第四章 結花子 ③
壱央からの電話を切って、結花子は薄ら寒いものを首筋に感じ取った。
仏間の床下に何があるというのだろう。前にも壱央に呪詛だと言われた。そのときは信じてなかったけれど、壱央まで人形を視るようになったと聞き、結花子は人形と家から逃れられないのかと絶望した。それでも家全体に広がる気味悪い原因が全て仏間の床下にあるのならば、床下もきちんと調べて処理できれば対処すべきだと思った。
早速夫が帰ってきた夜に、勇気を出して言ってみる。
「お願いがあるんだけど」
夫がワイシャツを脱ぎながら、結花子を見る。
「なに?」
「業者を呼んで仏間の床下を調べてほしいの。カビの原因があるかもしれないから」
断られるのではないかと警戒しながら、結花子は夫に床下を開けてみようと説得してみた。
「いいよ」
反対されるのではないかと思ったが、夫はあっさりと承諾した。
「結花子がそれで気が済むなら床下を見てみよう。ただし四十九日が終わってからな」
案外すんなりとお願いを聞いてもらえて、結花子は胸をなで下ろした。
気がつくと結花子は暗がりの中、泣いている赤ん坊を抱いて立っていた。腕の中の赤ん坊が顔を真っ赤にして、泣き叫んでいる。生まれたばかりの赤ん坊で羊水に浸かっていたかのようにしわくちゃだ。よく見れば男児で紅葉のような小さな手を結花子に伸ばし、乳を欲しがっている。しかし、すぐにこれは夢だとわかった。なぜなら、腕の中の赤ん坊を足下にある穴へ放り込まねばならないという考えが頭を占めていたからだ。夢の中の結花子はそうしないといけないと思っているが、結花子自身はどこまで続いているかわからない、こんなに暗い穴へ赤ん坊を投げ込みたくなかった。その二つの思いにさいなまれている。
赤ん坊の泣き声がどんどん激しくなっていき、穴からも恨めしげに泣く声が響いてきた。
この穴は一体何だ、と結花子は疑問に思う。目をこらせばなんとか見える穴は、石造りの古い井戸だった。
途端に、頭の中に赤ん坊を投げ入れるイメージが浮かんでくる。井戸の底には累々たる赤ん坊が泣きながら這いずり回っている。井戸の底に溜まった泥の中を黒く汚れたそれらの泣き声が、穴の底から徐々によじ登ってきて結花子の足首に縄のように巻き付いてくる。
そうか、赤ん坊を井戸の底に放り投げて殺していたのだ。夢の中の結花子は確信した。すると、腕の中の赤ん坊が声だけを残し、グズグズに腐って溶けていった。悲鳴を上げて赤ん坊を放り投げたところで、目が覚めた。
夢が日を追うごとに具体的になってくる。いつ終わるのかわからない悪夢に寒気がした。
どこからか、猫の鳴き声が聞こえてきた。床下に住み着いている猫の鳴き声以外、虫の音すら聞こえない。猫の鳴き声が増幅されてあんな夢になったのだろう。そうとわかれば、悪夢への嫌悪感も和らいだ。
四十九日当日、親戚がぞくぞくと井野家に集まってきた。
その中には分家の篤もいる。夫も篤とは仲良くしているのか、談笑し合っていて、こうして見ると夫の毎晩の奇行などなかったように思える。それよりも誰も夫が仏間の人形に向かって夜中に話しかけているなど思いも寄らないだろう。
皆が集まった時点でぞろぞろと菩提寺を訪れて、昼過ぎには法事を済ませ、また皆で谷地の家に戻った。
親戚一同がふすまを外して広くした仏間や居間でくつろいでいる。
「ここに誰も住まないとなると、仏壇引き取らないといけないな……」
篤が夫に話している。それを夫が笑いながら、一ヶ月半前とは打って変わった様子で告げた。
「売るって話してたけど、売らないのもありじゃないかと思うんだ」
すると篤が怪訝そうな顔をしてみせる。
「どうしたんだ。急に考えが変わったのか。この家に住むなら今のままではかなり住みにくいんじゃないか? 結花子さんが苦労しそうだ」
「そうか、なぁ? 結花子、そんなことないよな」
いきなり結花子に話が振られて心臓が止まりそうになる。夫が、リノベーションなど必要ないと結花子に言わせたい空気を感じた。結花子はここを改装して住み続けたいとか、売らないでおくとか、そういうことなど一切望んでないのに、夫がそれを許さない。
答えに窮していると、篤が言った。
「俺も子供の頃、この家が嫌いでな。まず住みにくいし、黴びてるしで、いるだけで辛気くさくなるんだ。こう言っちゃなんだがこの家は人が住むようには造ってないと思うぞ」
すると、途端に夫が不機嫌になった。
「それに、おまえも大学進学して一人暮らしし始めてから、一体何回この家に帰った? 菊子の話じゃ、一度も帰ってなかったらしいじゃないか。寿浩が死んですぐに母親一人にして、菊子はずいぶん寂しかったみたいだぞ?」
今度は義父母の名前を出して、篤が夫を非難し始めた。
「わかってたよ。それは悪かったと思う。でも別にお袋が嫌いだったわけじゃない」
疑念の視線を篤が夫に送る。
「とりあえず、カビの原因はわかりそうだし、カビがなくなったらリノベーションを考えてみるよ」
夫が口にしたのは、あくまで住み続けるつもりの言葉だった。
「書類は不動産屋に渡してある。まだ決めてしまうには早いだろう。よく考えて決めなさい」
夫は篤に、いい加減な返事をして席を立った。法事についてきた子供が、床の間に置いてある人形に触ろうとしていたからだ。
「それに触るんじゃない!」
開口一番怒鳴りつけられて、子供たちは怯えた様子で夫を見上げた。周囲の大人たちも驚いて夫を見た。
「その子たちはお前らの遊び道具じゃないぞ。あっちへ行け」
あまりの夫の激高に居心地悪そうにしていた親戚が、「帰る」と言い出したのを皮切りに、ぞくぞくと皆、結花子が用意したお土産を持って帰り始めた。篤は最後まで残っていたが、結花子に耳打ちする。
「こう言っちゃあなんだが、菊子も最期のほうはあんな感じだったから、結花子さん、寿晶のこと、気にかけてやってくれないか」
気にかけていても、夫は自分の思い通りにするだろう。自分の力ではどうすることも出来ないのに、頼まれても無理がある。それに義母が死ぬ間際まで夫と同じ様子だったと聞いて、冷や水をかぶったような気がした。このままだと一家離散してしまうが、夫が亜美と不倫していたことを思うと、放っておいてもいいという考えが頭をよぎった。
「お義母さん、あの人形を大切にしてたんですか」
「うん、寿浩が死んだときは、薄気味悪いって嫌っていたけどな。長いこと一緒にいると愛着が湧いたんだろう」
「寿晶さんは愛着とは違う気がしますけど」
「そうだな。ただ気になってしまってな」
夫がすでにおかしくなっていることに気付いていない篤が夫に目をやった。
「わかりました。何かあったら相談します」
結花子の返事に満足したのか、篤は帰っていった。
四十九日が終わり、納骨を済ませて一週間ほど経った。夫の都合が良くなった休日に、ようやく工務店に見積もりを立ててもらうため、床板を外してみることになった。工務店の作業員が二人で要領よく畳を外していく。
「畳もですけど、床板にもカビが生えてるなぁ。奥さん、この仏間だけじゃなくて廊下も全部替えたほうが良くないですかねぇ」
結花子は年配の作業員にそう言われて、夫の顔色を窺った。夫はひたすら人形を気にしているだけで、作業員の言ったことなど聞いていないようだった。仕方なく代わりに結花子が答える。
「出来たらそうしたいんですけど……。今すぐはちょっと……」
年配の作業員は納得顔で夫を見て苦笑いを浮かべる。
「まぁ、追々決めてください。うちも十七年も経たずにこんな風になるなんて思ってなかったですし」
「十七年、ですか」
「井野のご主人が亡くなったときに、ここの畳替えをしたんですよ」
「ここの? 仏間ですか」
「まさか井野の奥さんも同じ所でって思ってなかったですけどねぇ」
「義母は仏間で亡くなってたんですか」
結花子は思わず天井を見た。確かに太い梁が一本通してある。作業員が結花子の視線に気付いて頷いた。まさに今、畳を外した位置で、義父母は首を吊ったのだ。それまで結花子は義父母がどこで死んだのか聞かされてなかった。聞こうにも夫が不機嫌になるので聞き出すことが出来なかったのだ。横目で夫を盗み見たけれど、心ここにあらずの様子だったのでほっとした。
「外れましたよ」
若い作業員が床板を畳一枚分外して、床下を覗き込んだ。昼間でも床下は暗くてじめっとしている。生温かな空気の塊が、覗いた途端に結花子の顔にぶち当たり、あまりの悪臭に思わず咳き込んだ。結花子は顔をしかめて聞く。
「何の臭いですか、これ」
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