忌み地 第一章 結花子 ③
夫がネクタイを緩めながら鞄を畳に置き、どっかと腰を下ろして、お笑い番組のチャンネルをプロ野球に変えた。
「いいよ、今日は疲れただろ?」
「まぁね……」
「なんか臭いな」
「カビが酷かったの」
結花子は慣れて感じなくなっていたカビ臭さを、夫が嗅ぎ取って鼻にしわを寄せた。
「この家、昔からカビ臭かったの?」
「そんなことなかったような気がするなぁ。家を出たのが十七年も前だから忘れた」
「そう……」
結花子は座卓に弁当を並べ、ペットボトルのお茶をコップに注いだ。いつもなら、結花子のことなど尻目にすぐにスマホを開いて夢中になって弄り始めるのに、今日は珍しくスマホは座卓の上に放置したままだ。
どうしたのだろうと反対に気になってしまう。
「業者に頼んだら引っ越しもずいぶん楽だっただろ?」
「うん。屈んだりするのきついから助かった」
結花子は弁当のおかずを口に入れながら、何気なくテレビに視線を移した。屈むのがきつくても、明日からは自分一人で、この家のカビを取り除いていかねばならないと思うと気が重い。
「きつい?」
「ちょっと」
「無理しなくていいよ。俺は大丈夫だから」
結花子は夫の言葉に落胆した。少しでもいいから本当に気遣ってほしいのに、夫にそれが伝わらない。わだかまる感情を堪えてテレビに視線を移した。
他の部屋はまだカビ取りが済んでいないので、今日は居間で寝ようと言うことになり、風呂を済ませるとすぐに夫は寝てしまった。
結花子は座卓に置いた鏡を覗き込み、長い髪を櫛で梳いて三つ編みにしていく。明日から本格的にここでの生活が始まるのだ。まずはカビをやっつけて、前のマンションで使っていた家具を出してこよう。ホームセンターでカーペットを買ってもいい。抗菌仕様ならカビにも強いかもしれない。
自分も夫も今日は何かしらで相当疲れていたのだろう。睡魔に負けて、結花子も布団に入ってすぐに眠りに落ちた。
朝の五時に夫を見送ったあと、昨日ホームセンターで買ってきた掃除道具を持って仏間を除く三部屋のカビ取りを始めた。四つん這いになり、畳み目に沿って刷毛でカビを掃き取っていく。さらにそれを掃除機で吸い、から拭きしていく。それを何度か繰り返してエタノールで拭き取る。妊婦にはそれだけで重労働だ。しかも畳だけでなく板間までカビにやられていた。変色した廊下と板間に酢と重曹を希釈したスプレーをかけて雑巾で拭き取っていく。延々とそれの繰り返しで、気が付けば、あっという間に午前も半ばを過ぎていた。板間を挟むふすまをうろんな目つきで結花子は見つめた。仏間も多分同じ状態だろう。仏間だけ掃除しないわけにはいかないし、いつまでも締め切ったままではますますカビが生える。
意を決し、仏間のふすまを開け放った。案の定カビは仏間を浸食していた。開け放てば換気が出来るだろうと、三方のふすまを外して他の部屋と同じ手順を繰り返した。
ふと日本人形が目に入る。古いものが一番奥で比較的新しいものが手前にある。埃をかぶった人形ばかりで今まで世話をしてきた形跡はなかった。義母はこの人形たちを大切にしていたわけではないのか。
少し埃を払おうと、手前の人形を手に取った。桐塑で作られた頭部と手足のはずだが、生温かくぐんにゃりとした感触に気味の悪いものを感じ、結花子は人形を取った手を離した。畳の上に重たい音を立てて人形が落ちた。まるで空っぽの人形の頭部に石を詰めたような鈍い音だった。そのままにはしておけず、気持ち悪いと思いつつ、元あった場所に人形を戻した。それまであらぬ方向を見ていたように思っていた人形たちの視線が、自分に向いているように感じ、結花子は急いで仏間のふすまを嵌めた。
仏間から出て一段落ついたと胸をなで下ろし、昼食の買い出しに行くことにした。
玄関を出ると、か細い猫の鳴き声がした。見回すけれど姿はない。どうも床下から聞こえてくるようだ。猫が好きな結花子は猫にめざしでも買ってきてやろうと思った。多分近隣の家の飼い猫かもしれないが、こんな辛気くさい家にかわいらしい訪問者がいるのは嬉しいことだ。心なしか足取りが軽くなる。
井野家の周辺は谷地という区画で、番地はない。周りには土と藁が混じり合った田んぼが広がっている。今はまだ田植えの時期ではないので、所々に雑草の緑が茂っている。のんびりとしていて、時間の流れが遅く感じられる。井野家にいるときよりも開放感があり、気分がいい。県道をまっすぐ進むとようやく隣家の家屋が見えてくる。村内組合の婦人部の一人で、通夜の時に世話になった佐賀悦子の家だ。四十代の女性で、比較的年が近い。通夜の時も良く話しかけてくれた覚えがある。その悦子が門扉の前でだれかと立ち話をしていた。
「こんにちは」
田舎では声かけが大切だ。知らんふりは出来ないし、短い間かもしれないが、世話になることだってある。ここは積極的に挨拶していこうと通夜の時に結花子は決めていた。元々は人なつこい性格なのだから、交友を嫌だとは思わない。友人が増えるのはいいことだと思った。
しかし、悦子ともう一人の女性は、結花子の姿を認めると談笑をやめた。通夜の時のような親しみやすさが、まるきり感じられない笑みを浮かべて、話していたもう一人の女性はそそくさと駅方面へ去ってしまった。さすがに悦子は残ったけれど、それでもどこか距離を感じる態度は変わらない。
「こんにちは」
もう一度、結花子は声をかけた。これには悦子も応えてくれて、ぎこちない笑みを返してきた。どうしたのだろうと思いつつ、会話を続ける。
「いい天気ですね」
他愛ない会話をしたくて近づいていくと、タイミング悪く屋内から何かが沸騰したときの笛の音がし始めた。悦子は慌てたように火をかけっぱなしだったと言って家の中へ入ってしまった。
結局、隣家とのコミュニケーションは失敗に終わった。それにしても、悦子はなぜよそよそしい態度を取るのだろう。通夜の時だけ親切だったのだろうか。それともお客様扱いされたこと自体、親しさが損なわれていた証拠だったのか。歯切れの悪い思いをしながら、結花子は村落の小さなスーパーで買い物を済ませた。
昨日は気付かなかったけれど、帰りの道すがら遠目から谷地の家を眺めると、他の家々と離れて谷地の家だけがぽつねんと田んぼの真ん中に建っている。近くに他にも家屋が見えたが、うっそうと木が茂り、見るからに空き家のようだ。
谷地の家は焼き杉の板を外壁に使っているせいで、やけに黒く感じられて、周囲と比べ異質に感じられる。古い家屋の屋根瓦も葺き直す必要があるように思える。もっと向こう側の山の手にある新興住宅地の真新しい家屋の外壁が午後の日差しに白く照り輝いているのが対照的だった。いずれ売るにしろ、やはり自分たちが住まいやすいようにリノベーションしてほしい、と言うべきだろう。
昼食を軽く済ませたあと、結花子は小皿に煮干しを載せて、床下にある空気穴の近くに置いた。小さな穴をくぐり抜けられるとしたら、かなり小さな猫に違いない。子猫かしら、と微笑む。猫一匹くらいなら飼ってもいいよ、と夫に言ってもらえそうな気がした。
午後になるとすることもなくて、縁側のサッシを開け放ち、縁側に足を伸ばして座り、本を読んで過ごした。明るいうちはこの家の陰も少しはましだった。それでも雪見障子の向こうにある廊下は薄ら暗く、不安を掻き立てられる。昼間ですら、異質な空間なのだから、夜はもっと恐ろしく感じる。今日の夜も独りで仏間を意識しながら過ごすのかと思うと、腕に鳥肌が立った。なぜ通夜の時はなんともなかったのだろうか。朝一番に線香とご仏前を上げに行くけれど、気付いてみれば、夫が葬式以降、仏間に入ったところを見たことがなかった。それとも台所に立ったときに仏壇を拝みに行っているのか。自分の実家に仏壇がないのでなんとも言えない。
日は次第に陰っていく。洗濯物を取り込んで畳んだ後、車で駅前まで夕食の買い物へ行き、ついでに床下に置いておいた煮干しを確かめてみた。煮干しは手つかずのまま残っており、蟻もたかっていなかった。それでも、床下からは猫の鳴き声が聞こえるのだった。
夫が今日も残業せずに帰ってきた。夜を一人で心細く過ごす必要がなくなり、新婚当時の夫婦関係に戻れるのではないかと期待した。夕食を終え、思い切って結花子は切り出してみた。
「ねぇ、やっぱりこの家、リノベーションしてみない?」
「ん……。なんで?」
新聞を読んでいた夫が顔を上げた。
「カビが凄いし、床板も悪くなってそう。畳も替えたほうがいいよ」
それに対して、夫は渋い顔をして見せた。
「改築するとなると先立つものがいるだろう?」
暗に、そんな金があると思うか、と言われた。
「そうだね……。じゃあさ、要らないものを捨てるとかは? 家具で古いものは捨てて、納戸にしまったわたしたちが使ってた家具を出すとか?」
「それは構わないけど、年代物もあるし、もう少し考えよう」
「日本人形も? あれ、もういらないものなんじゃない? それとも何か意味があるの?」
結花子からしてみれば気味が悪いだけで、何か謂れがあるようにも思えない。
「昔からあるけど、気味が悪い仏間にはあまり入らなかったから、よくわからない」
「おじいさんとかおばあさんが集めてたの?」
「そういうことも聞いてないな。あ……、でも一番新しい人形でも明治時代からあるヤツだから価値があるとかなんとか親父が言ってた」
「お義父さんが……」
理由もなく唐突に縊死した義父の話を夫が久しぶりにしたのを見て、申し訳ない気持ちになる。義母も遺書なく死んでしまったから、夫の中でそれらはある種の傷になってはいまいかと懸念した。
「一時期は捨てようかって話にもなったけど、そのあとすぐに親父が死んだからなぁ」
これ以上この話をしていいものか迷っていると、夫が続けた。
「一番古いやつでも江戸時代より前のもあるって聞いてるからなぁ……。普通はああいうものは蔵とかに保存すると思うんだけどな」
井野家に蔵はない。それについて夫が、井野家は明治以降、生活に困窮して広い地所を切り売りしたのだ。増改築を繰り返した結果、こんな奇妙な間取りの家が出来上がったのだと。
「寿晶さんもあの人形、捨てたほうがいいと思う?」
代々受け継がれてきた人形を、気持ち悪いけれど簡単に捨ててしまっていいものかと思いながら訊ねた。
「あって困るものじゃないけど、結花子が嫌なら捨ててもいいよ」
「嫌ってわけじゃないけど……」
人形もだが仏間が嫌だ。仏間を含むこの家が気味悪い。歯切れの悪い返事をしたら、夫が笑った。
「どうせ追々片付けてないといけないから、今度考えよう」
それでこの話は終わった。
四部屋のうち、縁側のある部屋に布団を敷き、潜り込んだときにはもう眠気が襲ってきた。町で暮らしていたときよりも運動量がある田舎暮らしに、まだ慣れてないせいで疲れたのだろうと思った。
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