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忌み地 第二章 結花子 ①

 この家は明らかにおかしい。義母が自死したのにも何かわけがあるのではないか、それを隣家の悦子が聞いてないか、探りを入れるために、翌朝わざと多めに作った惣菜を容器に入れて訪れてみた。

 門扉をくぐり、玄関口のインターホンを鳴らす。パタパタと走ってくる音がして、玄関の引き戸が開いた。ふっくらとした頬で小太りの悦子が顔を出す。

「あら、井野さん、どうしたの」

「あの……、これ作り過ぎちゃったから良かったら……」

 結花子の差し出したタッパーをためらいなく受け取った悦子だったが、結花子に家に上がるようには勧めなかった。やはりどこかよそよそしい。それでも聞かなくてはならないと、勇気を出して家で起こっている変なことを話してみた。

「佐賀さん、義母ははから何か聞いてませんか?」

「井野さんからは特に何も聞いてないわねぇ」

「自殺の理由とか、聞いてないですか?」

「何も聞いてないのよね。突然だったからあなたも驚いただろうけど、私らも結構びっくりしたのよ」

義父ちちの後を追ったとか」

「それはないわよ。十何年か前でしょ。寂しくはないって言ってたけど」

「じゃあ、家に何か因縁があったとかは?」

「井野さんの家に? さぁねぇ……、そういうの聞いたことないけど」

 そう言って、悦子は首をかしげた。

「あの……、あの家、変な音がしょっちゅうするんです。何か聞いてませんか?」 

 すると、悦子が困ったように笑う。

「変な音が聞こえるのって家鳴りか何かじゃないの?」

「でも足音が聞こえるんです。人形も勝手に動いて」

「きっと、鼠よ。古い家だし、天井裏とか調べてみた?」

 言われてみれば、床下も天井裏も調べてない。結花子はいつもの癖で悦子の言葉に言い返すことも出来ず、口を閉ざした。

「いい業者さんがいるから紹介するわよ。井野さんも増改築したときにお願いしたところだし、勝手がわかってるんじゃないかしらね」

 何も調べてないうちから怪異のことを語るなと暗に念を押されたような気がして、結花子は素直に頷くしかなかった。

 鼠が廊下をベタベタと走り回るのか。鼠より数倍大きな人形を、ふすまを開けて廊下に引きずり出せるのか。子供の足音のようなものは何なのか。悦子に聞いても埒《らち》があかないことだけはわかった。


 三週間経った頃、真夜中に物音で結花子は目を覚ました。ふと隣を見ると、寝ているはずの夫がいない。眠い目を擦りながら体を起こし、寝室の障子が開いているのに気付いた。トイレかなと思ってもう一度寝直すけれど、いつまで経っても夫が戻ってこない。心配になり、布団から抜け出し廊下に出た。廊下に出てみて、結花子はぎょっとして足を止めた。仏間のふすまが開け放たれている。そっと中を覗くと、真っ暗な仏間に夫が突っ立っていた。

「寿晶さん?」

 心配になって声をかけるが、聞こえていないのか反応がない。

「寿晶さん」

 怖かったけれど勇気を振り絞って仏間に入り、夫の手を取った。すると、夫が振り向いて結花子を見た。

「大丈夫?」

「ああ」

 ぼんやりとした口調で夫が答えた。ようやっと目を覚ましたような感じで頭を振り、なぜこんな所にいるのかわからない様子で呆然としていた。

 それから毎日と言っていいほど夫が夜中に起き出して仏間の真ん中に立ち尽くすようになった。何度か引っ張って布団まで連れてきていたが、だんだんとそれもやめてしまった。


 今夜も隣に寝ているはずの夫がいない。ぼんやりと枕を見ていると、夫の枕元に置いてあるスマホがチカチカと点滅してバイブ音がした。何気なくスマホを手に取り、画面を見ると『ミィたん』という名前でメールが何通も届いていた。

「ミィたん?」

 夫の交友関係に疎いせいか、それが誰だかさっぱりわからない。あまりにもメールが連続して送られてくるので、つい興味本位でメールを開いてみてしまった。件名はなく、『別れたくない。別れないからね』と言った主旨のメールが何通もあった。

 夫が浮気相手に別れ話を切り出したのだと理解した。けれど相手の女は別れるつもりはないらしい。夫が引っ越して以来早く帰ってくるようになったのは、この女に入れ込まなくなったからだ。それが喜ばしいことなのかわからないが、別れたのなら見て見ぬ振りをするしかないだろう。そう思い、結花子はスマホを枕元に戻した。それでも自分が妊娠し、一人不安なことが多いときに夫は他の女と一緒にいたのかと思うと、怒りが沸くよりも悲しくなり、それ以上に自分やおなかの子供の価値が低められたように感じた。夫にとって自分たちは必要ではない存在なのだという哀しみが心を覆い、仏間で今も突っ立っているだろう夫への心配などかき消した。


 三週間も続く寝不足と家で起こるおかしなことへの不安と恐怖、自分への鬱屈した思いが入り交じって、結花子は起きているのも辛くなってきた。しかし、眠ってしまうと悪夢を見てしまうし、起きていれば小さな変事が家中で起こる。何も考えたくないのに、以前からずっと心の奥底に隠していた夫への不満、自分への劣等感が胸中に渦巻いて、涙が出てくる。食も細り、頬がこけて、目の下には黒く縁取ったようにクマができた。

 それなのに、夫は気付かない。以前よりも父親になることが嬉しいようだった。いや、子供が生まれてくることが待ち遠しいのかもしれない。

 普通ならばそれを喜んでもいいはずなのに、結花子には夫の態度がわざとらしい贖《あがな》いにしか見えなかった。


「今から赤ちゃんを沐浴させるための実技をしましょう」

 夫はマタニティスクールでも積極的で、講師の言うとおり、湯涌にゆっくりと赤ちゃんの人形を浸からせて、優しく全身を洗ってあげている。結花子が一生懸命沐浴をさせているのにも口を挟んでくる。

「もっと優しく、こんなふうに抱かないと駄目だろ」

 その言葉を他の夫婦に聞かれてしまったのが恥ずかしいやら情けないやら、どうしてこんなに駄目なんだろうと自分自身を責めてしまう。


 月に一回の妊婦健診で産婦人科に行ったときに、諸々の疲れを医者に訴えてみた。

「ずっと眠れなくて……。寝ても悪夢を見るから目は覚めるし……。それに体を起こしていると酷く怠いんです」

 かかりつけの病院から引っ越しに際に替わった産婦人科の医師は、薬は出せないから適度に体を動かして、悩みなどはいつでも相談できるようにとカウンセラーを紹介してくれた。

「引っ越しなどで疲れが溜まっていることも考えられるから、無理はしないようにして」

 毒にも薬にもならないような助言をされて、結花子は病院を出た。病院すら結花子の味方ではない気がして、地面を見つめる。駐車場の砂利道を歩き、軽自動車に乗り込んで家路についた。

 車を運転している間中、仏間の人形のことを考えていた。あれが家で起こる異変や夫の奇行の原因じゃないか、と思い詰めた。人形が全てなくなれば、悪夢も異変も解消し、引っ越し前の少なくとも平和だった日々に戻るのではないか。夫に人形をどうにかすることを相談しようとは思わなかった。言えば必ず反対される気がしたのだ。

 産婦人科のある町から安達野への道のりは時間的にそれほど遠いわけではないはずなのに、今日に限って渋滞して片側車線通行が延々と続いた。原因が事故だと知ったのは夕暮れになり日が落ちそうになったときだった。

 家にようやく着いたのは十八時になってからだった。もうそろそろ夫が帰ってくる。人形の処分を夫が帰ってくる前に済ませたかったが、こうなったら急いでゴミ袋に詰め込んで捨ててしまうしかない。捨てる場所はどこでも良かった。山が近いから山の中に放置してもいいし、夫をごまかすために庭の物置に隠しておいてもいい。とにかく家から出してしまおう。そうでないと頭がおかしくなってしまいそうだ。人形を処分したら、何もかも上手くいく気がする。

 家に着いて、とりもなおさず結花子はゴミ袋を持って仏間に入った。ひんやりとした空気に気圧されるが、なんとか電灯を付けて人形と向き合った。

 異様な威圧感が人形から発せられている。一瞬怯んだけれど、ゆっくりと手前の人形を手に取った。重みのある、生々しい感触がする。桐塑で出来ている部分以外は布製のはずで、見てはないが布の中には綿、もしくはおがくずが入っているはずなのに、肉でも詰まっているようにみっちりとした感触だ。手を離しそうになったけれど、ぐっと堪えてまず一体をゴミ袋に詰める。一体ゴミ袋に片付けてしまうと、あとは機械的に同じことを繰り返せばいいだけだと思った。

 もう一体、ゴミ袋に詰めようとしたとき、ふすまが大きく開け放たれて、夫が大声で怒鳴った。

「何してる!」

 結花子は飛び上がらんばかりに驚いて、慌てて振り返った。目の前に憤怒の形相の夫が立っていた。間に合わなかった、という言葉が頭の中をぐるぐると回った。どうしようという気持ちに胸が潰れそうになった。

「何してる」

 今度は静かに夫が言った。捨てようとしているのは明らかなのに訊ねて責めてくる。どう答えたらいいかわからず、結花子は袋から手を離し、唇を震わせながらゆっくりと人形と夫から後ずさる。

 夫が近づいてきて、ゴミ袋を取り上げると、中から日本人形を取りだした。

「可哀想なことをするなよ。本当に捨てるつもりじゃないんだろう?」

 捨てるつもりだったのはゴミ袋を見ればわかるが、それでも問いかけてくる夫に結花子は怖じ気づく。ブルブルと首を振って自分がしようとしていたことを否定した。もう人形を捨てる勇気が出そうにないと観念した。背後のふすまを開けて廊下に出ると台所に逃げ込んだ。

 夫はまだ仏間にいるようだ。様子を窺いながら、時間を見るともう二十時にさしかかっていた。たった三十分程度のことだと思っていたが、人形をゴミ袋に入れて夫が帰ってくるまでに一時間以上経っていたことになる。一体そんなに長い間、自分は人形を前にして微動だにしていなかったのか。夫が帰ってくるまで何もしていなかったのか。どんなに考えても記憶が曖昧で、ゴミ袋の中に人形を一体入れたことまでしか覚えていなかった。

 結花子は居間に行き、バッグの中からスマホを取り出すと、そのまま台所へ戻り、亜美に電話をした。

 数コールで亜美が出たので、息せき切って亜美に人形が怖い、この家はおかしいとまくし立てた。何度も仏間を盗み見しながら、夫がこの声に気付きませんようにと祈った。

「落ち着いて。大丈夫?」

「大丈夫じゃない。どうしよう、怖くて堪らない。寿晶さんもおかしいの」

「おかしいって?」

「人形があったでしょ? あの人形に取り憑かれてる」

「取り憑かれてるって大袈裟な」

「大袈裟なんかじゃないよ。本当にこの家は変なんだって。引っ越したいのに、寿晶さんが話を聞いてくれないの」

「そりゃ越してきてすぐだからじゃない? 変ってどういう意味?」

「前に話したじゃない。人形が朝起きたら廊下に出てたり、私一人なのに障子をだれかにたたれたり、変な人影も見るし、足音とかもする……」

「幽霊とかそういうの?」

「そうかも……。お義母さんが自殺したのだってもしかしたら関係してるのかもしれない」

「落ち着いてよ、ユカ。そんなに心配なら、知ってる人に霊感強いのがいるから紹介しようか? イチオっていうんだけど」

「霊感? 霊媒師ってこと?」

「霊媒師じゃないけど……。いろいろ見えるらしいし、家のことてもらったら?」

 亜美の言うイチオという人物はどういった人間なのだろう。霊感があるなんて豪語するような人間なのだろうか。だとしたら相当に怪しい人物と言うことになる。自分には特別な才能があると思い込んでいる、痛々しい人間かもしれない。そんな人間に振り回されるのは嫌だった。それに本当に霊感があるかもわからないではないか。返事を渋っているのを感じ取った亜美が言う。

「無理にとは言わないし。もし、やっぱり頼もうかなぁって思ったら電話してよ」

「うん、わかった。そのときは電話する」

 結局何も話せないまま、結花子は電話を切った。

「お夕飯作らないと……」

 スマホをテーブルの上に置き、冷蔵庫を開けて野菜と肉を取り出す。何を作るかは今朝から決めていた。だから機械的に体を動かして料理した。頭が真っ白なのに、体はスムーズに動くのかと思うと笑いが込み上げてくる。

 夕食を居間の座卓に並べてから、恐る恐る仏間を覗いた。夫がブツブツとつぶやきながら人形を一体抱いて、床の間に向かって正座している。かすかに聞こえる言葉に、結花子はぞっとした。

「人形は福の神かぁ……。子供と同じだよな……。大切にしないと……」

 その言葉を繰り返している。しばらく声をかけられなかったが、意を決して夫を呼んだ。

「寿晶さん……、ご飯」

 ふっと夫が顔を上げた。そっと人形を床の間に戻して、畳に放り投げられたゴミ袋を拾いぐしゃぐしゃに丸めて振り返る。

「どうした? ご飯できたの?」

「うん……」

 不意に正気に戻った夫を見つめて、結花子はうろたえる。何事もなかったように笑っている夫に違和感を感じた。


 夫と人形の対話はそれから五日続いた。毎晩仏間に籠もってつぶやき続ける夫を見ていると、本当に頭がおかしくなりそうになる。夫が出掛けたあと、廊下に背を向けると必ず足音が聞こえた。子供が走り回る気配にビクッと肩が震える。そのうち声も聞こえてきそうな気がしてしまう。振り返ることも出来ず、足音が消えるのを待って部屋を移動した。いつから線香とご仏前を上げなくなっただろうか。仏間に入ることが恐ろしくて何も出来ずにいる。掃除もしていないから、カビがどうなっているかもわからない。下手をすると家中の掃除をしていなかった。廊下に出るのが怖くて出来ないのだ。

 縁側に出て、昼間の日差しに身をさらして家の中の薄暗さに背を向けていると、少しだけ恐怖も和らいだ。縁側に座り込んで、気もそぞろに本の文字を追っていると玄関口から呼ぶ声が聞こえた。今時珍しくインターホンのない家なので、訪問者は玄関口で呼ばわるしかない。

「井野さーん、宅配です」

「はーい」

 辺りを見渡して廊下に出ると、玄関の靴箱の上に置いている印鑑を持って引き戸を開けた。薄暗い玄関に外の陽気がなだれ込んできて、淀んだ空気がブワッと勢いよく流れた。宅配を受け取って印鑑を受け取り票に捺した。

「あれ? 近所の子ですか?」

「え?」

 宅配業者の男性が珍しそうに家の奥を眺めて話しかけてきた。

「浴衣着た女の子がそこにいましたけど、近所の子ですか?」

 そんなことを言われるのは初めてだった。ハッとして振り返ったが、そこには誰もいない。冗談を言っているようには見えない。結花子は震える声で口走った。

「そんな子いません」

 腑に落ちない顔つきで首をかしげながら、宅配の男性はバンに乗っていった。

 残された結花子はひしひしと背後に感じる威圧感に脂汗が出た。首筋の肌が粟立つ。どんどん体温が下がっていくのがわかる。もはや限界だった。




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