忌み地 第一章 結花子 ①
結花子はハッとして目を開けた。常夜灯がほのかにオレンジ色の明かりで辺りを照らし出す。この家に引っ越してから見慣れた、黒く煤けた天井の板ばりが目に入る。
先ほどまで見ていた夢があまりにも生々しくて、胸の鼓動が鳴り止まない。顔を右横に向けて隣を見てみると、夫の寿晶が静かな寝息を立てて眠っている。
じっとりと汗ばんだ肌にパジャマの布地が張り付いて気持ち悪い。夢見が悪いのは初めてではなかった。十日前に越してきて以来、毎晩悪夢を見ている。その内容のほとんどは覚えていないけれど、気持ち悪いものであることには変わりなかった。
結花子は寝返りを打って目を閉じた。また悪夢がひたひたと足音を立てて、自分の夢に入り込んでくる気がしながら、眠りの淵へと落ちていった。
結花子は朝食を作りながら眠い目を擦った。
今まで住み慣れていた町から離れ、田舎の安達野に引っ越してきた。亡くなった義母の古い家での生活にまだ慣れてない。しかも以前よりも早起きをして夫の世話をする。夫もこの生活にはまだ慣れていないだろう。都心まで約一時間で通勤できていたのが、特急に乗り換えて二時間半ほどの距離にまで離れたのだから、いくら特急で通えると言ってもやはり寝不足になるのは必至である。
ワイシャツに着替えた夫が起きてきて、色あせた畳に座る。傷だらけの座卓に並べられた簡単な料理を気怠げに箸で摘まみ始めた。結花子は夫の顔色を窺うように、夢のことを話してみた。
「夕べも見たの。気持ち悪い夢」
箸が止まり、夫がいったん食べるのをやめて、結花子を見つめた。
「死体を担いでるって夢だろ? 気にするなよ。おなかの子に悪いぞ」
そう言って、再びおかずを口に運び始めた。
結花子は夢で見る内容を全て夫に話したわけではない。まさか、夢の中の男が死体といかがわしいことをしているなど、恥ずかしくて言えるわけがない。夫には、死んだ人間を運ぶ男の夢を見ると説明しただけだ。
まだおなかの膨らみは目立たないが、四ヶ月目にさしかかる小さな我が子に意識を寄せる。夫の言うとおりだ。あまり気にしないほうがいいのかもしれない。あんな夢を見ないようにしたいが、この家に来てから慣れないことばかりで気が滅入っているのかもしれない。それに、町に住んでいたときは夫の帰りも遅く、時には帰ってこないこともあった。引っ越してきてからは毎晩遅くはなるが必ず帰ってきてくれる。けれど心配事が一つ減っただけでは、日々の不安をかき消せるほどではない。むしろ通勤時間が長くなった夫に気を遣ってため息を呑み込んだ。
越してくる十日前に、交流のない親戚と名乗る男から、突然電話がかかってきた。
「井野ですが、寿晶くん、いますか」
井野? と電話に出た結花子は首をかしげた。井野は夫の苗字でもある。親戚か何かだろうかと思っていると、
「分家の篤です。谷地の菊子さんが亡くなったんで、電話したんだが」
谷地の菊子と聞き、結花子は慌ててたまたま帰っていた夫に声をかける。
「分家の篤さんから電話。お義母さんが亡くなったって」
それを聞いた夫が眉を寄せて、訝しそうに電話の子機を受け取った。
叔父からの連絡は結婚式以来だったようで、夫の様子はどこかしらぎこちない。それ以上に疎遠にしている義母の訃報に戸惑っているようだった。
夫は安達野にある谷地の実家があまり好きではない。義父が十七年前に実家で縊死したのもあって、それ以降連絡も途切れがちだと聞いた。唯一結婚前の挨拶と、五年前の結婚式に顔を合わせたくらいだ。日帰りできる距離に住んでいながら、実家になかなか帰省しない夫を結花子はいつも不思議に思っていたのだが、夫はその理由を教えてくれたことはなかった。
電話を切った夫がソファに座り直しながら、結花子に告げる。
「母さんが自殺した。明日通夜で、明後日葬式だそうだ。準備しといてくれるか?」
斎場などの手配は叔父がやってくれたそうで、喪主の夫は朝一番で谷地の実家に行くことになった。
「お義母さん、自殺って?」
なぜ? と聞きたかったけれど、夫はテレビから目を離さずに答えた。
「近所の人が見つけてくれたそうだよ」
それ以上に言うことがないような口ぶりで、夫はリモコンを取ってテレビのチャンネルを変えた。
夫が実家の話をすることはないに等しい。あまり両親との関係も良好とは言いがたいかった。虐待されたとか、家族といざこざがあったとか言うのも聞いたことがない。どちらかというと、夫が一方的に両親を嫌っている様子だった。一度、夫に両親のことをなぜ嫌っているのかと訊ねたことがある。嫌ってないよ、と夫は答えた。なぜ帰省しないのかと不思議そうに聞くと、家がね……、とだけ言ってそれ以上ははぐらかされたものだ。
夫の実家には何か問題でもあったのだろうか、と言う疑問だけが残って、最初のうちはわだかまりを感じていたが、五年も経つとこれが当たり前になっていた。帰省しないことを心配するよりももっと大切なことに、結花子は全神経を注いでいた。その願いが結実して四ヶ月が経ったころに、『寿晶の母親が自死した』という知らせを受けたのだった。
翌日慌ただしく喪服を着て、家を出た。三泊の予定なので荷物も多い。通夜を済ませて葬式を終えたあと、遺品整理に一日費やしてから帰るという算段だった。あとは夫の叔父がやってくれると思い込んでいた。
けれど、その思惑は外れた。
安達野村内組合が率先して通夜をおこない、斎場に義母の遺体を運んだのは通夜のあとだった。田舎の慌ただしい葬式に驚きながらも、妊娠しているからとお客様扱いしてもらえることがありがたかった。
八畳ほどの仏間に、通夜の間だけ義母の遺体が安置され、近隣の住民が代わる代わるやってきてはお焼香を焚いた。
義母が安置されている仏間の床の間に、所狭しと日本人形が並べられている。赤ん坊くらいの大きさの人形から三十センチほどのものもあり、大きさも様々だ。床の間の一番奥の壁に立てかけられるように置いてある人形だけが木彫りで、着せてある着物の布地がほころび色あせて、とても古そうに見えた。
仏間もコの字に廊下が囲む変わった作りをしている。田舎家だとこれが普通なのだろうか、と結花子は思った。顔合わせの時に一度訪れただけの実家だったから、思った以上に古くて辛気くさく、明かりをつけてもなお暗い屋内を物珍しげに眺めては、夫がなぜ谷地を嫌ったのか理解できるような気がした。
葬式を終え、お骨を手に実家に戻ると、あれほど騒がしかった屋内がしんと静まりかえり、なんだか雪が降り積もって冷え切っているような印象を持った。寒いけれどすでに雪が降るような季節でもないし、ましてや寒暖差の激しい地域でもない。電気を付けてもなお暗がりが籠もっているような家に、義母は一人で十七年も暮らしていたのだ。寂しくて仕方なく自死という選択をしてしまったのかもしれない。遺書もないので原因はわからないが、もし自分が孤独にこの暗い家で暮らすことになったとしたら、絶望が浸食してきて同じ道を歩むかもしれないと思えた。
親戚と寿晶の数人が客間に集まり、本家の財産分与の話をしている。夫は本家の一人息子なので土地と上物を継いだらいいと言われたのに、夫はそれを嫌がった。
「土地とこの家は売って欲しい。俺は金だけもらえればいくらになってもいいよ」
その言葉に親戚一同が少し困ったような顔をしたが、篤と名乗った義父の弟がそれでもいいならと親戚を説き伏せてくれた。一見横柄にも見える夫の態度に、叔父だけが理解を示した。
「寿晶がそう言うなら、それでいいじゃないか。ただ、家は住まないと朽ちてしまうし、上物も含めて売るなら寿晶が住んで維持してくれると助かるんだが」
それを聞いて夫は渋い表情を浮かべた。
「結花子さんの出産前までには売れるように手配しておくから」
いずれは持ち家を買う予定だったから、その頭金にでもなれば非常に助かる。そんなことを結花子が考えていると、夫が渋々と言った様子で、できるだけ早く売って欲しいと念を押して、家の維持のために数ヶ月実家に住むことを、結花子に意見を聞くことなく、承諾したのだった。
「だったらすぐにでも引っ越してきたらいい」
唐突に叔父が提案してきた。急すぎる提案に夫も結花子もひるんだ。
「四十九日もこの家でやるから、できるだけ早く越してそれまでにここの暮らしに慣れたほうがいい。田舎で四十九日をやるには村内組合の助けがいるしな」
叔父の言葉は最もだった。この葬式自体、村内組合の婦人部が助けてくれなかったら右往左往するしかなかった。
「なんでも早ければ早いほうがいいよ。それに、菊子が自殺してるんだ。だれかが住まないと告知義務が発生するんじゃないか?」
それは心理的瑕疵物件のことについて言っているのだろうか。結花子はうろ覚えの知識で、叔父の言うことに納得した。
「それに村内でここを買うヤツはいないだろうから……」
「篤叔父さんの言う通りかもしれないな」
夫は思案げな顔つきで誰に話しかけるともなくつぶやいた。
村内でこの土地を買う人間がいないというのはどういうことだかわからなかったが、夫が納得したようなので結花子に反対する余地はない。
「噂が広がる前に売ってしまったほうがいいに決まってる」
「噂?」
結花子は思わず叔父に訊ねた。
「安達野は狭いから、噂は広がりやすい。特に今回のことは村中が知っている。不動産屋もケチがついた物件はさっさと売りたいに決まっているしな」
「結花子の出産前までに売れたらそれでいいよ」
暗い影が天井にわだかまっている。重たいその陰を背負っていると腰が曲がってしまいそうだ。結花子は梁が一本通してある天井を何気なく見つめながら思った。家中に陰があるのはあまり気持ちのいいことではない。特に仏間は薄暗くて居心地が悪い。出産までこの家に住むのは本当にいいことなのかわからない。けれど、夫が決めたことなのだから、それに従うほかはなかった。
そろそろ解散して帰る段になり、叔父が言った。
「また親戚一同集まるなんて事はめったにないかもしれないから、記念写真を撮ろう」
葬式で記念写真というのも変わっていると結花子は思ったけれど、叔父から渡されたデジタルカメラを持って、仏間に居並ぶ井野家の人々に構えた。
「ちょっと待って」
突然、夫が声をかけ結花子を止めると、背後にある日本人形の一体を手に掲げた。
「こいつらもおふくろの家族だから」
義母は人形を大切にしていたのだろうか。これほどの数の人形があるのだから夫の言うとおりなのかもしれない。そう思いながら、結花子はシャッターを切った。
シャッターを切って、デジタルカメラの液晶を確かめてから結花子は首をかしげた。夫の顔がぶれている。シャッターを切ったときに動いたのだろうか。
「すみません。もう一枚」
みんなに声をかけて、もう一度シャッターを切った。やはり夫の顔はぶれていた。
「あなたの顔がぶれちゃうんだけど」
結花子が寿晶に液晶画面に映る画像を見せた。
「本当だ。人形を置いてもう一度撮ってみるか」
夫が膝元に人形を座らせて正面を向いた。
「撮りまーす。ハイチーズ」
最後の写真は綺麗に撮れた。そのうち親戚たちがポツポツと帰り始め、最後に叔父夫婦だけが残った。
「急だと思うが、空き家にしないようにしたほうがいい。会社の都合とか結花子さんの体調もあると思うが」
「会社はなんとかなるよ。この家に帰るのもご無沙汰だったし……最後にもう一度住むのも悪くないかもな」
渋い顔色だった夫が妙に明るい表情に戻っているのに、結花子は気付いた。この家での嫌な記憶を封印することに決めたのだろうか。それとも意外にも久しぶりの実家に愛着が湧いたのだろうか。多分、夫になぜなのかと聞いても答えてはくれないだろう。何もかも一人で決めてしまう人だから。ため息を聞かれたくなくて、結花子は静かに不安を呑み込んだ。
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