かりはらの贄巫女 シーン3 ③
バッグを肩に掛けて車のキーを取り出すと、きちんと揃えられた自分のスニーカーを履いて、雨が降り続けていたが気にもせず飛び出した。
ばらばらと大粒の雨が頬を打つ。
あっという間に髪が濡れそぼり、ぺたりと首に張り付いた。額から雨粒が垂れてきて、瞼を伝って頬に落ちる。目をしばたかせ、自分の車を探し、ハンズフリーでドアを開けた。助手席にバッグを投げ入れて、ドアを閉める。
雨で冷えた車内に、濡れそぼった体から湯気が立つのが見えた。エンジンをかけて、思わずエアコンを暖房に切り替える。思った以上に寒くて、今が梅雨の時期とは思えなかった。
ハンドルを回し、縦列駐車している車のタイヤを切り返そうとしたとき、ありえない異音とともにガクンと車体が揺れた。
「え?」
エンジンはかかる。けれど、砂利にタイヤが滑っているのか、それとも何かが挟まっているのか、スタックしたように空回る。車体がガツガツと不安を煽る音をさせた。
叶は不審げに車を降り、体をかがめてタイヤを見て、「はぁ? 何これ!」と声を上げた。
ずぶ濡れになりながら、ズタズタに刃物か何かで切り裂かれたタイヤを呆然と見ていた。
一時いっとき、タイヤを見つめていたが、我に返ってドアを開け、助手席からバッグを取ると、雨水に沈む砂利道を、水しぶきを立てて駆けていく。足下もスカートも何もかも泥と雨で濡れそぼる。
菟足村に行けば、なんとかなるんじゃないか。バスが通っているかも知れないし、タクシーだって呼べるだろう。何なら、村から二十分離れた柚原ゆずばる駅まで歩けばいい。
県道まで出たところで息が上がってきて、一旦立ち止まり、周囲を見渡すとガードレール越しに廃墟があった。遠目に見える左手にはせり出した畔と鳥居がある。
菟足村への道は左右どちらにあったか、叶はバッグからスマホを取り出した。バッグに入れっぱなしだった折りたたみ傘を広げて、今更だが雨を凌ぐ。ポタポタと髪から雫が垂れて、スマホの画面に滴った。
防水のスマホで良かった、と思いながら地図アプリを開いて、自分の位置を確認した。どうやら左の遊歩道を行けばいいようだ。
こんな雨の中、公道を通る気がしなかった。どうしても魔のS字カーブで轢ひかれた希の夢を思い出してしまう。
だれも自分を追ってこないのを確かめてから、再び歩き始める。傘で前方の視界が半分遮られていて視界が悪い。雨で景色がけぶって、さらに見通しが利かなかった。
「待って、叶さん」
背後から一夜の声が叶を呼び止めた。雨の中、追いかけて来たのだろう。叶は険のある声音で、
「私、だれがなんと言おうと戻りませんからね!」
と、言いながら振り返った。
ザァッと降りしきる雨のカーテンの向こうにはだれもいなかった。
「え?」
一瞬わけが分からなくて、叶は声がしたほうへ目を凝らす。だれもいないし、何もない。急に濡れた喪服の布越しに、冷たい風を吹き付けられたような寒気がした。
体が冷え切って、シャリ感のある濡れた喪服が素肌にこすれて気持ち悪い。髪も濡れそぼり、頭皮まで雨が染み渡っていて、早く乾いたタオルで頭を拭ぬぐいたかった。唐突に、屋敷に戻って快適な場所で安心してくつろぎたくなった。
けれど、そんな誘惑に負けてはいけない、と叶は再び歩を進める。スニーカーの中まで濡れて、歩く度にぐじゅぐじゅと靴が音を立てる。
とにかく寒くて仕方ない。
「叶、寒いでしょ? 拭いてあげるから」
母親の声が背後から追ってくる。優しくて温かな、心から大好きな母親の声だ。小さい頃、雨で濡れて帰ってきた自分を大きなタオルで拭ってくれて、お風呂に入れてくれた母だ。
でも、違う。先ほどの一夜の声で悟った。
「叶」
「叶」
「叶」
父親の声、友人、自分が知っている知人の声で、背後から叶を呼ぶ。それらは全部、本物ではない。振り返っても、きっとだれもいない。叶は耳を押さえて、そのまましゃがみ込んだ。
突然、呼び声を遮るようにスマホの着信音が鳴った。その音を聞いて、叶は心臓がすくみ上がる。あまりにも大きな音で手の中のスマホが震えながら鳴っている。慌てて、叶はスマホの画面を凝視した。
画面に知らない番号が表示されている。切ろうか切るまいか悩んだ。しかし、切ってしまえば、得体の知れない呼び声に耐えながら村まで行かねばならない。
それにこの呼び声は間違いなくみつちさんなのだ。みつちさんに答えたらおみず沼に引き込まれる、という嫌な怪談を思い出した。それ以上に、幼い頃にみつちさんに答えてしまって、美千代にお祓いしてもらったが、結局村から出されてしまったことが頭をよぎる。
幼い頃は封印がしっかりされていただろう。廃墟の道祖神も壊れていなかったと思う。けれど、今は違う。いつ、みつちさんに連れていかれてもおかしくない。
一人でここにいれば、いずれおみず沼に誘い込まれてしまうかも知れない。電話で話していれば、少なからず一人ではない気がした。
「もしもし」
通話マークをタップして、寒さに震える声で、電話に出た。
『叶さん。今どこ? 雨が降っているときに外で出たらだめだって言ったじゃないか』
一夜の声だった。まさか、電話を使ってみつちさんが話しかけてきているのかと錯覚して、
「本当に一夜さんですか?」
と訊ねてしまった。
『……みつちさんに答えたの?』
言い当てられた叶は泣きたくなった。菟上家から逃げられない絶望感が体の内側から湧き上がってくる。
「答えました」
『わかった。すぐにそこに行くから、どの辺りにいるか場所を教えて』
「雨が降ってるのに」
どうしようもない状況だと分かっていたが、自分の為に危ない橋を渡ろうとしている一夜が信じられなかった。
「来たら、一夜さんも呼ばれますよ」
『それは運じゃない? そうならないように気をつけるよ』
叶が告げた場所は、悲しくなるくらい屋敷から近い場所だった。逃げる前にみつちさんに捕まってしまい、怯えたウサギのように遊歩道にしゃがみ込んでいる。
自分は無能だ、と叶は自己嫌悪に陥った。強気で啖呵を切って出てきたのに、タイヤを切り刻まれて、挙げ句にみつちさんに答えてしまった。タイヤを切ったのはどうせ美千代の指図で屋敷のだれかがやったに違いないが、話など聞かず、葬儀が済んだらさっさと帰ってしまわなかった自分が悪い。自分の好奇心や詰めの甘さがこんな事態を招いたのだ。
悔しくて、叶は唸った。
気付けば、いつの間にか雨は止んでいたが、どんよりと落ちてきそうな雲が、まだ降り足りないと言っているようだった。
「叶さん!」
バチャバチャと足音が近づいてきた。
そこでも叶はハッとする。名前を呼ばれたとき、足音など聞こえなかった。それに気付いていたら、返事などしなかった。
「叶さん。さ、戻ろう」
一夜が静かに叶に立つように促し、右手を差し出した。
叶は自分ではどうにもならないことがあるのだと痛感し、右手に掴まって、力なく立ち上がると、一夜に伴われて屋敷に戻った。
屋敷に着いてから、一夜に叶はみつちさんに答えてしまったことを改めて告げた。それに教えていない叶の電話番号を何故知っていたのだろう。
「なんで、私の電話番号を知ってたんですか」
「君のお母さんに聞いたんだよ。なんだか嫌な予感がしたから」
その予感は的中していた。
「みつちさんはしつこいって言っただろう? それに美千代さんでは祓いきれない。だけど、今は美千代さんしかいない。君がおみず沼に引き寄せられないように、お祓いの準備が必要だ。たとえ形だけになったとしても、応急処置にはなるだろう」
祓いもできない美千代に任せるのか。しかも、美千代は体を壊している。そんな状態で本当にみつちさんをお祓いできるのか疑問だった。
みつちさんは、祈祷場でもある神域に現れる。おそらくそこがみつちさんの行動範囲なのだ。狩り場として、獲物を待ち構えている。一度マーキングされると、みつちさんはいつまでもつきまとう。まさに壊れた道祖神から抜け出したみつちさんが、叶の元に来ていたように。
知らせを受けた美千代が、客間で待っている叶の元にやってきた。ゆっくりとしか歩けない美千代を支えていた女性に、祖母が巫女装束を持ってくるように命じた。
最初に美千代に会ったときと同じように、正座した叶は、大儀そうに座椅子に凭れかかっている美千代を見つめた。
「こんな雨の中、祈祷場へ行ったのですか。馬鹿なことを……」
まもなく女性が、黒い着物が収められたたとう紙を持って戻ってきた。言われるがままに女性に連れられて隣の座敷に入ると、すぐに黒い振り袖を着付けられた。髪にもドライヤーを掛けられて整えられる。
等身大の姿見が持ってこられて、叶は鏡面に映った着物姿の自分を見つめた。
宝尽くしの柄が、袖から裾へと流れるように描かれている。単なるプリントだと思っていたが、近づいてよく観察すると、一針一針刺繍したものだった。
振り袖は自分にあつらえて作られたようにぴったりだった。
「これは希さんの巫女装束なんですよ」
女性がにっこりと笑いながら鏡の中の叶をどこか懐かしそうに見て、教えてくれた。
黒い巫女装束なんて初めて見た、と叶は物珍しげに自分の姿を観察する。
「希さんが戻ってきたみたいね」
女性が少し涙ぐんだ。
心の中で、私は希じゃない、と叶は苦々しく思う。希の代わりとしてここに縛り付けられるのは御免だった。
ふすまの向こうの客間から、一夜が声を掛けてくる。
「準備はできた?」
「はいはい、今行きますね」
女性がふすまを開けて、叶をお披露目する。
美千代が満足そうに笑んだ。
「希の巫女装束がよく似合っていますね。あの子が帰ってきたみたい……」
美千代が女性に支えられて立ち上がり、一夜に案内するように命じている。
「じゃあ、俺に付いてきて」
車での逃亡も失敗して、外に出ればみつちさんにつけ回されることを考えると、このままおとなしくお祓いを受けたほうがいいだろう。叶は黙って、一夜の横に並ぶ。
まるで、すでにお祓いの儀式が始まっているかのように、皆黙って屋敷の奥へ進んでいく。屋敷の廊下のどん突きに、いきなり重厚な扉が現れた。
「蔵……?」
屋敷の中にある扉なので、蔵かどうかは分からないが、分厚い観音開きの扉で、それを一夜が開く。
蔵の内部が見えるだろうと思っていた叶は、扉の向こうに庭があるのに驚いた。焼杉の背の高い塀に囲まれた庭の真ん中に、本物の蔵が鎮座していた。それほど大きな蔵ではない。おそらく外観からすると、壁の厚さを加味して内部は六畳ほどの広さだろう。ここで何をするのか、全く見当が付かない。
一夜が蔵の扉を開き、叶を振り向いた。
「入って」
手で招かれて、叶はおずおずと、蔵の内部を見渡しながら中へ入った。
蔵の中は薄暗い。天井付近にある明かり取りの小さな窓から、オレンジ色に染まりつつある日の光が、ささやかながら差し込んでいる。畳敷きで、家具や荷物のようなものはない。
天井には何本も黒光りしている梁が天井を支え、加工されていない太い柱と柱の間に渡されている。二階はなく、引き戸が一戸あり、その向こうにトイレが備え付けられていた。
部屋には折りたたみの座卓が据えられていて、そこにお菓子やおにぎりなどの食べ物とお茶のペットボトルが置かれていた。
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