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リバーサイド■■南には禁止事項が3つある 悪夢 【中里 亜都里】

 ぼそぼそと声が聞こえる。

 枕に付けた右耳に壁を伝って這い入ってくる。

 男と女の声。

 声の調子から女は年若い少女かも知れない。

 少女は男を前にして、蹲っている。少しぽっちゃりとした体型で、足が悪いのか立ち上がれないようだ。すごく古いデザインの服を着ている。まるで、母の若い頃着ていたような服装だ。そうだ、昭和の古い時代っぽい。口をパクパク動かして、男に一生懸命言い募っているように見える。話しかけるとかそういう感じじゃない。

 なんて言ってるんだろう。よく聞いてみようとしたら自然に二人の近くに体が移動した。

 男は少女を見下ろし、片手に一斗缶を持っている。こっちは独り言みたいに喋り続けているけど、少女に対して言っているようにも見える。持っている一斗缶を両手に持ったり片手に持ち替えたりして、何かに迷っているようだ。部屋着なのか下着なのか、白いステテコっぽい半ズボンに白い肌着を着ている。

 あ、なんとなく二人がどういう関係か分かってきた。男は父親で、少女は娘なんだ。父親が泣きながら、「すまない」って言っている。何に謝っているんだろう。

 娘は必死で「ごめんなさい」って叫んでる。何を謝っているんだろう。

 二人とも謝っているけど、なんだかニュアンスが違う。

 娘に謝る父親にわたしは何も感じなかった。娘が父親に助けを求めるように謝っているのを見ても何も感じなかった。目の前で起こっていることに気持ちが入らない。

 現実にこの場面を見たら、すぐに娘を助けるだろうと思った。けれど何の感情も湧かない。

 わたしはどうして二人の姿が見えるのかわからないまま、二人を眺めているしかない。無理矢理見させられている気がする。

 父親がとうとう一斗缶を逆さまにした。液体が流れ落ちて、娘に降り注ぐ。火が付いたように叫んで、娘が「やめて、ごめんなさい」と這いずって父親から逃げようとした。

 一斗缶を今度は頭に掲げて、父親が中身を最後までかぶった。中身のなくなった一斗缶を投げ捨てる。グワングワンと一斗缶が畳を転がっていく。

 液体で濡れた手にマッチを持ち、ブルブルと震える手でシュッと火を付けて、それを娘に投げた。

 ものすごい熱気と灯油の臭いと体毛が燃える臭いが塊になって、わたしの顔にぶつかってきた。悪臭から顔を庇いたいけど、わたしは石になったように動けない。

 父親と娘がバタバタと手足を暴れさせて、見る間に黒い消し炭になっていく。赤い炎が二人に巻き付いて、上から下まで舐め尽くしている。

 歯がガチガチと震えて音を立てる。目をそらしたい。鼻を押さえたい。熱くて顔を向けているのも辛い。

 声を上げたい。声を上げて、逃げ出したい。逃げ出さないと、炎がわたしを襲ってくる。炎に巻かれた黒い腕が、わたしに助けを求めて迫ってくる。炎に包まれて転がりながら、わたしに向かってくる。

 怖い怖い怖い

 体が一ミリも動かない。あと数センチで黒い指が、炎に巻かれて消し炭になった指が、わたしの体に触れそうだ。触れてしまう。

 いやだいやだいやだ

 触れられたらわたしも燃えてしまう。捕まってしまったらもう二度と目が覚めない。

 死にたくない————


 叫びながら目が覚めた。何度も浅く息を吐いて、今自分がいる場所を目で確認する。暗がりに少しずつ目が慣れて、ぼんやりと物の輪郭が見えてくる。いつものわたしの部屋だ。

 腕を上げてみた。良かった、なんともない。

 でも、鼻はあの焦げた臭いを嗅ぎつけた。部屋中に臭いが微かに漂っているのだ。いまだにどこから臭っているか分からない。

 枕元に置いたスマートフォンを手に取って、夢日記を付けようとした。昨日の夢に、父親と娘の今日見た同じ夢が記されていた。スクロールしていくと、一週間くらい同じ夢を見ていた。

 やっぱり忘れてしまう。忘れない為の日記なのに。それともちゃんと見返さないからダメなのか。わたしが悪夢の内容を忘れてしまうなんて、らしくない。実家にいた頃はいつも夢と同じ事が起きないか用心深くしていたのに。

 それに、なんだかここに引っ越してきて悪夢しか見てない気がする。普通の夢を最後に見たのはいつくらいだろう。

 今まで見た夢の中で知らない人が出てくることはなかった。このマンションに住み始めてからずっと、知らない人の夢を見る。時代がかっていて、最近の様子じゃない。ずっと昔のフィルムを見ているような気分だ。

 もしかしたら、過去にこのマンションで起きたことを夢に見ているのかもしれない。わたしに過去を見るようなことが出来るのか知らないけど。

 まだ四時前だ。もう一度寝ようと寝返りを打つ。

 枕に付けた左耳にぼそぼそという話し声が聞こえてきた。

 女性限定マンションで何故男の話し声がするのか、普通に考えてみてありえないことだ。

 明日になったら、白石さんに電話してこのことを聞いてみよう。白石さんは管理会社の人だし、何か知っているかもしれない。




 入社して三回目の金曜日。明日が休みだからか、同期の子達が飲みに行く話をしている。わたしは聞こえないふりをしてパソコンに向かった。

 昼休みに川添先輩とデスクで昼ご飯を食べているとき、初めてマンションのことを聞いてみた。

「川添先輩。あの……、うちのマンション、何か曰くがあったりするんですか?」

 川添先輩からしたら急にそんなことを聞かれたのだから、不審そうな目でわたしを見ても不思議じゃない。

「さぁ? そんなの聞いたこともないかな」

 川添先輩は素っ気ない態度で答えると、スマートフォンに目を落とした。

「あ」

 不意に顔を上げ、わたしの顔を見て言う。

「マンションで起きたことじゃないけど、結構近くで、うちのマンションに住んでた人が自殺したりとかはある。でもマンションで自殺するわけじゃないんだよね。もし気になるなら調べてみたら? 新聞とか」 

 わたしは弁当に詰めたおかずを箸でつつきながら、どうやって新聞を調べたら良いのか考えた。やっぱり昔の新聞を置いているのは図書館くらいだろうか。この地域の図書館ってどこにあるんだろう。

 まだこの土地に疎いわたしは新聞を調べるよりも簡単なほうを選んだ。

 昼休み時間中に席を離れて、白石さんに思い切って電話をしてみる。白石さんは何か相談したいことがあったらいつでも電話してって言ってたから大丈夫だ、相手にしてくれると念じながら、呼び出し音を聞いていた。

 三コール目で白石さんと繋がった。

「中里さん、どうされたんですか?」

 わたしが名乗ると、白石さんがいつもの通り優しい声で訊ねてきた。

「ちょっと聞きたいことがあって……。あのマンション、建つ前は何があったんですか?」

「うーん……。確か駐車場だって聞いてますよ。わたしが入社する前のことなんで、社に戻って確かめないと定かじゃありませんけど。……急がれますか?」

 ほんの少しだけ、白石さんが困ったような声音で聞いてきた。

「全然、全然急いでません」

 知りたいだけで、白石さんに面倒をかけたくない。日頃からいろいろと電話してるのもあって迷惑かもと思っていたから慌てて答えた。

「じゃあ、分かり次第お電話しますね」

 わたしはそっと電話を切った。これで、あの夢に何か進展があれば、夢が示す事柄をよく理解できる気がした。このままだと、現在とは関係ない事柄で、とんでもないことがわたしの身に起きる気がして怖かった。


 電話を切った頃にちょうど昼休みが終わった。席に戻ると、川添先輩がわたしをじっと見てくる。険しい顔つきだから、内心ひやりとする。午前中の仕事で何か失敗でもしたのだろうか。

「中里さん」

「はい」

 わたしは神妙に返事をした。

 すると、川添先輩が微かに笑った。

「いやだな、怒ってるんじゃないよ。ちょっと気になることがあって」

「はい」

「あのさ、最近ちゃんと食べてる? 何か悩み事とかない?」

 意外な質問に、わたしは戸惑った。

「ちゃんと食べてます」

 悩みはあるけど、相談しても気味悪がられるだけだから黙っておいた。

「ちゃんと食べてたらそんなにやつれないんじゃないかな。無理なダイエットとかしてるんじゃないの

?」

「え、でもちゃんと食べてますよ。ダイエットもしてないです」

 心外だった。そんなに不健康に見えるのだろうか。食事を抜いたり、無理なダイエットだってしてないのに。

 堤さんが料理を持って来てくれるからむしろ食べ過ぎているくらいだ。それに手作りご飯のおかげで、スリムになってきて嬉しいぐらいなのだ。

「ちょっときて」

 川添先輩に肩を叩かれて席を立つように促された。わたしはなんだろうと素直に川添先輩についてトイレまで行った。

 トイレには全身を映せるくらいの大きな鏡がある。

 大きな鏡を見て、エレベーターでのことを思い出して少し不安になる。

 鏡にはわたしと川添先輩が映し出されていた。変なものは一切映ってないのに少しほっとした。でもそれもつかの間。

「ちょっと異常な痩せ方と思うよ。一体、今何キロなの? みんな心配してるんだよ」

「まさかぁ」なんて笑いながら、改めて鏡を覗き込む。何も変なところなんてない。川添先輩こそおかしな事を言ってないか。

「わかんないの? それじゃあ、もう病気だよ。よく見てみなって」

 川添先輩がわたしの腕を取って自分の腕と比べてみた。

 川添先輩の血色の良い腕と、わたしの骨張った青白い腕。視線を顔に移すと、いつの間にか顔つきが変わった自分がいた。

 頬がこけて、血色を失った青い顔が自分を見返していた。

 会社で着ている制服のブラウスが大きすぎて、だぶだぶにしわが寄っている。スカートはウエストのサイズがあってなくて腰で引っかかっている有様だった。

「あれ……?」

 わたしの目に映っていたさっきまでの自分と、今気がついた自分の姿は全く別人のようだった。

「なんで……」

 意味が分からなくて、何度も呟いた。

「確か焦げ臭いって言ってたよね? それに声が聞こえるって。わたしからしたら、中里さん、病気に見えるよ? 悪いこと言わないから、明日にでも心療内科に行ったほうが良いと思うよ。土曜の午前中受診できるところ、ここら辺にたくさんあるし」

 心療内科……。わたしは精神の病気なの? 川添先輩は焦げた臭いも声もわたしの気のせいと思っているのだ。きっと痩せたのは拒食症とでも思ったんだろうか。

 そんなこと言われてもわたしは言い返すことが出来なかった。今自覚した自分の姿は確かに病的だった。

 急に不安になってきて、気難しい顔つきになってしまう。

「病院探すの手伝うよ」

 わたしの様子を見た川添先輩が気を遣ってスマートフォンで検索を始めた。

 近くの病院をいくつか見せられて、紹介状がなくても診てくれる心療内科に決めると、わたしは腑に落ちないまま病院の情報をカレンダーに登録した。

#ホラー小説部門 #創作大賞2025

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