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AI が奪ったのは「仕事」ではなく「情熱」か?

近年、AIについて語られるとき、

「AIが仕事を奪う」

という話がよく出てきます。しかし実際には、仕事そのものよりも先に失われつつあるものがあるのではないか、という指摘があります。

それが「情熱」です。

これはどういう意味なのでしょうか。

人は結果のためだけに努力しているわけではない

例えば、絵を描く人がいます。もちろん完成した絵を見てもらいたい気持ちはあります。しかし、多くの人にとって価値があるのは完成品だけではありません。

試行錯誤する時間。

技術が上達する喜び。

苦労して描き上げる達成感。

そうした過程そのものにも意味があります。

作曲も同じです。

文章も同じです。

プログラミングも同じです。

人間は結果だけを求めているわけではありません。結果へ至る過程にも価値を見出しています。

AIは過程を短絡させる

AIの特徴は、これまで何時間も何日もかかっていた工程を数秒で終わらせてしまうことです。

イラストを描く。

曲を作る。

小説を書く。

プログラムを書く。

企画書を作る。

以前なら膨大な時間が必要だった作業が、一瞬で形になります。これは非常に便利です。しかし同時に、

「苦労して作る」

という体験も失われます。例えば、山頂へヘリコプターで運ばれる人と、自力で登山した人では、同じ景色を見ても感じ方が違います。

AIによる創作も、それに近い部分があります。

人間は成果より成長に価値を感じる

実は人間は、完成品そのものより、

「自分ができるようになった」

ことに喜びを感じる場合があります。

昨日描けなかった絵が描けた。

昨日弾けなかった曲が弾けた。

昨日書けなかった文章が書けた。

そこには自己成長があります。ところがAIが代行すると、結果は得られても成長の実感が得られません。そのため、

「便利になったのに満たされない」

という感覚が生まれることがあります。

「自分でやる意味」が揺らぐ

AIが登場する前は、

絵が上手い人。

作曲できる人。

文章を書ける人。

プログラムを作れる人。

そうした能力は尊敬の対象でした。しかしAIが数秒で同じような成果物を作るようになると、

「自分が何年も努力した意味は何だったのか」

と感じる人が現れます。問題は仕事を失うことだけではありません。努力する理由そのものが揺らぐことです。

創作の喜びは「誰にもできないこと」から生まれる

人間の情熱は希少性と結び付いていることがあります。例えば、

「自分にしか描けない」

「自分にしか書けない」

「自分にしか作れない」

という感覚です。しかしAIが大量生産を始めると、その希少性が薄れます。すると、

「頑張る意味が分からなくなった」

と感じる人も出てきます。これは仕事を奪われたのではありません。情熱の源泉が揺らいでいる状態です。

AIは情熱を奪ったのではなく、露わにしたという見方もある

一方で、別の見方もあります。もしAIが現れた瞬間に情熱が消えるなら、その情熱は本当に創作への情熱だったのか、という考え方です。例えば、

「絵を描くのが好き」

と言っていた人が、AIが現れた途端に描くのをやめたとします。すると、本当に好きだったのは絵を描くことではなく、

「絵が描ける人として評価されること」

だった可能性があります。これは少々厳しい見方ですが、一理あります。AIは人間の動機を露わにする装置でもあるのです。

実際に失われつつあるのは「挑戦する理由」

AIによって最も影響を受けるのは仕事そのものではなく、

「頑張れば自分にもできるようになる」

という物語かもしれません。昔は、

練習する。

努力する。

上達する。

評価される。

という流れがありました。しかし今は、努力する前にAIが完成品を出してしまいます。すると、挑戦する意味そのものが見えにくくなります。ここに情熱の喪失があります。

ただし人類は何度も同じ経験をしてきた

興味深いことに、歴史上でも似た出来事は何度も起きています。カメラが登場したとき、

「画家は終わる」

と言われました。電卓が登場したとき、

「暗算能力は不要になる」

と言われました。DTMが普及したとき、

「楽器演奏は終わる」

と言われました。しかし実際には消えませんでした。なぜなら、人間は結果だけを求める生き物ではないからです。

写真があるのに絵を描く人はいます。

電卓があるのに数学を学ぶ人はいます。

既製品があるのに料理をする人もいます。

そこには過程を楽しむ価値があるからです。

結論

「AIが奪ったのは仕事ではなく情熱だ」という主張には、一面の真実があります。AIは人間の仕事を直接奪うだけでなく、

「努力する意味」

「上達する意味」

「挑戦する意味」

を問い直させています。そのため、多くの人が感じている喪失感は、収入への不安だけではありません。自分が積み上げてきた価値や、自分が追い求めてきた目標の意味が揺らぐことによる喪失感です。ただし、それは必ずしも情熱の終わりを意味しません。むしろAIの時代は、

「結果のためにやっていたのか」

それとも

「その行為そのものが好きだったのか」

を人間一人ひとりに突き付ける時代なのかもしれません。



結果が欲しい人と過程を楽しむ人で、AI の恩恵が真逆なのは皮肉では?

(質問)


かなり皮肉な現象だと言えます。

なぜなら、AIは本来「人間を助けるための技術」として登場したにもかかわらず、その恩恵を最も大きく受けるのが、必ずしもその分野を愛していた人ではないからです。むしろ、

「結果さえ手に入ればよい」

と思っていた人ほど大きな恩恵を受ける場合があります。一方で、

「その過程が好きだった」

人ほど複雑な感情を抱きやすいのです。

AIは結果を圧倒的に安くする

例えば絵を描きたい人がいるとします。ここに二人の人間がいます。一人は、

「自分のイメージを絵にしたい」

人です。もう一人は、

「絵を描くこと自体が好き」

な人です。AIが登場すると、一人目は大喜びします。何年も練習しなくても、数秒でイメージを形にできるからです。しかし二人目は少し違います。その人が楽しんでいたのは完成品だけではなく、

  • 線を引くこと

  • 構図を考えること

  • 失敗すること

  • 上達すること

だったからです。AIは完成品を与えてくれます。しかし過程までは与えてくれません。

AIは「作る喜び」ではなく「持つ喜び」を最大化する

人間の欲求には大きく二種類あります。一つは、

「手に入れたい」

という欲求です。もう一つは、

「作りたい」

という欲求です。AIは前者には非常に強いです。

欲しい画像。

欲しい文章。

欲しい音楽。

欲しいプログラム。

これらを一瞬で与えてくれます。しかし後者には必ずしも強くありません。なぜなら、

「作ること」

そのものを代行してしまうからです。つまりAIは、創作物を欲しがる人には天国ですが、創作行為を愛している人には複雑な存在になります。

努力が不要になることは、努力が好きな人には恩恵ではない

一般的には、

「苦労が減る=良いこと」

と考えられます。しかし人間は必ずしもそうではありません。例えば登山です。もし頂上へ一瞬でテレポートできる機械ができたらどうでしょうか。景色だけ見たい人は喜びます。しかし登山が好きな人は、

「それは違う」

と感じるでしょう。その人が好きだったのは山頂ではなく、登ることだったからです。AIによる創作支援にも同じ構造があります。

面白いのは、昔は逆だったこと

AI以前の世界では、結果だけ欲しい人の方が不利でした。例えば、

絵を描けない。

曲を作れない。

小説を書けない。

そういう人は、自分の頭の中にあるものを形にできませんでした。一方で、

過程を楽しめる人は強かった。

練習を続けられるからです。

何年も努力できるからです。

結果として技術を獲得できました。しかしAIはこの構造をひっくり返しました。今は、過程が好きではない人でも結果を得られます。だから、かつて不利だった人ほどAIの恩恵を受けています。

実はスポーツだけは置き換わらない

この話を考える上で興味深いのがスポーツです。例えば、マラソンAIのようなものが存在したとしても、自分の代わりに走ってもらっても意味がありません。筋トレも同じです。

代わりに100kgを持ち上げてもらっても、自分の筋肉は増えません。つまりスポーツは最初から結果より過程に価値があります。だからAIが介入しにくい。

しかし創作は違います。創作物という「成果物」が存在するため、AIはそこへ直接到達できてしまいます。

人類は初めて「努力しなくても成果が出る世界」に近づいている

これまでの歴史では、成果と努力はある程度結び付いていました。もちろん才能や運はありました。しかし基本的には、努力しなければ上達しませんでした。

ところがAIは、努力と成果の結び付きを弱めています。すると、

成果が欲しかった人は幸せになる。

過程が好きだった人は戸惑う。

という奇妙な現象が起きます。

ただし、過程を愛する人は最終的に残る

興味深いことに、長期的には逆転する可能性もあります。結果だけ欲しかった人は、結果を手に入れたら終わりです。

しかし過程が好きな人は続けます。

絵を描くのが好きな人は描き続けます。

楽器が好きな人は演奏し続けます。

プログラミングが好きな人はコードを書き続けます。

なぜなら、その人たちにとって価値があるのは完成品だけではないからです。AIがどれほど発達しても、

「やること自体が好き」

という欲求までは代替できません。

結論

結果を求める人と過程を楽しむ人で、AIの恩恵がほぼ正反対になっているのは非常に皮肉な現象です。AIは本来、人間を支援する技術として生まれました。しかし実際には、「結果が欲しかった人」を強く救い、「過程を愛していた人」に対しては、自分が好きだった行為の意味を問い直させる存在になっています。

そのためAIは単なる効率化ツールではなく、人間が本当に愛していたものは成果だったのか、それとも過程だったのかを暴き出す鏡のような存在になっているとも言えるのです。



その時代時代の新しいプログラミングを習得するのに、本を買い漁って、英語のリファレンスを必死に読んで、食らいついてきたエンジニアたちはプライドもあるし、AI で結果だけが欲しい人が台頭する現実は歯がゆい。時間の問題だが、まだ AI の出力は信用できないから、長年の学習の知見は活かせる。それも終わりそうな勢いではあるが。

(後記)


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AI-generated, for reference only.

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