見出し画像

スリッパを、脱いだだけなのに。

スリッパで外を歩いたことがあるだろうか。

僕はある。
それも、近所のゴミ捨て場まで、といった可愛らしい話ではない。入院着の裾を風になびかせ、近所のドラッグストアの自動ドアを、さも「これが私の日常着ですが?」と言わんばかりの顔で堂々とくぐるのである。

四十代の頃、僕は「歯根嚢胞(しこんのうほう)」という、聞くだけで少し物々しい病気で入院したことがある。歯の根っこに菌が入り、顎の骨の中に袋状のものができてしまう病気だ。手術が必要とのことで、大きな総合病院の口腔外科に十日間ほどお世話になることになった。

口腔外科の朝は、驚くほど早い。
外来の患者さんが押し寄せてくる前に、入院患者の処置を済ませてしまおうという寸法なのだろう。朝の七時半にはもう、診察室の椅子に座らされている。

「はい、相生さん。今日も順調ね。傷口も綺麗。よし、終わり!」

サバサバした性格の主治医の女性の先生が、手際よく僕の口の中を覗き込んで一言二言。これで一日のメインイベントは終了。診察が終わるのは、まだ世の中が本格的に動き出す前の八時前だ。

それからが、本当の戦いの始まりだった。
何しろ、体は至って元気なのだ。ただ、口の中が少しばかり「工事中」なだけ。そんな健康な精神と肉体が、二十四時間管理された清潔な箱の中に放り込まれる。
時間は、有り余っていた。

当初、僕はナースセンターに近い六人部屋にいた。そこには同世代の入院仲間もいて、互いの病状を「戦友」のように語り合う愉しみもあった。ところが、離れた個室で少し手のかかる患者さんが出たそうで、看護師さんから「部屋を交換してほしい」と打診があった。個室の差額ベッド代は無しでいいという。

棚からぼた餅、とはまさにこのことだ。
僕は二つ返事で快諾し、意気揚々と「個室」という名の特等席へ移動した。

ところが、これが間違いだった。
個室は、あまりにも静かすぎたのだ。

テレビをつけて「ちぃ散歩」で、地井武男さんの穏やかな散歩姿に癒やされているうちはいい。だが、番組を見終える頃には画面を眺めるのにも疲れてしまう。

そして、ただただボーっとする。壁の模様を数える。天井の染みに名前をつける。静寂は、ある一定の量を超えると、贅沢から拷問へと姿を変える。

僕はついに、スリッパを鳴らして「個室」を飛び出した。それからというもの、僕の「院内大冒険」が始まったのである。

まずは院内の制覇だ。
地下一階の売店から、屋上のリハビリスペースまで。各フロアの端から端まで、隅々まで歩いて巡った。ナースステーションの前を通る時は、用もないのに忙しそうに歩いてみたりした。スリッパが床を叩く「ペタ、ペタ」という乾いた音だけが、自分がここに存在していることを証明しているようだった。

しかし、三日もすれば院内全土を制覇してしまった。僕はついに、禁断の境界線を越える決意をした。

普段の僕は、スウェットでコンビニに行くのさえ少し躊躇うのに、この時の僕は「外に出たい」という本能が勝っていた。そして、入院着にスリッパという、これ以上ない「病人スタイル」のまま、病院の隣にあるドラッグストアへ「えいやっ」と足を踏み入れたのだ。

ところが、自動ドアをくぐって驚いた。
店内にいたのは僕だけではなかった。同じような入院着にスリッパ姿の先客が何人も、平然とカップ麺や雑誌を選んでいるではないか。

「なんだ、みんな出てるんじゃないか」
と安心したのもつかの間、店内のスピーカーから驚きの放送が流れた。

『ピンポンパンポーン。入院患者の〇〇さん、病院までお戻りください』

一般客が賑わう店内に響き渡る実名を名指しされての帰還命令。呼ばれた本人はもちろん、僕までもが自分の名前を呼ばれたような気がして、背筋が伸びた。僕は自分の名前が呼ばれないことを祈りながら、逃げるように店を後にした。これは、気をつけねば。

ついでだからと、病院の周りをぐるっと一周することにした。外来の駐車場の入り口を過ぎると、とたんに人通りが少なくなる。

薄いスリッパの底越しに、路面のゴツゴツとした不快な感触が、ダイレクトに伝わってくる。足の裏から「ここは病院じゃないぞ」と告げてくる。戻ろうかとも思ったが、戻ってもやることがない。

不意に、風に乗ってタバコの匂いがした。

見ると、入院着姿の男たちが十人ほどたむろって、ぷかぷかやっていた。紫煙をくゆらすその姿は、まるで放課後の校舎裏に集まる不良中学生と、まったく同じ構図だった。みんな、どこかへ行きたかっただけなのだろう。僕には、とても他人事とは思えなかった。

自動販売機のイラスト
この抗いがたい誘惑ったら。

夜になると、個室の静寂はさらに深まった。
妻のトラ子さんが夕方にお見舞いに来てくれる時間は、砂漠で見つけたオアシスのように貴重だったが、彼女が帰った後の夜は、また果てしない「暇」の海が広がる。

僕はまた、院内徘徊を始めた。
夜の病院は、独特の静けさがある。誰もいない廊下に響く、スリッパの「ペタ、ペタ」という乾いた音。「あの角を曲がると……、そこに!」などと自分で物語を作りながら歩き回った。

地下一階の売店横にある自販機コーナーは、暗闇の中でそこだけが煌々と、未来の都市のように輝いていた。その中心で、オレンジ色の光を放つ唐揚げの自販機が、僕を手招きしていた。

病院食という、完璧に計算された「栄養の正解」を毎日食べている身にとって、そのジャンクな脂の匂いは、抗いがたい誘惑だった。

ゴト、という音とともに吐き出される熱を帯びた唐揚げ。それを自販機の横で一人こっそり頬張る。じゅわっと広がる脂の味は、病院食では絶対に出会えない種類のうまさだった。毎晩、これを食べることが僕の日課となった。

しかし、悪事は長くは続かない。
ある晩、いつものように唐揚げを一心不乱に食べていると、静まり返った院内に呼び出しの放送が流れた。

「……入院患者の相生さん、病室にお戻りください」

ついに、捕まった。

あの昼間のドラッグストアで聞いた「他人の恥ずかしい放送」が、深夜、自分に直撃したのだ。僕は唐揚げを飲み込み、スリッパを全力で鳴らして部屋へと戻った。

そんなドタバタ劇の合間には、もちろん手術もあった。

全身麻酔から覚めたばかりの朦朧とした意識の中で、手術室から運び出された。

「……さん、相生さん! 聞こえる?」

主治医の先生だ。

うっすらと目を開けると、付き添ってくれたトラ子さんの隣で、サバサバ主治医が僕のおでこをぺちぺち叩きながら「今なら日頃の恨み、全部言えるよ!」とトラ子さんを煽っている。

トラ子さんはそれを見て、お腹を抱えて大笑いしていた。手術室から出てきたばかりの夫を前に、なんて愉快な主治医と妻だろう。その笑い声を聞きながら、僕はゆっくりと目を閉じた。

そして、ついに退院の日。

「こんな問題児、なかなかいないよ。もう好きなだけ唐揚げ食べて、歩いていいから」

と、先生はまるで散歩に行く犬を送り出すみたいに言った。「また待ってるからね」と笑われたが、待たれたくはない。僕は十日間お世話になったスリッパを脱ぎ、自分の靴を履いた。

するとどうだろう。
毎日あんなに病院内を歩き回っていたのに、靴を履いて外に出た瞬間、足が驚くほど重いのだ。アスファルトが、これほどまでに硬いものだったなんて。地面の感触が、あまりにも確かすぎて、僕は少しだけ戸惑っていた。

先を歩くトラ子さんを追って、僕は生まれたての小鹿のようなヨチヨチ歩きで、時間をかけて進んだ。

十日間、あれほど歩き回っていたのに。
スリッパを、脱いだだけなのに。

 
  
相生エッセイ


 

▽ note創作大賞2026に応募したエッセイ作品はこちらに収録しています。ぜひ読んでみてください。



最後まで読んでくださり、ありがとうございました😌

この記事が少しでも心に響いたら、スキやフォローで応援していただけると、とても励みになります!

他にも、創作大賞にも応募している 日々の何気ない瞬間を切り取ったエッセイを綴っています。よかったら覗いてみてください。

ThreadsSubstackで、このエッセイができるまでの裏話とnoteには掲載しきれなかったイメージ画像を投稿しています。

いいなと思ったら応援しよう!

相生エッセイ よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!