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二十五年遅れの新弟子検査

「ひがぁ〜しぃ〜」
呼び出しの甲高い声が、場内に長く伸びていく。

大相撲名古屋場所が終盤戦を迎えている。
今場所は、若い力士たちの躍動感たるや、凄まじいものがある。あの思い切りのいい踏み込み。あれができるようになるまでに、彼らはどれだけの朝を稽古場で過ごしたのだろう。

「よしっ! いい相撲だ!」と、録画したテレビの前で感心しながら、仕切りの間、僕の目は画面ではなく手元のスマートフォンに落ちている。テーブルには麦茶のグラスが輪の染みを作っている。

見ているのは、日本相撲協会の公式サイトじゃない。いま僕が見つめているのは、noteで開催されている『創作大賞』という名の、文字通りの「大場所」のタイムライン。

先日、創作大賞という大きなお祭りの締め切りが過ぎた。
とはいえ、終わったわけではない。むしろ、今こそ審査という名の本当の取組が行われている佳境の期間なのだ。

そこで、僕も自分の立ち位置を確認しようと、番付表(創作大賞応募者の検索結果画面)を眺めているのだ。指でツツツと画面を下へ下へとスクロールし、目を細めて自分の四股名(アカウント名)を探すのだが。

……ない。
応募作品が多すぎるのか、それとも僕の存在が極小すぎるのか。

スクロールする親指が腱鞘炎になりそうになる番付表の下の方、目を凝らさないと見つからないあたりに、僕の名前は刷られているのだろうか。

というのも、「創作大賞」という大場所に、僕もひっそりと上がってしまったのだ。

番付表のずっとずっと下の方、虫眼鏡を使わないと見えないような小さな字で書かれた、新入幕、いや、幕尻の力士として。立派なのはお腹だけで、文章の筋肉はソップのように細い。四股を踏む足元は、生まれたての小鹿である。

周りを見渡せば、圧倒的な熱量を持つ横綱級のバズクリエイターや、バチバチに鍛え上げられた文章の化け物ばかり。僕はといえば、稽古場で右へ左へと転がされ、砂まみれになっているただの新弟子に過ぎない。それが今の僕なのだ。

思えば、これまでもいろんな土俵に上がっては投げ飛ばされてきた。そもそも僕は、SNSという土俵が大の苦手だ。X(旧Twitter)やThreadsなんかの巡業先では、もう開始一秒。強烈な「秒での寄り切り」を食らってばかりだった。

なんとか白星(スキやいいね)を稼ぎたくて、小手先の技に手を出したこともある。だが、どうにも性に合わなかった。やっているうちに虚しくなるのだ。

「僕はいったい何をやっているんだろう」という、後悔だけが残る。以来、バズを狙うのはやめた。立ち合いで変化して勝っても、館内が水を打ったように静まり返るのを知ってしまったのだ。

それでもnoteは楽しい。休場せずに、毎日更新という皆勤賞を続けていたら、少しずつ反応がもらえるようになったからだ。ありがたい話である。

少し調子に乗った僕は、出稽古と称して他の部屋……つまり他のクリエイターさんのエッセイを読みに行く。すると、どうだ。そこで目にするのは、圧倒的な白星の数々と熱狂する観客たちだ。

あまりの実力の違いに、僕の心はいとも簡単にバキバキに折られてしまう。みんな、ものすごい数の「スキ」という名の白星を積み上げているじゃないか。

そのまま、すごすごと自分の土俵に戻ってくる。すると今度は、妙に静かなのだ。お弁当を食べる音しか聞こえないんじゃないか、と思うくらいに。館内に響き渡る、ポリポリと沢庵をかじる音。

これはもう、親方や観客から「お前の相撲はつまらん!」と強烈な張り手を食らっているような気分である。そして、行司の軍配(アルゴリズム)は非情にもスーッと相手のほうへ上がっていく。

駄目押し(説明過多)ばかりで、勝負がついた後もぐいぐい押しているのだろうか。そもそも立ち合いが遅い(導入が弱い)からだろうか。分析するほど、自分の相撲の粗ばかりが見えてくる。

ああ、僕は観客を喜ばせる相撲がまったく取れていないのだなあと、激しく反省する夜。完全なる僕の実力不足なのだ。

それでも。
こんな幕尻のソップ力士にも、ごくたまに、僕の土俵の周りをぐるぐると「懸賞旗」が回ることがある。読者さんからのコメントや、マガジン登録、それに感想文だ。

これをもらった時の喜びといったら、ちょっと言葉にできない。懸賞旗が、僕のためだけに土俵を一周している誇らしさ。

砂かぶり席に座ってくれている熱心な読者の方々が、「よかったぞ!」と声をかけてくれる。その一言が、勝ち名乗りのように胸に響くのだ。

力士は懸賞金を受け取るとき、左、右、真ん中の順に手刀を切る。神様への感謝の作法なのだそうだ。だから僕も、コメントの返信を書く前には、心の中でちゃんと三回、手刀を切ることにしている。

「ああ、僕はこの一言のために書いているのだ」と、大袈裟ではなく本気で思う。

大記録を残す大横綱になりたいわけじゃない。土俵際で「よいしょ!」と声をかけてくれる誰かと、僕の一番(一篇)を面白がってくれる贔屓筋と、うまい酒が飲みたいだけなのだ。

僕は、不器用でもいいから、誰かの記憶に残る力士になりたいのかもしれない。
 

それにしても、どうすればもっと強い力士になれるのだろう。
答えはひとつ。稽古である。

ところで僕は、エッセイという一門に、それなりに出入りしてきたつもりだった。

吉田戦車さんの部屋には何度も通った。シュールで飄々とした、変化技の達人である。柴門ふみさんの部屋にも足を運んだ。人間観察の切れ味が鋭い技巧派だ。二つの型を、勝手に師と仰いできた。僕にとっての憧れの「部屋」であり、目標とする型だった。

ところが先日、気づいてしまったのである。

——さくらももこさんの部屋に、一度も行っていない。

エッセイの金字塔である。総本山である。皆が必ず薦める部屋である。そこを素通りして「エッセイが好きです」と言っていたのだから、たいした度胸だ。

というわけで先日、『もものかんづめ』の文庫本を買ってきた。文庫が出てから二十五年。名勝負のビデオを、四半世紀寝かせてから再生しているようなものである。遅れてきた弟子入りにも程がある。むしろ、もう入門を断られる年齢だ。

だが、遅れて観ても名勝負は名勝負だった。さくらももこさんは、日常のくだらなさを、片っ端から笑いに変えていく横綱の相撲。

変化技の達人・吉田戦車さん、技巧派の柴門ふみさん、そして大横綱のさくらももこさん。三つの部屋の、三つの型。これでようやく、稽古場が揃った。

彼らの文章は、今読んでも恐ろしいほど鋭い。
僕は、夜の静まり返った稽古場の隅で、一人こっそりと巨匠たちの血肉を食らう。四股(読書)を踏み、すり足(写経)をし、鉄砲(書く筋トレ)を繰り返す。

そして毎回、同じ結論に辿り着く。近道はない。読むこと、書くこと、そして書き直すこと。基本しかない。それを愚直にやり続けるのだ。

いつか出版社という大きな部屋に入門させてもらって、ちゃんと利益を出せる力士になるために、今のうちからひっそりと稽古を積み重ねるのだ。
 

「にぃ〜しぃ〜」
また呼び出しの声が聞こえた気がした。

「あった。ここにいるよ」

不意に横から声がした。
呼び出しの声ではなく、妻のトラ子さんだった。

いつのまにか僕のスマホを覗き込んで、指で画面をなぞっている。創作大賞の検索結果だ。まるで虫眼鏡でも使っているかのように、細かく細かく、ずーっと下の方の番付まで探してくれている。

「こんなに下の方なのに、よく見つけたね」
「うん。ちゃんといるじゃない」

彼女の指先が、下の方に書かれた僕の四股名をぴたりと押さえた。こんなに下の方の番付なのに、ちゃんと見つけてくれる人がいる。

トラ子さんだけじゃない。熱心に砂かぶり席に座って、下手くそな僕が飛んできて下敷きになるリスクも顧みず、僕の不器用な相撲を見守ってくれる人もたくさんいてくれる。

そういえば、相撲の番付表に書かれている相撲字は、客席に隙間ができないようにと、文字がぎっしりと隙間なく書かれているらしい。だから僕も、読者さんが少しでも楽しんでくれるように、ぎっしりと心を込めた文章を書こうと思う。

いただいた懸賞金の一袋を、大切に懐へしまい込む。
明日もまた、誰も見ていないかもしれない土俵に上がる。
そして、四股を踏む。

稽古、稽古、稽古。
それが、幕尻力士にできる唯一のことだから。

 
  
相生エッセイ


 

▽ note創作大賞2026に応募したエッセイ作品はこちらに収録しています。ぜひ読んでみてください。



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他にも、創作大賞にも応募している 日々の何気ない瞬間を切り取ったエッセイを綴っています。よかったら覗いてみてください。

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