すごいこと思いついたんだけど
すごいこと思いついちゃった!
やば、メモしておこう。
メモしないと、すぐに忘れるから。
僕の頭の中には、稀にビッグバンが起きることがある。
それは深夜の書斎であったり、あるいは歯を磨いている最中の洗面所であったりするのだが、突如として「これだ!」という完璧なフレーズや、世界を一変させるような(と、その時は本気で信じている)アイデアが降臨するのだ。
その瞬間、僕の心は高揚し、まだ見ぬ名作の誕生を確信して震える。しかし、次の瞬間に襲ってくるのは、底知れぬ恐怖だ。
それは、せっかく思いついたアイデアを、忘れてしまうことだ。
僕は自分の記憶力を1ミリも信用していない。僕の脳内は、秒速で情報を忘却の彼方へと追いやる、穴の開いたバケツのようなものなのだから。
そもそも、アイデアというやつは、なぜこれほどまでに逃げ足が速いのだろうか。
さっきまで、それは目の前でピチピチと跳ねる新鮮なサカナのように、鮮明な輪郭を持っていた。鱗の輝きまで見えるほどだった。しかし、いざ「ペンを執ろう」と振り向いた瞬間、それは忽然と姿を消す。
例えるなら、冬の朝の湯気である。あるいは、掴もうとすると指の間をすり抜けていく霧だ。
「ここにいたよね?」と問いかけても、アイデアは霧の向こう側で、僕を小馬鹿にするように手招きしている。追いかければ追いかけるほど、それは巧妙に、かつ残酷なほど鮮やかに遠ざかっていく。
「逃した魚は大きい」とはよく言ったものだが、「忘れたアイデア」ほど素晴らしく感じるものはない。
「あの時思いついたのは、きっと人類を救うほどの至言だったに違いない」と、脳内で勝手に神格化が進んでいく。思い出せないからこそ、それは永遠に「最高傑作」であり続けるのだ。なんとも皮肉な話ではないか。
そんな悲劇を、僕はこれまでに何度も繰り返してきた。
だが、僕は諦めない。
失われた記憶を取り戻すための、ある「儀式」を知っているからだ。以前、こんな話を聞いたことがある。
「何かを忘れてしまった時は、さっきまでと同じ行動をすると、記憶の回路がつながって思い出せるらしい」
たとえば、冷蔵庫の前まで来て「何を取りに来たんだっけ?」となった時、一度リビングのソファに戻って座り直すと、不思議と思い出せたりするというのだ。
脳科学的な根拠があるのか、あるいは単なる迷信なのかは知らない。だが、僕はこれを密かに「記憶の再起動」と呼んで信じている。
僕も何度かこの儀式を試したことがある。
スーパーの通路で立ち尽くして、わざわざ入口まで戻ってから、ようやく「卵だ」と思い出したこともあった。
物理的な状況を再現することで、記憶の鍵をこじ開ける。もし万が一、この最高なアイデアを逃してしまったら、またこの儀式を試すことになるんだろう。
だからこそ、今、この瞬間が勝負なのだ。ようやくスマホを手に取り、メモアプリを立ち上げようとした、その瞬間だった。
ドタドタドタ! と、一階から凄まじい足音が響いてきた。
妻のトラ子さんが、驚くべき勢いで階段を駆け上がってきたのである。何事かと思って振り向くと、彼女は僕の作業部屋の入り口でピタリと止まり、そのまま呆然と宙を仰いでいた。
「……あれ?」
トラ子さんは首を傾げたまま、彫像のように固まっている。
「どうしたの、そんなに急いで」
僕が声をかけると、彼女は困ったような、それでいてどこか楽しそうな顔をして僕を見た。
「……私、何しに来たんだっけ?」
僕は思わず吹き出してしまった。
トラ子さんは時折、こういう「目的の蒸発」を起こす。彼女の脳内でも、きっと僕と同じようにビッグバンが起きて、次の瞬間にはブラックホールに吸い込まれてしまったのだろう。
「トラ子さん。こういうときは、同じ行動をするといいらしいよ」
笑いをこらえながら、僕は彼女に応じた。
「一度、下に戻って、もう一度同じ気持ちで階段を上ってごらん」
「えー、本当に?」
トラ子さんは半信半疑といった様子だったが、「まあ、やってみるわ」と素直に階段を下りていった。
階下から「えーっと、私は洗濯物を……」という独り言が聞こえ、再びドタドタという足音が響く。
そして二階に現れたトラ子さんは、パッと顔を輝かせた。
「思い出した! ハンカチよ、ハンカチ。タンスの奥にある予備のやつ!」
彼女は目的のものを手に取ると、「えへへ、本当に思い出せたわ」と満足げな笑顔を残して、再び一階へと去っていった。
本当に思い出すのかよ、と僕は感心してしまった。物理的な振動が、彼女の脳の引き出しを開けたのだ。「えへへ」じゃないよ、トラ子さん。僕は今、君の割り込みを必死に耐えて、この「世紀の発見のアイデア」を守り抜いたんだから。
だから僕は、とにかくメモ魔になるしかないのだ。とにかく書く。すぐに書く。それだけが、野生のアイデアを仕留める唯一の手段なのだ。

さて。
ようやく嵐が去った。
さっきのアイデアを、いよいよ文字に変換する時が来た。僕は背筋を伸ばし、再び真っ白なメモ帳に向き合った。さあ、世界を変える「あのアイデア」を書き留めよう。
よし、今度こそ……。
……。
……あれ。
おかしいな。
「あれ、何だっけ?」
冷や汗が背中を伝った。
トラ子さんの「階段魔法」があまりに鮮烈すぎて、肝心のアイデアがどこかへ行ってしまった。僕の指先に止まっていたはずの「世界を一変させるようなアイデア」は、案の定、跡形もなく消え去っていたのだ。
(あんなにキラキラしていたのに!)
壮大で、深遠な、宇宙の真理に触れるような話題があったんだ。さっきまで確かに、この指先にその感触があったのに。
頭の中の引き出しを片っ端から開けてみるが、そこにあるのは空っぽの棚ばかりだ。
トラ子さんが、あんなに嬉しそうに階段を上ったり下りたりするから。彼女の笑顔の余韻に浸っている間に、僕の大事なアイデアは、霧の向こうへ完全失踪を遂げてしまったらしい。
情けないやら悔しいやらで、僕はデスクに突っ伏した。
いや……、待てよ。
そうだ、同じ行動を再現すればいい。先ほどトラ子さんが駆け上がってきたあの状況を、もう一度再現してもらえば、僕の記憶のスイッチもカチリと入るはずだ。
僕は椅子から立ち上がり、階下に向かって精一杯の声を張り上げた。
「おーい、トラ子さん! 悪いけど、もう一度すごい勢いで二階に駆け上がってきてよ!」
階下から「えー、またー?」という呆れた声が聞こえる。
それでも、彼女の足音が階段を揺らし始める。
トントン、トントン。
さっきよりも軽快な足音が、階段を駆け上がってくる。
その振動が、僕の脳の奥底にある古い回路を刺激する。
くるぞ。
霧が晴れる。
あの輝きが戻ってくる。
――カチリ。
あ、そうだ! これだ!
すごいこと思いついちゃった!
やば、メモしておこう。
メモしないと、すぐに忘れるから。
相生エッセイ
▽ note創作大賞2026に応募したエッセイ作品はこちらに収録しています。ぜひ読んでみてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました😌
この記事が少しでも心に響いたら、スキやフォローで応援していただけると、とても励みになります!
他にも、創作大賞にも応募している 日々の何気ない瞬間を切り取ったエッセイを綴っています。よかったら覗いてみてください。
Threads 、Substackで、このエッセイができるまでの裏話とnoteには掲載しきれなかったイメージ画像を投稿しています。
▼ お気に入り記事マガ✨️マガジンに追加していただきました!
ありがとうございます!
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!