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「ありのまま」では、デリカシーがない

12月からチェロをはじめることになって、文章講座のアドバンスを受けれることが叶った。来年は宝蔵院流槍術に通うことになりそうだ。

以前、合氣道のお稽古に通っていた時、週5でお稽古通いながら他のお稽古ごともしていたり、大学で先生しながら空き時間には欠かさずお稽古にきていて、週1回しかお稽古に来ていない私としては、一体どうやって時間やりくりしているんだろうと思いながら、仕事しかしていない人生とは違って、何か大人の余裕みたいなのを感じ憧れていたのを思い出す。今も周りには仕事もやり趣味もやりお稽古ごと続けていたり資格取ったり大学行きなおしたりボランティアしたりしている方がいらして。そうやって何かを学ぼうとする姿勢に、その人の生き方や考え方にステキな大人のお見本をみせていただいているように思う。

少し話はそれてしまうが、会社も含め自分が所属するコミュニティみたいなものはいくつかあると健全な精神を保てるように思っている。もしひとつしかなかったら何かあったときに失いたくない気持ちや全てを失ってしまうのかもしれないという怖さみたいなものが、自分の本音にフタをして自分にウソをつき続けてしまうようなことになることもあるのではないかと思うからだ。会社しかないと危ういというとわかりやすいかもしれない。そこに執着したり、誰かを羨ましく思ったり嫉妬したり焦燥感に駆られたりどうでもいい感情に引っ張られてしまい、本来の目的を見失うなってしまうようなことがあると思う。もし複数あれば、それぞれの世界をたのしむ感覚になれたり、ここはこんな感じだと客観的にみれるようになって、その感覚は、出かける場所によって着替えるのと似ているようで楽しい感じがする。服を着替えてもわたしはわたしだし、もしかしたら着替えなくてもよかったりすることに気づいたり、そのうちどこでも同じ服で出かけられるようになるのかもしれないしならなくてもよいのだと思う。いずれにせよわたしはわたしだ。

実際デュークの弟子の頃、他のコミュニティの運営を任された。それは「ベンチャー企業の社長の朝食会を毎週開催する」だった。デュークのイベント開催等でお世話になったこともあり無碍には断れない。ただ、そんな時間と心の余裕はどこにあるのかという感じだったので、成し遂げることができるのかと不安だったが、「もしうまくいかなくてもいいからやってみたらいい」と背中を押された。実際は、その運営に関わることで精神的には救われていたように思う。人間関係の広がりやつながりはもちろんのこと、様々な考え方やものごとの捉え方を教えてもらったように思う。それに、出会った方たちの向いている方向が、自分がどうなりたいかを越え、社会や世界を向いていらしたので、視野というよりは視座というものを高め、私の視野を広げててくれたように思う。当時、弟子の活動の方に支障が出ることはなく結果を残すことができたのも、このコミュニティの存在のおかげだと今でも思っている。

とあるコミュニティでは「ありのままでいい」なんていうのを掲げていてちょっと宗教めいてるというか、何か危うさのようなものを感じてしまう。もういい大人なのだからありのままとか感情をぶちまけたりするのってデリカシーがない感じがして、見ていて気持ちよいものではない。ありのままを出す相手は、そういう専門家に任せてもらって「どうか私に見せてくれるな!」と思うことがある。それは大浴場が苦手だという人がいるということに似ているように思う。裸になれよ。嫌じゃ!と言っていい。裸になるだけじゃなくて人の裸を見るのが嫌だという人もいて、そういう人をあの人はまだ殻があるとかそれっぽく言って、まるで裸を嫌う人をおかしい人だと扱ったり、そんなふうに言ってしまう考え方は乱暴だと思う。
やさしいフリして裸にさせて洗脳されてるもしくは気づかぬうちにそうしている側になってるかもしれないということだ。そこにもっとも悪意があるなと感じてしるのは、そこに慣れてしまって裸になれる私の居場所はここしかないという状態で、一歩外に出てみた時、裸の自分は社会では何も通用しない現実を突きつけられダメージを受け、やっぱり自分にはここしかないとまたこの裸の世界に戻ってきてしまうことである。
世にいる10%の依存というタイプはこの沼にハマるらしいが、それも結局本人がやりたくてやってることなんだそう。それなら、それでいいのだということなんだろう。私がとやかく言うことではなさそうだ。


※金沢のまち散策にて

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