仏教から考える、うつ病との向き合い方|無我・無常・縁起・二の矢から考える

仏教的に鬱を考えるなら、「嫌な感情を消す」よりも、苦しみとの関係を変えることが中心になります。ただし、うつ病は医学的な病気でもあるので、仏教だけで治療を置き換えるのではなく、通院・薬・心理療法と併用するのが現実的です。マインドフルネスを取り入れた心理療法、特にMBCT(マインドフルネス認知療法)は、反復性うつ病の再発予防などで有効性が確認されています。(PubMed Central (PMC))

仏教的には、次の考え方がかなり重要です。

  1. 「鬱になっている自分」と鬱そのものを分ける
    「私は鬱だ」「私はダメだ」ではなく、

「今、重い気分が起きている」
「絶望という思考が起きている」

と見る。

これは仏教の「無我」にかなり近い考え方です。感情や思考を「自分そのもの」と同一視せず、現れては消えていく現象として観察します。マインドフルネス研究でも、思考や感情から少し距離を取ることは、反応性や反芻を弱める方向に働くとされています。(PubMed Central (PMC))

  1. 苦しみに二本目の矢を刺さない
    仏教には「二の矢」という有名な考えがあります。

一の矢:
「体が重い」「楽しくない」「不安だ」

二の矢:
「こんな自分は終わっている」
「いつまで続くんだ」
「普通の人間ならできるのに」
「鬱になっている自分が許せない」

鬱そのものが一の矢なら、自己否定や将来への破局的な想像が二の矢です。

仏教的な実践では、一の矢まで消そうとしない。二の矢を減らす。

これだけでもかなり方向性が変わります。

  1. 「治そう」としすぎない
    少し逆説的ですが、

「早く鬱を治さなければ」
「幸せにならなければ」
「元気にならなければ」

という執着そのものが苦しみになることがあります。

仏教でいう「渇愛」です。

だから、

今日一日を少し苦しくなく過ごせればよい

くらいまで目標を下げる。

「人生を立て直す」ではなく、

  • 水を飲む

  • 顔を洗う

  • 少し食べる

  • 窓を開ける

  • 5分歩く

程度にする。

これは諦めではありません。未来という巨大な問題を、現在の一動作に分解するということです。

  1. 無常を悪い意味だけで考えない
    「諸行無常」は、

「すべて失われる」

という暗い思想だけではありません。

鬱の気分も固定されたものではない

という意味でもあります。

たとえば、

「この苦しみは永遠に続く」

という思考が出たら、

「これは今の脳が未来を予測しているだけだ」

と見る。

そして、

「この感覚も条件によって生じている。条件が変われば変化する」

と考える。

  1. 坐禅より「気づき」から始める
    重いうつ状態で30分、40分瞑想すると、逆に反芻が強くなる人もいます。

だから最初は瞑想というより、

30秒の観察

くらいでいいです。

たとえば、

「息を吸っている」
「吐いている」
「胸が重い」
「考えが出た」
「また考えが消えた」

これだけ。

思考を止める必要はありません。

気づいた時点で成功です。

  1. 慈悲を自分にも向ける
    仏教には慈悲がありますが、他人だけに向けるものではありません。

鬱のときは、

「怠けている」
「何もできない」
「情けない」

となりやすい。

そこで、

「今この心身はかなり消耗している」

くらいに見る。

評価ではなく観察です。

自己否定を加えない。

  1. 縁起として鬱を見る
    仏教的に面白いのはここです。

鬱を

「自分という人間の欠陥」

として考えない。

睡眠、孤独、身体状態、ストレス、記憶、生活リズム、人間関係、脳の状態など、たくさんの条件が重なって現在の状態が生じていると考える。

つまり、

「私は鬱な人間だ」ではなく、「条件がそろって鬱という状態が発生している」

と見る。

条件によって生じたものなら、条件を少しずつ変える余地があります。

仏教的な鬱への向き合い方を一文にすると、

「苦しみを消そうと格闘するのではなく、苦しみを観察し、それを自分そのものだと思わず、今日できる小さな行為だけをする。」

です。

これは単なる精神論でもありません。仏教由来のマインドフルネスを臨床心理学に組み込んだ治療は、実際にうつ症状や再発予防について研究されています。(PubMed Central (PMC))

そして、個人的には仏教で鬱を考えるなら、「無我・無常・縁起・二の矢」の4つが特に使いやすいです。坐禅を頑張ることより、この4つを日常生活に当てはめる方が実用的です。

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