インターネット、が曖昧という話
イラストレーターのあいとデザイナーのまいによる「曖昧姉妹」第34回は、「インターネットが曖昧」というテーマで、二人の幼少〜社会人初期のネット体験から、現在のインターネット観までをゆるく掘り下げている回である。
まず二人は、「インターネットって何?」と説明を求められたとき、自分たちはうまく言語化できない、もはや“概念”みたいなものになっている、と話し始める。電話やテレビのような「電化製品」に例えようとしてみるが、インターネットは機械そのものというより、その上で動く仕組みやサービスの集合体で、どう表現してもピタッとこない感覚があると語る。あいもまいも、「インターネットは大きすぎて、説明しようとすると急に曖昧になる」という違和感を共有している。
次に、二人は自分たちの「インターネット前夜」の話をする。二人の世代では、まずパソコン(しかもMac)を買い、そのあとで「インターネットに接続する」というステップがあった。最初からスマホでネットにつながっていた世代とは違い、「パソコンはオフラインで使うもの」が先にあり、「ネットにつなぐ」という行為は、後から自分で調べて設定しないといけない、ハードルの高いものだったのだ。ストレージ容量も「全部で10MB」しかないような時代で、インターネット抜きのパソコン生活が当たり前だったことを、やや誇らしげかつ苦笑しながら振り返る。
インターネット接続の初期には、あいが本を買って「今どきのパソコンにはモデムがついています」と書かれているのを読み、「うちのMacにもついているはず」と本体を何度も確認したが、差込口が見当たらず混乱したというエピソードも語られる。あとになって、それは主にWindowsマシンを前提にした説明だったと知るが、当時はOSの違いもよくわかっておらず、「自分のパソコンだけ何かが足りない」と悩んでいたという。こうした「わからなさ」「行き違い」が、インターネットとの最初の出会いだった。
二人はまた、学生時代と社会人になってからのネットとの距離感についても話す。あいは「自分がネットを本格的に使い始めたのは社会人になってからで、最初に入った会社にはそもそもインターネットがなかった」と振り返る。まわりに聞ける人もほとんどおらず、プロバイダ契約から接続設定まで、完全に手探りで習得していったという。初めてメールを送ったときや、知らない人に掲示板で質問をして、見知らぬ誰かから返事が返ってきたときの嬉しさを、二人ともよく覚えている。
当時は、いまのような「検索する」という感覚もまだ曖昧だったと話す。Yahoo!などの検索エンジンはすでに存在していたが、二人はまずプロバイダの専用ページやプラットフォーム内をウロウロしていて、「ネット=限られたページを見に行くもの」というイメージが強かった。気に入ったページをブックマークして、その範囲内を巡回していたので、「知らない情報を検索して取りにいく」という発想自体が薄かったという。ブログ文化もまだ初期で、数人が「日記のようなもの」を公開しているくらいであり、「日記をみんなに見せるなんて信じられない」と戸惑っていたことも語られる。
二人にとって、日記は極めてパーソナルなものだったため、それを全世界に公開する感覚は、当時は受け止めきれなかったのだ。現在はブログやSNSが当たり前になっているが、その“当たり前”に移行するまでには、「ネットに公開する」という行為そのものへの抵抗や戸惑いが確かに存在していた。
インターネット黎明期に苦労した経験から、まいには「理解しないと使えない」という癖が身についてしまったと二人は分析する。プロトコルやWWWといった専門用語を、本や解説サイトで一生懸命調べながら、「ふむふむ」と納得しようとするが、結局のところ「World Wide Webが何か、本質的にはわからないまま来ている」と笑う。一方で、テレビや電話など、仕組みがわからなくても普通に使っているものはたくさんあることを思い出し、「インターネットだけ、急に仕組みをわかってから使わなきゃいけない雰囲気があったよね」と振り返る。
特にMacユーザーであることは、当時、ある種の“ハードモード”だった。解説書もサポートもWindows前提で書かれていることが多く、「詳しい人が周りにいないから、自分で調べてください」という圧を感じていたという。ソフトウェア会社に問い合わせても「Macに詳しい担当はいません」と言われたり、Adobe製品が最初はMacでしか売られていなかったことから、デザイナーの多くがMacユーザーでありながら情報が少ないという、ねじれた状況もあった。
インターネットの「物理的なイメージ」も、二人の混乱ポイントである。Wi-Fiが普及する前は、有線LANケーブルが見えていたので、「線の先にネットがある」という感覚をまだつかみやすかった。だが今は、インターネットが「空を飛んでいる」ように感じられ、目に見えないぶん、ますます概念化している。あいは、テーブルの中を光ファイバーが走っていると聞くと、テレビのケーブル接続には納得できるのに、インターネットになると途端に「よくわからないもの」に感じられると述べる。
回線の種類(ISDN、ADSL、VDSL、光回線FTTHなど)の話になると、まいの「理解したい欲」がさらに発動する。自宅の回線を見直そうとした際、VDSLとADSLの違いを調べ、「光回線がマンションの共用部分まで来ていて、そこから電話線を経由するのがVDSL」「部屋まで光ファイバーが直接来ているのがFTTH(Fiber To The Home)」といった情報を必死に追いかけた経験を語る。略語の元の言葉「Fiber To The Home」が妙にかわいく感じられ、「おうちに帰る光」というイメージを勝手に重ねてしまうなど、技術用語に対する距離感もどこかユーモラスだ。
しかし同時に、「電話線の口を使っているのに、これは電話なのかインターネットなのか、どこからが光なのか」がいつまでも腑に落ちないと語る。物理的には土管のような管に複数の線が通っていて、その中で回線を切り替えているのだろうとは想像できるが、「光と言われても、結局あの壁の口を使うなら、やっぱりよくわからない」というモヤモヤが残る。それでも最近では、「そこまで細かく理解しなくてもいいのかもしれない」と考え方が変わってきたとまいは述べる。
二人はここで、「若い世代はそもそもインターネットとは何か、気にしていないのでは」という話題に移る。自分たちは「インターネットって何?」と概念レベルで気にしてしまうが、若い人は「YouTube」「アプリ名」「SNS名」など、具体的なサービスの名前で世界を認識していて、「インターネット」という言葉をあまり使わないのではないかと推測する。親世代との会話では、展覧会の申し込みなどを頼まれたときに「インターネットか電話か」と区別しがちだが、最近は「ネットで申し込んで」と言われることも増えたと話す。
さらに二人は、インターネットが現代の暮らしにどれほど深く入り込んでいるかも確認する。日常の買い物、連絡、仕事、エンタメなど、ほとんどの行為にネットが関わっており、もはや電気や水道と同じレベルのインフラと言っていいのに、「あえてインターネットという言葉で意識することは減っている」と感じている。あいは、「インターネットは空気みたいなもの」と表現し、存在は前提になっているが、目に見えず、正体もよくわからないところが、まさに“曖昧”だと指摘する。
クラウドとローカル保存、現実とメタバースといった対比も、二人にとってはすでに線引きが難しい。データをサーバーに預けるのか、ハードディスクに置いておくのか、どちらが「本物の所有」なのかは、もはや簡単に決められない感覚がある。メタバースと現実世界の関係についても、「いちいち分けて意識するより、もう一続きの経験として受け止めてしまったほうが楽なのでは」と感じている。ここで二人は、「インターネットと現実を分けよう、理解しようとしすぎると、かえって苦しくなる」という、自分たちなりの結論に近づいていく。
まいは、自分が回線工事や機器の接続を一つひとつ理解しようとして、「これは何の工事ですか」「電話とどう違うんですか」と細かく質問していた時期を振り返る。当時は「何と何がつながっていて、どこからどこまでがインターネットなのか」を把握していないと、不安で使えないような気がしていた。しかし経験を重ねるうちに、「すべてを理解しなくても、インターネットはインターネットとして使ってしまっていい」と受け入れられるようになり、以前よりも構えずにネットと付き合えるようになったと感じている。
あいはそんなまいの姿勢を、「理解しようとすること自体は素晴らしいし、そうする必要に迫られてきたからこそ今の耐性がある」と評価しつつも、「でも、もうちょっと大らかでいいのかもしれない」とやさしく受け止める。二人にとって、インターネットは依然として「よくわからない」「正体不明なところが多い」存在だが、そのわからなさを完全に解消しようとするより、「わからないまま、必要なところだけ手なずけて暮らす」くらいの距離感がちょうどいいのだ。
最後に二人は、「インターネットについて、インターネットで語ったね」と笑い合い、この回を締めくくる。インターネットが何であるかを最終的に定義することはできないが、「インターネットも現実もぐちゃっと混ざった、この曖昧な世界をどう生きるか」を、これからもゆるく話していこうというスタンスがにじみ出ている。インターネットの正体は掴めないままだけれど、その“掴めなさ”ごと愛でながら、曖昧に共存していく姿勢が、この対話全体を貫くトーンになっている。
