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靴底

三歩

 昼の光が斜めに射し込んで、女の立つ床のタイルを一枚ずつ白く焼いていって、その白の帯がちょうど靴の爪先で切れていて、そこから先、三歩ぶんの床は、もう女のものではなかった。炉はその三歩の向こうにあった。鉄の扉が閉じていて、扉の縁から、見えるか見えないかの細い煙が、糸のように、ひとすじ、立ちのぼっては天井の手前で溶けて、また立ちのぼって、女はそれを数えていなかった、数えるかわりに、靴底が熱いことだけを、足の裏の一点で、知っていた。

 タイルは熱を持っていた。陽が射すからではなかった。炉の熱が床の下を這って、三歩のところまで来て、そこで止まっていた。止まっているのは熱ではなく女のほうだった。来ないと決めていた。手帳の、今日の日付の枠に、赤い斜めの線が一本、引いてあった。来ない、と決めて引いた線だった。線を引いたのは昨日の夜で、台所の蛍光灯の下で、ボールペンの先を強く押しつけて、紙が裏まで凹むほど引いた、その凹みを今朝も指の腹でなぞって、来ない、と、もう一度なぞって、それから女はここに立っていた。

 立っていた、ということが、女には、わからなかった。

 足は前に出なかった。後ろにも引かなかった。炉の三歩手前で、爪先を白い光の帯の切れ目にそろえて、踵を少しだけ浮かせて、いつでも逃げられる形で、けれど逃げなかった、その形のまま、汗が、首の後ろから背の真ん中へ、ひとすじ、糸のように、垂れていって、シャツの布に吸われて消えた。煙とおなじ太さの汗だった。

 母の足がこうだった。母も路地の奥でこうして立った。煮立った鍋の前で、湯気の三歩手前で、男の声が表で大きくなる夜に、踵を浮かせて、逃げられる形で、けれど逃げなかった。母の母もそうだったと、女は誰からも聞いていない、聞いていないのに知っていた、血の中に、足の裏のかたちとして、それは畳まれて入っていた。呼べば来る。母、と呼べば、母の足の熱が、この床のタイルの下を這って、女の踵まで来る。来ないと決めた女の身体に、来てしまうものが、ある。

 炉のほうから、低い、唸るような音がしていた。火が空気を吸う音だった。三十五分、と、さっき白い服の男が言った。三十五分です、終わりましたらお声を、と言って、廊下の奥へ消えた。三十五分という数字が、女の頭のどこにも入らずに、ただ床に落ちて、タイルの目地に挟まって、熱に焼かれていた。三十五分が長いのか短いのか、女にはわからなかった。靴底の熱だけが、刻一刻、足の裏の同じ一点を、舐めるように、上がっていった。

 爪先のすぐ向こう、白い光の帯の切れ目に、髪の毛が一本、落ちていた。誰のものでもいい髪の毛が、床の白の上で、黒く、弓なりに、乾いて反っていた。女はそれを見ていた。三歩先の鉄の扉ではなく、唸る火でもなく、髪の毛の一本を見ていた。それを拾えば、しゃがめば、手が届く。手は動かなかった。動かない手のかわりに、奥歯を、女は噛んでいた。噛みすぎて、頬の内側の肉を、いつのまにか歯で噛んでいて、そこから細い血の味が、舌の脇に、にじんで広がって、鉄に似た味がした。炉とおなじ味だった。

 来ない、と決めた。決めたのに、ここにいる。ここにいる身体は、来ないと決めた女の言いつけを、聞かない。女の身体は女のものではなかった、母のもので、母の母のもので、路地のもので、呼ばれれば来てしまうものだった。古い言いつけが、新しい言いつけを、踵のところで、押し返していた。

 火が、また、空気を吸った。煙が、ひとすじ、太くなった。

 女は動かなかった。三歩は三歩のまま、そこにあった。靴底の熱が、もう、踝のあたりまで来ていた。女は、白い帯の切れ目に落ちた髪の毛のほうへ、ほんの、爪先の角度だけを、わずかに、向けた。

台所

 夜九時、母の手が、テレビの音を、下げた。

 言葉はなかった。母はいつも言葉を惜しんだ、路地の女が皆そうであったように、言うべきことは喉の奥で一度血の味に変えてから、それでも飲み下す、その飲み下した分だけ手が動く、母の手が動く、つまみを、右へ、ほんの少し、回す。画面の中で誰かが笑っていた、その笑いが、急に遠くなった。遠くなった笑いの底に、流しの水音が残った。母はもう背を向けていた。

 台所の母の背を、女は、見ていた。まだ女ではなかった、まだ路地の子で、卓の角に肘をつき、麦茶の汗のついたコップを、両手で囲っていた。兄はいなかった。兄はいつもいなかった、夜のこの刻限には、路地のどこか、陽の落ちた後もなお焼けた石の匂いの残る、あの坂の下のほうに、兄はいた。母は兄の名を呼ばなかった。呼べば戻ると知っていて、呼べば戻る者を、母は、呼ばなかった。

 茶碗が一つ、流しの縁に置かれた。

 その音だった。

 女が、後に、炉の三歩手前で動けなくなる夜まで、ずっと、踵のところに沈めていた音は、その、茶碗の、置かれる、角度だった。母は茶碗を落とさなかった、放らなかった、叩きつけもしなかった、ただ、置いた。置く、というには長すぎる時間をかけて、母の指は茶碗の重みを最後まで離さず、陶と陶のあいだに、母の指の腹が、薄く、挟まったまま、音を、殺した。コトリ、ではなかった。コトリの手前で、母は止めた。止めて、それから、指を、抜いた。

 その指の腹が、白かった。

 血が引いていた。重みを支えていたあいだ、母の指から血が引いて、抜いたあとも、しばらく、白いままだった。女は見た。母の白い指の腹を、見た。あれは、痛みではなかった、痛みではないものを、女は、痛みとして覚えた。覚えた、とは言うまい。ただ、踵に、沈んだ。

 母は何も言わなかった。

 言わないことが、言いつけだった。

 路地では、声に出された言いつけは、薄い。風に乗って坂を下り、海のほうへ流れて、消える。消えない言いつけは、音にならぬところで渡される。茶碗の置かれる角度、テレビのつまみを回す指の早さ、汁物を運ぶときの、母の、すり足の、たてない音。それらは、母から母へ、その母から、さらに前の母へと、路地の女の踵を伝って、誰の口も通らずに、流れてきた。女はそれを、卓の角で、麦茶のコップを囲ったまま、受け取った。受け取った、とも、女は知らなかった。

 母が、ふりむいた。

 女と、目が、合った。

 合った、その一瞬、母の目の奥に、女は、見てはならぬものを見た。母も、若い女だった。母にも、坂の下があった。母にも、呼べば戻る者を呼ばずに飲み下した夜が、いくつも、いくつも、あった。母の白い指の腹は、母のものだけではなかった。

 女は、目を、伏せた。

 伏せて、麦茶を、飲んだ。ぬるかった。氷はとうに溶けて、底のほうに、薄まった甘さだけが、残っていた。それを、飲み干した。喉が、鳴った。その音が、台所で、いちばん、大きかった。

 母は、また、背を向けた。

 流しに、もう一つ、茶碗が、置かれた。今度は、女は、音を、聞かなかった。聞こえなかったのではない。母が、聞かせなかった。母の指の腹が、また、白く、なっていたはずだった。

 テレビの中で、笑い声が、続いていた。下げられた音のまま、誰かが、誰かを、笑わせていた。その音は、台所の戸口で止まって、入ってこなかった。台所には、水音と、母の背と、女の喉の鳴った後の、しずけさだけが、あった。

 卓の角の、コップの汗が、輪になって、木に、染みていた。

 女は、その輪を、指で、なぞった。

 なぞって、消えない、と知った。

 明日も、母は、九時に、音を下げる。明後日も。女が女になり、母になり、そのまた先まで。茶碗は、置かれつづける、音を殺して、置かれつづける。女の指の腹も、いつか、白く、なる。

 路地の上に、夏の夜が、まだ、熱を残していた。坂の下のどこかで、兄の、笑う声が、した。母は、ふりむかなかった。

焚き火

 十年前の、夏の、夜だった。公園の、隅の、砂場の、脇で、女は、段ボールを、一箱、足元に、置いた。陽が落ちても、土は、まだ、昼の熱を、吐いていて、女の、踝のあたりに、それが、まとわりついた。坂を、ひとつ越えれば、路地で、路地の、奥には、母が、いて、母の、奥には、兄が、いた。女は、振りむかなかった。振りむけば、呼ばれる、と知っていた。名は、呼ぶためにある。呼べば、戻ってくる。だから女は、自分の名を、誰にも、呼ばせないために、ここまで、坂を、のぼってきた。

 箱の中に、手紙が、あった。

 一枚ずつ、燃やした。マッチの、燐の、匂いが、指に移って、その指で、紙の、端を、つまんで、火に、近づけた。文字は、燃える前に、いちど、ふくれた。男の、字だった。「会いたい」という、四文字が、いちばん、最後まで、白く、残って、それから、縁から、茶に、なって、めくれて、灰に、なった。会いたい、と書いた手は、もう、どこにも、なかった。女は、その手に、触れられたことを、覚えている肌のほうを、燃やしたかった。けれど肌は、燃えない。紙だけが、燃える。

 炎が、立った。

 立った炎は、生きもののように、首を、ねじって、女の、顔を、舐めにきた。頬が、熱い。睫毛が、ちりちりと、鳴る。女は、退かなかった。退けば、母に、似る。母は、いつも、半歩、退いて、茶碗を、置いた。音を、殺して。女は、退かないために、ここに、いた。

 写真が、一枚。

 炎の上に、それを、かざした。男と、女が、写っている、わけではなかった。男の、背中だけが、写っていた。海の、前で、振りむかなかった、背中。女は、それを、撮ったときのことを、覚えていない。覚えていないのに、捨てられなかった。十年、抽斗の、底で、それは、女を、見ていなかった。背中だから。背を向けた、まま、紙の、中で、男は、女を、待たなかった。女は、その背中を、炎に、近づけた。乳剤が、ぷつ、と、音を立てて、泡になり、男の、肩のあたりが、まず、溶けた。海が、黒く、なった。背中が、なくなった。なくなる、その、一瞬、女の、指の腹が、火に、入った。

 焦げた。

 人差し指の、第一関節の、内側。皮膚が、縮んで、白く、めくれて、その下から、透きとおった、水が、滲んだ。痛みは、遅れて、きた。遅れて、きて、それから、ずっと、そこに、居た。女は、その指を、口に、入れなかった。入れれば、許す、と思った。誰を、と問えば、答えは、なかった。ただ、許さないために、女は、焦げた指を、夜の、空気に、さらした。熱が、ゆっくり、引いていく、その、引いていくこと自体が、痛かった。

 箱の、底に、小さな、器が、ひとつ、残った。

 白い、磁器の、ぐい呑みほどの、器。これは、燃えなかった。火に、くべても、燃えるもの、ではなかった。女は、それを、知っていて、けれど、箱に、入れた。手紙と、写真と、いっしょに、灰に、したかった。できなかった。器は、灰の中で、煤を、かぶって、それでも、形を、保っていた。女は、それを、拾った。焦げた指で、拾った。器の、肌が、まだ、火の、温度で、女の、傷に、貼りついた。離すと、薄い、皮が、器の、底に、残った。女の、皮膚が、器に、移った。器は、それを、抱いたまま、冷えていった。

 灰になったもの。文字。背中。乳剤。匂い。

 残ったもの。器。傷。それから、女が、退かなかった、という、こと。

 靴の、底が、熱かった。火に、近づきすぎて、ゴムが、やわらかく、なって、砂利を、噛んでいた。女は、その熱を、足の裏に、感じながら、動かなかった。動けば、坂を、降りる。降りれば、路地。路地には、母。女は、靴底の、熱が、引くまで、そこに、立った。

 坂の、下で、兄の、笑う声が、した。

 *

 十年が、過ぎて、女は、向かいに、人を、座らせて、飯を、食っていた。

 箸を、持つ、右手の、人差し指に、白い、ひきつれが、ある。誰も、それを、訊かない。女も、言わない。男が、味噌汁の、椀を、置いた。音が、した。女の、肩が、わずかに、動いた。動いて、止まった。

 男が、言った。「膝、揃ってる」

 女は、自分の、膝を、見なかった。見なくても、わかった。膝頭が、ふたつ、隙間なく、合わさって、その上に、両手が、置かれ、背筋が、まっすぐ、立っている。母の、座り方だった。退かない、と決めた、女の、座り方が、退いて、退いて、半歩ずつ、退いた母の、形に、戻っていた。

 女は、揃えた膝を、崩さなかった。崩せなかった。崩し方を、知らなかった。

 卓の、上に、白い、器が、ひとつ、伏せて、置いてあった。煤は、とうに、洗われて、もう、どこにも、なかった。女は、その器に、手を、伸ばさなかった。伸ばせば、また、何かが、移る。

 男が、もう一度、女の、膝を、見た。女は、その視線の、温度を、膝頭で、受けた。

 夏が、また、来ていた。窓の、外の、闇に、昼の、熱が、まだ、残っていて、女の、靴は、玄関で、底を、上に、して、乾いていた。

靴底

 係員が、女を、呼んだ。名を、呼んだのではない、ただ、こちらへ、と、白い手袋の、指の先で、炉の、方を、指して、もう、よろしいですか、と、いう、その声が、夏の、真昼の、油のような、空気を、押しのけて、女の、耳の、裏側に、届いた。届いたのに、女は、返事を、しなかった。

 炉まで、三歩。

 三歩、と、女は、数えなかった。数えなくても、足の裏が、知っていた。あと三歩、進めば、兄の、入った、その鉄の、扉の、前に、立てる。立って、頭を、下げて、母が、そうしたように、母の、母が、路地で、そうしてきたように、火に、人を、渡す、女の、役を、果たせる。果たせるはずだった。果たすために、女は、ここまで、来た。喪服の、下の、汗が、背中の、溝を、伝って、腰で、溜まり、それでも、女の、足は、動かなかった。

 動かない、というより、女の、足が、女を、拒んでいた。

 兄、と、女は、胸の、奥で、呼んだ。呼べば、戻る。路地では、そう、教わった。名を、呼べば、死んだ者の、体温が、いっとき、戻り、夏の、陽射しの、底に、その者の、汗の、匂いが、立つ。兄、兄、と、女は、二度、呼んで、二度とも、戻らなかった。戻ったのは、兄の、声ではなく、母の、声だった。──おまえは、女だから、火を、見届けろ。男は、燃やされる、側だ、女は、見る、側だ。路地の、女は、みな、そうして、立ってきた。動くな。下がるな。前へ。

 前へ、と、母が、言う。

 女の、膝が、その、声に、応えようとして、動かない、足首で、堰き止められる。古い、命令と、新しい、命令が、女の、一本の、脚の、なかで、争い、争ったまま、どちらも、勝たず、女は、炉の、三歩、手前で、立ち止まったきり、立ち止まったことに、すら、気づかぬ、ふりを、して、立っていた。

 係員が、もう一度、何か、言った。今度は、聞こえなかった。

 煙が、昇っていた。炉の、煙突の、その先、白く、洗われた、夏の、空へ、兄が、ひとすじの、煙に、なって、昇っていく、その、白さを、女は、見ていない。女は、自分の、足元を、見ていた。喪服の、裾の、その下、黒い、靴の、爪先が、斎場の、磨かれた、石の、床を、わずかに、捉えて、そこから、先へ、出ない。出さない。出せない。

 靴。

 ゆうべ、玄関で、底を、上にして、乾いていた、あの、靴。雨に、濡れて、煤を、含んで、ひと晩、干されて、朝には、乾いて、女は、それを、履いて、ここへ、来た。乾いた、はずの、その、靴底が、いま、熱い。

 石の、床は、冷えている。冷房の、効いた、斎場の、その、床は、どこも、冷たい。なのに、女の、靴底だけが、熱を、持っていた。路地の、夏の、アスファルトを、裸足で、踏んだ、あの、日の、熱。母に、手を、引かれ、火の、前へ、連れて、いかれた、あの、真昼の、地面の、熱。それが、靴の、革と、ゴムの、その、薄い、一枚を、隔てて、女の、足の、裏を、下から、焙っていた。

 女は、その、熱を、踏みしめた。

 踏みしめれば、進める、はずだった。熱は、前へ、押す。火は、女を、呼ぶ。兄が、待っている。母が、見ている。路地の、女たちが、煙の、向こうで、列を、なして、こちらを、見ている。前へ。あと、三歩。

 女の、足は、動かなかった。

 熱い、靴底の、その、熱を、地面に、繋ぎとめたまま、女は、一歩も、踏み出さず、かといって、一歩も、退かなかった。退けば、母を、裏切る。進めば、誰を、裏切るのか、女には、わからない。わからないものの、ために、女の、脚は、自分を、止め、止めた、ことの、重さで、女の、踵が、靴の、なかで、じわりと、汗ばんだ。

 係員が、待っていた。男も、後ろで、待っていた。煙は、待たなかった。

 昇り続けた。

 白い、夏の、空に、向かって、兄は、昇り、女は、昇らず、炉にも、入らず、路地にも、帰らず、三歩、手前で、足の、裏だけを、熱くして、立っていた。喪服の、裾の、下で、黒い、靴の、爪先が、ほんの、わずか、石の、床から、浮いた──ように、踵に、力が、移り、移ったきり、爪先は、降りも、せず、進みも、せず、女の、体重の、すべてが、その、熱い、一点に、集まって、そこで、止まった。

 止まったまま、女は、立っていた。

 靴底が、熱かった。

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