任意
窓口のペン先が、その一マスに触れたまま動かない。「旧姓または通称」。インクは降りていかない。中指の側面に、乾いた藍が一筋ついている。ずいぶん前の染みだ。
「任意ですので」
係員の声が机に届くより先に、きみのほうへ顔を向ける。
きみは三十年、この一マスの中にいた。呼ばれることのなかった名で。
朝、誰かがその名で呼んだ気がして振り返った日が、あっただろう。振り返って、誰もいなかった。きみが返事をする前に、声はもう別の方を向いていた。きみは口を開きかけて、また閉じた。
きみの名で届いた手紙は、一通もない。きみが署名するはずだった紙は、どれも他の名で埋まっていった。
きみが歩いたはずの道を、私は知らない。どの町に住み、どの角で雨に降られ、誰の隣で眠ったのか。名乗らなかった夜の数も、名乗りかけてやめた朝の数も。
「お急ぎでなければ、空欄のままでも結構です」
ペンを浮かせる。
紙が、台の上を滑って引かれていく。スタンプが降りる。乾いた音が、一つ。
返された控えの、その一マスに、ペン先の圧した跡だけが、うっすら残っている。光の角度を変えると、見える。
