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欠けているのはどちらか

書類を受け取るとき、わたしは親指で紙の厚みを確かめる。

三年この仕事をしていると、A4一枚の質感で何かがわかった気になる。上質紙にわざわざ刷り直してくる人。コンビニのコピー機の、少し粉っぽい紙。インクが薄い人は、たいてい言葉も薄い——いや、それは言いすぎか。とにかく、わたしは紙から読みはじめる。中身を読む前に、もう半分は読み終えている。

渡された一枚は、普通の厚みだった。職歴欄に、三行しかないだけで。

経歴というものには、たいてい継ぎ目がある。前職と前々職のあいだ、半年とか、一年とか。その空白を、人はうまく塗る。「自己研鑽の期間」「次のキャリアを見据えた充電」。最近はそういう言い換えの作法がずいぶん上達して、こちらも上達した。塗られた箇所を、塗られたと見抜く。空白は隠すもので、こちらは剥がすもの。暗黙の、けれど律儀に守られた、二人がかりの手仕事。

その一枚には、塗りがなかった。

二〇一九年から二〇二二年。空白の欄に、ただのボールペンで、はっきりと書いてあった。「父の介護」。それだけ。前後に弁解はなく、括弧もなく、句点すらない。

わたしのなかで、いつもの審査がはじまろうとした。これは本物か? 同情を引く戦略では? いや——戦略なら、もっと書く。「在宅にて要介護4の父を看取り、その経験から人と向き合う仕事を志し」——そういう一文を、人は足す。足したほうが通る。それを足さないのは、よほど不器用か、あるいは。あるいは、何だ。わたしは続きを思いつけなかった。

面接室は、いつもより静かに感じた。たぶん、いつもどおりの静けさだった。

向かいに座ったその人は、年相応に疲れて見えた。わたしは型どおりに尋ねた。空白期間について、差し支えなければ伺えますか。

その人は、謝らなかった。少し考えて、こう言った。

「最後のほうは、父はもう、わたしのことがわからなくて。それでも、夜中に何度か、わたしの名前を呼ぶんです。間違った名前を。母の名前を。わたしは母じゃありませんよ、と言うと、ああそうか、と笑って。それで、また呼ぶんです。母の名前を」

話はそこで、ただ終わった。

わたしは評価欄を見た。

来歴。経歴。プロヴェナンス。骨董の世界では、それがすべてだ。どこの蔵にあったか、誰の手を経たか。来歴の途切れた器は、安くなる。介護には職歴がつかない。賃金台帳に載らない時間は、この一枚の上では、ただの空白として処理される。空白として処理されるはずのものが、空白と書かれずに、中身のまま置かれている。

わたしは、いつもなら裏を返すのだ。器の底を返して、銘を読む。誰の作か。本物か、写しか。その手つきで、いま、この三行の裏を返そうとして——

ペンが止まっていた。

止まっていることに、わたしは少し遅れて気づいた。インクの先が紙に触れたまま、点が一つ、にじんで広がっていた。

——欠けているのは、どちらだ。

その人が帰ったあと、机の上には、まだ次の書類が積んである。わたしは一番上の一枚を取り、いつものように親指で厚みを確かめようとして、やめた。

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