同じ聖書、逆の神
公聴会の証人台に、一冊の本が置かれる。背が割れている。手を添えるより先に、本はひとりでに、いつも同じ頁で開く。
親指が、頁の真ん中を押さえて、平らにする。
この手つきを、私は前に見たことがある。十七年前、入隊宣誓式。同じ親指が、同じ角度で、同じ綴じ目を押さえていた。
ここで厳密に問わねばなるまい。手は、変わったか。
変わった、と言うのはたやすい。だが論証はそう甘くないのである。細胞は数年で入れ替わる、ゆえに十七年前の手はもう存在しない——よろしい。ならば今ここで頁を押さえているのは別人の手であり、かつて宣誓した者の責任は雲散霧消する。これは、どう考えても困る。では手は同一である、と言い直してみよう。同一の手が、かつて銃を握ると誓い、いま握らぬと誓う。すると今度は、誓いとは何であったかが、まるで分からなくなる。同じ手が正反対を聖別できるのなら、そもそも手を挙げることに、一体どれほどの重みがあったというのか。
——どちらに転んでも、私の論証のほうが崩れるのである。
マイクが、息を拾う。同じ節が読み上げられる。たしかに前と同じ節だ。ただし、続く言葉が、前とは逆の方角へ静かに滑り出す。客席で誰かが咳をする。誰も、おかしいとは言わない。
私は妻に、タオルはいつ寿命かで負けたことがある。三年は使えると言い張り、半年だと論破された。覚えているのは、負けたという手触りだけである。
親指が、離れる。本が閉じられ、机の上に置かれる。乾いた音がする。
置かれた本が、また、同じところで、少し開く。
