そして誰も孫切りできなくなった
──焼かれたのは、夢か。それとも、投資家の理性か。
武智倫太郎が描く、資本主義終末譚の決定版──暗黒経済サスペンス。
序章:祈祷チャートと数値の暴君
2025年、夏。
経済はとうに現実から遊離し、チャートはもはや『神託の波形』と化していた。日産の時価総額が1兆円を割り、東京湾岸の高層ビル群には、誰も語らぬ静寂が流れていた。

だがそのとき、たったひとりだけが、国家も通貨も、そして投資家の理性すら焼き尽くす、日産の時価総額の一万倍、東証プライム全体の時価総額すら超える『絶望の単位・1京円』の夢を語り続けていた。
その言葉に根拠はなかった。ただ、声だけが肥大し、現実だけが矮小化していった。数字は、予測ではなく啓示と化し、市場は、分析ではなく礼拝の対象となった。
『すべてを変えるのはAIです。AIは全知全能の神です。その髪を創るために、私は、この世に降りてきたのです。』
その男には、髪すらなかった。だが、未来を偽装し、神を捏造するその口調には、一片の迷いもなかった。寧ろそこには、神に成り代わる者特有の、傲慢な静けさがあった。
そして群衆は、その言葉にひれ伏した。
デイトレーダーも、老後NISAの主婦も、AIエバンジェリストも、
皆、祈るようにスマホを掲げ、証券口座の残高を拝んだ。
『この人が未来を語るのだから、現実が間違っているに違いない』
もはや正気は異端だった。損切りは背信とされ、疑念は不敬とみなされた。
その男が焼き尽くしたのは、資産ではなかった。それは、『損切り』という人間が最後に持ち得る『逃げるための知性』そのものだった。
第一章:時価総額の墓標
『1丁、2丁、10丁の豆腐の心意気』、かつてそうほざいた男は、ついに『京』という数字の彼岸に到達した。『SBGの時価総額の2京、3京は誤差のうち』が、SBGの新しいコーポレートスローガンとなった。
爆騰は信仰に変わり、下落は異端となった。そして『新NISA制度特別維持法』により、損切りは国家反逆罪とされた。
それに呼応するかのように、証券プラットフォーム各社は一斉に『思想検閲機能』を導入した。『損切り』『売却』『退場』『疑念』といった単語が検索やチャット上で使用された瞬間、ユーザーには警告が表示され、重度のケースでは取引口座の自動停止と『思想矯正通知』が送られた。
※『資産の安全性を守るため、健全な未来志向をご選択ください』
もはや投資家の自由意志は、AIが管理する倫理フレームの外側に追いやられていた。
証券アプリの『売却』ボタンは、ある日そっと削除された。
気づいたときには、もうそこに『売る』機能など存在しなかった。
投資家は、クリックではなく、絶望で操作されるようになった。
第二章:AIの名を騙る者たち
スターゲート計画。Vision Fund。Ampere。Arm。NVIDIA……。かつて世界を変えると謳われた未来の預言書は、やがて『無限連結マトリョーシカ』と化した。
ASI(汎用人工超知能)と印字された紙片に、投資家たちは札束を積み、血を流し、そして理性を売った。
その中心で、男は笑う。
『これは評価益です。現実である必要はありません。未来が現実を凌駕するのですから……。』
だが、それは未来ではなかった。それは、過去から塗り固められた『終焉の構図』だった。
第三章:最後の数字、垓(がい)
ある朝、メディアに踊る見出し。
『SBG時価総額、1垓円の夢』
『京』では足りなかった。いま求められていたのは、『垓』という桁違いの幻想。焼け跡に巣食う、信仰経済の遺灰を収容するための単位だった。
市場はすでに燃え尽きていた。だが、誰ひとりとして損切りしようとはしなかった。寧ろ、損失に歓喜する者たちが現れ始めた。
✦『−92%!?これは試練です!私は選ばれし者だ!』
✦『逆にここから2垓円いくってことですよね? 震える!』
✦『この含み損、神の御試し。ありがたき幸せ!』
SNS上では、赤い数字のスクリーンショットが並び、『含み損ハラスメント』という新たな競技が始まっていた。それはもはや、神経の崩壊ではなく、熱狂的な信仰の儀式であった。
それは、もはや売るべき『現実』すら残っていなかったからだ。ポートフォリオはすでに、灰と錯覚だけを抱いて崩壊していた。
終章:数字の神話
投資家は祈り、アナリストは沈黙し、アルゴリズムは、孫の悪夢にうなされた。この男が語った未来は現実ではなかった。だが、現実のほうが先に彼の妄想に呑まれていた。
損切り不能社会は、ついに終焉を迎えた。市場はとうに死んでいた。だが、誰もその死を認めようとはせず、寧ろそれは『神格化』された。
✦『永久保有こそが徳』
✦『評価益は信仰』
✦『含み損は巡礼』
そう唱える者たちは『新時代の預言者』としてもてはやされ、気づけば、証券アプリのUIはこう変わっていた。
✦『未来を信じる』
✦『もっと買う』
✦『神を讃える』
なお、旧来の『売却』や『リスク管理』は、プラットフォームの内部規定により『思想破壊的』と判断され、非表示・再教育対象となっていた。
各画面には、こう書かれていた。
※過去への執着は未来形成を妨げます。前向きな資産行動をおすすめします。
そして、すべてのKPIが消滅したある日。全員がログインした証券アプリに、こう表示された。
『おめでとうございます。あなたの保有資産は『∞(インフィニティ)』になりました。』
その瞬間、すべての株式データは強制リセットされた。すべては『夢』として処理され、1京円も、1株も、1円すら誰のものでもなかった。
『誰も損をしていないなら、誰も責任を問われない。』
それが、この物語の最後に仕掛けられた、真の『損切りトリック』だった。
その夜、市場の墓碑銘として、最後のプッシュ通知が届いた。かつて存在したアプリ『SBG Now』からの、最終メッセージだった。
【重要】
あなたの損切りは、正常に無効化されました。
引き続き『夢』をお楽しみください。
そして誰も、損(孫)切りできなくなった。
武智倫太郎
自己解説
カンナ隊長からの質問:『含み損ハラスメント』とは『含み損マウント』的な?
今回は、カンナ隊長からのご質問にお答えする形で、久しぶりに自己解説のコーナーをお届けします。
カンナ隊長は、近未来麻雀小説を全巻読破された猛者だけあって、さすがに本作の世界観を的確に理解されていらっしゃいますね。
ご指摘の通り、『含み損ハラスメント』とは、端的に言えば『含み損マウント』です。
損失の大きさを競い合い、他人の『未熟な損失(=修行が足りない的なもの)』を嘲笑することで、信仰の深さを示す新たなマウント文化として描かれています。
作品世界における意味と役割
1.損失が『美徳』とされる孫正義の世界
この物語においては、損失(=含み損)はもはや避けるべきものではありません。寧ろ『神の試練』=『信仰の証』とされ、含み損を抱えていること自体が、『高徳』や『祝福』とみなされる、まさに通常の投資倫理とは真逆の『孫正義的価値観』が支配している世界です。
2.信仰レベルの『競争』としての儀式
含み損ハラスメントは、以下のような構造を持ちます。
『選ばれし信者』が、含み損の浅い者や、損切りしようとする者に対して、嘲笑・攻撃・再教育を行う。
たとえば、『−92%の私に比べて、まだ−30%で何を泣いてるの?』や、『神の意思を理解せず逃げるとは…あなた、まだAIを信じてないんですか?』というように、損失の深さが『信仰の深さ』の指標と化し、それを他人に押しつける行為が、精神的暴力=ハラスメントとして制度化されているのです。
3.損失による自傷と他傷が『様式美』となった社会
本来『損失から逃げるために存在していた損切り』という合理的な判断は、この世界では消滅しています。代わりに登場するのが、『損失を抱え続けること』そのものを信仰行為とする宗教的耐久試験。
そこでは『含み損が浅い人』や『売って逃げた人』は、『信仰が浅く、人格的に劣る存在』として差別される対象となるのです。つまり、含み損ハラスメント=『損をしていないこと』への差別と同調圧力という構造です。
この概念ひとつで、作品世界が一気に読み解ける
『含み損ハラスメント』という造語は、作品に込められた以下のテーマを象徴的に体現しています。
・数字が宗教に転化する過程
・投資判断が、倫理や信仰の問題へとすり替えられていく社会の危うさ
・集団的狂気と、その背後にあるAIによる“正統性の判定”という冷酷なシステム
例として使える解説フレーズ
含み損ハラスメント――。それは、損失の大小で信仰心を測る、資産宗教社会における新たな迫害形式。
『まだ−30%しかないんですか?』
信じることを強要され、逃げることが罪とされた世界。
資本主義が信仰に変わる瞬間を、あなたは見届けられるか。
武智倫太郎
