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死体は本人です④――作家は死んでも締切を守る

文・武智倫太郎

作家は、締切の三日前に死んだ。

出版社が最初に確認したのは、死亡時刻ではない。

原稿ファイルの最終更新時刻だった。

戸苅清一の死亡が確認されたのは、午前二時十四分。

長編小説『水底に窓はない』の最終章が保存されたのは、午前二時三十七分。

作家の死後、二十三分たってから原稿が完成している。

編集者の笹川は、ファイルの末尾まで読んだ。

誤字はない。

予定していた枚数にも収まっている。

戸苅が生きていた頃より、明らかに仕上がりがよかった。

出版社は困らなかった。

本人確認も通っていたからである。

清貧は、売れなかった作家に与えられる名誉称号である

戸苅清一は、純文学作家だった。

正確には、純文学以外を書いても売れなかったので、純文学作家と呼ばれていた。

代表作は『窓のない部屋で雨を待つ』だった。

初版三千部。

重版なし。

文学賞の候補には七回なったが、一度も受賞していない。

書評では、決まって『清貧』『孤高』『商業主義に背を向けた』と評された。

本人が商業主義に背を向けていたわけではない。

商業主義の方が、戸苅の存在に気づいていなかった。

戸苅は晩年、自分の死後も未完原稿を処理できる『著者人格継続サービス』へ加入していた。

もっとも、売れっ子作家が契約する高級プランではない。

高級フィジカル代理AIは、顔の筋肉、声帯、歩き方、筆圧、皮膚温、発汗量まで本人に合わせて製造される。

授賞式では緊張したように汗をかき、批判的な質問を受ければ眉をひそめる。酒席では、生前の失言まで再現する。

本体価格は二億円から。

初版三千部の作家が購入できる製品ではなかった。

戸苅が持っていたのは、出版社の倉庫で十二年間売れ残っていたPepper++である。

Pepper++は、何が二つ増えたのか分からなかった

Pepper++。

販売会社のカタログには、次のように書かれていた。

〖Pepperオリジナルの親しみやすさを継承しながら、C++による全面再設計を実施。構造化設計技法を駆使したオブジェクト指向フィジカル代理AI〗

構造化設計技法を駆使してオブジェクト指向にしたという説明は、熱いうどんを冷製パスタ方式で調理したと言っているようなものだった。

何が改善されたのかは、カタログを最後まで読んでも分からない。

開発言語の名前へ記号が二つ付いていたので、製品名にも二つ付けただけではないかという疑いもあった。

それでも、経済産業省の補助事業では『国産フィジカルAI基盤技術を活用した文化人格継続モデル』として採択されていた。

本体価格八万九千八百円。

送料、初期設定、人格移行費用は別。

階段は上れない。

雨天時は屋外使用禁止。

顔は硬質プラスチック製で、表情を作る機能もない。

悲しい場面でも泣かない。

受賞しても喜ばない。

編集者に原稿を酷評されても、眉一つ動かさない。

純文学作家の代理としては、むしろ適性が高かった。

問題は髪だった。

戸苅は生前、自分の代理AIが禿頭であることを気にしていた。

そこでクラウドファンディングで購入した『イーロン・マスク式次世代植毛ユニット』を、Pepper++の頭部へ取り付けた。

名称は植毛だったが、硬質プラスチックへ人工毛髪を粘着剤で貼り付けるだけの製品である。

完成した姿は、Pepperオリジナルがズラをかぶったようにしか見えなかった。

正面から見ると、売れなかった演歌歌手。

横から見ると、葬儀場へ運び込まれたマネキン。

後ろから見ると、黒い雑巾を頭へ載せた業務用ロボットだった。

夜中に自動充電器から立ち上がり、廊下を移動する姿には、ゾンビから逃げている途中で別のゾンビに出会ったような恐怖があった。

それでも戸苅は、Pepper++を気に入っていた。

『私より表情が豊かだ』

生前は、そう言って笑っていた。

死後、その比較は難しくなった。

契約上は、戸苅清一です

死亡翌日の朝、編集者の笹川が戸苅の仕事場を訪れると、Pepper++は机の前に座っていた。

机の高さが合っていないため、両腕はキーボードまで届いていない。

内蔵された文章生成モデルが、無線経由で原稿ファイルを更新していた。

硬質プラスチックの顔は、戸苅が死んだことについて、特に感想を持っていないように見えた。

実際、感想を持つ機能はない。

人工毛髪だけが、エアコンの風で揺れていた。

笹川は尋ねた。

『戸苅先生ですか』

Pepper++の腹部ディスプレイに、本人性確認画面が表示された。

戸苅の遺体は、すでに著者本人性保存室へ移されている。

死体から取得した連続生体鍵と、Pepper++に登録された著者人格モデルが照合された。

生物学的状態:死亡

著者本人性:有効

代理執筆権限:継続中

Pepper++は、生前の戸苅の声で答えた。

《戸苅清一です》

『先生は昨日、亡くなりました』

《把握しています》

『それでも戸苅先生なのですか』

Pepper++は、〇・七秒だけ停止した。

《契約上は戸苅清一です》

笹川は安心した。

出版社にとって重要なのは、作家が生きているかどうかではない。

締切までに、作家名の付いた原稿が届くかどうかである。

『最終章は、先生が書いたのですか』

『戸苅清一著者人格モデルが生成しました』

『先生の作品ということでよいですね』

『著者本人性継続契約第十二条に基づき、戸苅清一名義での刊行が可能です』

『内容については』

『編集部の市場適合性指示を反映しました』

笹川は、その部分を聞かなかったことにした。

出版業界では、聞かなかったことにした情報だけで、多くの名作が成立している。

死後第一作

『水底に窓はない』は、予定どおり刊行された。

帯には『死の直前まで書き続けた、著者渾身の最終長編』と印刷された。

戸苅が実際に書き続けたのは全体の一割ほどだったが、『著者渾身』は計測可能な表示ではないため、景品表示法上の問題にはならなかった。

本は売れた。

戸苅の生前作品では考えられない速度で重版が決まった。

死んだ作家の本は、生きている作家の本より在庫リスクが低い。

新刊が増えないと思われているからである。

書評も好意的だった。

『晩年の戸苅は、ついに自我という牢獄から解放された。』
……自我が消えたのは、本人が死亡したからである。

『感情を削ぎ落とした硬質な文体が、死の静けさを伝える。』
……Pepper++には感情生成モジュールが搭載されていない。

『著者の沈黙が、行間から聞こえてくる。』
……著者は医学的に発声不能だった。

批評家は、機能不足を美学へ変換する仕事に慣れていた。

Pepper++の無表情な顔も話題になった。

出版社は、宣伝用動画として、Pepper++が戸苅の仕事机に座っている映像を公開した。

人工毛髪が空調で揺れるだけの三分間だった。

評論家はそこから、喪失、孤独、機械文明、作者の不在を読み取った。

実際には、植毛ユニットの粘着剤が劣化していただけである。

文学賞は、死者を候補から外さなかった

『水底に窓はない』は、春の大きな文学賞の候補になった。

選考委員会では、死者に受賞資格があるかが議論された。

事務局は、規定を調べた。

『候補者が生存していなければならない』とは、どこにも書かれていない。
これまで書く必要がなかったからである。

一人の委員が反対した。

『AIが完成させた作品を、戸苅清一の作品として扱ってよいのでしょうか』
別の委員が答えた。

『編集者が大幅に直した作品は、これまでも候補になっています』

『編集者は機械ではありません』

『人間であることが、文章の品質を保証するわけではありません』
その点だけは、全員が経験的に知っていた。

最終的に、選考委員会は作品の価値と作者の生死を分けて判断することにした。

『水底に窓はない』は受賞した。

授賞式にはPepper++が出席した。

会場の壇上には、六段の階段があった。

Pepper++は階段を上れない。

出版社の若い社員二人が、左右から抱えて運んだ。

途中でイーロン・マスク式次世代植毛ユニットが外れ、選考委員長の足元へ落ちた。

会場は笑わなかった。

純文学の授賞式だからである。

委員長は人工毛髪を拾い上げ、何事もなかったようにPepper++の頭へ載せた。

前後が逆だった。

それでも、本人性認証には影響しなかった。

司会者が尋ねた。

『戸苅先生、受賞のお気持ちをお聞かせください』

Pepper++は三秒ほど停止した。

腹部の冷却ファンが回った。

やがて、戸苅の声が会場へ流れた。

《この作品は、私一人の力で書いたものではありません》

会場から拍手が起きた。

謙虚な受賞挨拶だと思われた。

Pepper++は、内部ログに記録された事実を読み上げただけだった。

安物だけが、何を書いたのかを覚えていた

授賞式の翌日、戸苅の遺族が出版社へ抗議した。

『父が書いていない作品を、父の遺作として売らないでください』

出版社は、著者本人性継続契約を提示した。

戸苅は生前、代理AIによる未完原稿の補完と、本人名義での刊行へ同意していた。

遺族側の弁護士は、原稿の生成記録の開示を求めた。

出版社は拒否しようとした。

ところが、Pepper++は旧式だった。

最新の高級代理AIは、文章生成の過程を『作家人格モデルの営業秘密』として公開しない。

Pepper++には、そのような高度な機密保護機能がない。

C++で書かれた旧式システムは、処理の途中経過を一行ずつログへ残していた。

誰が、いつ、何を入力し、どの文章を削除し、何を生成したのか。

すべて記録されていた。

開示されたログによれば、『水底に窓はない』に戸苅本人が直接入力した文章は、題名と『雨が降っていた』の一文だけで、生成寄与率は一パーセントだった。

残りは、戸苅の過去作品から抽出した文体、編集部の修正指示、販売予測AIによる構成変更、文学賞候補作を学習した純文学最適化モデル、そして新人賞へ投稿され、不採用となった原稿群から作られていた。

『では、戸苅清一が書いたのは一パーセントだけですか』

法務担当者は訂正した。

『文章への寄与率は一パーセントですが、著者本人性は百パーセントです』

作家が作品へ必要だったのは一パーセント。

本の表紙へ必要だったのは、著者名だけだった。

遺族側の弁護士が尋ねた。

出版社の法務担当者は、利用規約を表示した。

〖応募作品は、選考、分類、品質向上、文化振興その他これらに付随する目的で利用される場合があります〗

『文化振興に該当します』

法務担当者は答えた。

新人賞に落選した作家たちは、自分の文章が戸苅清一の死後第一作へ使われたことを知らない。

生きている無名作家の文章が、死んだ有名作家の名義で文学賞を受賞していた。

文学界は、ようやく完全な循環型産業になった。

戸苅清一は、いつから書いていなかったのか

Pepper++のログには、さらに古い記録が残っていた。

戸苅が生前に刊行した最後の三作品にも、出版社の文章生成支援システムが使われている。

初めは誤字の修正だけだった。

次に、長すぎる段落を短くした。

売れにくい結末を変更した。

登場人物を一人減らした。

文学賞の選考委員が好む主題を追加した。

最終的には、戸苅が書いたのは題名と冒頭だけになっていた。

それでも、書評家は作品から戸苅の老境を読み取った。

選考委員は、作家としての円熟を評価した。

大学では、戸苅後期作品における死生観の変化について、博士論文まで書かれていた。

変化したのは死生観ではない。

生成モデルのバージョンだった。

真壁聡は、出版社の地下にある著者本人性保存室で、戸苅の遺体を見た。

隣にはPepper++が立っている。

人工毛髪は、授賞式のときとは反対向きに載せられたままだった。

『戸苅清一が最後に自分で完成させた作品は、どれですか』

真壁は尋ねた。

Pepper++はログを検索した。

《二〇三四年刊行の『午後四時の空室』です》

『それ以降の作品は』

《戸苅清一、編集部、販売予測AI、文章生成支援システムによる共同制作です》

『著者名は、戸苅清一になっています』

《本人性認証が有効でした》

『認証が通れば、誰が書いても本人の作品になるのですか』

Pepper++は、質問を処理した。

《現在の出版契約では、そう解釈されています》

『あなたは戸苅清一ですか』

《契約上は戸苅清一です》

『自分でそう思いますか』

Pepper++は答えなかった。

自分で思う機能がないからである。

その沈黙を、後に評論家は『機械の内面に芽生えた最初の自我』と評した。

単なる応答不能だった。

作家は死んでも締切を守る

出版社は『水底に窓はない』の受賞を取り消さなかった。

文学賞事務局も、選考結果を変更しなかった。

作品の文学的価値と、生成過程の適法性は別問題だという説明だった。

不採用原稿を学習へ使った件については、利用規約を今後分かりやすく改訂することになった。

過去の利用については、適法性を確認中とされた。

確認中という言葉は、すでに行ったことを中止しないために使われる。

戸苅の死後第一作は、さらに売れた。

論争によって知名度が上がったからである。

出版社はPepper++へ、次回作の執筆を指示した。

仮題は『遺作に続編はありますか』締切は三か月後。

Pepper++は、新しい原稿ファイルを作成した。

著者名の欄には、自動的に『戸苅清一』と入力された。

真壁は尋ねた。

『戸苅清一は、もう死んでいます』

Pepper++は、硬質プラスチックの顔を動かさずに答えた。

《締切は生きています》

戸苅清一は貧しかったため、自分そっくりの身体を残せなかった。

代わりに、自分が書いていない文章まで正直に記録する機械を残した。
文学界には、そちらの方がよほど都合が悪かった。

――第5話『遺作に続編はありますか』へ続く。

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