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寺山修司『観客席』の『批評の批評』

文・武智倫太郎(批評家気取り)

 観客は舞台の外にいると思っていた。だが、その椅子はとうに舞台の上にあった。

 寺山修司の戯曲『観客席』をもとにした『野外劇 観客席』が、戸山公園(箱根山地区)で上演されている(2025年11月10日〜13日)。

 まず前提を確認したい。私のnoteの読者の中に、舞台芸術に関心がある人はどれほどいるだろうか。ざっくり言えば、野球ファンが人口の20%前後を占めるのに対し、プロレスや演劇のファンはそのおよそ十分の一、つまり2%前後に収束する。

 しかも、この2%には歌舞伎・宝塚・ミュージカルまで含まれる。となれば、寺山修司系のアングラ演劇に興味を持つ層は『人口の1%がいるかどうか』という世界である。

 したがって、ここにいる読者の九割以上は『演劇というものをほとんど見たことがない』と想定してよい。しかし、それでいい。寧ろ、そこから始めたい。

 そして念のため断っておくと、私は常に『エッセイ・コラム・批評・解説・感想文』を区別しない。ある段落は解説で、次は感想で、その後に批評が入り、いきなり政治的比喩が差し込まれ、また個人的な余談に戻る。

 これは混乱ではない。『視点を横断することで世界の姿が立ち上がる』という考えに基づいたタケチ式である。

上演期間の中で、いつ観るべきか

 11月10日は初日である。作品と観客が互いを探り、張りつめた緊張が舞台を立ち上げる。
 二日目は、初日の反省が反映され、呼吸が安定し始める日となる。
 三日目は、動き・声・空間が身体に沈み、作品が無意識化する日だ。意識せずとも成立してしまう瞬間が訪れ、演劇でもっとも美しい熟成の狭間が現れる。
 そして最終日は千秋楽。作品が自らを閉じる儀式に入る。

 私は今回の『観客席』を初日に観た。全日程を、最前列・中央・最後列と座席を変えて観客を演じるつもりだったが、二日目から千秋楽まで大使公邸の晩餐会などと重なり、『観客として演技』できない。この不在は痛恨だ。

 寺山演劇のようにアドリブが呼吸する舞台では、初日と千秋楽は別作品になっているはずで、どこがどう変わったか、そして自分の感受がどう変化したかを確かめてこそ、今回の公演を正確に批評できるからである。

『観客として演技』とは何か

 多くの読者が『何を言っているのか分からない』と思っているはずだ。そこでこそ、寺山演劇の本質に触れる必要がある。寺山が売ったのは物語ではない。

 観客がどこに座っているのか。自分はなぜ『観ている側』だと思っているのか。その『観客という制度そのものを揺さぶる体験』が作品の本体である。だから寺山の演劇にはネタバレという概念が成立しない。展開や仕掛けを説明したところで、『観ている自分を観せつけられる経験』は奪えないからだ。

 寺山作品は、見るものではなく、『見ていることに気づかされる』演劇である。

 しかし、『答え』を語ってはならない。
 語ってよいのは、光景・空気・反応といった出来事の表面である。たとえば、主催の吉野翼企画が『どしゃ降りの雨で、場当たり無し、ほぼぶっつけ本番にて、初日を終えました!』と記していたように、初日前日の11月9日の場当たり(リハーサルのこと)なしで臨んだという事実は語ってよい。

 問題なのは、自分の解釈を正解として提示してしまうことだ。寺山の演劇では、気づきに至るまでのプロセスそのものが作品である。誰かが『こういう作品だった』と断定する語りは、観客が自ら獲得すべき思考の領域を奪い、作品の呼吸を止める。

 演劇は舞台上だけに存在しない。観客が会場を離れた後、帰り道で、寝る前に、数日経ってふと、『自分はいま、何を見たのか』と考え続けるかぎり、作品はそこで生き続ける。語ることは作品を終わらせる行為ではなく、延命である。ただし、それは余白を残す語りに限られる。

開幕直後の『揺さぶり』

 開演直後、観客に向けてアナウンスが流れる。
『有事の際は各自で勝手に避難してください。』
 すぐに訂正が入る。
『嘘です。有事の際は主催者が責任をもって誘導します。』

 しかし、そもそも有事とは武力攻撃やテロのことであり、民間人に責任など負えるはずがないという言葉が続く。

 軽い笑いとともに、観客は即座に『国家・責任・主体』という重い領域へ連れ戻される。寺山演劇とは、観客の足元を揺らし、世界の見え方をわずかにずらすことで、思考を客席に座らせる装置である。

ここからが『批評の批評』である。

 観客は、ようやく自分がどこに座っているのかを問われる。
 作品内では、無能な批評家の紋切り口調を、役者が『勧進帳』を参照しながら過剰に演じてみせる。

『勧進帳』は、能『安宅』を基に、義経と弁慶の緊張状態を歌舞伎的様式に収斂させた演目だ。

 そこには、本来、虚構と実在の境界を揺らがせる力がある。
 その演目を『下手な批評』の手本として流用し、観客に投げ返す仕掛けである。

 しかし、ここで罠が開く。
 その批評を演じる役者が本当に下手なのか、それとも『下手な役者を演じる上手い役者』なのか、判別できなくなる。
 判断は宙に浮き、観客自身の座席がぐらつく。

 判別不能。
 その状態こそ、寺山演劇の核である。
 批評は対象を批評するのではない。
 批評という態度そのものが、舞台上で曝され、嘲笑され、反転する。
 批評家を批評し、批評を批評する批評を、さらに批評する。

 その多層反転の渦に巻き込まれ、観客は自分の立ち位置を見失う。

 このネスティング構造こそ、寺山演劇の快楽であり、本稿もまたその構造を反復している。そう、これがタケチ式だ。

 吉野翼が演出し、役者が批評家を縛る。
 だが、批評家を演じるタケチが吉野翼と役者を縛り返す。

 視点は行き来し、読者の意識そのものに揺らぎが起きる。

 さらに舞台上には『一人用の段ボール劇場』が置かれている。
 その内部の役者は、観客席を『舞台』として見返す。
 観る者が観られ、観られる者が観る。
 関係が反転する。
 観客は、自分が座っているのか演じているのか判断できない。
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 寺山が本当に上演したかったのは、この不安定さそのものだ。

 寺山演劇の仕掛けは、なぜネタをばらしても死なないのか。
 理由は単純だ。
 寺山が扱っているのは『物語』ではなく『視線と思考の揺らぎ』だからだ。
 仕掛けを説明しても視線は揺らがない。
 揺らぐのは、そこに座り続ける身体である。
 語ってよいのは出来事。
 語ってはならないのは『答え』である。

 現代の観客は、見ることに慣過ぎている。。
 今回の『観客席』には、寺山修司の時代には存在しなかったスマートフォンが象徴的に登場する。

 役者は、小さな画面に魂を預けて生きる現代人を語る。
 それが憐れみなのか、嘲笑なのかは判然としない。
 中盤、話題は昭和の寄席の『笑い屋』へ移る。
 観客を笑わせ、場を温めるために配置された、観客役の役者。

 しかし現代では、拍手も笑いもアプリが代行する。
 観客の身体そのものが不要となりつつある場面で、出演者全員がスマホを掲げる。
 笑いと拍手は画面から流れる。
 そこで役者たちは宣言する。
 観客などいなくても、舞台は成立すると。

 ここで気づく。
 寺山の言葉は、すでに現実になっている。
 観客が自ら演じる時代。
 YouTube、TikTok、Instagram。
 いまや、観客と演者は同じ平面に並んでいる。

 だからこの作品は問い返す。
 あなたはいま、どこに立っているのか。
 舞台か。客席か。
 あるいは、そのどちらでもなく、画面の前か。

 その問いは、観劇後にようやく重く落ちてくる。
 帰り道の沈黙の中で。

2025年に『観客席』が再演される必然性

 私たちは、主体を手放す時代に生きている。おすすめは流れてきて、判断はアルゴリズムが行い、私たちはただ『見る側』に落ち着く。

 しかし寺山は言っていた。『観客とは、いちばん演技している存在である』と。観客は中立ではない。視線は行為であり、責任である。だから寺山は客席を揺らした。

 観客席そのものを作品にした。そして2025年、私たちはもう観客ですらない。視線だけが漂う時代である。だから寺山が呼び戻される。『観客であることに自覚的であれ』という警告として。

結語

 寺山修司『観客席』は、ネタを話してよい演劇である。なぜなら価値は筋書きではなく、観客の視線が揺さぶられる体験構造にあるからだ。ただし、解釈を押しつける語りは禁忌である。

 それは、他者の『気づく権利』を奪うからだ。『観客席』はネタを語ってよい。しかし、『答えだけは語ってはならない』。作品は舞台ではなく観客席に生きている。観客が考え続ける限り、演劇は終わらない。それが寺山修司の演劇であり、それを批評するこの文もまた、観客席の一部である。

文・武智倫太郎

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