シュレーディンガーのゾンビ作品
箱を開けるまで、完全新作と二番煎じは同時に存在する
文・武智倫太郎
第三話で、ゾンビより先に作品が死んだ。
第二話だったかもしれない。私にはよくわからない。
コメント欄に電報が届いた。
〖サイコパス2ニ、ニテイマス〗
これでは、作品がいつ死んだのかわからない。
たぶん、第一話から死んでいたのだろう。
『死体は本人です』は、死体を本人確認装置として利用する社会を描いた、純ゾンビSFになる予定だった。
死亡した大株主の身体を臓器灌流装置へ接続し、生前の記録を学習した代理AIが、本人名義で契約を続ける。
法律上は死者。
銀行では本人。
株主総会では議決権者。
死体を保存しているのは、遺族の愛情ではない。その身体が失われれば、信託、融資、株式、送電網の運用契約まで不安定になるからである。
金持ちの死体は、遺体ではない。
社会インフラである。
私は、なかなか新しいゾンビを作ったつもりでいた。
ところが、六百十四人分の組織を移植された御厨壮一郎について書いている途中で、指が止まった。
『えっ』
飛行機事故の犠牲者たちの身体を組み合わせて成立した、一人であって一人ではない人間。
複数の人間によって構成されているため、社会を管理するシステムが、一人の存在として認識できない。
『これ、PSYCHO-PASS 2の鹿矛囲桐斗ではないか』
作者の頭の中では、会社法、本人認証、信託、送電網、死後契約を扱うつもりだった。鹿矛囲桐斗を再販する予定などなかった。
予定がなくても、箱の中に入っていることはある。
作者が創作の箱を開けると、鹿矛囲桐斗が座っていた。
公開後には、読者も同じ箱を開けた。
作者が途中で発見し、読者がコメント欄で死亡確認を行ったのである。
創作における最終的な観測者は、作者ではない。
読者である。
作者が『これは完全新作です』と百回唱えても、読者が『前に見た』と観測すれば、作品の波動関数は二番煎じへ収束する。
こうして『死体は本人です』は、作中の御厨壮一郎が本人性認証を停止されるより早く、作品としての独創性認証を停止された。
ゾンビはいつからいるのか
そもそも、ゾンビはいつからいるのだろう。
その源流は、映画よりはるかに古い。
ハイチの民間伝承に登場するゾンビは、魔術によって蘇生され、自由意思を奪われたまま使役される死者だった。その背景には、植民地支配や奴隷制の記憶がある。
現在のゾンビ映画に登場する、人肉を食べながら街中を集団で走り回る感染者とは、かなり違う。
初期のゾンビは怪物というより、死んだ後まで働かされる労働者だった。
この点だけを考えれば、現代日本の会社員をゾンビと呼ぶことも、的外れとは言い切れない。
映画史では、1932年公開の『ホワイト・ゾンビ』が、一般に最初の長編ゾンビ映画とされている。
ベラ・ルゴシ演じる農園主が、ハイチの呪術を使い、人間を意思のない労働者へ変える作品である。
つまり、ゾンビ映画は最初から、労働と搾取を扱っていた。
後世の評論家がゾンビへ資本主義批判を付け足したのではない。労働と支配の問題は、ゾンビが映画館へ入場したときから、同じ切符を握っていた。
1940年には、ボブ・ホープ主演の『THE GHOST BREAKERS』が公開されている。
幽霊屋敷、ブードゥー、ゾンビらしき存在、軽口を組み合わせたホラーコメディである。
1940年といえば、真珠湾攻撃によって日本とアメリカが戦争へ入る前年だ。
ハリウッドでは、日本が対米戦争を始める前から、ゾンビを見て笑う段階まで進んでいた。
それから九十年近く、ゾンビは休まず働いてきた。
呪術で動き、放射能で動き、ウイルスで増える。
歩くだけでは飽きられ、走るようになった。
人を食べるだけでは足りず、恋をし、笑わせ、列車に乗り、学校へ通うようになった。
サムライの格好をしたゾンビもいれば、忍者と戦うゾンビもいる。忍者そのものがゾンビになった作品まである。
『鎧 サムライゾンビ』や『Ninjas vs. Zombies』、『Zombie Ninjas vs Black Ops』が実際に作られている以上、『サムライと忍者を混ぜれば、まだ誰も見たことのないゾンビになる』という逃げ道も、とっくに封鎖されている。
恐竜へ混ぜる。
西部劇へ混ぜる。
ミュージカルへ混ぜる。
恋愛へ混ぜる。
料理へ混ぜる。
文学賞へ混ぜる。
ゾンビは何にでも混ぜられる。
問題は、何にでも混ぜられるものを、新しい設定と呼んでよいのかということである。
ゾンビは何にでもなれるので、もう何にもなれない
ここに、ゾンビ作品の企画を入れた箱がある。
箱を開ける前には、二つの状態が同時に存在している。
一つは、『ゾンビはどのような物語にも組み込めるため、ゾンビ作品を考えるのは簡単である』という状態だ。
会社員と混ぜれば、企業ゾンビ。
生成AIと混ぜれば、AIゾンビ。
選挙と混ぜれば、民主主義ゾンビ。
銀行と混ぜれば、金融ゾンビ。
文学賞と混ぜれば、純文学ゾンビ。
材料を一つ選び、その後ろへ『ゾンビ』と付ければ、企画書の題名だけは完成する。
もう一つは、『ゾンビは、すでにほとんどあらゆる物語へ組み込まれており、新しいゾンビ作品を考えることは極めて難しい』という状態である。
ゾンビは何にでもなれる。
だから、今さら何へ変身したところで、驚いてくれるのは2026年上半期の芥川賞審査員くらいである。
便利な設定は、使われるほど価値が増すわけではない。あらゆる場所へ貼り付けられた結果、どこへ置いても新しく見えなくなる。
一、ゾンビ作品は作りやすい。
二、新しいゾンビ作品は作れない。
この二つの状態が、企画書を入れた箱の中で重なっている。
これが、シュレーディンガーのゾンビ作品である。
もちろん、量子力学とは何の関係もない。
政府の審議会へ提出すれば、『分野横断的な量子コンテンツ社会実装』と呼んでもらえるかもしれないが、私の場合はただの言葉遊びである。
研究予算が付いていない分だけ、被害は小さい。
箱を開けるまでは、すべての作品が完全新作である
作品を企画している段階では、作者は無敵である。
まだ誰にも読まれていないからだ。
作者の頭の中には、既存作品との違いが鮮明に見えている。
『死体は本人です』もそうだった。
『PSYCHO-PASS 2』が扱ったのは、多数の人間によって構成された一人の存在を、管理システムが認識し、裁くことができるのかという問題である。
私が扱いたかったのは、死体、代理AI、信託、本人確認、株式、契約主体を切り分けたとき、社会が誰を本人として扱うのかという問題だった。
作者の頭の中では別の話だった。
だから書き始めた。
ところが、作者が箱の底へ会社法や信託法を詰め込んでも、読者が最初に見るのは『多数の人間の組織を移植された一人の男』である。
そこで箱が開く。
会社法、信託、本人性、死後契約へ到達する前に、鹿矛囲桐斗が見つかる。
作者による観測結果も、読者による観測結果も変わらない。
『PSYCHO-PASS 2』に似ている。
作者が『本当は違う』と説明を始めた時点で、創作は失敗している。
作品そのものから違いが伝わらず、作者による取扱説明書が必要になったからである。
料理を出した後で、料理人が客席へ現れ、『これはカレーに見えますが、私の意図としてはフランス料理です』と説明しても、皿の上にカレーが載っていれば、客はカレーとして食べる。
香辛料の配合に作者独自の思想があっても、料理名までは変わらない。
完全新作は、観測された瞬間に死ぬ
創作とは残酷な商売である。
書く前には、何でも書ける。
書き始めれば、選択肢が減る。
完成すれば、一つの形へ固定される。
公開すれば、読者が既存作品との類似点を見つける。
作者の中にあった無限の可能性は、一つの完成品へ収束する。
作品が生まれる瞬間、それ以外の作品になれる可能性は死ぬ。
シュレーディンガーの猫は、箱を開けるまで、生きている状態と死んでいる状態が重なっていると説明される。
シュレーディンガーの創作物は、公開されるまで、傑作と駄作、独創と模倣、文学と娯楽、純ゾンビSFと設定倒れが重なっている。
公開ボタンが観測装置。
ビュー数が生体モニター。
『スキ』が心拍数。
コメント欄が死亡診断書である。
『死体は本人です』は、死体の本人性を描く作品だった。
ところが、公開後に疑われたのは、作品自身の本人性である。
この作品は、本当に武智倫太郎の新作なのか。
過去作品の移植によって作られた複合体ではないのか。
『PSYCHO-PASS 2』の組織が、全体の何パーセント含まれているのか。
作中の御厨壮一郎より先に、作品の方が本人確認を求められた。
作者としては痛い。
ただし、ゾンビ作品としては正しい。
ゾンビとは、他人の死体を利用して動く存在だからである。
AI時代には、すべての新作がゾンビになる
生成AIによって、創作の箱はさらに大きくなった。
『ゾンビと会社法を組み合わせてください』
『ゾンビと量子力学を組み合わせてください』
『ゾンビと株主総会を組み合わせてください』
『ゾンビと純文学を組み合わせてください』
そう入力すれば、企画はいくらでも出てくる。
組み合わせの数は、ほとんど無限に見える。
ただし、組み合わせる部品は、すでに人間が作ってきたものだ。
ゾンビ。
AI。
仮想現実。
意識転送。
多重人格。
クライオニクス。
監視社会。
巨大企業。
量子力学。
死後のデジタル人格。
生成AIは、墓地から過去作品の部品を集める速度だけは速い。
首はサイバーパンク。
胴体はディストピア。
右腕は哲学的ゾンビ。
左腕はシュレーディンガーの猫。
脚は『PSYCHO-PASS』
胸には会社法を埋め込み、題名を『死体は本人です』にする。
文章も書く。
表紙も作る。
見た目にはよく動く。
しかし、読者はその身体を見て言う。
『その脚、前に見たことがあります』
AI時代の創作は、完全新作を大量生産する時代ではない。
既存作品の死体を高速で縫い合わせ、その縫い目を独創性と呼ぶ時代になりかねない。
新しい組み合わせと、新しい概念は違う。
部品の配置を変えただけで、人類未踏の発明になるわけではない。
『死体は本人です』は死んだのか
では、このシリーズは終わったのか。
ビュー数を見る限り、かなり死んでいる。
評価から見ても、蘇生可能性は高くない。
ここで作者が『読者に理解されなかった』と言い始めれば、死亡はほぼ確定する。
読者は理解できなかったのではない。
理解したうえで、読み続ける契約を更新しなかった。
今から、『第4話では、ついに独自の展開になります』と宣伝しても、三話まで読んだ人に、もう一度箱を開けてもらうのは難しい。
そこで、箱そのものを作品にする。
新しいゾンビ作品を作ろうとした。
途中で作者自身が、過去作品との類似に気づいた。
読者からも同じ指摘を受けた。
法的な設定の弱さも見つかった。
苦し紛れに、量子力学を持ち出すインチキ御用学者まで登場させた。
そして、シリーズそのものが低評価で死んだ。
ここまで含めれば、ようやく他のゾンビ作品とは違うものになる。
死者が蘇る話ではない。
新作として生まれた作品が、作者と読者によって既視感を観測され、二番煎じとして死亡し、その失敗を材料に評論として蘇る話である。
登場人物ではなく、作品そのものがゾンビになる。
それなら『死体は本人です』は、まだ純ゾンビSFであり続けられる。
シュレーディンガーのゾンビ作品
箱の中には、一つの原稿が入っている。
作者は、それを誰も書いたことのない純ゾンビSFだと思っている。
読者は、過去作品の縫合体だと判断するかもしれない。
公開されるまでは、完全新作と二番煎じが同居している。
公開すれば、観測結果が出る。
多くの場合、作者が期待した方には収束しない。
それでも作者は、次の箱を用意する。
今度こそ新しい。
今度は誰も書いていない。
前作とは違う。
そう言いながら、墓地から部品を集める。
創作とは、その繰り返しである。
ゾンビは、もう死んでいる。
ゾンビ作品も、ほとんど作り尽くされている。
それでも、新しいゾンビ作品は毎年作られる。
死んでいるのに新作が出る。
新作なのに、どこかで見たことがある。
ゾンビ作品ほど、ゾンビらしいジャンルはない。
『死体は本人です』は死んだのか。
箱は、すでに開いている。
死んでいる。
それでも、こうして次の記事に出演している。
だから、ゾンビなのだ。
森野さんのような『量子力学萌え』の方にもお楽しみいただける
『シュレーディンガー・シリーズ』をどうぞ💕
