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そして誰も育てなくなった 第9話:手紙検疫

その日の午後、第七東区の古い掲示板は、手紙だらけになった。

満里奈さんへ。
帰りたいって聞こえました。

千景さんへ。
名前、覚えました。

勇斗さんへ。
痛いときは、痛いって言ってください。

センターのみなさんへ。
鍋はあります。

番号じゃありません。
帰る場所は、地図に出なくても残ります。

誰が書いたのか分からない紙が、次々に貼られていった。

小学生の字。
商店街の太い字。
薬局の領収書の裏。
パン屋の包装紙。
八百屋の古い値札。
学校のプリントの余白。
そして、鍋の具材を書いた紙。

白菜。
大根。
端肉。
豆腐。
パン。
みかんの皮。
乳酸菌飲料は、次回から慎重に。

その下に、誰かが書き足していた。

神宮綾の闇鍋、改良余地あり。

歩太は、それを見て少し笑った。

改良していいものなのかどうかは分からなかった。
だが、町の大人たちは当然のような顔をしていた。
なぜか皆、神宮綾の闇鍋を知っている。
知らない人も、知っていることにされている。
そういう言葉は、町の中で強い。

支援員たちは掲示板の紙を剥がそうとした。

剥がすと、別の紙が貼られた。

紙は弱い。

雨に濡れる。
破れる。
風に飛ばされる。
火をつければ燃える。

だが、弱いから増える。

一枚を剥がしても、次の一枚がある。
一枚を燃やしても、誰かが覚えている。
一枚を検疫しても、手は止まらない。
鍋を片づけても、匂いは残る。

翌朝、こども家庭ポイント庁は新しい対策を発表した。

【手紙検疫】

【地域安心再認証中の紙媒体利用制限について】

【未登録の手書き文書、掲示、手紙、紙片、帳簿、メモ、作文、落書き、献立、具材表、非公式な調理記録等は、必要に応じて確認対象となります】

紙片。
帳簿。
メモ。
作文。
落書き。
献立。
具材表。
非公式な調理記録。

ついに紙そのものが危険物になった。

それだけではない。

前日確認された神宮綾的闇鍋事案については、非認証価値流通、未申請集合、情緒的接続、及び分類不能な住民笑い反応を伴うものとして、継続観察対象とします】

歩太は、その通知を見て笑った。

禁止されたということは、効いているということだった。

八百屋のおじさんも笑った。

「紙が危険物か。うちの古い帳簿置き場は、もう弾薬庫だな」

拓真が言った。

「反語彙帳、最重要危険物だ」

結衣は真面目な顔で言った。

「本当に危ないから、隠し場所を変えた方がいい」

三倍子が聞いた。

「弾薬って何」

歩太は少し考えた。

「強い紙」

「じゃあ、私の嫌だカードも弾薬?」

「そうかもしれない」

三倍子は、胸のポケットを誇らしげに押さえた。

そのポケットには、小さな紙が入っている。

嫌だ。

ただ、それだけが書かれていた。

だが、シビュラ源内にとっては、十分に危険だった。

その夜、成人自立支援センターでは、緊急説明会が開かれていた。

支援員は、いつものように前に立っていた。
ただし、声に少し疲れがあった。

「本日、第七東区において、移行者の皆さんに向けた未認証掲示物及び紙片が多数確認されました。これらは、皆さんの自立支援計画に影響する恐れがあります。受け取った場合は、必ず提出してください」

スクリーンに表示された。

【安心提出期間】

【今なら、支援協力度に加算されます】

つまり、密告ポイントである。

満里奈は、周りを見た。

千景。
勇斗。
美雨。
拓海。
紗良。

誰も満里奈を見なかった。

誰も紙の話をしなかった。
誰も、今日見た掲示板の文字を口にしなかった。
誰も、鍋の匂いのことを言わなかった。

沈黙。

シビュラ源内なら、落ち着いた受容と処理する沈黙。

だが、違った。

これは、守る沈黙だった。

密告しない沈黙。
名前を守る沈黙。
手紙を隠す沈黙。
湯気だけを吸った記憶を、誰にも渡さない沈黙。

満里奈は、机の下で自分の手を握った。

沈黙は、同意ではない。

町から来た言葉が、センターの中で役に立っていた。

その夜、満里奈はベッドの下に紙を隠した。

町から見えた掲示の言葉を、記憶だけで書き写した紙だった。

町は灰色です。
でも、道はあります。
名前も残っています。
鍋もあります。
帰りたいなら、帰りたいと言ってください。
帰りたいは、帰りたい。

満里奈は、その下に書いた。

言いました。
帰りたい。

そして、もう一行書いた。

次は、帰ります。

それは計画ではなかった。

方法はない。
車両の時間も分からない。
ゲートの暗証も知らない。
支援員の巡回も読めない。
町へ出ても、どこへ行けばいいのか分からない。

だが、言葉が先に行くことがある。

帰ります。

そう書いた瞬間、満里奈の中で何かが変わった。

帰りたい、は願いだった。
帰ります、は方向だった。

三日後、センター車両は再び第七東区へ向かった。

地域安心再認証の最終確認として、移行者による案内補助と住民対話を実施するためだった。

シビュラ源内は、町をテストしているつもりだった。

第七東区が前向きな表現を取り戻せるか。
未認証掲示物を減らせるか。
移行者と適切な距離を保てるか。
神宮綾的闇鍋事案の再発を防げるか。

だが、町は別の準備をしていた。

公園から商店街へ。
商店街から小学校へ。
小学校から満の家へ。

道の端に、小さな紙が貼られていた。

ここは、帰り道です。

角を曲がるたびに、次の紙がある。

ここも、帰り道です。

パン屋の前にも。

ここも、帰り道です。

薬局の前にも。

ここも、帰り道です。

八百屋の前には、大きな字で書かれていた。

地図に出なくても、道はあります。

その横に、小さく別の紙も貼ってあった。

鍋は、帰り道の途中で食べるものです。

誰が書いたのかは分からない。

たぶん、分からない方がいい。

シビュラ源内の地図では、第七東区はまだ灰色だった。

だが、人間の足元には、白い紙の道があった。

センター車両が公園に着いた。

満里奈たちは降ろされた。

支援員たちは、紙の多さにすぐ気づいた。

「掲示物を撤去してください!」

だが、遅かった。

三倍子が、紙の一枚を指さして読んだ。

「ここは、帰り道です」

低学年の声は、よく通る。

別の子どもが続いた。

「ここも、帰り道です」

商店街のおばさんが読んだ。

「地図に出なくても、道はあります」

立花先生が、静かに言った。

「音読の授業です」

榊原支援員が顔色を変えた。

「これは未認証掲示物です」

「教材です」

「申請されていません」

「子どもたちが読んでいます」

「授業計画外です」

「では、今、計画します」

立花先生は黒板の代わりに、公園の地面を指さした。

「今日のめあて。道を読む」

子どもたちが、一斉に紙を読んだ。

ここは、帰り道です。
ここも、帰り道です。
名前で呼びます。
痛いと言ったら止まります。
嫌だと言ったら聞きます。
帰りたいは、帰りたいです。
帰りますは、道になります。

シビュラ源内が警告を出した。

【多数児童及び住民による家庭回帰語彙の同時発話を検知】

【地域安心再認証に重大な影響】

【神宮綾的闇鍋事案に続く非認証共同体形成の可能性】

重大な影響。

つまり、効いている。

満里奈は、一歩踏み出した。

支援員が腕を伸ばした。

「SBG-18704さん、戻ってください」

満里奈は振り返らなかった。

「菅野満里奈です」

千景が続いた。

「私は千景です」

勇斗が言った。

「痛いときは、痛いって言います」

美雨が言った。

「帰りたいです」

拓海が言った。

「帰ります」

支援員は、端末を操作した。

「移行者の無許可離脱です。即時停止を」

画面が固まった。

【第七東区は地域安心再認証中】

【地図情報は一時的に利用できません】

皮肉だった。

町を灰色にしたせいで、シビュラ源内自身が、帰り道をすぐに確定できなくなっていた。

八百屋のおじさんが、歩太の肩に手を置いた。

「古いシステムの穴だ。自分で消した地図は、自分でも読めない」

歩太はうなずいた。

満里奈は、紙の道を歩いた。

子どもたちは読む。
町の人たちは並ぶ。
誰も走らない。
誰も叫ばない。

ただ、道を作る。

満の家の前で、満里奈は止まった。

玄関が開いていた。

母が立っていた。
父もいた。

二人とも、感謝送出イベントのときとは違う顔をしていた。

笑顔認証のための顔ではない。

泣きそうで、怒っていて、怖がっていて、それでも待っている顔だった。

満は、姉の名前を呼んだ。

「満里奈」

満里奈は答えた。

「ただいま」

その一言で、端末が鳴った。

【家庭回帰語彙を検知】

【未認証帰宅行動を検知】

【地域再接続状態の分類不能】

【分類不能】

その表示を見て、歩太は笑った。

分類できないことが、こんなにうれしいとは思わなかった。

榊原支援員が追いついたとき、玄関の前には人だかりができていた。

誰かが鍋を持ってきた。
誰かが器を出した。
誰かがハンカチを差し出した。

鍋の匂いがした。

昨日よりは、少しまともな匂いだった。

「これは違反です」

榊原が言った。

八百屋のおじさんが答えた。

「何の?」

榊原は言葉を詰まらせた。

規定はある。
通知もある。
制限もある。

だが、目の前にあるものの名前がない。

帰宅。
再会。
食事。
涙。
近所。
鍋。

制度の箱に入れるには、どれも古すぎて、生々しすぎた。

その夜、第七東区の地域安心再認証は、判定保留になった。

満里奈たちの扱いも、判定保留になった。

センターへ戻される者もいた。
一時帰宅扱いになる者もいた。
地域内家族再接続の実証例として仮記録される者もいた。

完全な勝利ではなかった。

何も終わっていない。

ポイントは戻らない。
地図はまだ灰色。
手紙検疫も消えない。
シビュラ源内は、さらに学習するだろう。
次の闇鍋は、もっと早く分類されるかもしれない。

それでも、前とは違っていた。

子どもたちは、名前を持っている。
町には、掲示板がある。
八百屋の奥には、反語彙帳がある。
公園には、鍋の跡がある。
センターには、守る沈黙がある。
満里奈には、帰りますという言葉がある。

そのどれも、シビュラ源内の地図には表示されない。

だから、残る。

歩太は、反語彙帳に新しいページを作った。

題名は、道。

三倍子が最初に書いた。

道は、歩くところ。

満が書いた。

道は、姉ちゃんが帰ってくるところ。

結衣が書いた。

道は、地図の命令ではない。

拓真が書いた。

道は、消されると増える。

八百屋のおじさんが書いた。

道は、古い技術だ。足があれば動く。

立花先生が書いた。

道は、授業で教えきれない国語。

満里奈は、最後に書いた。

道は、帰りたいが歩き始めたもの。

歩太は、その下に一行を足した。

地図が消しても、道は残る。

その横に、三倍子が小さく書いた。

鍋があれば、少し早く帰れる。

歩太は消さなかった。

それは、いつか別の物語につながる言葉だった。

そして誰も育てなくなった 終章につづく…

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