すべての医師にこの言葉を噛みしめてほしい
「少々の痛みは我慢してもらわなければというのが先生方の常識」
「痛い、痛いとこちらがいったら、大袈裟だと無視しないで」
「日本人の特性の一つとして、我慢、忍耐というのが非常に美徳に、どこか私たちの意識の中にある」
そういうことが書いてある本を読んだ。
上に引用したのはボランティアとして患者さんの世話をしている人の発言である。
私は喘息なので、つい喘息のことを考える。
喘息患者が座談会でも開けば、「痛い」を「苦しい」に置き換えると同じような言葉が飛び交うに違いない。
この本は『すべての医師がこの言葉を噛みしめてほしい』(山崎章郎・文春文庫刊)という。

ターミナルケア(終末医療)のための施設として「ホスピス」がある。
その目的は、末期ガン患者など回復の見込みがなく死期の近い病人を対象に、延命処置を行わず、身体的苦痛を和らげ、精神的援助をして生を全うできるように手を差しのべることである。
そこで働く医師も看護婦(私は「看護師」という呼び方に馴染めないので、敬意と親しみを込めて「看護婦さん」と呼ぶし書く)も介護士もボランティアも、ホスピスのその目的に添って患者さんたちと向かい合っている。
そう、向かい合っているのだ。
例えば医師である著者はこう書いている。
「医師たちが、末期がん患者の持つ痛みにあまり関心を示してこなかった」
「医師たちの無関心によって痛みに苦しむ患者さんたちがいる」
「がんの痛みで苦しむ患者さんがいたら、その責任の大半は、がんそのものにあるのではなく、医師側にある」
これらの発言もまた何と喘息治療の世界と似ていることだろうか。
「末期がん」を「重度喘息」に、「がん」を「喘息」に置き換えれば、上のようなことは今日の日本の喘息治療の現場で数え切れないくらい起きているだろう。
ホスピスではガン患者の痛みを取るために積極的にモルヒネを使用する。
そうすればガンの痛みのほとんどは取り除くことができるからだ。
ところが、一般の病院などの医師たちはモルヒネを使うことをためらう。
怖い薬だという偏見があるからだ(とこの本には書いてあるが、この本が刊行されたのは90年代後半なので、今は状況が変わっているかもしれない)。
そのあたりは、日本に吸入ステロイド薬が入ってきたころの喘息の治療現場と似ている。
吸ステはその後もずいぶんしばらく医師から危険視されていて、やっと日の目を見たのは、吸ステが日本に上陸して10年か20年くらい経ったときだったように記憶している。
喘息治療のガイドラインで、吸ステがやっと第一選択薬になったのだ。
私たち患者が当時の厚生省(今の厚労省)に何度も何度も陳情やら苦情やら何やらのメールや手紙を送りつづけた成果もあったと思う。
それでも吸ステを危険視したり軽視する医師はまだ多かった。
今では喘息と診断されればほとんどの医師は吸ステを処方する。
しかし、その正しい吸入方法を指導しなかったり、吸ステとセットで使うべきピークフローメーターを患者さんに提供しなかったり、喘息日誌を渡さない医師はいまだに多い。
まして、「無音」や「サチュレーション(血中酸素飽和度)が高い」喘息患者さんたちは喘息と診断されないことが多く、たとえ喘息と診断されても「軽度」と診られるので、ピークフローメーターと喘息日誌をもらえないケースが多く、吸ステさえゲットできないことがある。
これがどういう結果を招くか、あまりにも明快すぎる。
「無音」や「サチュレーションの高い」喘息患者さんたちの多くは重度喘息なので、治療しなかったらもちろん、軽度としての治療程度では喘息の原因である気道粘膜の慢性炎症が放置されることになり、喘息がさらに悪化するのは確実だ。
こんな危険極まりない『誤診』が見逃されている現状は異常である。
それを傍観して何もしないでいる厚労省も日本医師会は脳天気な無責任人間の集まりとしか思えない。
『ここが僕たちのホスピス』にはまたこういう記述もある。
「若くても、モルヒネに対しての迷信から抜け切れていない古い先生たちと同じような知識の先生がいらっしゃる」
「知識を求めようとすれば、知識を得る方法はある」
「その知識を使えば、まず九十九パーセント近くがんの痛みは取れる」
「がんの痛みに関する限りは、患者さんが痛いといったこと、それが痛みなんだ」
「これからは、医師たちは『がんだから痛くてもやむをえないのだ』とはいえなくなるだろう」
「そのような呼びかけ真剣に耳を傾けた医師たちは多くはなかった」
「医師たちがその薬の使用をためらうのは、その薬が危険で副作用が多いからとか、高価で患者さんの負担になるとかではない。その薬に関しての正確な 知識や使用法をあまり知らなかったかになのだ」
「モルヒネ」を「吸入ステロイド薬」、「がん」を「喘息」、「痛み」を「苦しみ」に置き換えれば、これまた喘息治療の世界とそっくりだ。
さらにこういう記述もある。
「肉体的な痛みだけではなくて、もちろん心の痛みもあるわけですし、いろいろな要素が絡まって痛みが起きてくる」
例えば患者さんが医師から邪険に扱われたり、看護婦さんから暴言を吐かれたり、介護職員から厄介者扱いされたりすれば、ガンで苦しんでいるのだけで辛いのに、もっと辛くなって心身ともに傷付くということだ。
これまた喘息の世界にも当てはまる。
特に「無音」や「サチュレーションが高い」喘息患者さんたちは邪険に扱われたり厄介者みたいに扱われるといった仕打ちを医療関係者から受けることが非常に多い。
中には「苦しくないのに苦しいフリをしている」と医師や看護婦に見られる患者さんもいる。
著者の山崎章郎さんは、「モルヒネのうまい使い方を知っているだけで患者さんの痛みが取れるかといえば、決してそうではない」と記している。
薬だけでは患者さんの「痛み」をすべて取り除くことが難しいからだ。
山崎さんはまたこうも書いている。
「死に直面しながら生きている人たちには、誰か偉い人に道を説かれることよりは、自分の話をひたすら聞いてもらったり、不安に震える心を黙って共感してもらったり、誰かの気配を感じていたいためだけにそばにいてもらったりすることのほうが、大切なことでもある」
そこまでして初めて患者さんの痛みを取り除くことができるということだ。
そこまでしないと患者さんの「痛み」をすべて取り除くのは無理だと言っているように受け取ってもいいだろう。
山崎さんの上の言葉は、ホスピスの医師だけでなく、すべての医師が噛みしめるべきだろう。
「無音」「サチュレーションが高い」というだけで「喘息じゃない」と平気で『誤診』する医者、それだけでなく「苦しいはずがない」と言って患者さんの訴えをまるでウソか気のせいのように決めつける医者、大発作を起こして救急車で運ばれても、「無音」「サチュレーションが高い」ゆえに一応の点滴をされただけでさっさと帰りなさいとばかりに邪険に扱う医師や看護婦…。
山崎医師と何という違いなのだろうか。
どうしてこんな違いが生じるのだろうか。
そういうロクデナシ医者やロクデナシ看護婦は向学心が薄いのだろう。
人命を預かる医療の世界に身に置く人間としてはそれだけですでに失格だと思う。
ところが現実はもっとひどい。
そういうロクデナシ医者やロクデナシ看護婦は他人に対して無神経だったり高圧的だったりという人が多い。
高等教育を受けて人を見下す仕事に就くと、人は往々にしてそういうロクデナシになるのだろうか。
何にしてもそういうロクデナシ医者とロクデナシ看護婦は即刻、医師免許なり看護師免許を返上すべきだ。
と喘息に関することを書いたが、『ここが僕たちのホスピス』に書かれていることから推測すると、ロクデナシ医者やロクデナシ看護婦は喘息治療に関してのみバカなのではなく、他の疾患の診断と治療でもバカをやっているのだろうと思う。
『誤診』や『虐待』は喘息治療の現場に限ったことではないのだと思う。
医療は患者のために存在するのが当然だという常識が常識になっていない。
恐るべはき日本の医療界ではある。
