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一入院患者が見た精神病棟

~私は2009年秋に自殺未遂をし精神病院に入院させられた。そのとき書いた記録である~

★未知との遭遇

 「一外交官が見た明治維新」という著書がある。

 著者はイギリス人でアーネスト・サトーという。佐藤という日系ではない。通訳官として幕末の日本にやってきて活躍した。滞在2年ほどで候文の読み書きさえできるようになったというから、語学に関して大きな天分を持っていたのだろう。

 そのため優れた通訳官としても活躍したが、単なる通訳官としてだけでなく「日本」を見、驚くほど適切な分析をして上官に意見具申等もし、日本における当時のイギリス外交に多大の功績があった。

 そのサトーが故国に帰り書いた本である。幕末から維新にかけての日本や日本人が外国人にはどのように見えていたかを知ることのできる貴重な本と言える。

 そんな素晴らしい本にあやかって、「一入院患者が見た精神病棟」というタイトルにした。

 精神病棟という特殊な世界を、わずか1週間だけとはいえ、ひとりの入院患者として私はその内部を実際に見てきた

 私にとっては、いろいろな意味で得がたい体験になった。

 それらの体験のいくつかをここで報告したい。

 英語で言えばルポルタージュということになるのかもしれないが、そんな大それた内容を狙っているのではない。

 私にはサトーのような優れた天分のようなものは何ひとつないので、構想も立てないまま、思い出したことを思い出したまま徒然(つれづれ)に綴っていきたい。

 自殺に失敗したウツ患者という、日本全国にたくさんいるであろうひとりのありふれた入院患者の視点から、この目で実見した精神病棟の現場を「報告」できればと思っている

 などと書くと、なんだか本格的な「現場(地)報告」を書かなくてはならないような気分になってくるが、繰り返すが私にはそんな才能はないので、大した内容にはならないのは自分でよくわかっている。

 それでも敢えて書くのは、私のこの行為が、わずかであっても世の中に役に立つ気がするからだ。

 自殺未遂などして世の中に迷惑をかけるようなヤツが世の中の役に立ちたいなどとはお笑いだが、迷惑をかけてばかりいるからこそ、少しは役に立つことをしたいと思う。

 と、そんな「出だし」で書こうかと昨日考えていたら、急に思いついて「Wii」を起動させた。

 この斬新なゲーム機には、人の似顔絵を作る機能が備わっている。その機能を使って、「アイツの顔を作ろう」と思ったのだ。

 そして作った。それが、これである。

 もちろんのこと、マス・オーヤマではなく暴力団の親分でもなく、海坊主などといった妖怪変化の類いでもない。

 世に「怪僧」とか「大入道」という言葉がある。

 初めてコイツを見たとき、その「怪僧が出た!」と思った。

 「大入道か? それとも海坊主?」とも思った。

 確かに、白布で頭を包んで僧兵の格好でもさせれば、その場で瞬時にして弁慶以上の最強にして最凶の僧兵になると思ったし、アロハシャツでも着せてサングラスをかけさせれば瞬時にして日本一の大親分になり得ると思った。

 どちらにしても人間離れしたオーラとパワーを持つ怪物と言うべき存在だ。

 荒れ狂う夜の大海原に沈めれば、すぐ浮上してきて波間でニヤリと笑うに違いないと確信した。

 何にしても人間とはほど遠いバケモノ的な存在に見えた。

 しかし、人間だった。

 津本陽に「拳豪伝」という痛快な小説がある。江戸時代後期に実在した武田物外という名物和尚の物語である。

 物外の名物は怪力で、また彼は武道の達人でもあり、お椀を両手に持つだけで新選組の近藤勇と勝負し、近藤の攻撃をすべて捌いてみせた武勇伝などもある。女犯の戒を冒したいわゆる生臭坊主でもあったようだが、それでも晩年は名僧として知られたらしい。

 当時の人々は物外を「拳骨和尚」と呼んだ。

 「コイツが人間だとしたら、そのゲンコツ和尚のような怪力の生臭坊主の類いか?」

 と私はそうも思った。

 しかし、坊主でもなかった。

 武道家でもなかった。

 医療関係者だった…。

 誰もが信じないと思うので言うもはばかるが、勇気を出して言おう。

 コイツはた並みの医療関係者ではなく、なんと医師なのである!

 それもただの医師ではない。

 私の入院した精神病院の院長なのだった。

 私は、このバケモノのような院長が支配する恐るべき精神病棟に入院してしまったことになる。

 少しオーバーに書いてしまった。

 しかし、実際のところ、私はこのバケモノ院長と初遭遇したとき、これまでの半生で経験したことのない異常な衝撃波を受け、その場で「またすぐ死にたい」と本気で思ってしまった

 それほどの衝撃波を私はコイツから受けたのである。

 相手が人間であることさえ認めるのが難しかったそのときの異常心理を多少なりとも想像してもらえればありがたい。

 自殺に失敗して入院した翌日、私の病室のドアの隙間からヌッとコイツが顔を出したとは本当にギョッとした(病室のドアは常に少し開かれている。監視のためだろう)。

 一応、白衣を着ているので病院内で働く関係者かとは思ったが、そう思うには違和感がありすぎた。

 体格は雄偉だし、目は大きくて隈取り濃くランランと光り、その両目の上ではこれまた濃く大きな眉が鋭く跳ね上がり、さらにその上はテカテカのツルッ禿げときている(後でよく見たら横と後ろに多少の髪があった。しかし正面から見るとツルッ禿げに見える)。

 大きな口はへの字に結ばれて、分厚い筋肉がその口の周りに盛り上がっていて、一目見ただけで「声がデカく口調が激しいだろうな」とわかった。

 その顔がベッドの上の私に向かってヌウーッと伸びてきて、巨大な目が私をギョロリと睨み、

 「アンタ、まだ死にたいか?」

 と怒鳴るようにいきなり聞いてきたのである。

 そんなことをいきなり聞かれたことにも驚いたが、その声と顔から発せられる異様としか言いようのない圧力にはもっと驚いた。

 私は一瞬にしてフリーズしてしまった。

 バケモノ大入道はひどくせっかちでもあり、私が呆然としていると、

 「死にたいか死にたくないか聞いてんだッ!」


 と声をさらに荒げた。

 どう答えようかと考えていたら、

 「迷ってるようじゃダメだ! しばらく入院してろ!」


 と言うなり首を病室の外にサッと素早く戻してアッという間にその場から消えた。

 「消えた」などと書くと大袈裟な表現だと思われそうだが、私の見た限りではまさに「消えた」のである。

 やはり妖怪だったのかと、ちょっぴり本気でそう思った。

 そのときの私には本当にとても人間とは思えなかったし、医者だなどとは信じようにも無理だった。

 しかし、本当に医者だったのである。

 院長だというのも本当の本当である。

 私のこの度の入院は、このバケモノ院長という未知との遭遇から本格的にスタートしたと言っていい。

 そして、この入院は私とバケモノ院長との対決の様相を呈していき、ついには“OK牧場”の血闘などという異次元の闘いに引きずり込まれ、予想もしなかったまったく意外な展開を迎えることになる。

★サクジョウコンと鉄格子

 そもそも私はなぜ「死」を選んだのか?

 自殺する人はたくさんいる。

 そして、その人たちを責める人がいる。

 「命の大切さを知らないのか。自殺なんて逃げることと同じで卑怯だ」と。

 「残される者の気持ちを考えているのか? 残される者の心に大きな傷が残ることを考えたら自殺なんかするべきじゃない」とも。

 自殺する人がそれらのことを知らないまま死を選ぶとでも思っているのだろうか。それくらい、みんなわかっていると思う。

 それでもやむなく死を選ぶのだ。

 「死ぬ気になれば何だってできる。死を選ぶのは間違っている」なんて言う人もいる。

 これはいくら何でもあまりにひどい言い方だと思う。

 死ぬ気になってもどうにもならないことだってたくさんある

 そこまで追い詰められたことのない人の言葉だとしか私には思えない。

 自殺者の多くはごく普通の人たちだ。

 そんな普通の人たちが、毎日何人もが自らの命を断っている。

 死ぬなんてことはなかなかできることではない。痛いし怖いし悔しい。

 それなのに自ら死ぬなんてことは、普通の状態の人にはまずできないだろう。

 自殺する人の多くは、普通の状態ではない異常な状態に置かれているのだ。

 それは自殺する人がみんな追い詰められているからだ。

 尋常な追い詰められ方ではなく、異常と言うしかない状態にまで追い詰められ、抜け出しようのない窮地に追い込まれ、だからやむなく自ら死ぬのだ。

 私だって、死ぬのは怖かった。本当は何とか生きたかった。

 どうにか方法がないかと、どれだけもだえ苦しんだかわからない。

 苦しんで苦しんで、でも、そんな方法など、どこにもなかった。

 家族を救うにはこれしか方法がないのだとあきらめた。

 誰にどう責められようと、もうそれしか道は残されていなかったのだ。

 そこまで追い詰められた最大の要因は、私の場合は、大きな借金を背負ってしまい、しかしウツになって働けなくなったことだと思う。

 正確な数字はわからないが、うちの家計の毎月の収支を大雑把に言うと、妻が10万、せいぜい50万の収入に対して、少なくとも60万、おそらくは70万以上の支出になっている。その支出の6割か7割くらいは借金の返済で消える金だ。

 こんな状態をここ数年、ずっと続けてきたのである。ここ数ヵ月の収入は妻のパート代の10万しかない。

 なのに、ここまで乗り切ってこれたのが奇跡だとしか私には思えない。

 2年前の同じころも私は自殺をした。

 そのときも失敗して未遂に終わった。

 それも今回と同じく「金」が最大の要因だった。

 それから1年半も休職した。

 その期間の私の収入はゼロ。完全歩合制のタクシー運転手をしていたからだ。正確に言うと収入がゼロどころか、税金や社会保険費等を引かれるので、収入はマイナスだった。

 それでも何とかその後2年間も生きてこれたのは社会保険の傷病手当金の支給を受けたからである。

 その支給期限が切れ、間もなく私は復職した。

 しかし、私はまたウツ状態になり、仕事に行けなくなってしまった。

 当然、また無収入、いやマイナス収入になる。借金の返済をできない。支払いを督促する通知が何通も毎日届き、督促の電話も鳴った。

 気が狂いそうだった

 なのに、どうすることもできなかった

 前述したように、どこかに道はないかとずいぶん探した。けれどなかった。

 事実上、大きく崩壊していた家計を立て直すなどは、宝くじに当たりでもしない限り無理だった

 それが冷厳な事実だったのだ。

 ウツにならない以前の元気なころの私でも、この状況から抜け出すスベを見付けられなかったと思う。

死ぬしかない。そう思った。

 その前に妻と離婚し、それだけでなく2人の子供たちを私の籍から抜き、妻ともども妻の実家の籍に入ってもらおうと考えた。

 そうすれば、私が死んでも私の借金が家族にのしかかることを防げると思ったからだ。

 そうやって家族を救おう

 私はそう決心したのである。

 実際は妻が離婚を承知してくれなかったため、結局は妻と子供たちの「家族」として死ぬ決心をするにいたるが、本当は離婚してみんなと「家族」でなくなってから死にたかった。

 それが心残りだったが、私が死ねば周囲の説得で妻も離婚して籍を抜かざるを得なくなり、そうなれば家族を救うという私の目的は完遂できると思った。

 今度は絶対に失敗できないと思い、最も有効で確実な死に方を研究した。

(ここからしばらくは「コイツなに書いてんだ」と思うような不気味で目を背けたくなるような叙述になる。心臓の弱い人は大きくスクロールして読み飛ばしてほしい)

 前回は睡眠剤を多量に飲むという方法で決行した。

 しかし、いきなり大量に飲んだせいかすぐ吐いてしまい、残っていた分を何かを食べながら飲んだり、薬をすり潰してヨーグルトに混ぜて飲んだりした。

 が、それでも吐いてしまって失敗した。

 使用した睡眠剤は、15年から20年くらい前のものだった。

 寝付きの悪い私のために実家の両親が自分たちに処方されていた睡眠剤を度々送ってくれていた。当時の私は薬に頼るのを嫌う人間だったので、飲まないまま放っていた。それがたぶん100錠くらいあった。

 それを使ったのだが、吐いたのは薬が古かったためかもしれない。

 もし新しい薬だったとしても、今の睡眠剤で死ぬのは難しいということを後で知ったので、やはり失敗したのではないかと思う。

 だから今回は睡眠剤で死のうとは考えなかった。

 一番確実なのは断崖絶壁などの高いところからの飛び降りだと思った。

 しかし私はひどい高所恐怖症なので、その方法は考えただけで怯む。

 次に確実だと思ったのは刃物で頸動脈を切るか心臓を突き刺すことだと思った。

 これならやる自信があった。

 しかし、妻も子供たちも血をひどく怖がるので、私がそんな死に方をしたら、血まみれの私の姿が彼らの脳裏に焼き付き、彼らにものすごいトラウマを作ってしまうと思った。

 一酸化炭素中毒で死のうかと、私はずいぶん考えた。

 例えばクルマの中で炭でも焼いて一晩過ごすだけで死ぬことができると思った。

 ただ、もし誰かに中途で見付かって失敗して生き延びてしまったら、一酸化炭素中毒の後遺症が残って、今以上の経済的負担を家族に強いることになると怖れた。

 それに、ウツでなかなか外出できない自分にはクルマでどこか遠くの山奥といった人目につかない場所まで移動する自信がなかった。そんなところまで行くガソリンもなかった。

 かといってウチの中で死ぬのは危険だった。

 我が家にはシマリスと、ウツの私のセラピー犬になるようにと家族が探しまわって譲り受けた愛犬がいる。彼らを道連れにする怖れが十分にあったので、ウチの中ではできないと思った。

 ウチのアパートは寒冷地適応住宅で気密性が高く、結露防止のために24時間強制換気システムが動いていて、そのため各部屋のドアの下は床から離れていて空気の行き来がある。そんな建物の中のどこか一室で一酸化炭素を大量に出すのは、たとえペットたちを別の部屋に置くにしても、彼らを巻き添えにする危険が非常に大きい。

 それに、アパートなので大家さんや同じアパートに住む人々に迷惑をかけることにもなると思うと、ウチで死ぬことに大きな抵抗があった。

 凍死も考えた。

 これはかなり魅力的な死に方だと思った。睡眠薬を少し飲んで寒い場所で寝てしまうだけでほぼ確実に死ねると思ったし、眠っているかのような静かな死に姿になるという点にも惹かれた。

 それなら家族の受けるショックが少しはやわらぐと思ったのだ。

 しかし、季節はまだ10月で、私の住む北海道でもそんな寒い場所は高山しかないのが難点だった。

 そんな場所まで行くガソリンがない。山を登る体力も気力もない。

 もう少し待って12月くらいになって決行すれば、そのへんの河原に寝転がれば一晩で死ねると思ったが、もう時間的猶予がなかったので、それまで待つことはできなかった。

 いろいろ考えた末に辿り着いたのは首を吊る方法だった。

 首を吊ってぶら下がる夫や父親の姿を家族が見たらかなりショックだと思ったし、外になかなか出られない私としてはもしやるとすればウチの中でということになるので、大家さんなどにも迷惑をかけると思った。

 けれども、他の方法と比較する作業を続けて、外にも出られず金がなくて遠くにも行けない今の自分が確実に死ねる方法となると、これしかないなと思いいたったのである。

 考えがそこまでまとまってから、実行場所と方法を考えた。

 メゾネット式のアパートなので、1階と2階を結ぶ階段があり、2階の降り口の横は吹き抜けのようになっている。階段の2階の手摺にロープをかけて吊り下がることは可能だと見た。

 しかし、そこは娘のachaの部屋のすぐ横にあたっていることが私をためらわせた。

 決行はachaが修学旅行から帰る日と決めていたので、ひょっとすると第一発見者がachaになるかもしれなかった。

 だから彼女の部屋の横から吊り下がるのはやめるべきだと思った。

 他の場所を探したが、アパート内のどの部屋にも梁のような横材が高所にあるところはない。ロープを引っ掛けることが可能な天井部分もなかった。

 そこで私が考えたのが、夫婦の寝室の本棚と本棚の上に渡してあるスチール製の物干竿から首を吊ることだった。

 これだと足が床についてしまって中腰のような格好になるが、睡眠剤を飲んでほとんど眠ってしまえばうまく吊り下がることができて死ねるのではないかと思った。

 睡眠剤が完全に効いてしまってからでは首吊り作業はできない。効きはじめないうちに首吊り態勢に入り、薬が効いてくるのをそのまま待つ。

 薬が効いて眠ってしまえば、足が床についていても体重を足で支えることができなくなり、中腰とはいえやがて首が吊られて死ねるはずだと思った。

 実際、そのような方法で自殺した例があるのを、何かの本で読んだ記憶があった。

 第一発見者がachaになるとしても、これだと夫婦の寝室に彼女が入ってきても、暗いし入口の横の奥にぶら下がることになるので、見た目のショックがいくらか少ないと思った。

 完全に死ねば足が床についた中腰のような姿勢になるので、「首吊り」というイメージにはならず、家族たちの受けるショックが少ないだろうとも思った。

 この方法で行こうと決めた。

 そして決行当日、まず首を入れる輪を作ったロープを用意した。

 ロープにはテレビのアンテナ線を使った。

 堅いゴム製で直径が1センチ近くもあるものだったので、強度は十分だし、薬が効きはじめるまで首にそれほど食い込まず、したがって傷みをあまり感じないで済みそうだった。

 あまりに痛いのでは、いくら睡眠剤で眠っても体が無意識に動いて助かろうとすると思った。それを避けるにはある程度太いもので吊られる必要がある。

 アンテナ線で作った首吊りロープを物干竿にかけて、ロープの輪に首を入れて吊られてみた

 すると、スチール製とはいえ物干竿の強度はあまりなく、中央で吊り下がると大きく撓むことがわかった。

 そこでロープを本棚に近いところにかけて試した。大丈夫のようだった。

 そこまで用意を整えてから、その前の週の受診のときに「最近、あまり眠れなくなったので」と担当医にウソを言ってもらってきた睡眠剤と、念のため、残っていた抗不安剤と抗ウツ剤を飲んだ。

 抗不安剤と抗ウツ剤でも私はだいぶ眠くなるので、これで確実に首を吊って死ねると思った。

 ところが、これがうまくいかなかった

 首にロープをかけて吊り下がったまではよかったが、薬がなかなか効いてこなくて、中腰でそのまま立っているのが辛くなってきた。

 そこでいったん立ち上がって、そのままの格好で眠くなるのを待った。

 だが、それでもなかなか眠くなってこない。

 そこで、眠くなるのを待たずに、意思の力で吊り下がることにした。

 足を意識的に上げて両手で足を囲い、ちょうど体育座りのような格好になってブランッと物干竿から吊り下がったのだ。

 グエッときたが、何とか我慢できそうだった。

 そのままもう数秒我慢できていれば首の骨が折れるか気管が潰れるかして、おそらく死ねたと思う。

 しかし、思わぬことが起こった

 本棚と本棚の上に渡してある物干竿がグラグラと大きく揺れはじめ、本棚の上をズレていって本棚から落ちそうになったのだ。

 そこでいったん中断して物干竿を元を位置に戻す作業をしていたら、そこにいたって急激に眠くなってきた

 まずいと思って焦って作業をしていたら竿からロープが外れて、それを戻そうとしたら、なんとそのアンテナ線で作った輪の結び目がほどけてきた。

 堅いアンテナ線なので固く結ぶことができなかったためだろう。

 その時点で私は立ち上がることが難しいまでに眠くなっていた

 やむなく、床に座ってアンテナ線を首に巻き付けて両手で首を絞めた

 思いっきり締めればイケると思った。

 だが、力が入らない

 アンテナ線が滑ってうまく握れないし、力が体からドッと抜けていた。

 薬がいきなり急に効いてきたのだ。

 私はロープやコード類をしまってある引き出しを開け、握りやすくて締めやすいロープを探した。

 パソコン用のランコードがあった。

 指に巻き付けて締めることができそうだったのでそれを使うことにした。

 今にも倒れ込んで眠ってしまいそうだったので、焦っていた私はもうこれしかないとランコードを指に巻き付けて首をギュッと締めた

 皮膚が破れ、コードがジリッジリッとさらに深く首に食い込んでいくのがわかった。

 痛さは感じなかった。

 息が苦しくなってきた。

 よし、いいぞ。

 そう感じた私はそこでもう数回、コードを首に巻き付け、喉仏のところで縛った

 これでいい。そう安心して布団の上に倒れ込んだ。

 あとは記憶にない。

 気が付いたのは、「なにやってんのッ!」という物凄い声がしたからだった。

 妻の怒鳴り声だった。

 生きていることがわかった。

 なぜなのかわからなかった。

 妻の後ろで、修学旅行から帰ってきたばかりなのかセーラー服を着たachaが座って、「パパ」と言ってすすり泣いていた

 妻が私の首に取り付いてコードを外しにかかったのがわかった。

 なんと、すぐ外れた。

 それでわかった。結び方が弱かったのだ。

 ほとんど眠っていた私はずいぶん固く締めて縛ったように思っていたのだが、実際は手に力が入っていなくてちゃんと締められなかったか、締めるのはできていても、結び方が中途半端でコードが緩んだのだろう。

 こうして私は自殺に失敗した。

 また死に損なった。

 それから私はまたしばらく昏々と眠った。

 不思議なことだが、妻は私を病院に連れていかなかった。翌日も私は布団に寝せられたままになっていた。

 病院に連れられていったのは自殺未遂した翌々日である。

 ウツになってから私がお世話になっている病院に行き、主治医の診察を受けた。

 その日は主治医の診察日だった。この日まで受診しなかったのは、主治医の診察日まで妻が待ったためかもしれない。

 それとも、私の様子がそんなに差し迫って見えなかったせいかもしれない。

 よくわからない。

 私の様子を見た主治医はすぐに入院が必要と判断した。

 だいぶ薬を飲んだせいで、決行日の2日後のこの時点でも私はまともに歩けない状態でフラフラしていたのと、何よりも私の首にできていた無惨な索条痕(サクジョウコン=ロープ等で首を締めた痕跡)を見て、

 「これは帰すのは危険だ」

 と判断したようだ。

 索条痕は実際、かなり無惨についてしまっていた。

 それを見た妻が危険を感じなかったのは、私がちゃんと呼吸をしていたし血がそれほど出ていなかったためかもしれない。

 実は、その診察室には主治医ともうひとりの医師がいた。

 それはなんとあのバケモノ院長だったのだが、このときの記憶が入院中には戻らず、退院して間もなく少し記憶に甦ってきた。

 薬のせいでよほど朦朧としていたのだろう。

 でなければ、あのバケモノ院長がいたのだったら相当の衝撃波をまともに受けて、その記憶が一時的にせよ消えるなんてことはあり得ないと思う。

 自殺未遂した翌々日のこの受診時のことさえよく思い出せない理由は、おそらく薬のせいだったと思う。

 この日になってようやく受診した理由を思い出せないのも、決行日翌日のことも思い出せないのも薬のためだろう。

 入院した後も、その当日と翌日までの記憶があまりない。これも薬のためだったと言われればそうだろうなと納得できる。

 ところが、決行日の前日のことも実はあまりよく覚えていないことに昨日気付き、決行日前後の記憶が飛んでいるのは薬のためだけではないように思えてきた。

 決行日か決行日の前日あたりに私の自殺を予感した友人がウチに電話をくれたことを妻が昨日話題にした(その電話を受けたのは妻かachaだったようだ)。

 私はしばらく、妻が何の話をしているのかわからなかった。

 電話があったことを妻かachaが私に伝えているシーンが私の頭の中で明滅するように少し見えた気がした。しかし、はっきりした映像にはいまだになっていない。

 友人が電話をくれたそのときはまだ薬を飲んでいない。

 それなのに記憶が飛んだのはなぜか?

 決行日前後は私の精神状態が異常な緊張をしていたのかもしれない。

 それが一時的な記憶喪失のような状態を招いたような気がする。

 とにかく、こうして私は入院した。

 医師の判断で個室に入れられることになった。

 「特殊病棟に入ったほうがいいでしょう」と医師が言ったように私には聞こえた。

 「特殊?」と思って内心ゾッとしたが、もしかすると「個室病棟」と言ったのかもしれない。

 それは確認するのを忘れたまま退院にいたってしまったので今でもわからない。

 何にしても私の病室は個室だった。

 看護婦さんに伴われてその部屋に入ったとき、まず私は外光の眩しさに目をそむけた。

 廊下とは反対側の壁面はほぼ全面が窓になっていて、それほど大量の外光が入ってきていた。

 「精神病棟にしてはずいぶん明るい部屋だな」と思って中に入ったとき、気付いた。

 「ゲッ」と思った。

 外に面した窓の手前には縦の鉄格子がガッシリと嵌め込まれていたのだ。

 直径5センチもある鉄パイプが5センチほどの隙間をおいて部屋の右から左へとズラリと縦に並んでいた。

 下は床から上は天井まで鉄格子が行く手を塞いでいた

 こんな頑丈な鉄格子は、たとえヒグマでも壊すことは不可能だろうと思った。

★『ノルウェイの森』の囚人

 その日の風の向きによって、早朝や昼時などにラッパの音がかすかに聴こえてきた。

 病院のすぐ横が陸上自衛隊の駐屯地なので、そんな音が当たり前のように風に乗ってくるわけだ。

 自衛隊なら国旗掲揚をしているのかもしれない。

 それじゃ村上春樹の「ノルウェイの森」だなとおかしくなった。

 「ノルウェイの森」の主人公の「ワタナベ君」が大学時代に生活していた寮では、毎朝毎夕、寮長が国歌を流し、日章旗の上げ下げをしていた。

 恋人の「直子」に会いに「ワタナベ君」が京都郊外の療養所に出向くシーンがあったな。

 あれはどういう療養所だったんだろう?

 その療養所の風景は私の頭の中ではモノクロームになっている。芝生のような草原のようなところがあり、そこだけはどういうわけか緑色をしている。私にそう感じさせる何かしら特殊な印象がその療養所にはあった。

 「直子」は何らかの精神疾患を背負っていたように感じられるシーンがいくつかあった。

 とすると、あの療養所は精神病棟と関係あるのかもしれない。

 精神病棟?

 ここも精神病棟だ!

 いよいよ「ノルウェイの森」の世界に似ているような気がしてきた。

 するとオレは「ワタナベ君」なのか?

 じゃあ、オレはここでいったい何を失うというんだ?

 失いたくないものはことごとく失い、失いたいものは何も失うことができなかった。

 自分の命を自分で失わせることもできなかった。

 自分の意志通りになんてまったく生きてこれなかった。周囲の要望やら期待やら制約をバカ正直にみんな背負い、その度に潰れてばかりいた。

 その挙げ句に、こんなザマになってオリのような病室にぶち込まれた。

 死に損ねて生き延びたが、オレの人生はもう終わりだなと、入院してしばらく後、そう思った。

 そんなことを思っておかしがるようになったのは入院も後半のころで、入院して数日はほとんど呆然としていた。

 特に入院初日とその翌日は心機朦朧としていたようだ。

 この2日間の記憶が断片的にしかないのである。

 ほぼ明瞭に覚えているのは、自殺決行日の前後に友人たちから何通かのメールをもらっていたことを思い出し、返信していなかったことがひどく気になったことだ。

 友人たちは私が自殺すると察して心配してメールを打ってきていた。後戻りすることなど考えていなかったそのときの私には煩わしいだけのメールだった。

 しかし、失敗して行き延びてしまったら、何の返信もなければ彼らはずいぶん心配しているかもしれないと思いいたり、数人にだけはどうしてもメールを打ちたくなった。

 できればブログにも「失敗した」旨を記載したかったが、それは無理そうだった。

 この精神病棟にはさまざまな規制があり、持ち物のほとんどが没収されていて、必要なときに許可を得ないと自分の持ち物を手にすることも使うこともできなかった。

 携帯電話も没収されていて、もちろん使うのにも許可が必要だった。

 その許可が下りて私は友人数人にメールを打った。

 看護士さん(男の看護婦さん。看護師さんと書くべきなのはわかっているが、親しみを持ちたいため敢えて「看護士さん」と書く)がそばについているところで私は、まだ何も打っていないのに送信したり打ち間違ったりというミスを繰り返しながら、やっとのことで送信文を作った。

  「未遂に終わりました。心配かけてすみません。入院してます」

 というような内容だったと思う。

 薬で心身ともに普通でなかった私には、この程度の短い文章を打つのも相当の難作業だった。

 その文章を看護士さんに見せて許可を得た後、送信した。

 そのとき、何通か新たにメールが届いているのを画面の表示で知ったが、それを見ることは許されなかった。

 それほど監視されている状況にあったので、もちろん一時的にせよ帰宅は不可能だった。

 私は携帯でブログを更新する方法を知らないので、ブログ(当時、私は「Yahoo! ブログ」を運営していた)のことはあきらめるしかなかった。

 ブログを読んで私のことを心配している人がいたら申しわけないと思ったが、どうすることもできなかった。

 最初の2日間のことで覚えているのは、そのほかには、とにかく早く退院したくて焦っていたことだ。

 ブログの更新をしたかったせいもある。入院すれば金がかかるので、そのことでも早く退院したかった。

 経済苦で自殺したのに、失敗したら入院費がかかってもっと窮地に追い込まれるなんて、それじゃ悲劇を通り越して喜劇だ。

 とにかく1日でも早く退院しなくちゃと、そればかり考えていて、ついには検温にきた看護婦さんに、

 「いつまで入院なんですか? 入院してたら家計がますます悪化して、また自殺しないといけない状況に追い込まれるんです」

 なんて訴えた。

 看護婦さんは、

 「今はあなたがまず心身ともに元気を取り戻すことが必要でしょ。そのための入院なんだから、そんなこと考えてたらいつまでも退院できませんよ。重要なのは、あなたが自分を取り戻すことなのよ」

 と、忙しいのにわざわざ私の前にしゃがんで諄々と話してくれた。

 しかし、焦っていた私は、そんな言葉は頭に入らなかった。

 「生活に困ってない人に何がわかる!」

 と内心そう思い、看護婦さんには失礼ながらかなり仏頂面をしていたと思う。

 それでもその看護婦さんは機嫌を損ねることもなく、

 「わたしはあなたより少しだけ多く生きてきた経験から言うのだけど」

 と私に向かって話しつづけた。

 私は彼女が四十代だと思ったのでちょっとびっくりして聞き入ってしまった。生き生きしていたので余計に若く見えたのかもしれない。

 「あなたは今、経済的に困ってるんでしょう?」

 「ええ」

 「それでこんなことをしてしまったのよね?」

 「ええ、まあ」

 「………」

 「………」

 「奥さんも子供さんも心配してるでしょ?」

 「はい」

 「これ以上、心配をかけちゃいけないよ。あなたは生きることを考えなくちゃ」

 「だから」と私は口をはさんだ。「そのためにも早く帰りたいんです。入院していればそれだけ出費が増えますから」

 「それで解決になるの?」

 と看護婦さんは聞いてきた。

 解決などできない。何をどうやっても解決など無理だ。

 「いろいろ大変なのはわかるつもりよ」と看護婦さんは言った。

 「だけど、あなたが今、ここでしなくちゃいけないのは、自分の今の状態を治して、家族のためにも立ち直ることなのよ。そのためにはもうしばらく入院しなくちゃ。ね?」

 私は黙った。

 「あなた、私の今の立場になってみませんか?」

 と、本心ではそう思った。

 今の私の立場に置かれて抜け出すことのできる人はいない。

 収入10万で支出が50万から70万という家庭に放り込まれてみればいい。

 しかも、私には人脈もなく意欲もなく何もない。

 そんな状況で何ができる?

 誰も何もできるはずがない。

 そう言って看護婦さんを困らせる気にはなれなかった。

 私のために時間を割いて熱心に話をしてくれたこの看護婦さんに対してそんなことをしたら、自分がもっとサイテーの人間になると思った。

 ありがたさ(文字通り「有り難い」ことだと思った)を感じた私は、本心ではなかったけど、

 「はい、わかりました。しばらく入院します」

 と看護婦さんに答えた。

 看護婦さんが話してくれた内容は実はあまりよく覚えていない。だから上の会話部分は正確ではない。

 ただ、看護婦さんが私のことを真剣に思って会話してくれたことに「ありがたさ」を感じたこと、そして「はい、わかりました。しばらく入院します」と答えたのはよく覚えているので、だいたい上のような会話をしたのではないかと思う。

 そのほかのことはほとんど記憶にない。

 この2日間、寝ていたのか起きていたのかさえ定かではない

 受診してすぐ病室に連れてこられ、制約事項などについて看護婦さんから説明を受けたが、その内容もよく覚えていない。

 入院する用意をしてこなかったので、同行してくれていた妻に頼んでパジャマなどの必要なものを持ってきてもらうことになったが、何を持ってきてほしいと妻に頼んだのか、それもほとんど覚えていない。

 目の前を塞ぐ巨大な鉄格子を見て絶望感に打ちひしがれ、仕方なくベッドに腰掛け、自分の病室を見回して、さらにギョッとしたりゲッと思ったりしたことは断片的に覚えている。


 部屋は6畳弱くらいの広さで、廊下側の入口のドアから入って右側に小さめのベッドが壁に沿って置かれている。

 その先は鉄格子で、さらにその先は外に面する窓になっている。

 鉄格子と窓との間は狭い通路になっていて、両隣の病室側との境には仕切り壁があり、小さなドアが付いている。

 ドアから入ってすぐ左側の床には置き忘れられたかのように洋式の便器がある。

 「置き忘れられた」と形容したが、まさにそうとしか思えなかった。

 ユニットバスでもあるまいし、ベッドと同じ床の上に、それも丸見えの状態で便器が設置されている光景など見たことがない。

 しかも、便器のすぐ横は入口のドアで、そのドアは昼間は常時開けられているのだ(ただし夜間は閉じられることが度々あった。病室を出てうろついたり他の病室に勝手に入り込む患者がいるとそういう措置を取るようだ)。


 ドアの開いているすぐ横の丸っさらしのトイレでウンコなんかできるだろうか

 私は下痢常習者なので、音や臭いが廊下にまで漏れることを想像して絶句した。

 さらには、ウンコをしてもオシッコをしても、自分でそれを流すことができない

 流すレバーが部屋の外の廊下にあり、勝手に病室から出てはいけないので、トイレを流したかったら、看護婦さんやヘルパーさんが近くを通るのを待って声をかけて、

 「トイレ流してください」

 と頼まなくてはならない(しかし私は数日後には自分で廊下に出てレバーを押すようになった。それを見られても咎められなかったので、自分で流していけないというのは私の聞き間違いだったのかもしれない)。

 夜間、ドアを閉められてしまえば、少しはしやすくなるかなと思ったが、朝まで流せないとなると、臭いが病室に充満しそうで、とてもウンコなんかできっこないなと思った。

 まいったなと悄然としてドアをながめていて、ゲッと思った。

 下部に小さな小窓(といってもガラスではなくドアと同じスチール材)があるのだ。おそらく監禁した患者に食事を与えるときなどに使うのだろう。

 さらにゲゲッとしたのは、ドアの内側にノブがないことだった。

 ということは?

 閉められて外から鍵をかけられたら、ノブを壊して脱出することはできない。体当たりでもしてドアをぶち破るしかないが、ドアはスチール製で頑丈で、高見山のぶちかまし(古~い)でも脱出は難しいと思った。

 ギョッとしたのは、腰掛けているベッドから立ち上がったときだ。

 部屋の中を一通り見渡してからまたベッドに座ろうとしてベッドを振り返ったとき、その敷き布団の真ん中に見慣れないものを発見した。

 ベッドを横にまたぐように、丈夫な帯状のものが敷き布団の上に置いてあるのだ。よく見ると置いてあるのではなく、その両側はベッド本体の下部に巻き込まれ、そこでしっかりと固定されていた。

 後でヘルパーさんに聞いたら「腹帯」(ふくたい)というのだそうだ。

 暴れる患者をこれで拘束するのだろうというくらいのことは、朦朧とした頭でもすぐ想像できた。

 もっとも、この腹帯をよく見てみると非常に複雑な作りになっていて、仰臥した患者の腹部を縛るだけのもののようにはどうしても思えなかった。何か特別な使い方があるではないかとあれこれ試したみたが、ついにわからなかった(下の写真のようにいろいろ試したが、どうも無駄なことをした気がする)。


 ただし、入院初日とその翌日の段階ではそこまで考えたり試す余裕はなかった(上の写真をはじめ病室内の写真はすべて、病室に来てくれた妻の携帯で退院前に撮ったもの。もちろん見付からないように隠れて撮った)。

 その後、もっと恐るべきことを知った。

 見舞いに来てくれた妻が話すのを聞いてびっくりしたのは、玄関からこの病室に来るには職員の許可を得て職員の先導で上がってくるということだった(病室は3階にあった)。

 「なぜ?」と私は聞いた。許可を得るのはわかるが、どうして先導が必要なのか?

 「階段もエレベーターも鍵を開けないと入れないのよ」と妻は答えた。

 妻の話によると、外来の待合室の前を通って奥に向かうと階段室とエレベーターがあるのだが、そのどちらにも鍵がかけられていて、職員がそれを開けないと上に行けないようになっているという。

 もちろん、3階の病棟から下に降りるのも同様の手続きが必要で、だから入院患者が勝手に下に降りることはできない

 さらにその後、窓の鍵も特別な作りになっていることを知った。

 見た目は普通のサッシだが、正面から見た中央の鍵が違っていた。普通のサッシの鍵は指をかけてクルンと回すようにできている。病棟の鍵はツルンとしていて、指をかける取っ掛かりがないのだ。たぶん、専用の器具を使わないと開けられない仕組みになっているのだろう。

 つまりは、外界とはかなりの厳粛さで隔離されている。それが精神病棟という世界だった。

 この時点ではまだそのことを知らなかったが、それでも私には十分に異常な環境だった。

 腹帯の上に腰掛けなおして部屋の中を見回していて、何かがポカンと抜けている気がした。

 6畳もある部屋に小さなベッドと便器しかないのでただっ広く感じるせいもあるだろうが、それだけではない気がした。

 「いま何時だろう?」と思って部屋の中を見回してやっと気付いた。

 時計がないのだ。

 オフィスはもちろん、家庭でも部屋の壁には時計が掛かっていることが多い。

 しかし、私の病室の壁はどの面も真っ白で何の飾りもなく(廊下側の壁にはドアと室内窓があるが)、それががら空きだったから何かが足りない気がしたのだ。

 時計を掛けていると、患者が壊して自殺の道具を作る怖れがあるからだろうか。それとも、患者に時間を意識させないで療養させるのが目的なのか。わからない。

 どちらにしても、時計のない世界というのはかなり不便なものだと、この入院中に知ることになる。

 そう、この病室はいろいろな点で不便なのである。

 制約が多すぎる。

 不便なだけでなく、いかにも監視されているようで、もっと言えば拘束されているかのようで、どうも落ち着けなかった。

 自由が封殺されていた。

 こういう環境が私はすごく苦手なのだ。

 ここが病院なのだということが私にはどうにも納得できなかった。

 私に退院する権利はないのか?

 入院を拒否する権利はないのか?

 私は入院を望んでいない。退院を強く望んでいる。

 そうしないと家計が今にも破裂して家族が滅ぶのだ。

 それなのに退院させてくれないなんて、人権ジューリン(蹂躙)というものだろう。

 病院が患者をこんな目にあわせていいのかと、そんな憤りさえ私は覚えてきた。

 1階の玄関付近には、この病院の基本姿勢や職員の倫理、患者の権利などについて箇条書きにしたものが大きく掲げられている。

 その中には、確かこんなことが書かれていた。

 ・人間愛を持って、患者さんならびにご家族に接するとともに、

  患者さんの尊厳を尊重し、個人の権利を厳格に擁護する。

 ・患者さんは、プライバシーを守られる権利、個人の尊厳が尊重される権利がある。

 ・患者さんは、不適切な治療や処置を拒否する権利を有するとともに、不服を申し立てる権利、その手段や手順についての情報提供ならび説明を求める権利がある。

 ウツ治療のために訪れる度に私はそれらの内容をよく読んでいた。

 精神疾患の患者を治療するところなので(内科も併設されているが)、わざわざこんなことをデカデカと貼り出さないといけないのだろうなと、入院するまでは他人事のようにそれを眺めていた。

 しかし、入院したら他人事ではなくなった。

 プライバシーを守られる権利?

 個人の尊厳が尊重される権利?

 ウンコもできやしない。携帯も使えない。今何時かさえわからない

 そんな病室のどこにプライバシーがあり、どこに尊厳の尊重なんかあるんだ?

 不適切な治療や処置を拒否する権利があるなら、退院したいという私の希望を少しは聞いてくれてもいいんじゃないか?

 不服を申し立てる権利があるなら、今すぐ不服を申し立てたい。

 すぐに主治医に取り次いでくれ。主治医がいないなら誰だっていい。権限のある人を連れてきてほしい。

 そして私の希望を聞いてください。

 私にとって最もいい選択肢は私自身が知っている。

 その選択肢は退院することなのだ。

 それは私が保証する!

 この2日間、私はそのことばかり考えていたように思う。

 すべてのことを自分に都合のいいように解釈して、自分に都合の悪いことは無理矢理切り捨てている。

 退院してしばらく経った今、かすかな記憶を辿って思い起こすと、このときの自分は相当に追い詰められていたんだなとわかる。

 「人権ジューリンだぁッ!」と騒ぎ出すような気もしていた。

 そんなことをすれば、もっと制約の多い環境に追いやられ、入院期間が延びるかもしれない。

 そう思って、かろうじて自分が破裂するのをこらえていた。

 ここは監獄なのだ。

 そう考えたほうがいいと私は思うようになった。

 オレは囚人と同じなのだと思うことにした。

 そう思ったからといって私の気持ちはやわらぎはしなかった。

 しかし、そうとでも考えないと、私は自分が何をするかわからなくなっていたのだ。

 自分がいま、どんな境遇に置かれているのかを思い知って、ドッとため息が出た。


★西郷さんとバケモノ院長

 「田原坂(タバルザカ)」という民謡がある。

 ♪雨は~降る降るぅ~ ジンバ(人馬)はぁ濡ぅれるぅ~

  越ぉすにぃ越ぉされぬぅ タバルザカぁ~

  メテ(右手)にぃチガタぁナぁ(血刀) ユンデ(左手)にタぁズナぁ(手綱)~

  バぁジョウ(馬上)~ゆぅたぁかなぁ~ ビショオネぇ~ン(美少年)

 という歌詞だ。

 明治10年に起きた西南戦争の最激戦地となった田原坂の攻防が題材になっている。

 そんな古い歌を私が知っているのは(私は昭和32年生まれ)、私の幼なじみがこの歌が好きでよく歌っていたからだ。

 彼は今年、衆議院選挙に立候補した。見事に落選した。

 もう遠い昔、お互いに小学生のとき、彼は私にこう言ったことがある。

 「オレは将来、必ず政治家になる」と。

 小学生の夢と言って片付けるには、彼の顔はあまりに真剣だった。

 当時から本気でそう考えていたようだ。

 そして、40年後の今年、その夢の舞台に立とうとした。

 落選したとはいえ、40年間も一途にその夢を追ってきた彼は立派だったと思う。

 彼は創価学会員で、忠臣蔵の大石内蔵助(くらのすけ)が大好きな男である。

 彼は私にこう言ったこともある。

 「オレは先生がどう言おうとも先生を信じて従っていく」と。

 「先生」というのは創価学会の当時の会長(今は名誉会長。故人)のことである。

 彼のその言葉を聞いたとき、私は彼を、そして創価学会のことを薄気味悪く感じた。

 今回の入院中、私は司馬遼太郎の「翔ぶが如く」(全10巻)の後半を読んだ。

 「翔ぶが如く」の舞台は、そのタイトルが示すように、翔ぶが如き剽悍無類の薩摩隼人たちが起こした西南戦争である。

 この小説で司馬さんは、「西郷隆盛とは何だったのか」を考えつづけたように思う。

 私もこの長編を読みながらそのことを考えつづけた。

 「翔ぶが如く」を手に取ったのは今回で3回目になる。以前に2回読んだ本をまた読んだわけだ。

 死ぬ前に読む本としてこれを選んだのではない。死ぬ前には別の本を読もうと思っていた。

 しかし、死ぬ前に処理しておく事柄がたくさんあり、それらの作業に追われて「翔ぶが如く」を読むスピードが予定よりだいぶ落ちた。

 7巻を読み終えたくらいのところで決行日を迎えてしまった。

 残り3巻を、私は妻に頼んで病室に届けてもらった(病室内での読書は許されていた)。

 早く退院しなくてはと焦る中、私はこの本の続きを読んだ。

 ちょうど田原坂の攻防のあたりから読むことになった。

 冒頭に紹介した民謡が、幼友達の声で、入院中の私の頭に何度も何度も去来した。

 「西郷隆盛って、もしかすると創価学会の名誉会長みたいな人だったのか?」

 そんなことを考えていた。

 別の創価学会員(かなり上の幹部)に聞いた話では名誉会長という人は物凄いワガママで超ワンマンだそうだ。

 彼は名誉会長の悪口としてそういう話をしたのではない。

 「先生は“水戸黄門”が好きでねぇ」と、彼は嬉しそうにそうも言っていた。

 彼もまた「オレは先生がどう言おうとも先生を信じて従っていく」タイプなのだろう。

 あいつも忠臣蔵が好きなのだろうなと、ふと思った。

 「忠臣蔵」は主君・浅野内匠頭(たくみのかみ)の無念を晴らすため家来たちが復讐を果たす江戸中期の物語である。

 内匠頭の大人げないふるまい(意地悪い吉良上野介に内匠頭は江戸城内で斬りつけた)によって自身は切腹、お家(赤穂藩浅野家)は断絶に追い込まれる。

 これにより家来たちは禄を失い、浪士となる。赤穂浪士だ。

 将軍家の裁きに納得できなかった家来(正確には元家来)たちは、家老の大石内蔵助のもと団結して吉良上野介(きらこうずけのすけ)を討つ。

 この復讐に参加した家来たちはその後に将軍家の命で全員見事に切腹しているので、お家再興、つまり再就職が目的ではなかったと思う。このころにはだいぶ熟成されて観念論化していた武士道に殉じたと見たほうが自然だろう。

 「武士道とは死ぬことと見付けたり」と言ったのは佐賀藩の葉隠だ。

 葉隠の言うその意味は、おそらく「いつでも死ぬ覚悟ができているのが武士だ」ということだろうが、江戸期もこのころになると、それが「主君のためならいつでも切腹するのが武士だ」というとらえられ方をされてきていたように思う。

 その主君が暗愚でも、あるいは暴君でも、主君は主君で、それに逆らうことは武士道に反していた。

 赤穂浪士もその「武士道」を奉じて「主君のため」美しく死ぬことを考えていたように思う。

 創価学会の少なくとも幹部級はそれと似た意識を持っているように私には思えてならない。

 名誉会長その人に私は直接会ったことはない。しかし、おおよその姿を想像することはできる。ワガママでワンマン。

 「そんな人には冗談じゃないけどオレならついていけないな」と私は考える。

 しかし、名誉会長の側近者たちの彼への忠誠心は半端ではない。

 造反して創価学会攻撃に転じた人もいるが、大半は彼の側近として、まるで教祖に仕えるように彼に仕えている(創価学会は日蓮正宗という日蓮宗一派の信者団体で教祖は日蓮である)。

 造反したくても怖くてできない人も多いとは思う。

 私もかつて創価学会に加入していたことがあるからわかる。少しでも批判めいたことは言えない雰囲気があった。言うと「信心が足りない」とか「先生への忠誠心に欠けている」と見られ、陰湿なイジメにあう。

 私はよせばいいのに正義感から学会批判をし(私は批判するというよりは疑問を口にしただけだが周囲には批判としか受け取られなかった)、そのため他の会員から白い目で見られ、幹部たちに目をつけられ、幹部たちからは「指導」と称する説得を繰り返し受けた。

 説得になど全然なっていないそれらの「指導」を聞いていたら私はバカらしくなってきた。

 私がいろいろな疑問を提示すると、「題目が足りないからそんな余計なことを考えるんだ」とか「信心が深まれば疑問は解消する」といった答えしか得られなかったのだ。

 それで私は脱会した。

 そういう経験を思い出してみれば、側近ともなれば脱会するのには相当の勇気がいるだろうなと思う。

 脱会して創価学会批判をした人たちはいる。彼らはみな物凄い反撃を学会から受けた。

 創価学会は「聖教新聞」という出版物を発行している。その紙面で、これでもか、これでもかと彼らは罵倒されつづけた。こんなプライベートなことで個人攻撃していいのかと思うような、それはそれは凄まじい内容だった。

 この新聞は全国で相当数配達されている。会員以外の人も読んでいる新聞なのである。

 その公共性の高い紙面に、ひとりの市民のことを「○○は女ができて貢ぐため金が欲しくなった」とか「○○の妻の実家には詐欺の前科者がいて○○の親戚には精神疾患者がいる」などと、何とも読むに耐えない文章が堂々と出る。「恩知らずの恥知らず」と罵る表現などはごく普通に使われていた。

 この新聞の編集に携わる人たちが本気でそう思い、冷静な判断であんな紙面を作っていたとしたら、創価学会は恐るべき洗脳集団だとしか言えない。

 普通の人なら、あんなひどい紙面を作ることなど考えも及ばないだろうし、作らないといけない状況に追い込まれたら、罪の意識で自己嫌悪に陥るはずである。

 創価学会が洗脳集団でないのなら、聖教新聞の編集に携わる人たちは、いったいどうしてあんな「異常」な紙面を作ることができるのだろう?

 それは名誉会長に対する忠誠心を誇示したい気持ちが彼らにあるからだと私は思う。

 造反した元幹部の創価学会批判は創価学会と名誉会長にとって非常な脅威であったはずだ。

 その脅威から「先生を守りたい」と考えた人もたくさんいたと思う。そこまで忠誠心がなくとも、「先生を守るためなら何でもする」という姿勢を態度で表さないと学会という世界では生きていけないと考えた人はたくさんいたと思う。

 それが、あんな異常紙面ができることにつながったのだと思う。

 創価学会には、そのような「暗黙の制約」みたいなものがある。

 しかし、それだけではこの教団(もともとは前述のように日蓮正宗の信者団体としてスタートしたのだが、今では実質的には名誉会長を教祖と仰ぐ「教団」になっていると私は思っている)のことをすべて説明できるとは思えない。

 名誉会長に対する会員の忠誠心は、洗脳や制約だけでは生まれないように思えるし、維持することも難しいと思うのだ。

 おそらく名誉会長という人には、普通の感受性を持つ人にはわからない「何か」があるのだと思う。

 会員をして喜んで死地に向かわせる「何か」を彼は持っているのだろう

 そこで西郷隆盛である。

 その名声は幕末から明治初年にかけて莫大であっただけでなく、現代でも彼は偉人のような扱いを受けている。

 だが、よく考えてみるとこれは不思議な話ではないか。

 西郷隆盛は明治維新の第一の功労者ではある。

 しかし、反逆者でもあるのだ。それも政府への反逆者である。

 西南戦争で敗れて死んだ後も、同時代でさえ彼は日本国民の尊敬を受けていた。

 上野に西郷さんの銅像がある。あれは彼の死後、それほど経たない時代に立てられたのだ(もっとも、彼の妻は「ウチの人はこんな顔をしていなかった」と言ったそうだが)。

 日本の首都に、その日本の政府に叛旗を翻した人間の銅像が立っているのは、よく考えてみると不思議である。

 西南戦争には、明治の世になって職と名誉を失った武士たちと、重税を課せられ喘いでいた農民たちのために、鹿児島の薩摩隼人たちが「世直し」を目的に立ち上がった戦争だったという面は確かにある。その「世直し」を世間がかなり期待していたようでもある。

 西郷隆盛が死んでもなお日本人に愛されつづけるのは、その「世直し」の象徴だからだろうか。

 この章の冒頭に紹介した「田原坂」で馬上、刀を持つ少年は薩摩隼人である。政府軍ではない。

 つまり、民謡「田原坂」は、敗れた鹿児島軍を讃えるかのような歌なのである。

 薩摩隼人の剽悍さと潔さが愛されたせいもあると思うが、「あの戦争は西郷さんが日本国民のわしらのためにやってくれたものだ」という感情が国民全般にあったのではないかと思えてならない。

 敗れた側を愛する感情を日本人の多くが持っている。

 だから鹿児島軍に同情的なのかといえば、それだけでは説明できないように思う。

 西郷隆盛というひとりの人間の魅力を考えざるを得ないと思うのだ。

 西南戦争自体、西郷なしでは考えられない。

 他の人間が「世直しだ」と叫んでも、あれほどの軍団を集め、政府軍と闘うことなどできなかったと思う。

 やはり西郷という人には後世の私たちからは窺いしれない大きな人格的魅力があったと私は思うのである。

 西郷隆盛のようなタイプの人物は日本には少ないように思う。

 「祐次郎のようなタイプか?」とふと思った。

 石原裕次郎の人気というのも、私はその年代ではないのでよくわからないが、母などに聞いた印象では相当なものだったようだ。

 死んでもなお、その人気は衰えない。石原軍団は今も健在らしい。

 右翼的にも見えてしまう石原軍団のことを想うと、西郷をかついだ薩摩隼人たちのことが想われる。

 政府軍と戦っても勝ち目はない。

 勝とうと思うなら戦略を立てるべきだ。

 そもそも、西郷ドンの掲げる征韓論(朝鮮を討ち、清と提携してロシアの南下を防ぐべきだという考え方)は時代にそぐわない。

 そんなマトモな意見を持つ人も鹿児島にはいた。

 しかし、彼らの意見は入れられなかった。というより、彼らは自分の意見を胸にしまったまま決起した。

 そんな意見を言えば、「イクサが怖いのか」と言われるのがわかったていたからだ。実際、西郷の下で指揮を取ることになった桐野利秋や篠原国幹にそう言われて沈黙した人がいる。

 太平洋戦争当時の日本軍を見ているようで怖くなる。統帥権を拡大解釈して国を戦争に引きずり込んだ大日本帝国軍参謀本部の体質は、薩摩隼人から受け継いだのだろうか。

 どちらも同じ「軍」だし、ひとりの人物のもとで大きな勢力を作った点も似ている。

 何より、その首領がどうやら大きな人格的魅力と影響力を持っている点が似ている。

 そう思って私は石原裕次郎のことを考えたのである。

 創価学会の名誉会長のことを考えたのも、西郷の人格的魅力に見当がつかなかったためだ。

 それに似た存在を身近で探してみたら、名誉会長や祐次郎に行き当たったというわけだ。

 しかし、西郷さんは名誉会長や祐次郎よりも遥かに巨大な「何か」を持っていたように私には思われてならない。

 この「一入院患者が見た精神病棟」の冒頭に紹介したアーネスト・サトーも、幕末に西郷に会い、その人格的魅力に惚れ込んだ。

 イギリスが徳川幕府を見限って薩摩と手を結ぶのはサトーの献言によるところが大きい。

 「一入院患者が見た精神病棟」が、「幕末歴史物語」のような「人格的魅力についての考察」のような内容になってしまった。

 そろそろ、もとの本題と内容がはっきり重なってくる。

 今回の入院中、人格的魅力や人格的迫力についてずっと考えてきた

 そんなことを考えても、直接的には退院できるわけではなく、ウツが治るわけでもなく、破綻している家計が救われるわけでもない。

 しかし、私にはどうしても必要なことだった。そう思われた。

 バケモノ院長と対決して退院するには、それが欠くべからざることのように思えてならなかったのである。

 なぜなら、この後、私はバケモノ院長から「帰すわけにはいかない」と宣告されたからである。

 この退院させないぞ宣言を受けて、私は一時、絶望感に打ちひしがれたが、しばらくして気を取り直し、

 「アイツと闘うしかない」

 ことに気付いた。

 あのバケモノ院長を排撃しなければ自分は退院できない。逃げようにも逃げられない環境に縛り付けられていた私としては、その邪魔者を取り除いて自分で自由を手にするしかないと思った。

 バケモノ院長は人格的迫力の化身とも言うべき存在である。

 それに対して私はあまりに小さく迫力がなさすぎる。

 「人格的迫力とも言うべき相手と闘うにはどうすればいいのか?」

 と、入院中に私は真剣に考えざるを得なかった。

 そこで、たまたま病室にあった「翔ぶが如く」を熱心に読むことになった。

 西郷隆盛が主人公のこの小説を読むことで、自分なりの答えを得ようとした。

 もっとも、入院前半の私の頭はまだ朦朧としていて、読むのに骨が折れた。

 ひとつの段落を数回読み返さないと頭に入らなかった。

 入院前半は長時間読みつづけることはできなかった。

 しばしば読書をやめてベッドに仰臥したまま天井を見たり、起き上がって白い壁を眺めたりした。

 バケモノ院長の顔がいきなり出現したのは、その前の段階である。

 バケモノ院長出現の衝撃も、入院2日目までの記憶でほぼ明瞭に覚えているもののひとつだ。

 病室のドアの隙間からニュッと出現したコイツの顔には本当に驚いた。

 しかし、その時点では私は彼を院長だとは知らなかった(医者だとも思っていなかった)。医者であり院長だとわかったのはその翌日くらいだと記憶する。

 そのときの大衝撃を契機に、私は「翔ぶが如く」の西郷隆盛のことを考え、創価学会や石原軍団のことまで考え込んでしまったのである。

 そんなことを考え、たとえ回答が出てたとしても、それがすぐ退院に結び付くとは思っていなかった。

 しかし、バケモノ院長との対決を避けては退院ができないと思いいたってから、ワラにもすがるような思いで「翔ぶが如く」を読み、創価学会や石原軍団のことを真剣に考えた。

 バケモノ院長がついにその全貌を私の前に現したのは、確か入院3日目の昼下がりだった。

 気が付いたときは彼が私の目の前にいた。

 私はベッドに腰掛けて白い壁をボーッと見ていた。

 だから、その眼前に白衣の大男がスッと立ちふさがるよう出現したときはギョッとした。

 バケモノ院長は雄偉な体格をしているが、意外に素早いのだ。

 「インチョーのKです!」

 と大入道は力強く言い放った。

 ウソだろ?

 私は呆気にとられて、ベッドに腰掛けたままの姿勢でフリーズした。

 インチョー?

 クミチョーだろ?

 「あなた!」

 と言うのと同時にインチョーは指差しポーズを取った右手を私の顔面に向かってスーッと伸ばしてきた。

 私は避けられなかった。

 しかし、幸いにもインチョーの人差し指は私の顔面数十センチ前でピタリと止まった。

 「またヤルね!」

 「は?」

 と私はかろうじて声を出した。

 「あなたは、また死ぬと言っているんだ!」

 とインチョーは声を荒げた。

 凄まじい迫力に圧されて私は何も言い返せなくなっていた。

 この迫力は何なんだ?

 西郷隆盛と関係あるのか?

 祐次郎や名誉会長とは?

 関係があるわけもなかった。

 インチョーはたくましく自立しているようだった。

 「わたしはね!」

 とインチョーは大きな声で言った。

 言いながら、私のベッドの前で右に左に激しく上半身を動かした。

 インチョーは柔軟でもあるようだった。

 「あなたのようなウツ患者は苦手なんです!」

 な、なんという精神科医なんだ…。

 それも院長だって?

 なんてとこに入院しちまったんだと、私は愕然としてしまった。

 「私はね、トーゴーシッチョーショー(統合失調症)とかね、まあ昔で言う分裂病だね、それと認知症、これは痴呆症だね、そういうのが専門のイシャです!」

 インチョーはまた大袈裟な身振りで両手と頭を忙しく動かしながらそう言った。

 語調は丁寧なようだが、口調がちっとも丁寧ではない。

 それがイシャ? ってことは医者?

 ま、院長だというからには医者だとは思ったけど、「イシャです」なんて名乗られると信じられなくなる。

 私は相変わらず呆然としていた。

 「ウツね! 私はない、と言うかな、怪しいな、と思ってるんです!」

 怪しいのはお前だろうが。

 そう思ったが言えなかった。

 それはともかく、なんだって?

 ウツが怪しい?

 私はないと思ってるって?

 コイツ、本当に精神科医かと私は疑った。

 ウツがどうして起きるのかのは、近年の研究でだいぶ明らかになってきている。

 そういう科学的事実を否定するつもりなのか?

 後でインチョーのこの発言をよく考えてみた。

 おそらく彼は「ウツだと言ってくる患者のかなり多くは本当はウツではないのではないか」と言いたかったのだろう。

 しかし、精神科医がそんなことをウツ患者に言うべきだろうか?

 私がよほど疑惑に満ちた顔をしていたのだろうか、彼はベッドの横の床に立ったまま私を睨みつけ、まるで空手の型でも演じるかのようにサササッと両手を素早く上下左右に振り回しては戻し、こう言い足した。

 「私だってウツ患者は診ます。一応は専門医だからね! 専門知識だって持ってるしね!」

 こんなヤツに診られるウツ患者はみんな地獄に堕ちるのではないか。

 私は身震いさえ感じた。

 「だけどね」と彼は言った。「ウツの人はみんな、私から逃げます!」

 当たり前だ。

 逃げないやつなんているものか!

 「それがなぜなのか、私にはよくわからいんですがね!」

 と言って、インチョーは上半身の動きを止めて胸の前で両腕を組み、その姿勢で右手の肘から先を真上に伸ばし、そこにごっついアゴを乗せた。

 本気で不思議がっているようだった。

 だとしたら、どこが専門医なんだ?

 その専門知識って何なの?

 「だからね!」

 とインチョーは腕組みをほどいてまた指差しポーズの右手を私の顔面めがけてスッと伸ばしてきた。

 今度は、当たりそうならかわすぞという気持ちの用意が私にできていた。

 まさか当ててくるわけなどないのだが、「まさか」と思わせるものがこのインチョーにはあるのだ。

 「あなたも逃げたいでしょ?」

 見破られた。

 私は相手の動きに注意しながら、大きな敗北感を味わっていた。

 「でも、ここからは逃げられない!」

 指差しポーズのままインチョーはニヤリと笑った。

 彼が微笑にしろ笑ったのを私はこのときはじめて見た。

 やはり海坊主だったのか。

 そう思った。

 それほど人間離れした“ニヤリ”だったのだ。

 「あんたは、きっとまたヤル! そんな患者を帰すわけにはいかないからね!」

 ゾッとした。

 こ、これは…。

 入院継続宣言であり、退院は許さないぞ宣言ではないのか?

 海坊主に睨まれながら目の力を失い、ベッドに座っているのもしんどいと感じるほど全身の力が抜けていくのを私はどうすることもできなかった。

 死にたい!

 本気でそう思った。

 こんなバケモノと出逢ったのも悪夢だが、このバケモノの君臨するこの精神病棟から出られないとしたら、それは超の付く悪夢の無間地獄と言っていい。

 「また吊りたいね? クビを!」

 と、バケモノは自分の首を右手で切る仕草をして私に迫ってきた。

 実際は上半身を少しだけ私のほうに傾けたにすぎないが、私には迫ってくるように感じられたのだ。

 こ、こんなことを患者に言っていいのか?

 こんな精神科医がいていいのか?

 院長なんてやらせといていいのか?

 そんな疑問が湧いてきたが、コイツがいる限り退院させてもらえないと思うと、絶望感に打ちひしがれてしまい、私はなすスベもなくうなだれるしかなかった。

 彼が最後にどんな言葉を放って病室から去ったのかは覚えていない。

 とにかくバケモノが去って私は朽ち木が倒れるようにベッドにへたり込んだ

 かすかな記憶では、ほとんど半日、私はそんな具合でほぼ死んでいた。

 ただし、頭の中は働いていた。

 インチョーが去った直後は敗北感と絶望感で何も考えられなかったが、しばらくすると、このままではまずいと焦り出し、何とか早く退院する方法はないかと頭が回転しはじめたのだ。

 少しでも早く退院しなくては入院費がかさんで家計を圧迫する。

 それを防ぐことしか私の頭にはなかった。

 そのためには…。

 「アイツと闘う以外にない!」

 そう決心し、ではどう闘えばいいのかを、ずっと考えつづけたのだ。

 私とバケモノ院長との対決のゴングはこうして鳴り響いた


★メプチンを捨てるな!

 バケモノ院長が2度目に私の病室に現れる前に、私はすでに看護婦さんから「しばらく入院しましょうね」と言われていた。

 その時点で私はガックリと気持ちが折れた。その日、入浴日だった。看護婦さんに「入浴しますか?」と聞かれたが、私は「しません」と答えた。もう何もやる気がしなかった。退院できないのならもう終わりだと落ち込んでいたのである。

 その翌日にバケモノ院長から「帰すわけにはいかない」と宣告され、私はトドメを刺されたカエルのようにベッドの上に倒れ込んでしまった。

 そんな私が「何とか早く退院する方法はないか」と考え出したのは、早く退院しないと家計を圧迫するという恐怖観念があったからだと思う。

 実際、私は怖かった。

 何よりも、入院費が増すことで妻の機嫌が悪くなるのが一番怖かった

 自殺未遂をした日もその翌日も入院した日も、妻の機嫌は良くなかった。

 夫に自殺されて機嫌の良くなる奥さんはあまりいないだろう。

 しかし彼女の場合、それだけで機嫌が悪かったのではない。

 自殺の原因が自分にあることを察していた彼女は、今回の自殺未遂を自分に対する私の嫌がらせだと思っていたふしがある。

 私の収入が減ってからの妻の態度はガラリと変わった。

 対して私は妻に対する劣等感や罪悪感を必要以上に感じるようになり、妻の様子を上目でちらちら窺うような情けない夫に堕ちていった。

 そして近年は妻に対して卑小とも言える態度を取るようになり、それを見る妻は苛立を募らせ、ときには爆発するようになった。

 彼女が爆発すると私は縮み上がってフリーズしてしまうようになった。

 彼女の機嫌がちょっと悪いだけで敏感に察し、それだけで私はウツ気分に陥るようになった。

 今では彼女の機嫌が悪化すると条件反射的に私は暗黒のウツ気分に堕ちる

 そんな気分になれば、これまた退院させてもらえないかもしれない。

 そうしたらますます入院費がかさみ、妻の機嫌はいよいよ悪化する。

 そんな悪循環にはまったら抜け出せなくなる。

 そのためにも早く退院しなくてはと、私は焦りまくっていたのだ。

 退院するためには、この病棟を支配しているインチョーを納得させなければいけないことに気付いた。

 しかし、どうすればアイツを納得させられるのか。

 尋常一様なことでは納得させられないと思った。

 「アイツと闘う以外にない!」と決意したのはそのためだ。

 逃げずにアイツと立ち向かい、アイツを打ち負かすしかないと思った。

 そうすればアイツも退院を許さざるを得ないだろう。

 「よし!」と私は、まず体力作りに励むことを決めた。

 弱り切った今の体力では、アイツの強烈な圧迫感に耐えつづけるのは無理だと思ったからだ。

 それに、運動をすれば体の新陳代謝が活発になるので、たくさん飲んだ薬を少しでも早く体外に出せるはずだと思った。

 薬がまだ残っていると判断されれば、やはり退院させてくれないだろう。

 こうして私は、入院4日目くらいから運動をしはじめた。

 運動をするのは便を早く出すためにも効果的だろうと私は思った。

 実は、入院4日目を迎えても私は便秘していた。自殺決行日から数えるともう6日も経つのに少しのウンコも出ていなかった。出そうな気配もなかった。

 私はほぼ年中下痢をしている過敏性腸症候群である。便秘なんてほとんど経験がない。6日も便秘したのは初めてのことではなかったかと思う。

 自殺決行日の朝、強い下痢止めを大量に飲んだ。首を吊ったら肛門が開いて便が出ることが多いと本で読んだので、できるだけそれを防ぎたいと思ったからだ。

 入院3日目に看護婦さんは、「もう5日目ですからね、下痢止めの薬の効果は消えているはずですけどね」と首をひねりながら言った。

 丸っさらしのトイレではウンコなんかできないという思いが、私を便秘にした面もあるのかもしれない。

 いずれにしても、運動をすることは、便秘の改善にも悪いことではないと思った。

 まずはベッドの上でできる柔軟体操をしっかりやり、腹筋や腕立て伏せを少しして体がほぐれてきたら、次にベッドから立ち上がり、冷たい床の上でさまざまな運動をした。

 幸いにも病室は6畳ほどあるのに小さめのベッドと便器しか置かれていないので、例えば回し蹴りのような運動をするのにも十分なスペースがあった。

 病室で回し蹴り?

 と驚かれるかもしれない。しかし、ある程度激しい運動をしなくては効果が少ないと思った私は、敢えて少し無理をしたのである。

 床の上でも屈伸やアキレス腱伸ばし等の柔軟体操をみっちりやった。運動をしてアキレス腱を切って今度は整形外科に転院になったなんてことになったら笑い話で済まなくなる。

 合気道教室に通っているので、合気道の基本練習みたいなこともした。

 しかし、それでは物足りないと思い、ずっと大昔、高校のころに習った空手の基本稽古のようなこともした。

 突き、そして蹴りを一通りやり、うろ覚えの型をやってみたりした。

 あとは、正面に敵がいると想定し、合気道のような動きで捌いてみたり、空手のような動きで受けたり蹴ったりした。イメージトレーニングのようなものだ。

 ときには左右にも後ろにも敵がいると想定して動いてみたりもした。

 想定する敵は、もちろんのこと、アイツである。

 何しろアイツは神出鬼没で、いつどこでどのように出現してくるかわからない。

 4人を相手に闘うスベを自分のものにしなくてはいけないと私は本気で考えていた。

 ところが!

 やりすぎた…。

 2日目で私は喘鳴を起こし、たまたま通りかかった看護婦さんに助けを求めた。

 しかし、驚くべき事態が私を待っていた。

 ここは精神病棟であるせいか、喘息のことをよく知らない看護婦さんしかいなかったのである。

 私が「メ、メプチンをく、くださいと、息苦しいのに耐えてやっとそう言うと、看護婦さんは「あ、メプチンね。待ってて」と言って病室から出ていったものの、なかなか戻ってこない。

 メプチンというのはスプレー式気管支拡張剤だ。これを吸うと一時的だが気道が広がって呼吸が少し楽なる。

 必死に喘鳴を押さえていたが、発作が始まる気配を感じて私の焦りは最高潮に達しようとしていた。

 我慢しきれなくなった私は勝手に病室を抜け出し、ナースステーションまで少しずつ歩いた。

 今にも発作になりそうで怖かった。

〈メプチンエアー〉


 と、ナースステーションなのに看護婦さんがない。

 「これかしら~?」

 という声が後ろから聴こえてきた。

 振り向くとさっきの看護婦さんだった。手にはピークフローメーターを持っている。

 「メプチンってこれ?」

 と看護婦さんは私に聞いた。

 「あなたの持ち物探したんだけど、それらしいのってほかになかったんですけど…」

 私は言葉を発することさえできないほどに固まってしまった。

 その看護婦さんは年輩の方で、相当な経験を積んでいそうに見えた。

 そんな経験十分の看護婦さんが、なぜメプチンを知らない?

 ピークフローメーターを見たことないの?

〈ピークフローメーター(ミニライト)〉

 実は、入院した日から、「ここの看護婦さんや看護士さんたちは喘息の薬のことをあまり知らないな」と私は感じていた。

 妻がウチから持ってきてくれていた薬は、吸入ステロイド剤のフルタイドエアーと長期間持続型気管支拡張剤のセレベントだった。

〈フルタイド(エアー)〉

 看護婦さんたちはセレベントのことは知っている様子だった。少なくとも見たことはあるという顔をしていた。

 しかし、フルタイドエアーについては、私が見た限りでは「初めて見た」という顔をしている看護婦さんが多かった。スペーサーにいたっては、「何ですか、この透明な容器は?」と私に聞いてくる始末だった。

 私の使っているのは古いスペーサーなので、新人の看護婦さんなら知らないのも仕方がない。しかし、その看護婦さんはベテランだった。

〈スペーサー(ボルマチックハード)〉

 毎朝、毎晩の吸入のとき、私が吸入する様子を不思議そうに見ている看護婦さんもいた。

 「見て覚えておいてください」と言うつもりで、私は模範的な吸入をするよう心がけた。フルタイドエアーをしっかり降り、しっかり息を吐いて、スペーサーの中にフルタイドエアーを噴霧し、スペーサーをくわえてゆっくりゆっくり吸う。その動作を繰り返した。

 ただ、吸入ステロイド剤の吸入の後にうがいが必要なことはどの看護婦さんも知っていたようだった。

 吸入の後は、「次はうがいですね」と言って私を洗面所まで伴い、私がうがいするのを待ってくれた。

 入院中、私はピークフローメーターを吹いてピークフロー値を計測することはしなかった。

 入院5日目までは、妻が持ってきてくれていることを知らなくて吹かなかった。

 喘鳴が出てナースステーションまで歩いたとき、私の持ち物を調べて看護婦さんがピークフローメーターを持ってきたとき、「ああ、持ってきてくれていたんだ」と初めて知った。

 その後、ピークフローメーターを毎日吹くべきだったなと今は思っている。

 いくら精神病棟に勤める看護婦さんでも、喘息の人が入院してくることだってあるわけなので、喘息とその治療についての基本的な最低限の知識は持っていてほしいと思うからだ。

 しかし、このときはもうガッカリしてガクゼンとしてしまって、ピークフローメーターどころではなくなった。

 私はナースステーションでかがみ込んでしまった。

 「そ、それなら…」

 と私はやっと言った。

 「セレベントを吸わせてください」

 セレベントなら毎日吸ってる薬だからすぐ用意してくれるだろう。そう思ったし、どうやらここではそれしか方法がないようだった。

 セレベントは気管支拡張剤だが、効いてくるまでに30分近くかかる。だから今にも発作が出そうなそのときには不適な薬なのだが、吸えばすぐ効くスプレー式気管支拡張剤のメプチンがないのでは仕方がない。

〈セレベント(ディスカス)〉


 看護婦さんは、「セレベントね。待ってて」と言って、ナースステーションの奥に歩いた。そこに、入院患者の使う薬が患者別にトレーに入れて置いてあった。

 看護婦さんは私のトレーをそのまま持ってきた。私は立ち上がってその様子を見ていた。すると、私のトレーの近くのトレーに、セレタイドディスカス(フルタイドとセレベントの合剤)が入れられているのが見えた。私のほかにも喘息患者が入院しているのだ。

 吸ステの吸入後にうがいが必要なのを知っているのはそのせいかな?

 苦しい中で私はそんな意地悪いことを考えていた。

 やっとセレベントにありついて私は2度続けて吸った。

 セレベントには筋けいれんという副作用があり、私は1日2吸入すると手足の指がかなりの確率でツル。それを防ぐために1日1吸入しかしていなかったのだが、このときは発作になる危険を感じていたので、筋けいれんのほうがマシだと思って2吸入もしたのだ。

 「これも吸います?」

 と看護婦さんはフルタイドエアーを指差した。私は首を振った。「それはすぐ効く薬じゃないんですよ」とよほど言おうかと思ったが、苦しくてそれどころではなかった。声を出すとそれが引き金になって発作になりそうだった。

 しばらくしたら、喘鳴が少し弱まってきた。

 私は立ち上がり、「セレベントが効いてくるまで部屋で休みます」と言って病室に戻った。

 病室に戻ってベッドに腰掛け、その姿勢でセレベントが効いてくるのを待った。

 こんなときは横になると余計に悪い。横になると自律神経が切り替わるのか、私の経験では横になった途端に喘鳴がひどくなったり発作になることが多い。だから私は座って待った。

 心配して看護婦さんが見にきてくれた。

 「30分しないと効かない薬なんで、そのくらい経ったらフルタイドを吸わせてください。そうじゃないと吸入効率が下がるので吸入が無駄になりますから」と私は言った。

 これで察してほしいという願いを込めてそう言った。

 その看護婦さんがもしセレベントとフルタイド、つまり吸入ステロイド剤と気管支拡張剤の使い方を知らないのなら、ここでお覚えてほしいという思いが私にはあった。しかし、喘鳴が出ている状態ではそんなに長くは話していられなかった。

 やがてセレベントが効いてきて私の喘鳴はおさまった。

 この日かその翌日、妻が見舞いにきてくれた。

 そのときにこの喘鳴騒動のことを話すと、「メプチン? メプチンなら持ってきてあるよ」と言う。

 私が怪訝な顔をしていると、行動的な彼女はすぐナースステーションに走った。看護婦さんと看護士さんに何か話しているのが聞こえた。

 ずいぶん長いこと妻は何やら話していた。

 しばらくして病室に戻ってきた妻から、衝撃の事実を知らされた。

 「メプチンね、捨てたんだって」

 と妻は言ったのだ。

 「え!」と私は驚いた。「なんで?」

 「使用期限が切れていたんだって」

 「は?」

 「古い薬だからって捨てたらしいよ」

 私は絶句してしまった。

 確かに私の使っているメプチンは古い。しかし、ちゃんと効いてくれる、ベロテック(副作用の強いスプレー式気管支拡張剤)ほどではないけれど。

 それを捨てるなんて!

 捨てるなら所有者である私にことわってからにしてよ。

 それはいいとしても、発作が出たり出そうになったらどうするつもりだったの?

 ナースステーションにメプチンさえない病棟なのに、どうすんの?

 入院患者には喘息患者もいるのに、何なの、ここ?

 「信じられない…」

 と私がつぶやくと、妻がこう続けた。

 「メプチンが必要なら内科で処方してもらってくださいだって」

 「信じられない」

 と私はまたつぶやいた。

 そんな悠長なことをしていたら喘息患者は死ぬよ

 怒りさえ沸いてきた。

 しかし、しばらくして冷静に考え、これは喘息薬に限ったことではないなと気付いた。

 精神病棟にばかり勤めていれば、精神疾患以外の病気のこともその薬のこともすべて不足なく覚えておくのは現実的には無理なのだろうと思った。

 学校では教えられるだろうけど、それはおそらく基本知識の域を出ないのではないか。本物の知識として身に付くのは、実際に現場に出てからだろう。その現場が喘息とはあまり縁のないところなら、メプチンとその重要性を知らない看護婦さんや看護士さんがいるのも仕方ないのかもしれない。

 まして、喘息の原因が気道粘膜の慢性炎症にあるという事実がまだ知られていなかった20年以上も昔に看護学校を出た人なら、メプチンどころか吸入ステロイド剤さえ知らなくても不思議ではない。

 今回の入院中、このことについてもずいぶん考えさせられた。

 解決法についても考えてみた。

 教育しかないと私は思った。

 いろいろな病気についての最新医学知識と最新治療法を看護婦さんや看護士さんたちに教えるのである。

 各病院でそれができればいいのだろうが、病院はどこも忙しくて人手不足のようなので、病院ごとに教育時間を割くのは難しいかもしれない。

 それに、例えば精神病院なら精神科の医者や看護婦さんしかいないだろうから、他の病気について教えるだけの知識を持つ人がいないことも考えられる。

 だとすれば、どの科のどういう医療関係者に対しても教育できる機関か仕組みのようなものを作ればいい。

 毎年数回、各地で大規模な医療講習会みたいなものを開く。いくつかの分科会に分けてもいい。そのほうがいいかもしれない。

 例えば「喘息の最新治療」「精神疾患の科学的考察」「ガン患者との接し方」「胃潰瘍の最新治療薬」「レーザーメスの使い方」といった講習をひとつの建物の中で一斉に開く。

 受講者は、自分に足りない知識の補充や最新知識の導入を目的に、細かく分けられた講習のどれかを選ぶ。各講習を1日に繰り返し開くようにし、ひとりの人が1日に何種類もの講習を受けられるようにする

 そういう講習会を全国的各地で定期的に行うのだ。

 医療機関は、自分のところに勤めている医師や看護婦、看護士等を、順番にその講習会に送る。春の講習会にAさんを出し、秋はBさん、来年の春はCさん、という具合だ。

 講習会の日には勤務する人がひとり減るわけだが、たった1日であればそれくらいは何とかなるはずだ。

 人手不足でそんなことできないよと言ってはならない。医療従事者であれば、それは最低限の義務と考えるべきだと思う。

 おそらく多くの医療従事者は私と同じようなことを考えているのではなかろうか

 最新の医療知識を得たくてもその機会を持てない。その種の講習会があっても忙しくて行けない。

 そういう医療従事者が多いと思う。

 この事態を放っておくのは問題である。

 基礎的なミスで死人を出さないためにも、医療関係者には真剣に考えてほしい


★アチョーとインチョーとカンチョー

 喘鳴を起こしてしまったが、早く退院しなくてはとそのことばかりが頭にあった私は、次の日もその翌日も体力作りに取り組んだ。

 病棟の朝は早い。

 午前4時くらいになると、ナースステーションのほうからガチャガチャガサガサと音が聞こえてくる。当直の看護婦さんや看護士さんたちが、朝の検温の準備に取りかかる。5時になると検温のため各病室を順番に回りはじめる。

 私は毎日、ほとんど眠れなかったので、朝のこの時間帯はだいたい起きていた。

 看護婦さんや看護士さんが検温をしに病室を訪れる。

 私の朝の体温はだいたい34度台だった。

 私の平熱は35度半ばなので、いくら早朝でもこれは低すぎる。寝ていないことが多かったので、寝起きというわけでもなかった。だとしたら34度台というのはひどく低くはないか。

 しかし、いつも何も言われず、検温は済んだ。検温時には血圧も測り、前日の便のことを聞かれる。

 血圧も低かった。どのくらいだったのかよく覚えていないが、「え、それしかないの?」と思うような値だったことも多い。

 便については、小はかなりの回数が出ていた。入院前半は20回くらい出ていた。なぜそんなに出ていたかはわからない。

 大は相変わらず出ていなかった。「大のほうは?」と聞かれて、「ゼロです」といつも答えた。

 ちなみに、私は仕事に熱中したりするとどんどん体温が上がってくる。

 一度、口にくわえて測る体温計を持ってタクシー運転手の仕事をしてみた。1時間おきぐらいに測ってみると、出勤直後に35度台後半だったのが少しずつ上がりはじめ、最も忙しい夜の12時を過ぎたころには何と38度近くになった。

 平熱が35度台なのに38度近くまで上がると、熱があると自分ではっきりわかる。しかし、何度くらいまで上がっているのかそれまでわからなかった。それがこの日、判明したわけだ。

 そんな私なのに、しかし入院中は激しい運動をしても「熱が上がった」と感じたことが一度もなかった。不思議である。

 それはともかく…。

 便秘解消のためにも運動をしなくてはと、朝の検温の度にそう思った。

 検温が済むと私はベッドの上で柔軟体操を始める。

 眠れなくて検温が待ちきれないときは検温の前から運動を始めた。

 ベッドで座ってできる柔軟体操を念入りに行い、腹筋と腕立て伏せを行う。

 ベッドから降りて床に立ち、立って行う柔軟体操をじっくりとやり、次いで軽い運動に入る。

 朝は運動を控えめにした。

 ときどき休んでは鉄格子の前に立ち、その先の窓を通して見える外の景色をながめたりした。

 窓は南西のほうを向いているようで、朝日を見ることはできなかった。

 前方にとても大きな建物がある。

 初めのうちは何かの工場なのだろうと思っていたが、ラッパの音が聴こえてくることを知ってから、もしかすると自衛隊の建物かなと思った。

 そのうち、その大きな建物の脇に自衛隊のジープが整列しているのを発見し、やはり自衛隊の建物なのだとわかった。

 しかし、陸上自衛隊であんなに大きな建物を何に使っているのだろうかと疑問を感じたりした。

 ちょっと見には飛行機の格納庫にも見える。陸上自衛隊だからそうではないだろう。としたら、いったい何に使う建物なのか?

 北朝鮮からミサイルが発射されてもすぐ探知できず、もちろん迎撃もできない自衛隊は、何のためにあるのだろう?

 あんなデカイ建物を作って、ホントに必要なものか?

 そんな意地悪い見方をしたりする。

 そのうちに朝食の時間になる。

 病院の朝食はなぜこんなに早いのだろう?

 病室に時計がないのでよくわからなかったが、おそらく7時前には運ばれてきた。ひょっとすると6時半くらいだったかもしれない。

 朝の検温からそれほど経たないで朝食が運ばれてくるという印象が私にはあった。

 その味がまっずい

 病院の食事がまずいというのは一般的な常識になっていると思う。

 なぜ、まずいんだろう?

 食べるごとに私は考え込んでしまった。

 たぶん、うまい食事を出す病院もどこかにあると思う。しかし、大多数の病院ではそうなっていない。

 努力してもできない壁のようなものが病棟の調理室にはあるのではないかと思った。

 例えば予算、例えば人員。その限られた中で、必要十分な栄養を備えたメニューを作るのは困難なのだろう。

 それとも、必要十分な栄養を備えたメニューを作ろうとすれば必然的にまっずくなるのだろうか?

 私は食べ物の好き嫌いが多いので、おかずはほとんど食べられなかった。

 味噌汁もあまり飲めなかった。ここの病棟の味噌汁のダシが私にはひどく変な味に感じられて、そのため味噌汁を飲むのも相当我慢して飲まないと飲めなかった。

 総菜にも味噌汁のダシと似た臭いや味のするものが多かった。おかずをほとんど食べられなかったのはそのためもある。

 しょうがないから、ご飯だけを食べることになる。おかずなしで大盛りのご飯を食べるのはなかなか大変だった。

 「おいしいッ!」と感激していただいたものが一品だけある。朝食にときどき付くジュースだった。グレープやアップルのジュース。これは、まずくしようにもできないだろうし、たぶん市販のものをそのまま使っているのでおいしかったのだろう。

 朝食を終えたら、ベッドに寝転んで読書をする。

 司馬さんの「翔ぶが如く」だ。

 入院後半に、西郷さんが死んだのが52歳だったことを知る。私と同じ歳だ。

 私は死に損ねたけど。

 食事を終えてしばらくすると歯磨きの時間になる。

 勝手に洗面はできないので、歯を磨きたくても看護婦さんやヘルパーさんが来るのを待たなくてはならない。

 たいていは看護婦さんたちが歯ブラシとコップを持って病室に来てくれる。

 そしたら洗面所まで同行してもらって歯磨きをする。

 歯磨きさえ監視されているようで、どうもなじめなかった。

 読書していると、ナースステーションのほうから忙しそうな声が聞こえてくる。

 8時前後くらい(時計がなかったので不正確。以下同じ)になると、看護婦さんや看護士さん、それに介護士さんやヘルパーさんたちがナースステーションに集まり、前夜の当直から引き継ぎが行われる。

 この引き継ぎの責任者はだいたい看護士さん(男の看護婦さん)のようで、看護士さんによって様子がまったく違う。

 明るくてハキハキしゃべる看護士さんのときは大きな声の引き継ぎ事項などが聞こえてくる。声の低い看護士さんのときは当然ながらあまり聞こえない。

 不思議だったのは、声の大きな看護士さんのときは引き継ぎ作業が念入りに行われるようで、要する時間が長いことだった。声の低い看護士さんのときは、そんなに時間がかからずに引き継ぎはすぐ終わるようだった。これはこの病棟だけの特徴なのかもしれない。

 引き継ぎが終わると、看護婦さんと看護士さんは投薬のため病室を回り出す。介護士さんやヘルパーさんたちは、掃除や布団カバーの交換のため病室を回りはじめる。

 病棟ではこの時間帯が最も忙しいようだった。

 看護婦さんが「薬の時間ですよ」と言って病室に入ってきたら、私は読書をやめて立ち上がる。

 まずセレベント(気管支拡張剤)を吸い、それからフルタイドエアー(吸入ステロイド剤)を吸入する。

 ここの看護婦さんたちは喘息の薬をあまり知らないようだと感じてからは、この吸入を私はきちんとやった。やってみせた。

 本当はセレベントを吸って30分くらい経ってからフルタイドエアーを吸いたかったのだが、忙しそうなのにそんな二度手間をかけては申しわけなくて、やむなくセレベントを吸ったら、続けてすぐフルタイドエアーを吸った。

 フルタイドエアーを右手に持ってシャカシャカとよく振り、同時に息をフゥーーーッと吐いていく。スペーサーを左手に取って、その後ろの口にフルタイドエアーの吸入口を差し込み、シュパッと噴霧する。息を吐ききったところでスペーサーの吸い口をくわえ、ゆっくりゆっくり吸っていく。

 吸い終えたら息を止め、10秒くらいそのまま我慢する。

 ここでうがいをすべきだが、病室内に洗面所がないので、うがいをするとすれば廊下に出て洗面所(といっても鏡はない。ただの洗い場のようなところ)まで歩かなくてはならない。そしてまた病室に戻ってもう1吸入するのが正しい手順と言えるが、これも私の遠慮からできなかった。1吸入したら、またすぐ次の吸入を行い、2吸入終わったらうがいに走った。

 病室の外にひとりで出るのは原則的に許されていないらしく、うがいのときは看護婦さんが洗面所までついてくる。

 こうして朝の「薬の時間」は終わる。

 介護士さんやヘルパーさんたちが入ってきて、床やトイレの掃除をしてくれる。

 病室はたくさんあるので、みんなとても忙しそうだ。

 彼らは廊下を走って移動する。

 そんな慌ただしい状況の中、私は朝の運動の続きを行う。

 今度はちょっと激しい運動もする。

 中段正拳突き、上段正拳突き、上段肘打ち、上段受け、中段受け、下段受け、下段回し蹴り、中段回し蹴りとつないでいき、前回し蹴りから体を回転させて後ろ回し蹴りにつなぐ。中段回し蹴りから後ろ蹴りに変化させたり、そのときの気分により技を変える。

 病室のドアは常時開いているので、廊下を通る人から私のその様子は見えたはずである。

 でも、止められたりはしなかった。

 「ブルース・リーかジャッキー・チェンみたいな動きで変なことやってる患者」という目で見られていたかもしれない。

 カンフーじゃないよ、空手だよ。アチョーじゃないよ

 しかし、運動を終えた後に中腰になって両手を上げ下げしつつ深呼吸をしたり、スクワットを途中でやめたような変な姿勢のまま立ってもいたので、そんな姿を見た人は「やっぱりカンフーね」と思ったかもしれない。

 実際、私のやっていた深呼吸は中国拳法のやり方だったし、スクワットを途中でやめたような変な姿勢のまま立つのは立禅といって、中国拳法の足腰鍛錬法なのである。

 そのほか、寸勁の練習などもした。これはもう完全に中国拳法だ。

 「アチョーやってる」と思われたかもしれない。

 このころ、私は入院初日のひとつのシーンをほぼ明瞭に思い出していた。

 「一日も早く薬を体の外に出さなくちゃ」

 そういう思いもあって運動をするようになったのだが、それは誰かから「薬がまだ残っているうちは退院は難しい」と聞いたからだった。

 しかし、その誰かが誰なのか、入院して数日間、私には思い出せなかった。どこで言われたのかも思い出せなかった。

 それがこのころになるとわかってきた。

 入院日の午後(だったと思う)、診察を終えた主治医のI先生が病室を訪れたのだ。

 私はベッドに腰掛けていた。その横に妻がいた。

 I先生は小さなスツールをどこからか持って病室に入ってきた。

 細かな問答までは覚えていない。

 その中で先生は「薬がまだ残っているうちは退院は難しい」と言ったのだ。

 おそらく私か妻が「退院できるのはいつですか?」とでも聞いたことに対する返答だったのだと思う。

 その後、先生は私を床に立たせ、前から押したり横から押したりした。

 薬のせいでフラフラ状態の私は、それだけでよろめいた。

 その様子を見て先生は、確か何も言わずうなずいていた。

 薬がまだ残っていると確認したのだろう。

 先生のこのときの言葉と行動が私の記憶に残っていて、だから退院するためには体の新陳代謝を活発にさせないとダメだ、そのためには運動をしよう、それで便秘が治れば薬の体外排泄がいっそう進むと、そのように私は考えたのだ。

 それと、このときの会話で妙にはっきり思い出したのは、私の症状について先生が妻に説明するシーンだった。

 「AICHANさんのウツは」と先生は説明した。「一般的なウツとは違うんですね」

 「何が違うのかと言いますと」と、I先生はいつもの丁寧な態度と口調で続けた。インチョーとはえらい違いだ。

 「まず、AICHANさんには抗ウツ剤が効きにくいことですね」

 「ええ」と妻がうなずいた姿を覚えている。

 これは本当だ。私はウツ治療のため抗ウツ剤のパキシルを1年以上飲んだが、効いているという実感はついに得られなかった。別の抗ウツ剤に変えるために減量中にウツが晴れて一時的に寛解したので、もしかすると抗ウツ剤は効かなかったどころかかえってマイナスだったかもしれない。

 「それから、ウツでも仕事に出れば人以上の働きができたという点ですね」

 そうだった。やろうと思えばルール無用のタクシー運ちゃんにもなれた。

 「あとは、ご自分のことなどについて、かなりきちんとお話しできることです」

 そうだ。そんなことも言われた。

 ということは、普通のウツ患者はルール無用のタクシー運ちゃんになってシャカリキに仕事するなんてことは難しいのだろう。

 また、自分の状態などについてうまく話せないことが多いのだろう。

 であれば、と私は思った。

 シャカリキに仕事できるぞという雰囲気を身に付け、自分のことについてきちんと話せるようになれば、あの怪物インチョーから退院許可をもらう上で有利だと私は考えた。

 たから私は、かなり激しい運動を敢えてしたわけだ。

 足腰を鍛えるような運動をみっちりしたのは、押されてもぐらつかないようにするためだ。

 もう52歳にもなるので、薬なんか飲んでいなくても押されればぐらつく。そんな姿をさらしては、あのインチョーを納得させることはできない。

 薬が抜けていなくても体がぐらつかないようにするため、ともかく足腰を鍛えようと私は焦っていた。

 疲れれば休んだ。

 時間はたっぷりある。

 ベッドに横になったら、自分の今の状態や退院後の構想などについて他人にきちんと話せるように頭の中を整理した

 こうして午前中は過ぎていく。

 昼食も言うまでもなくまっずい。

 まずい昼食後はベッドに寝転んで読書。

 そんなとき、アイツは現れる。

 「クビっ!」

 などと言っていきなり病室に入ってくる。

 「まだ吊りたい?」

 その素早さと神出鬼没さはほとんど物の怪(け)である。逆に書くと怪物。

 「まだ死にたいか?」

 そんなことを太い声で言いながら、自分の太い首を右手で切る仕草をしたり両手で締めてみたりする。

 ホントに医者か?

 インチョーだなんてウソだろう?

 私でなくてもそう思うに違いない。

 「あ、まだ死にたいね、あなた!」

 などと勝手に決め込み、私が何か言おうとすると、もう消えている。

 妖怪変化の存在を私は信じはじめていた。

 午後も運動をした。

 汗が吹き出た。

 風呂に入れないので気持ち悪かったが、それよりも私は早く退院することばかり考えていた。

 喘鳴騒動の翌日も軽い喘鳴が出た。

 メプチンがないので内心はビクビクで運動を続けた。怖くてもそうしなければならないという気持ちが先に立ち、運動をやめることなど思いもよらなかった。

 朝の薬の時間にセレベントを2吸入した。そんなことをしても発作が出るときは出るのであり、出てしまったらセレベントを吸っていてもどうしようもない。だから気休めにすぎなかったが、吸わないよりはマシだろうと思ったのだ。

 午後5時くらいになると夕食だ。

 これまた私にはあまり食べられない。

 大半を残して夕食終了。

 歯磨き時間を終えると、間もなくの時間になる。

 私はスペーサーとフルタイドエアーを手に取って、見本的な吸入をする。

 ピークフローメーターを持ってきてあると知ってからはピークフローメーターも吹こうかなと思ったが、そこまですると何だかイヤミたらしいような気がしてやめた。

 私は遠慮深い性格なのである。

 ある日の薬の時間だったかに、優しい看護婦さんが私の病室を訪れた。

 「便が出ていないそうですね」と彼女は心配そうな口調で言った。

 私がうなずくと、「おなかがゴロゴロすることもありませんか?」と聞いてきた。

 それもないと答えると、「じゃ、仕方がないから下剤の座薬を打ちましょうか」と言ってきた。

 私は「お願いします」と言った。それで便が出るのなら助かる。体に残っている薬も出てくれるかもしれない。

 それで座薬を打ったが、出てきたのは小さめのミートボールのようなヤツが2、3個だけだった。しばらく待ってもそれ以上は出なかった。

 「もう1週間近く出ていないわけですから、このまま放っておくと大変ですね」と看護婦さんはいい、浣腸することを私に勧めた。

 私は従った。何でもいいからウンコが出てくれればそれでいい。

 ところが、浣腸してもミートボール大のヤツが数個出ただけだった。

 カンチョーでもダメか。

 ガ~ンと打ちのめされた。

 しかし、その翌日、タイワンバナナ大のヤツがスルッスルッスルッと何と3本も一気に出た。

 気持ちよかったぁ~。

 その翌日もタイワンバナナが出た。またまたスルッと出た。

 そのまた翌日にもタイワンバナナがするりと出た。

 過敏性腸症候群で年中下痢をしている私にとっては奇跡的なことに、この入院中、私は一度も下痢をしなかった。

 便秘はしたが、あとは信じられないくらいの快便が続いた。

 まったく信じられなかった。

 さて、夜の薬の時間がが終わると、あとは退屈な夜の時間になる。

 妻や子供たちが見舞いに来てくれるのは、だいたいこの夜の時間だった。

 一度、妻が夜の9時過ぎに見舞いに来ようとした。面会は夜の8時までと知った上でのことで、しかも彼女は9時過ぎに病棟に電話をかけてきて、「これから面会に行きたい」と看護士さんに掛け合ったという。その時点で彼女はまだ病院に着いていない。これから行くから面会させろという要求をしてきたわけだ。

 これには看護士さんもだいぶ弱ったらしい。妻はそれが当然の権利だとでも主張するかのように「面会に行くから会わせてほしい」と執拗に頼んだ。看護士さんは「面会は8時までと決まっているので」と言ったそうだが、彼女はこう言ったそうだ。

 「じゃ、8時までに行けない人は何時に行けばいいんですかッ!」と。

 この剣幕に圧された看護士さんは、どうやらこのことをインチョーに報告したらしい。

 後日、「あなたの奥さん、相当の迫力があるんだってね?」とインチョーに言われたのだ。

 インチョーはちょっと尻込みしたような口調でそう言った。

 あのインチョーを少しとはいえビビらせるとは、さすが我が妻である。私がかなうはずがない。

 この面会も終わると、「ああオレは入院してるんだな」と思わざるを得ない暗い病室の雰囲気に包まれる。

 消灯は9時か10時くらい。どっちにしても早い。

 夜間に運動しては目に付くし、音が立って他の病室の迷惑になると思い、夜の運動は慎んだ。

 となると、ベッドで寝るか瞑想でもするしかない。

 私はときどきベッドの上で座禅を組んで瞑想した。

 読書したかったが、消灯されてしまってはそれもできない。

 もっとも、入院後半には小さな懐中電灯を妻に持ってきてもらい、それを密かに隠し持ち、夜間、掛け布団の中で懐中電灯を照らして本を読んだ

 我ながらバカみたいだなと思ったけど、退屈を凌ぐにはそれが一番よかった。

 入院中、私は一度も熟睡できなかった。

 初日と2日目はどうだったか覚えていないが、それ以外の日はほとんど眠れなかった。一睡もできない夜もあった。

 だからといって昼寝もできず、4日か5日くらい、私はほとんど不眠で通した。

 そんな私にとって懐中電灯は、文明の利器という以上のありがたい存在になった。

 眠れなかったのは、早く退院しないと大変なことになるという恐怖でとても寝てなどいられなかったからだ。

 私はもともと寝付きが非常に悪い。近年は手足が異様に痺れ、またダルくなるようになり、それが気になって寝付けない日も増えた。

 もっとも、この入院中は、手足の痺れやダルさをあまり感じなかった。

 なぜなのかは謎だが、とにかく手足の痺れやダルさで寝付けないということはなかった。

 暗い病室の中で眠れないまま時を過ごすのはかなりの苦痛だった。

 時計がないので時間がわからない。いま何時なんだろうかとしょっちゅう気になった。さっきからどれくらい時間が経ったんだろう。朝まであとどれくらい時間がかかるのだろうかと、そんなことばかり考え、余計に寝付けなくなっていくのだった。

 その点、精神病棟はいくらか救いになったかもしれない。

 夜の精神病棟は結構と賑やかなのだ。

 病棟がシーンとしていることは少ない。

 看護婦さんや介護士さんたちが忙しく動いているためだけではない。

 患者がうるさいのである。

 統合失調症(以前は精神分裂病と呼ばれていた)と認知症(以前は痴呆症と呼ばれていた)の患者がたくさんいるようで、彼らが常に声を出すか音を立てていた。

 けれどもそういうことは、気にはなったけど、眠れない要因にはならなかった。

 それでも私は眠れなかった。

 せめて時計があってくれたら、気持ちが少し落ち着いて、ちょっとは眠れたように思うのだが。

 ちなみに、精神病棟なのに認知症の患者が多いのに私はかなり驚いた。認知症の人は介護関連の施設に入るものだとばかり私が思っていたからだ。

 そのことを看護士さんに話したら、認知症の患者が増えたのは近年のことだと言っていた。

 なぜそういう状況になったのかまでは聞くのを忘れた。

 病院経営のためなのか、それとも介護施設では対応が不十分だということになったのだろうか。

 わからない。

 それはともかく…。

 ある患者は、何と言っているのか聞き取れない言葉を一日中繰り返し叫ぶ

 ある患者は、起きている間中、ベッドや壁を叩きつづける

 ある患者は、おそらくは大した用もないのに看護婦さんやヘルパーさんたちをしきりに呼ぶ

 昼間だけではなく、夜も変わりがない。

 その対応に、看護婦さんも看護士さんも介護士さんもヘルパーさんも大わらわになる。

 私の隣の病室に、どうやら認知症っぽい男の患者さんが入った。

 その患者は排尿させるためだと思うがペニスに管を入れられていたようで、それがどうにも気になるようで、管を抜こうとして看護婦さんやヘルパーさんたちを無茶苦茶困らせた。

 「じーちゃんッ!」

 とついに看護婦さんが怒った。

 「チンチン触っちゃダメだってば!」

 それからその日は「チンチン触っちゃダメ!」の怒声が延々と病棟に響き渡った。

 ある日には、ナースステーションから怒声が聞こえてきた。

 「座れッ!」

 と誰かが叫んでいた。

 「座れと言ってるんだ!」

 「座れ!」という言葉が10回以上も続いた。

 どうやら患者を前にして看護士か医師かが、話をするために患者を自分の前の椅子に座らせようとしているようだった。

 しかし、患者は座らないようで、「座れ!」という怒声はまだしばらく続いた。

 ベッドか壁かをしきりに叩いたり用もないのに看護婦さんを呼んだりする患者か、それとも勝手に病室を出て廊下を歩き回って看護婦さんたちを困らせている患者を注意していたのだと思う。

 ある夜は、ひとりの患者がゲーゲーと吐き出し、当直の医師と看護婦さんたちの足音が病棟を一種異様な雰囲気に包んだ。殺気と言っていいような差し迫った空気が飛び交っていた。

 あまりにも凄い吐き方だったので、私はびっくりして耳を澄ませていた。

 足音が増えた。増援部隊が駆けつけたのかもしれない。

 そのうちにゲーゲーという凄まじい音は小さくなってきたが、それに代わって「ピー、ピー、ピー」という機械音が、静まり返る夜の病棟に響いてきた。

 病室では「特命救急病棟」みたいな闘いが繰り広げられているのだろうと思い、私は落ち着けなかった。

 私はホームヘルパー2級の資格を持っている。

 その資格で何か手伝えることはないかと思った。

 それで病室を抜け出してナースステーションまで歩いた。この夜は病室のドアは開けられていた。

 ナースステーションでは医師がどこかに電話していた。その口ぶりはひどく慌てていた。

 電話がすぐ終わったので私は話を切り出そうとした。すると医師から、「いま忙しいので」と簡単に話をさえぎられてしまった。

 事実、忙しそうだった。何かの書類に凄い速さで何か書いていく。

 私は自分の居場所がないことを知って病室に戻った。

 その先にゲーゲーと吐いて心電図か何やらかをモニターされている救急患者の病室がある。覗いてみたかったが、踏み切れなかった。邪魔になることを怖れたし、興味本位で覗きにきたと思われるのも嫌だったからだ。

 その夜は朝までその病室が慌ただしかった。

 その患者がどうなったのかはわからない。

 次の夜は、今度は別の患者が吐き出した。

 私の隣の病室だった。

 「ゥゲェ~~~~ぇッ、ゲェェェッ~~~ッ」と、こちらも大変な吐きようだった。

 その夜も病棟に慌ただしく足音が轟いた。

 怒鳴る医師や看護士さんもいたが、たいていは、患者がどんなワガママを言おうが悪さをしようが、看護婦さんも看護士さんも介護士さんもヘルパーさんも明るい口調で対応していた。

 「オレならそこまでワガママ言われたらもうほっとくだろうな」

 と思うようなワガママだらけの無法患者に対しても彼らは根気よく接していた。

 医療関係者も介護関係者も接客商売と同じだなと私は思った。

 私は一時、介護関係の仕事に就くことを考えたことがある。

 給料がびっくりするほど安いので断念したが、いつかは福祉関係の仕事に携わりたいという気持ちが私にはあった。

 しかし、今回の入院で「オレには無理だ」とわかった。

 私はそんなに我慢強くない。

 接客がいかに自分に適さないかを、タクシーの運転手をして私は思い知っていた。

 そのタクシー運転手と同じように、お客(患者)が何を言ってきても何をしてきても我慢しなくてはならないなんて、私には絶対無理だと思った。

 たとえできても、そのストレスで私はまたボロボロになるに違いない。


★“OK牧場”の血闘!

 そう、私はタクシーの運転手になどなったためにウツになったのだ。

 ほかにも理由はあったと思うが、その激務とルール無用の酔っぱらいを接客する毎日に疲れ果て、ストレスが高じ、ついにはウツになった。

 タクシー運転手の収入が予想以上に少なかったことも私を悩ませた。

 収入が減って一番困るのは家計を預かる妻だ。その妻の機嫌が極度に悪化し、私は毎日縮み上がって生活していた。

 もしかすると、そのことがウツになった一番の要因だったかもしれない。

 夜勤だったこともウツになる要因になったかもしれない。

 毎日、妻に責められ、毎日眠れず、私はノイローゼになっていった。

 私は異常なくらい寝付きが悪いのだが、それがタクシー運転手になって極端になった。

 夜勤だったので、夕方出社し朝方に上がる毎日だった。なので、朝に寝て夕方に起きる日常になる。

 しかし、それが私には難しかった。

 眠れないまま夕方を迎え、不眠のまま仕事に入ることが多かった。

 それで余計に疲れた。

 そのうち、寝付けないことが焦りを呼び、「眠れなかったらどうしよう」と、私は毎日のようにビクビクしながら布団に入るようになった。

 それではますます寝付けなくなることがわかっていても、どうしようもなかった。

 間もなく私は睡眠障害と診断され、睡眠薬なしでは寝付けなくなっていく。

 しばらく経つと、睡眠薬を飲んでも寝付けなくなっていった。

 私の心は地獄だった。

 タクシー運転手の給料は完全歩合制なので、休めば売上が減って給料も減る。

 そうなれば妻の機嫌もさらに悪化する。

 こうして私はウツになったのだ。

 タクシー運転手には、なりたくてなったわけではない。

 勤めていた会社の社長が凄い短気で独断的で、誰も彼に意見することができない会社だった。社長が間違った指示を出せば会社は墓場に向かってまっしぐらに突き進むしかない。そんな会社だった(私の退職後、この会社は法律を無視した違法商品を売って問題になり潰れた)。

 さらに凄い激務で、私は疲れ果て、喘息が悪化したこともあって退職した。

 もうそういう会社には勤めたくなかった。

 その前に勤めた会社の社長は夜逃げした。

 その前の職場は、すぐ逆上する変な上司の下で疲れ果て、やがて私のいた部署が閉鎖されることになり、それを機に辞めた。

 今度はマトモな会社に入りたいと考えたのだ。

 無職の期間、私はパチコンをして稼いでいた。

 だが、妻は私のそのワガママを許してくれなかった。

 私はほとんど強制的に2種免許を取らされ、タクシー運転手にさせられた。

 もっとも、新しく就職するのは難しいと半ばあきらめていた。

 その時点で私はもう45歳を過ぎていた。再就職は難しかったのだ(しかし希望は持っていた。自分の志望の仕事にどうしても戻りたかったのだ。当時は、その最後のチャンスが今だと思っていた)。

 それが私にとって地獄の入口だったとは、まさか考えもしなかった。

 ………。

 病室で運動を始めて何日目だったろうか。

 インチョーが現れた。

 「ども!」

 と、ちょっと軽い感じで登場した。意外だった。

 しかし、そのあとの口調と態度はいつものインチョーだった。

 「まだ、吊りたいですか?」

 と、いつものように自分の首に右手のチョップを当てた。

 私はうんざりしてきた。

 何なの、このインチョー。

 そう思ったら、この日は少し開き直ってインチョーと対することができた。

 それで話したのが、この章の冒頭のような内容だった。

 そもそも私がなぜウツになったかを聞かれたのでそれに答えたのだ。

 私が話すのを、意外なことにインチョーはまあまあ静かに聞いていた。

 ベッドの横のトイレの前に立ち、上半身はときどき動かしていたが、だいたい同じところに立ったまま聞いていた。

 珍しいな、コイツ。

 いつもはせわしなく動くのに。

 話している途中で私はちょっと気味悪くなってきた。

 すると、ベッドに腰掛けている私の正面で、インチョーの右手がサッと上に動き、顔の前に構えられた。

 そこで手の平がパッと開かれ、その位置で親指と人差し指がスッと動いて、「マル」の形を作った。

 その「マル」が、スーーッと私の顔に伸びてきた。

 「オー」

 とインチョーは太い声で言った。

 「ケぇ~イ!」

 オーケー?

 なんだそりゃ?

 私は意表をつかれて固まってしまった。

 まずい。敵はすぐ次の攻撃に移るぞ!

 そう思うと同時に、「まさか!」と思いハッとした。

 「こ、ここは…」

 私は自分が正気かどうか疑った。

 「お、お……OK牧場なのか?」

 ニヤリ、とインチョーは笑った。

 なんて凄みのある不気味な笑いなんだ。

 や、やられる!

 しかしインチョーは攻撃してこなかった。

 それどころか、「いいね!」と叫んで破顔微笑したのだ。

 「いいねいいね。グッドだね!」

 と言いながら、「マル」サインを連発している。よく見たら「OK」サインのようだった。

 その「OK」サインをいったん自分の手元に引っ込めてから、また私の顔に向けてスーッと伸ばしてくる。と思ったら「OK」サインをまた手元に引き寄せる。

 それを何度も繰り返した。

 その奇妙な動きに幻惑されまいと私はインチョーの目線を追っていた。

 と、インチョーが今度はその立ち位置のまま自分の顔をズイッと私の顔に向かって近づけてきた。

 このやろう!

 私は思わず裏拳を打ちたくなった。

 寄ってくるその顔面に裏拳をぶち込んでやろうかと半ば本気で思った。

 ところが、インチョーは素早く立ち位置をササッと移動させ、なんと私の横にトンッと腰掛けてきたのだ。

 つまり、私とインチョーがベッドに並んで座っている格好になった。

 なにこれ?

 これって仲良しポジションじゃない?

 「OK牧場の血闘」はしないの?

 そう思って顔を引きつらせて横のインチョーをチラッと見ると、彼はニカーッと笑った。

 大入道のニカーッは凄い迫力だった。

 な、なんのつもりだ?

 私はゴクリと生ツバを飲んだ。

 私の闘志はあらかた吹き飛んでいた。

 まったく意外な展開だった。

 対決モードから一気に仲良しモードに切り替えるとは…。

 こ、コイツ、デキル!

 私はカタカナでそう思った。

 インチョーはオレの心を読んでいる!

 並みの相手ではないことをあらためて知らされた。

 「あなた!」

 とインチョーは私の横でニカニカ笑いながら私に言った。

 「いいねいいね! OKです!」

 こいつ、日系アメリカ人か何かか?

 そう思ったが顔には出さず、私は横のインチョーから少し体を離して、次の攻撃に備えた。

 「対決」ポジションから「仲良し」ポジションになったし敵は笑っているが、まだ油断はできなかった。

 「あなた!」

 とインチョーはまた言った。

 「なかなか良かった!」

 何が良かったって?

 「素晴らしかった!」

 敵はどうやら戦術を変えてきているようだった。

 私はインチョーの思惑が掴めず、額に冷や汗がにじんでくるのを感じた。

 「あなたは今!」

 とインチョーは続けた。

 「自分のことを筋道立ててちゃんと話せた! いいね! OKだよ!」

 そういう「いいね」であり「OK」であり「良かった」なのね、はいはい。

 で、言いたいのはそれだけ?

 そういう目をしたせいだろうか、インチョーは続けてこう言った。

 「だいぶ薬が抜けてきたようです!」

 お、と私は思わずパッと大きく目を開いた。

 じゃ、退院、OKね?

 しかし、インチョーは甘くなかった。

 「そこで聞きますが」

 と急に丁寧な口調で言った。

 「今、一番したいことは何?」

 「エッチです」

 というのが本心だったが、まさかそんなことは言えない。

 「退院です!」

 と答えた。凛々しく胸を張って。

 「退院できたら、まず何をします?」

 「仕事を探します!」

 と、これまた凛々しく毅然として言った。

 今度の「対決」のときにはこう言おうと何日か考えてきた言葉だった。

 「ホゥ?」

 とインチョーは少し驚いた。

 「仕事、ね」

 インチョーはやや不審げだった。

 何かまずいこと言ったか?

 私は不安になった。

 「しかしね!」

 とインチョーは言った。

 「あなたは深く考え込みやすく、ストレスに弱いようだ。組織の中でうまく生きていくことも難しい!」

 ちくしょー!

 聞いていないようでよく聞いていたんだな、オレの話。

 ちょっと話しすぎたな。

 私は少しばかり後悔した。

 そんな私に追い打ちをかけるようにインチョーはこう言った。

 「それで仕事に就いても、また同じことになるんじゃないの?」

 痛いところを突いてきた…。

 その通りだ。それについてはオレ自身もどうしたらいいかわからないんだ。

 しかし、そんな弱音を見せるわけにはいかない。

 私はあくまで胸を張って毅然としつづけた。

 「そのことについては、あることを考えて実践しています!」

 と私は話しはじめた。これも数日間、どう話そうかと考え抜いてきたことだ。

 「実は私、合気道を習っていまして」

 「アイキドー? ホゥ」

 「1年ほど前に始めたんです。ウツでしたからそんなに参加できませんでしたけど。強くなりたいとかの目的で始めたんではないんです。向かってくる相手の力を受け流したり、その力を利用して相手を投げたりする合気道の、その精神をモノにしたかったんです。それで始めたんです」

 「ホォォ」

 「と言いますのも、これまでの私はいつも相手と正面からぶつかっていたんです。それでいつも血だらけになっていました…」

 「フム?」

 「あ、いえ、殴り合いの喧嘩をしていたとか、そういうことはないんです。相手とぶつかって血だらけになるというのは、相手と会話していて、きっつい言葉やイヤミなんかが、私にとってはただの言葉ではなくて、例えばヤリやナイフや手裏剣みたいものでして、そういうきっつい言葉やイヤミなんかを食らうと、私の心にブスブスグサグサ刺さって、私の心はまさに血だらけになるんです」

 「ホホォ…」

 インチョーは少し考え込んでいるようだった。

 自分の人間的迫力と傍若無人な言葉が、ウツ患者に与える影響の具体的な姿を見た気がしているのかなと、私はそう感じた。

 そんなことを考えることができるほど私は冷静だった。

 「そんな私が今後ちゃんと生きていくには」

 「フム」

 「相手の攻撃をマトモに受けてはいけない。正面から受けてはいけないし、できれば、かわすなりさばくなりして、相手の力を流す必要があると、そう考えているんです」

 「ホオオォ」

 「それで合気道を始めたんです」

 「ナルホド!」

 日本人なら普通に平仮名で話せよと思ったが、そんなことは表情に出さずに私は続けた。

 「週1回の稽古では、そんな極意的なことを習得するのは何十年かかっても難しいと思います」

 「フム」

 「しかし!」

 と私は語気に力を込めた。

 「今回の入院でいろいろ考えたり先生とお話ししているうちに、あるときから、それが少しできるようになったんです」

 「ソレとは?」

 「失礼な言い方になったらすみません。例えば先生とお話ししていると、最初のころは圧倒されるばかりで、私はほとんど何も言い返せませんでした」

 「フンフン」

 ふん。

 「先生」と言ってやったんだぞ。「ありがとう」くらい言ってもらってもいいと思うんだけどな。

 しかし、インチョーはそんな程度のことで感謝するようなヤワなヤツではないのだ。

 「正直に言いますと」

 と私は頭の中で整理していたことを続けた。

 「先生と話すのは私にとっては凄いストレスでした。凄く強烈な力を感じて私はいつもぶん殴られたような気持ちになっていましたから」

 「ヘヘッ」

 とインチョーはイタズラッ子のように舌を出した。

 「こんなチンピラみたいな医者いないからね!」

 なんだ、自分のこと知ってるんじゃないか。

 とすると、それを知っていてコイツは患者に対しているのだ。

 統合失調症や認知症などの精神疾患の患者と向き合うには、そういう迫力をもってするほうが効果的なのかもしれない。

 しかし、ウツ患者にはどうだろうか?

 「相手がチンピラならいいんです」

 と私は続けた。

 「人目につかないところで1対1でやるならいいんです。相手が強くても、そういうピリピリ感のストレスは私にとってそんなにダメージにならないんです」

 「フム」

 「それは相手が世の中のクズのチンピラだからです。ぶん殴ったって蹴り倒したってかまわない。まあ、警察は許してくれないでしょうが、私の中では十分に許せる。世間も私の行為を頭ごなしに非難はしないでしょう。そういう相手と闘うのなら私はストレスを感じません」

 「フ~ム」

 インチョーが私の顔をチラリと見た。変なヤツだと私をそう思っているようにも見えた。

 それは少しまずい。

 私は話を急いだ。

 「けれども、対決しなくてはならない相手のほとんど百パーセントは、そんな無法者たちではないんです。ですから、こっちも社会的なルールを守って対決しなくてはなりません。例えば自分の上司や取引先の会社の担当者がイヤミなやつでも、まさかぶん殴るわけにはいきません。相手が女性なら、どんなにひどいことを言われても我慢しなくてはなりません。それが…」

 と私は話しつづけた。

 「私には凄いストレスになります。私はこれまでの半生でそういうストレスをグサッグサッとたくさん感じ、それで悶え悩み、ウツになどなったのだと思います」

 「ホ~オ」

 「今回の入院中…」

 と私はさらに先を急いだ。

 「先生と出逢って、最初は強烈なプレッシャーを感じて、私はどうすることもできませんでした」

 「フム」

 「けれど最近、この人なら正面からぶつかってもいいんじゃないかと思いまして、そういう気持ちで先生と話せるようになったんです」

 これは事実だった。

 こんなバケモノはぶん殴ったっていいんじゃないか。

 そう開き直ったとき、私の心はスッと軽くなった。

 本当に殴っても、コイツならギャーギャー騒ぐような女々しいことはすまいという見込みがあった。

 「そうしたら」

 と私は続けた。

 「先生からの圧迫感が減って感じられたんです」

 「ホオ」

 「これだ、と思いました。相手がマトモな会社員でも女性でも何でも、そういうことをあまり意識しないで、まずは正面からドンとぶつかってみる。それでだいぶ楽に相手と対することができるようになるんじゃないかなと、そう思いました。それでもダメなときは、相手を圧しつつ、相手の攻撃を受け流し、スルリスルリとかわしていく。そうすれば相手も疲れてきて戦意を失っていくでしょう。これだ、と思ったのはそういうことです」

 「ホホゥ」

 「私のストレスの最も大きな要因だと考えられるもののひとつが女房です。その女房に対しても、今言ったやり方で対処していけば、うまくやっていけるんじゃないかと、そう考えています」

 「ホオ~ォ」

 「だから、今後も合気道教室に通って、相手の力を受け流したり相手の力を自分に取り込んでしまうような、そんな生き方を学びたいと思ってます」

 「あなた!」

 とインチョーはまたまたニッカーーッと笑った。

 「いいねいいね! グッドです! OKです!」

 よくよくこのフレーズが好きなんだなと私は呆れていた。

 「そこまで自分を分析して問題点を引き出し、解決法まで考えられるのは!」

 「はぁ」

 「OKです! 素晴らしい! 薬がだいぶ抜けているようだね!」

 バカめ。オレのウソ八百を信じやがった。

 きゃははは。

 と笑いたくなったが、私は我慢して、努めて普通の表情を保った。

 そして言い足した。

 「すべて先生のおかげだと思っています」

 お世辞の下手な私がお世辞を言った!

 上出来じゃないか。

 私は自分を褒めてあげたくなった。

 しかも、私は考え抜いてきた話をまあまあうまく話せていた。

 上出来じゃないか!

 ぎゃははは。

 しかし、インチョーはオダテに乗ってこなかった。甘さ控えめのナラズモノなのだ。

 「ただね!」

 とインチョーは言ったのだ。

 「自宅にそんなにストレスがあるのなら、そうだな、しばらく退院しないでここにいたほうがいいんじゃない?」

 「ゲッ」と私は驚いた。

 冗談じゃない。とんでもない方向へ話を持っていかれた。まずい!

 「じょ、冗談はやめてくださいッ!」

 と私は悲痛な声を出した。泣いていたかもしれない。

 「こんなところにこれ以上いたら、それこそとんでもないストレスになります!」

 すると、インチョーはまたまた「いいねいいね! OKだね!」と言って笑った。

 そしてベッドから立ち上がり、窓の手前の頑丈な鉄格子を指差して言った。

 「こんなオリのようなとこに入れられて、ストレス感じるなんて全然フツーだね! セージョー!」

 私が呆然としていると、次に便器を指差し、ドアを指差した。

 丸っさらしの便器とノブのないドアがフツーでないことを示すつもりなのだろうか。

 そして最後にベッドの上の腹帯(ふくたい)を指差し、

 「こんなモノがあるところで、フツーの人は耐えられない。だからあなたは正常ッ!」

 と大声で言い放った。

 バンザイ!

 インチョーに「正常」だと認められた。

 じゃ、退院させてくれ!

 しかし、インチョーは慎重だった。

 「ただ!」

 とインチョーは言った。

 「医者として心配なのは、あなたが発作的にまた自殺することなんだよ!」

 「それはないです!」

 と私はキッパリと否定した。

 「今度の未遂だって、発作的にやったことではありません。考えて考えて、これしかないと、仕方なくやったことなんです」

 「追い込まれて?」

 とインチョーは聞いてきた。

 「そうです」

 と私は答えた。

 「それで何日も前から計画を立てて、あの日、決行したんです。決して発作的にやったんではありません!」

 死に走りたくなる衝動はあった。

 だから、発作的でなかったというのはウソになるのかもしれない。

 しかし、考えに考えて「これしか道はない」との結論にいたり、やむなく死を選んだのは事実だ。

 「計画的にというと、どんな計画を立てたの?」

 「いつ決行するかを決め、そのスケジュールで、やり残しがないようにいろいろやりました」

 「フム」

 「まず妻と離婚して子供たちも私の籍から抜いてもらおうとしました」

 「それはなぜ?」

 「私が死んでも私の借金や何やらが家族の肩にかかってこないようにするためです」

 「フム」

 「けれど妻が承知してくれませんでした。なので、仕方なくそれはあきらめ、あとはどうやって死ぬかを考え、できるだけ家族に迷惑がかからないようと、会社を退職したりといった手続きなどを済ませました」

 「ああ、タクシー会社だったね? すると、もう辞めてるの?」

 「正確には今月末付けに退職になりますが、ずっと休んでいたので、退職届けを出した時点で事実上、辞めたと言っていいと思います」

 「生命保険は?」

 「は?」

 「生命保険はかけてるの?」

 「いえ。前はかけてましたが、収入が減ってから解約してしまいました」

 「ということは保険金目当てではないのね?」

 な、なんということを聞いてくるんだ?

 オレはそんな人間じゃないぞ!

 そう思って怒りが沸いてきたが、よく考えてみれば、生命保険をかけているのはごく普通のことだし、その保険金目当てで自殺するのは家族を救うことにもなり、これまた普通のことだろう。

 それが普通だと感じられないオレがフツーではないのだと思った。

 「フ~ム」

 と言って、インチョーは私の目の前でがっしりと床に立ち、腕組みをした。

 まずいことを話しちまったろうか?

 嫌な予感が走った。

 「とにかく!」

 とインチョーは言った。

 「あなたが正常であることはだいたいわかった!」

 やった!

 じゃ、退院していいのね?

 「しかぁーし!」

 とインチョーが続けた。

 「退院は、ま、それはまだ先だ。薬が抜けないことにはね!」

 薬は!

 と私は言おうとした。

 しかし、インチョーに先を越された。

 「睡眠薬などの薬を多量に飲むとね、なかなか出ないんだよ! なかなか抜けない!」

 「出てます!」と私は勢いよく言った。

 「もうすっかり普通に動けるようになりました!」

 なんなら動いてみせましょうか?

 そう続けようとしたら、またまたインチョーに先手を取られた。

 「まあ今度の診察のときだな…」

 インチョーがベッドの前に立って腕組みをした。顔を少しばかり傾げている。

 「今度のI先生の診察のときにI先生に判断してもらおう!」

 ということは…。

 あと3日もある。

 私の体から力が抜けていった。

 しかも、その診察日に退院許可がもらえるとは限らない。

 「私はまだもっとここにいたほうがいいと思うけどね!」

 そう言い残してインチョーは消えた。

 私はベッドの上でカエルのように潰れていった。

 インチョーがどんな顔で私を見下ろし、そして去っていったのかはわからない。

 少なくとも同情などはしていなかっただろう。

 私がやっと顔を上げたときは、目の前には病室の白い壁があった。

 これだけ頑張ったのに…。

 泣けてきた。

 I先生に診てもらっても、インチョーが「まだここにいたほうがいい」と思っている以上、退院させてもらえるとは思えなかった。

 絶望感が襲ってきた。

 インチョーに敗れたことを認めざるを得なかった。

★鬱と涙とワンコと娘

 インチョーとの対決に敗れ去った私は、情けないほど涙もろくなった。

 病室の白い壁を見ても、鉄格子のはるか向こうの陸上自衛隊の大構造物を見ても、涙が溢れてきた。

 工場のような自衛隊の建物の手前には、真っ赤に色付いたナナカマドと黄色く色付いたイチョウ並木の鮮やかな色があった。

 もう今年はナナカマドを近くで見上げることもできないと思うと、とめどもなく涙が出た。

 もう何もする気になれなかった。

 ヤル気ゼロ。

 ウツ気分は最悪レベルにまで急降下していた。

 病室に持ってきてもらった娘と愛犬の写真がベッドの枕の横に置かれてある。

 それを手に取り、また泣く。

 娘のachaはもう高校2年だが、その写真は小学校に入学したときに記念に撮ったものだった。ランドセルを背負って笑顔をこちらに向けている。achaとも滅多に会えなくなる。

 ワンコと散歩に行くこともできなくなる。

 そう思うとボタボタと涙がこぼれた。

 「にゃんきち…」

 とつぶやく。私はワンコをそう呼んでいる。

 犬だし「アイル」という名前もあるのに、可愛さのあまり私はついそう呼んでしまうのだ。

〈愛犬“にゃんきち”〉

 その夜は一睡もできなかった。

 翌朝早く、眠っていないのにやけに冴えた目で、私は白い壁を見つめていた。

 起死回生の逆転打を打てるかもしれないと考えていた。

 ドン底にまで堕ちていたウツ気分がかなり上向いていた。

 私はナースステーションに走った。

 誰にもとがめられなかった。私のことを、病室に閉じ込めておかないとどんな騒ぎを起こすか知れない統合失調症や認知症の患者と違うようだと看護婦さんたちが見ていたからかもしれない。

 ナースステーションで私は看護婦さんに「携帯を使わせてください」と頼んだ。

 「いいですよ」と答えて看護婦さんは私の携帯電話を探しにいった。

 間もなく私は自分の携帯を手にし、電源を入れた。メールがまた何通か届いているようだったが、それを見るのは遠慮して、新規メール画面を呼び出した。

 送信するのは妻へのメールだ。

 私は携帯で文字を打つのに慣れていない。ぎこちない手つきで文面をこしらえた。

 入院初日のときはそばに看護婦さんがいたが、この日は誰もいなかった。監視なしだ。

 しかし、見られても怪しまれないような文面を作った。

 だいたいこんな文面だったと思う。

 「居間のストーブの上の銀色の本棚の中段にある金色の背表紙の“快眠の取り方”という本を持ってきてほしい」

 看護婦さんを探してこの文面を見せ、了解を得て送信した。そして病室に戻った。

 考えすぎてかえって怪しい文面になったかとちょっと心配になった。

 ちょっとどころか十分に怪しい文面だが、このときの私はそうは感じなかった。

 間もなく、看護婦さんが私の病室に現れた。

 「いま奥さんから電話が入っているんですが」と彼女は言った。「ストーブの上の本棚ってどこですかって言うんですが…」

 しまった、と思ったが遅い。

 「とにかく銀色の本棚って言ってもらえればわかると思います」と看護婦さんに言った。看護婦さんはナースステーションに戻った。妻からの電話に返答しているのだろう。

 「今夜来てほしい」

 用件はそれだけだった。

 そのままストレートにそういうメールを打てばいいのに、それだけだと変に疑われるのではないかと不安で、つい難解な怪しいメールを送ってしまった。

 ウチの居間のストーブの上に本棚などはない。銀色の本棚などはどこの部屋にもない。金色の背表紙の本などもない。

 ないないづくしの変な文面のメールをもらえば、「なんかあったな」「重大な用件があるのだな」と妻が気付いてくれると思ったのだが、そんな怪しいメールをもらった妻は、文面をマトモに読み、頭がこんがらがってしまったようだ。

 私は用心しすぎていた。

 断崖のはしに追い詰められたと感じ、この場から脱出するにはジェームス・ボンド並みの工夫が必要だと思い込んでしまっていたのである。

 しかし、その夜、妻は無事に見舞いに来てくれた。

 私は、インチョーとの昨日の対決の内容を彼女に伝えた。敗れ去ったことも話した。

 「だから」と私は言った。「しばらく退院できないかもしれない」

 それは妻にとっても困ることだった。入院費がかさむ。

 「だから協力してほしい」と私は続けた。「今度の診察のとき、同席してほしいんだ」

 そして、夫が退院したらしばらくは私がそばについていると言ってほしい。パートを休んでそばについている。パートをやめることも考えている。すぐには無理だから、とりあえずは時間を短縮してもらうことを考えてる。娘にもバイトをやめさせ、夫のそばについておかせる。

 そう言ってほしいと妻に頼んだ。

 「そうすれば、オレが発作的にまた自殺することは防げる。入院してるのと同じような環境になる」

 そういう環境を自宅で整える用意があると示すことができれば、インチョーといえども私の退院を妨害することはできないだろう。

 昨夜、寝ないで考えて思いついた結論はそういうことだった。

 ところが、そこで妻の機嫌が一気に悪くなった。

 凄まじい表情になっている。私が目を向けても、あらぬほうを睨んで黙っている。相当に怒っていることがわかった。

 なぜ不機嫌になったのか見当も付かず、私は戸惑うばかりだった。

 不機嫌なまま妻は帰った。

 その晩はそのことで眠れなかった。

 眠れないまま、私は妻にどんなことを話したか思い起こした。

 「しばらく退院できないかも」と言った。この言葉に問題があったのか? 退院できなきゃ彼女も困る。でも、それであんなに不機嫌になるか?

 「夫が退院したら私がそばについていると言ってほしい」とも言った。どうもこのへんが怪しいなと私は思った。

 「パートを休んでそばについている。パートをやめることも考えている。すぐには無理だから、とりあえずは時間を短縮してもらうことを考えてる。娘にもバイトをやめさせ、夫のそばについておかせる。そう言ってほしい」と続けたが、このシツコサが怪しいではないか。

 しばらく考えて、「そうか」とわかった。

 私がこう言ってくれと頼んだことを妻がI先生に言えば、逆説的ながら、ウツで自殺願望が強そうな夫を監視しておきべきだった妻が監視を怠った、だから夫の自殺を防ぐことができなかったと彼女が自分で自分の非を認めることにもなる

 妻はその責任を問われるように思って、急に不機嫌になったのではないか?

 妻は外聞を非常に気にする。

 自分が悪役に仕立てられたりしたら、絶対に黙っていない。私は悪くないと周囲に言ってまわる。

 そういう性格だから、自分が悪く思われそうなことを言うように私に強制されたと感じ、いきなり不機嫌になったのではないか?

 それとも、そんなことを言わせようとする私に対して怒りが湧いてきたのだろうか?

 たぶん、そのどちらかだな。いや、両方かもしれない。そう思った。

 弱ったな。

 どうすれば機嫌を直してくれるのか。

 「あとからよく考えたんだけど、やっぱりあんなこと言わなくていいよ」と言うしかないと思った。

 で、翌日の夜を待った。見舞いに来てくれればそう言おうと思ったのだ。

 しかし、妻は見舞いに来なかった。

 診察は明日だ。妻は来てくれるのか?

 不安が頭の中に渦巻き、とても眠れたものではなかった。

 あとで知ったのだが、この時点で妻は私の当時のブログ(『AICHANのウツ日記』)を発見して読んでいた

 そこにぶちまけられている私のグチの数々は妻の悪口でもあった。

 そんなものを見てしまったので、それだけでもう彼女は十分に怒り狂っていたのである。

 それを必死に我慢して見舞いに来てやったら、変なことを頼まれ、怒り心頭に発したらしい。

 病棟がシーンと静まり返っていたので、怒鳴りたくなるのを懸命にこらえていたようだ。

 しかし、この時点では私はそのことをまだ知らない。

 知るのは、この翌日、つまりI先生の診察日である。

 さらには、娘のachaまでが私のブログを読んだという衝撃の事実を妻から聞かされ、驚愕する。

 私は自殺決行前に娘に宛てた手紙を書いた。娘は修学旅行中だった。その帰宅する日に私は決行した。娘にはせめて修学旅行でいい思い出を作ってきてほしくて、その日まで決行を延ばしたのだ。帰宅したら手紙を読んでもらえるようにセットした。

 その手紙に私は「大人になったら見てみて」と、『Zensoku Web』とブログのURLを書いたのだ。すっかり忘れていたが、achaはその手紙を見てブログにアクセスしたのだろう。

 思い出して私は頭を抱えてしまった。

 ブログで私は妻の悪口をたくさん書いている。achaから見れば、ハパがママの悪口を書いていると見える。当たり前だ。

 何て残酷なことをしたんだ。

 極悪非道の父親じゃないか!

 そこに妻からの罵声を浴び、私は縮こまり丸くなって、何もできなくなった。

 I先生の診察の30分前、私はそんなドン底に堕ちてしまったのである。

★じゃ、翔びますか!

 I先生の診察日の前日、インチョーが現れた。

 「クビっ!」

 という太い声がまた病室に響き渡った。

 「吊りたい?」

 まったく人の苦しみもどこ吹く風の脳天気なヤツだ。

 それでも私は怒りを抑え、腰掛けていたベッドの上に正座し、謙虚に丁寧に格式ばって言った。

 「お世話になっています」

 なんてイジらしい患者なんだ。

 妻の機嫌を損ねて敗者復活なんて無理かもしれないと意気消沈していたが、そんな姿をインチョーに見せたら「あ、そんなにウツだったら帰さない!」と言われそうに思い、私はウツ気分を奮い起こして毅然とした態度を取った。

 そして、顔を見せると見破られそうに思ったこともあり、インチョーに対して軽く頭を下げた。

 しかしインチョーはどこまでもマイペースで、病室にスッと入るなり、自分の首を右のチョップで切る真似をして、「またギリギリッとやりたい?」などと聞いてくる。

 私は我慢し、「いえ、そのようなことは決して」と答えた。

 正座しながら少し頭を下げながら。

 これじゃまるで時代劇だなとバカらしかったがしょうがない。

 インチョーはベッドの横に立ち、そんな私を見下ろしている。

 ちくしょう。今日は上様と家臣の関係か。

 上下ポジションとは情けなか! 仲良しポジションのほうがまだマシとね。

 私は下げていた頭を戻した。

 いつまでも下げているとホントに家臣になってしまいそうで不安になったのだ。

 「フム」

 とインチョーは私の首のあたりを見た。

 「サクジョウコン、そいつはなかなか取れないね!」

 「このくらいのキズは」と私は返した。「1ヵ月もすれば消えます」

 と言ってから、先日の「血闘」のときに「退院したらすぐ仕事を探したい」と言ったことを思い出した。

 このサクジョウコンがあってはそれは不可能だ。まずいことを言った。

 「そうかな?」

 とインチョーが腕を組んだ。顔を少し傾げている。

 サクジョウコンがあるくせに仕事を探すなんてウソ付きめ。

 そう言われているような気がした。やはり勘付かれたか?

 そう考え、「先日は退院したら仕事を探すって言いましたけど、このキズが消えるまでは無理ですね」と言って私は苦笑してみせた。

 我ながらアッパレな演技だった。

 インチョーは黙って私を見下ろしている。

 「先生のおかげで」とさらに私は言った。「ストレスを与える相手と真っ向勝負して血だらけになることを回避するコツをものにしましたから、今後は大丈夫です!」

 心から感謝しています、と私は懸命に言ってまた頭を下げた。

 役者になり切ってる!

 すると、インチョーが「私もね!」と言って急に笑顔になった。

 「これを機にね、あなたとお近付きになれればなと思ってるんだよ!」

 ゲッと思った。

 お近付き?

 オレはいい。遠慮します。さようなら。

 左様ならこれにてごめん。

 そう言いたかったが、そんなことを言っては逆転タイムリーを打つチャンスを永遠に逃す。

 「私も」と私は必死になって言った。「先生のような医師とお近付きになれればこんなに嬉しいことはありません!」

 アカデミー賞くれ。

 それだけの価値のあるセリフと演技だと思った。

 しかし、インチョーはなぜ急にそんなことを言い出したんだ?

 私のことが心配で? まさか。

 私のような変な患者に興味があるから? ううむ。

 そうかもしれないと思った。

 ウツのくせに戦闘的な面はあるし、自分のことをちゃんと分析できるし話せる。院長のオレ様に対してチクリと痛いようなことまで言ってきやがる。

 私のことをインチョーがそう見ていることは十分にあり得る。

 入院2日目だったか3日目だったか。インチョーは「ウツ患者が苦手だ」と言った。「自分から逃げていく」とも言った。「それがなぜなのかわからない」と本気で不思議がっていた。

 自分からウツ患者が逃げる理由に関して、私とのやり取りを通して気付いたことがあったのではないか。

 言葉で攻撃してくる人間を相手にすると心にヤリやナイフをクザリグサリと刺されているようでたまらなかったと私はそんなことを話した。

 それを聞いていたインチョーは「ホゥ」「ホゥ」としきりに感心していた。何かにピンと来てひとりでうなずいているようにも見えた。

 自分の人間的迫力と傍若無人な言葉がウツ患者にどんな影響を与えるのかを、そのときに具体的映像として掴んだ気がしたのではないか。

 私はそんなふうに感じていた。

 当たっていないかもしれないが…。

 そう感じたら、この大入道のような怪僧のようなバケモノ的インチョーのことが少し可愛らしく思えてきた。

 そういえば、妻にインチョーのことを話したとき、彼女は「チハルに似てるかなって思った」と感想を言った。彼女は入院初日の診察のとき診察室に同席していたインチョーを見ている。

 チハルというのは松山千春のことである。

 なるほど、ツルッ禿げなところも大柄なところも問答無用の傍若無人さも似ている。

 ダイエットさせてジーンズを履かせてサングラスをかけさせれば、まあ視力の弱い人はそう思うかもしれない。

 しかし、決定的に違うところがある。

 コイツをステージに立たせても全然似合わない!

 保証する。

 けれど、コイツにもちょっと可愛いところがあるんだと思ったら、急に親しみに似た感情が湧いてきて、笑顔を作ってくれるならステージに上げてやってもいいかなという気持ちになった。

 そんな目で見ると、インチョーはなかなか人間的でもあるように思えてきた。バケモノ的なだけではない。

 それに…。

 インチョーと初めて遭遇してから何日経ったか。この間、私は対決する相手としてインチョーを見てきた。だから相手の圧迫感をどうするかとか、そんなことばかり考えていた。

 しかし、いつからだったか、私はインチョーと結構本音で話し合うようになり、ときには言いたいことをズバリと言い合うようになった。

 すると、インチョーの圧迫感から少し自由になることができた。

 これはもしかして?

 インチョーの意図通りに操られていたってことはないか?

 まさか。

 私がそんなことを考えていると、インチョーは叫んだ。

 「だいぶマトモになってきた! OKだね!」

 見ると、私の目の前で例のOKサインを右手で作っている。

 それを、ボールを投げるように自分の顔の横に構え、眉毛をヒョコヒョコと上げ下げしている。投げるよ投げるよとでも言いたそうに右手を少し引いては前に出す動作をしている。

 OK攻撃か?

 そう思って身構えようかとも思ったが、眉毛ヒョコヒョコを見ていたらおかしくなってきて戦意をくじかれた。

 インチョーはこれまでと違って、明らかに好意的な接し方をしてきている。人を圧迫するようなあの迫力が感じられなくなっていた。

 ボクのボールを受けてよ、と言っているように見えた。

 ということはつまり?

 お近付きになりたい?

 見上げると、眉毛ヒョコヒョコはまだ続いていた。

 そのようだった。

 まいったなと思ったが、心の隅では「それも悪くないかもな」と私は思っていた。

 私はこのインチョーの迫力をどうにかしなくてはと思い詰め、それをかわしたり受け流せばいいんだと思いいたった。

 そのように仕向けたのは、もしかするととインチョーだったのではないか?

 そうではないかもしれない。

 しかし、結果的にはそうなったと言える。

 ピッチャーで言えばインチョーは直球勝負のようだから、変な小細工はしないだろう。

 直球勝負でいつものように私と接してくるので、コイツは変化球は投げないんだなということがわかった。

 だから私は威力のある直球だけに的を絞り、打ち崩す方法を考えることができた。威力のある直球とは言ってもド真ん中に来るとわかると、かわすのは意外にやさしいのだ。

 インチョーがただ直球を投げてくるうちに、私のほうが勝手にいろいろと考え、工夫するようになった。

 とすればインチョーの功績とは言えないような気もするが、ほかの医師だったら私がこんなふうに悩んだり工夫して立ち直ろうとしたか疑問に思われてきた。

 コイツに診察を受けるウツ患者はほぼ絶対に心が血みどろになる。

 だけれども…。

 何度も診察を受けるとしたら、私のようにインチョーと次第に親しく話せるようになり、インチョーの迫力に圧されずに「対決」できるようになり、そこから本来の自分を取り戻すヒントを掴むことができるかもしれない。

 または、一時はインチョーに血みどろにされても、インチョーの真剣さに気付いて気持ちが揺さぶられ、そこからインチョーを信頼して治療と真剣に向き合うようになる患者がいるかもしれない。

 ストレートなインチョーからは、人をビビらせる迫力や人を見下して踏み付けるような横暴さが感じられる。

 しかし、その外見に惑わされずにその内面を覗くことができたら、ド真ん中の直球しか投げてこないインチョーとは意外に簡単にコミュニケーションを取れるようになるのではないか。

 このインチョーとうまくキャッチボールできるようになった患者は、自分の気持ちをストレートにぶつけることのできる相手を得て、それを機に非常に重要な生きるヒント的なものを掴み取ることができるのではないか

 常識的治療とはかけ離れるが、こういう治療もあっていいような気がする。そのほうが効果的な患者も意外といるように思う。

 インチョーは七色の変化球で患者を幻惑させるようなことはしない。威力のある直球をズバッズバッとド真ん中に投げ込んでくる。ウソは言わないのだ。ごまかすこともしない。

 ウツ患者にとってこれは両刃の剣になると思うので安易には言えないが、こういうタイプの精神科医がいてもいいんじゃないかとは思えてきた。

 ひょっとすると…。

 コイツはバケモノかもしれないけれど、メイイってやつか?

 メイイ名医

 漢字で書くと「褒めすぎだ」と思ってしまうが、褒めなくてもコイツはやることはちゃんとやるので、そういう面から見ても、コイツは意外にいい医者なのではないかと思った。

 最初のころは「こんな医者がいていいのか!」と腹が立ったものだが、「こんな医者だから必要なのではないか」と思えてきた。

 それに、私ごとき患者に向かって「お近付きになりたい」なんて、可愛い医者ではないか。

 おそらく私のことが心配だしウツ患者の私の話に興味もあるからだろうと思うが、どちらにしても、精神科医として問題のある姿勢のはずはなく、むしろ立派な姿勢と言えるだろう。

 冷静によく観察してみると、コイツは結構と患者のことを思い、親身になってくれるいい医者のようにも見えてくる。

 そう思うと、バケモノ的な怪しさが消え、患者と真剣に対するひとりの医者の姿が見えてくる。普通の医者とは違ってガラが悪くて傍若無人だが、それがかえって親しみやすい雰囲気を醸し出しさえする。

 患者によっては彼を信頼するようになり、そのことでより治療の効果が上がるケースもあるような気がしてきた。


 インチョーのイメージが初対面の印象からガラりと一変した。

 自分の気持ちがこんなに急転換したことに私は内心相当に驚いていた。

 バケモノがメイイに変身してしまった。

 「ヒルナミンが良かったのかな?」

 あ、と私は驚いた。インチョーが横に座っていた。

 「ヒルナミン?」アリナミンの親戚?

 「夜に飲んでるでしょ。あの薬」

 入院してから私は喘息の薬のほかに看護婦さんが持ってきてくれる、小さくてツルツルした錠剤を1つ飲んでいた。

 「何ですかこれ?」と私が看護婦さんに聞いたら、「気持ちを安定させたり不安を和らげるお薬です」とのこと。だから私は抗不安剤なのだろうと思っていた。

 「あれは安定剤ですね?」と私はインチョーに聞いた。

 看護婦さんの言葉を疑ったわけではなく、話のつぎ穂がなくて、ついそんなことを聞いたのだ。

 するとインチョーは、「いや、あれは抗精神病薬に分類される薬でね。ヒルナミンという」と答えた。

 抗精神病薬なんて初耳の薬だった。何それ?

 「普通は統合失調症の患者などに使う薬なんだよ。発作的な衝動を抑えたり、逆に落ち込んだ気分を元気にするなどの作用がある」

 「ってことは私のことをウツではないと診られたんですか?」

 「いやいや。そういうことではない。今のあなたには案外この薬が効くんじゃないかと思ってね」

 なるほど。私がまたヤルのではないかという印象があるのだろう。

 「統合失調症の患者にはあの薬を20とか40錠とか処方するんだよ」

 「40? …それを1錠くらい飲んで、効果なんてあるんですか?」

 「お、じゃもっと飲む?」

 「いやいや」

 「アハハハハ」

 「へへへ」

 どうも仲良しになってしまった…。

 お近付きか…。

 まあいいけど。

 だけど退院させてくれればだよ。

 「私は主治医じゃないけどね」

 とインチョーは言った。

 「待合室なんかで会うこともあるだろうから、そのときはまたよろしくね!」

 なに? 待合室?

 それって外来?

 病棟じゃない?

 ってことは?

 「まあ、もう大丈夫かなって気はしてるんだけどね!」

 とインチョーは言った。

 「けれどね、イシャとしてはやっぱり気になるわけだ!」

 何が?

 「あなたがまた自殺するんじゃないかとね!」

 「それはありません!」

 と私はキッパリと言い切った。

 「もう絶対にそんなことはしないと誓ったんです! ご安心ください!」

 「しつこいようだけどね!」

 とインチョーはまたOKサインを作ってウィンクしてきた。

 「カルテに書かないといけないんでね!」

 ゲッ!

 なんでウィンク?

 そんな趣味ないんですけど。

 いやいや、そんな意味はあるまい。

 ただのお近付き。ただの仲良し。

 ええと、インチョーは何て言ったんだっけ?

 カルテ?

 それに何を書くって?

 「ま、明日の診察だね!」

 そう言うなり、もう関心がないとでも言うように、スッとドアから出ていってしまった。

 あれ?

 せっかくお近付きになったのに。

 と思ったら、「ところで!」というデカイ声が病室に轟いた。

 ギョッとしてドアのほうを見ると、大入道の坊主頭がヌッと出ていた。

 「この前から何読んでるの?」

 「あ…」

 と私は気を取り直して答えた。

 「司馬遼太郎の“翔ぶが如く”です」

 「じゃ!」

 とインチョーはドアの隙間から大きな図体を病室に戻し、両手を左右にパッと開いた。

 「翔びますか!」

 そう言いながら両手をヒラヒラと上下に舞わし、足を交互に上げ下げして再びドアから廊下へと出ていった。眉毛ヒョコヒョコをまたしている。

 な、何なんだ…。

 チ、チハルだったのか?

 それにしては幼稚すぎる。

 幼稚園の学芸会?

 名医?

 取り消そうかな。

 でも、インチョーとしては精一杯可愛く見せたつもりなのかもしれない。

 なぜか?

 ウツ患者の私に圧迫感を与えないためだろう

 これは当たっている。

 そう思った。

 それはともかく…。

 「明日だ」と私は思った。

 I先生の診察のときにI先生を納得させなければならない。

 今日のインチョーの様子では退院させてくれそうな気もするが、ダメと言われることだって十分にありそうに思えてくる。

 ダメだったらどうしようと考えたら不安で仕方がなくなった。

 妻は見舞いに来てくれなかった。

 明日も来てくれないのだろうか?

 オレひとりでI先生を納得させることができるだろうか?

 ひょっとするとインチョーも同席するかもしれない。

 2人がかりで攻められたらどうしよう。

 対策を考えようとしたが、頭が回転してくれない。

 モヤモヤしているうちに、この夜は午前3時くらいに寝入ってしまった。

 最凶の暗黒シーンが待ち受けているとは、私はむろん、予想もしていなかった。

★パパは最高の宝物だからね

 主治医の診察日がやってきた。

 私は朝から病室で落ち着けなかった。

 いつ呼ばれるかと思うと緊張で体がこわばった。

 いつまでも呼ばれなくて、今日は診察が取りやめになったのではないかと不安になった。

 12時過ぎ、I先生の診察が始まった。

 私は外来の診察室に行くのだと思っていたが、私が案内されたのは病室の近くの部屋だった。その部屋は私の持ち物を探すときに看護婦さんが鍵を開けて入った部屋だった。だから私は倉庫か何かだと思っていたのだが、入口の上部を見ると、「診察室」という札がちゃんと掲げられていた。

 私は診察室に入った。

 妻も一緒に入った。

 彼女はその1時間ほど前から病室に来ていた。

 そして私を地獄のドン底に堕としていた。

 私は最悪に近いウツ状態で主治医の診察を受けることになったのだ。

 この日、11時過ぎに妻が病室にやってきた。

 診察の結果によっては退院できるかもしれないので、その際の手続きや支払いをするためだった。

 妻は最初から機嫌が悪かった。一昨日、見舞いに来てくれてからずっと機嫌が悪いようだった。

 その顔を見ただけで私は激しくウツ状態に堕ちた。私はベッドに腰掛けたままうつむいた。

 彼女は、どこからか持ってきたスツールに腰掛け、私を正面から睨み据えるようにして、「もう二度としないわよね?」と強い口調で私に迫った。

 それで私はほとんどフリーズしてしまった。

 私が何も言えずに固まっていると、妻はさらにこう言った。

 「怒らせないでよね!」

 「………」

 「これから診察なのよ。そんなふうじゃ退院させてもらえないよ!」

 「………」

 「もっと怒らせるつもりなの!」

 私はしゃべることも動くこともできなくなっていた。ヘビに睨まれたカエルのようなものだった。

 私がなおも黙っていると、妻は急に下を向いて、静かに言った。

 「見たわよ、ブログ」

 「………」

 驚いて顔を上げると、彼女も顔を上げた。私はすぐさまうつむいた。

 「よくまあ、あんなことを書いてくれたわよね! 恥ずかしくないの?」

 私は恐怖で引きつっていた。

 「achaも見ました」

 と妻が言った。

 「え?」

 と私がはじめて顔をまともに上げた。

 「あんなに」と妻は苦々しそうに言った。「言いたい放題書いておいて、それで自殺するなんて信じられない!」

 ずいぶんなストレス発散になったでしょうに、とイヤミを言ってきた。

 私は何も言えなかった。

 娘がなぜブログを見たのかと、そのことを考えていた。

 何のことはない、死ぬ前に書いた手紙にブログのURLを付記したのでそれを見ただけなのだが、そのときの記憶がこのころの私には戻っていなかった。

 そこに、「食事で~す」という声が入ってきた。昼食の時間だった。

 看護士さんが山菜そばを置いていった。

 私は何をする気にもなれず、食事をする気になどもちろんなれなかった。

 ベッドに腰掛ける私とその前にそばの丼の乗った小机、その向こうにスツールに腰掛けた妻。みな静まり返った。

 やがて妻が口を開いた。

 「食べないつもり?」

 「………」

 「食べないと変に思われるよ!」

 「………」

 「もうすぐ診察よ。退院したくないの!」

 「………」

 「わたしがここにいると食べられないの!」

 いいわよ、勝手にしなさいと言うなり、妻は病室を出ていった。

 私の全身が弛緩した。岩のように固まっていた筋肉と関節が解放された。

 「インチョーよりはるかに凄いな」

 そう思った。

 もう退院などしなくていいと思っていた。

 退院したら、今度は別のオリに入れられるだけだ。そこはここよりも制約が多くストレスが大きい

 そんなオリに戻るのなら、ここにいたほうがいい。本気でそう思っていた。

 どのくらい経っただろうか、看護士さんが膳を下げにきた。

 「あれ? 全然食べてないでしょ」

 「あ、はぁ。シイタケが苦手でして…。すみません」

 実際、そばには特大のシイタケがたくさん乗っていた。

 「そうですか…」

 看護士さんは不審そうに私を見た。妻がいたさっきも病室の異様な雰囲気を感じたのか、少し不審そうではあった。

 「じゃ、下げますよ」

 「はい。お願いします」

 間もなく、妻が急ぎ足で戻ってきた。

 私の体がピクンと痙攣した。

 「診察が始まるって!」

 と妻は言った。後ろに看護婦さんがいる。

 私たちは案内されて診察室に入った。

 「いかがですか、調子は?」

 とI先生は聞いてきた。

 「はぁ…。まあまあ、です」

 と私はやっと言った。

 顔を上げるがしんどかった。胸を張るなんて、とてもできなかった。声の調子も弱々しい。

 まずいな、と思ったが、もういいや、という気持ちになっていた。

 それからいくつか問答があった。

 私の今の状態を確かめるための質問だった。私は少し顔を上げて懸命に答えた。

 退院したかったからではない。

 妻が怖かったからだ。

 いかにもウツっぽい態度をしていると、あとで罵倒されると感じていた。

 「そうですか…」

 と主治医はつぶやいた。先生も何やらおかしな雰囲気を感じたのかもしれない。

 チラッと先生の顔を見たらだいぶ憔悴しているように見えた。

 もしかするとオレが原因かと思った。

 担当する患者が自殺未遂をするとその医師は何らかの処分を受けるのではないかと、ふとそう思ったのだ。

 処分は受けないにしても、あの院長には何か言われたかもしれない。少なくともI先生自身は困っているに違いない。

 「とにかく、もう死ぬ気はない。そう受け取って間違いありませんね?」

 I先生は優しい口調でそう聞いてきた。

 死にたかったが、そんなことを口にできる雰囲気ではなかった。

 「間違いありません」と私は答えた。

 I先生のためにはもうしばらく入院していたほうがいいとも思ったが、どんな理由にしろ「退院したくない」とは言えない雰囲気に私は包まれていた。

 そこで妻が話に入った。

 「夫が退院したら、しばらくはわたしがそばについていようと思います。娘にもバイトを辞めさせて、なるべく夫についていさせます」

 だから安心してほしい、と続けた。

 一昨日、私が頼んだことを言ってくれた。

 今となってはいらぬお節介というものだったが、私は何も言えず沈黙していた。

 妻はなおも先生に何か話しつづけた。

 どんことを話していたかよく覚えていない。私が退院しても問題ないのだということを先生に納得させるための内容だったことは確かだ。

 「それでは」

 と主治医は言った。

 「退院、ということでよろしいですか?」

 妻が強くうなずいた。

 私もうなずかざるを得なかった。

 その後、妻が「わたしだけ先生に話があるから」と言って私を診察室から追い出した。

 妻が先生と何の話をするのかわかった。

 先日、妻はネットで調べたとかで、障害年金の資料を病室に持ってきた。

 読んでみると、私の状態ならどうやら申請できそうだった。

 彼女はその申請をしようと考え、主治医に相談するのだ。

 私を抜いたのは、もっとここにいられたらウツ状態が悪化しているのがバレると考えたからなのか、それとも私がそういう種類の金をもらうことを極端に嫌がる性格だからなのか、どちらかはわからなかった。

 (この予感は当たっていた。後日、私は障害年金3級の申請をすることになる。しかし不可解な理由によって申請は却下された)

 こうして私は1週間で精神病棟をあとにした

 服を着て持ち物をまとめ、看護士さんに先導されてエレベーターに向かった。看護士さんがエレベーターのボタンの下にある鍵穴に鍵を差し込んでロックを外し、エレベーターを呼んだ。やがてエレベーターが上がってきて私たちは乗った。

 1階の受付で支払いを済ませ、看護士さんに挨拶して外に出た。

 空はどんよりと曇っていた。

 妻の運転するボロ軽の助手席に乗せられ、自宅のアパートに向かった。

 途中のイチョウ並木はみな落葉していた。路肩は黄色いイチョウの葉で埋まり、それが延々と続いていた。

 ナナカマドの木を探した。遠くに見えた。落葉していた。

 町はモノトーンの季節を迎えていた。

 「さっきは」と妻が運転席で言った。「強く言ってごめんなさい」

 「………」

 「会社ね」と彼女が続けた。「返済を月賦にしてくれるって」

 勤めていたタクシー会社に私は借りがあった。ウツで1年半休職したとき、その間の税金や社会保険費等を会社が代わって納めていてくれた。仕事に復帰してから私はそれを少しずつ返済していた。退職するとき、辞めるなら貸している分を一括返済してくれと会社に言われた。私には無理な話だった。

 交渉などとてもできる状態ではなかった私は、気になりつつもそのことを解決しないまま決行した。本人が死んでしまえば会社も一括返済を要求してこなくなるだろうという期待があった。

 それを妻が交渉して月賦にしてもらったのだろう。

 「それにね」と彼女は言い足した。「あなたは今月末で退職で、まだ正式には退職になってないでしょ。それで会社から暖房手当が少し出たの。おまけに」

 妻はちょっと嬉しそうに続けた。

 「わたしのパート先から臨時にお金が出たのよ」

 暖房手当というのは北海道だけのものかもしれない。道内の会社の多くは、この時期、冬の暖房費の足しにしてもらう目的で従業員にこの手当を出すのだ。北海道の冬は長いので、手当は少なくとも数万円にはなる。

 妻のパート先は大手の企業のグループ会社なので、パートにもかかわらず待遇はきちんとしていて、例えば臨時給与を出す際には正社員にもパートにも出す。

 「だから、まだしばらくは大丈夫よ。がんばろう?」

 と言って助手席の私を見た。

 「うん」と言うしかなかった。

 そんな程度の金では焼け石に水なのだ。その場を少し凌ぐことしかできない。いずれまた同じように苦しむことになる。

 しかし、と私は不思議に思っていた。

 2年前に自殺未遂したときも、その直後、金が入ったのである。

 私の債務整理を妻が代わってしてくれていた。その成果で、ローン会社から数十万円の金が戻ったのだ。

 オレが自殺すると金が入るのかな?

 私の気持ちが少しだけ緩んだ。

 だったらもう一度やるか?

 ふとそう思ったが、その気力さえなくなっていた。

 だいいち、成功しても金が入るとは限らない。失敗するから金が入るのだとしたら、失敗するように決行しなくてはならない。

 失敗したらまたオリに入れられたり仕事を探せなくなったりするだろうから、それも困る。

 自殺するなら絶対に失敗しないようやらなければいけない。

 それが今回、私が得た教訓だった。

 まして、首に無惨なサクジョウコンを残して生き延びるなんてサイテーサイアクである。

 「いろいろと」と私は運転席に向かって言った。「迷惑かけてすみません」

 本心だった。そして、付け加えるようにこう言った。

 「achaには…、もうブログを見ないように言ってください」

 「うん…」

 と妻は答えた。何か言いたそうだったが言わなかった。

 妻は自宅にいったん戻り、すぐパート先に向かった。

 私はアパートの居間で、1週間ぶりに愛犬“にゃんきち”を抱きしめた。

 涙がとめどもなく出た。

 腕の中に愛犬を抱き、その豊かな体毛を撫でつづけた。

 「にゃんきち」

 愛犬は嬉しそうに体をくねらせた。私は泣きつづけた。

 やがて、シマリスのチビが巣箱から出てきているのに気付いた。

 「チビしゃん」

 愛犬を床に降ろして私はシマリスのケージに話しかけた。

 「久しぶりだね。元気だった?」

 チビは元気そうだった。自然界のシマリスの寿命は3年くらいのものらしい。しかし、チビはもう9年近く生きている。素晴らしい長寿だ。

 もっとも、飼育下のシマリスは10年以上生きることも珍しくないそうだ。自然界のシマリスは冬眠するが、暖かい部屋で飼われるシマリスは冬眠しない。これが長寿の秘密になっているらしい。それにしてもよくここまで生きてくれた。

 「ありがとう、チビしゃん」

 と私はチビに頭を下げた。涙がまた溢れてきた。

 床に伏せている“にゃんきち”の頭を撫でた。涙が止まらなくなった。

 チビが我が家に来てから、家族に笑いが増えた。

 ワンコが来たのは私がウツになってからだ。

 それまでほとんど引きこもり状態だった私がやっと外に出ることができたのは、ワンコを散歩に連れていきたいと思ったからだ。

 「ありがとう、アイル」

 私は愛犬の本来の名前で呼んで感謝した。

〈シマリスのチビ〉


 そこで急に思い出したことがあった。

 私のことを心配してくれている友人たちに連絡しなければならない。ブログの更新もしなくては。

 私はワンコを抱いて2階の寝室に上がった。

 パソコンを起動させ、メーラーを呼び出した。

 何人かの友人にメールを送った。

 「退院しました。お騒がせしました。しばらく休養します」

 そんな文面だったと思う。

 新着メールがあったが、それを見る前にブラウザを起ち上げ、ブログの更新作業をした。ちょっと長い文章になってしまい時間がかかった。

 これで気持ちがだいぶ落ち着いた。

 新着メールを開いてみた。

 娘のachaからメールが届いていることを知った。

 「パパへ」というタイトルだった。

 息を整え、私は読んだ。

 「パパがこんなことをして、achaはすごく悲しかったよ」

 という言葉でメールは始まっていた。

 「こんなことになるまで追い詰めてごめんなさい。気付いてあげられなくてごめんなさい」

 それだけで私は涙で顔がグチャグチャになっていた。

 手で涙を拭って読み進んだ。

 「パパは家族を守るためにって言ってたけど、パパがいなくなったらachaは全然幸せになんてなれないよ。パパがいなきゃ困る。だからもう二度とこんなことはしないで…」

 ブログを読んでなのか私が残した手紙を読んでなのか、とにかく私が自殺という道を選んだ経緯を娘は知っているようだった。

 「家族4人で幸せに暮らしたい」

 とachaは綴っていた。

 「けどもうパパもママもお互い疲れちゃったんだよね」

 大人びたその文面に私は驚いていた。

 「離婚なんて嫌だったけど、今ならちゃんといいよって言えるよ。無理なんかしてない。そのほうがみんな幸せになるような気もするから」

 そこまで読んで、私は高校生の多感な娘に対する大きな罪を感じて落ち込んだ。

 まだ高校生の娘にこんなことを考えさせるなんて!

 オレはなんてひどい父親なんだ!

 次の文面を見てさらに驚いた。

 「achaはパパのほうに行くからね。パパがダメって言ってもパパと暮らすから。まだまだ家事とか不安なこともあるけど、なんとかなるよね。お金なくても一緒に頑張ろう。かなり甘く考えてるかもしれないけど…」

 なんてことを!

 そんなことまで考えさせるなんて、オレは父親と呼ばれる資格がない。

 私は呆然としてしまった。

 「achaはまだ子供だからパパがちゃんと育ててくれないと困るよ。立派に成長して大人になって花嫁姿だって見せたいよ。ウエディングドレス着て、パパと腕組んで歩きたいよ」

 罪の意識に打ちのめされていた私には正視できない文面が続いていた。

 涙で文面が読めなくなった。

 まだ子供だと思っていた娘が急激に成長していたことに驚き、嬉しかった反面、ものすごい罪を感じていた。

 「だからもうちょっと頑張って。achaを泣かせないで。パパはachaの最高の宝物だからね」

 もうダメだった。

 私はパソコン画面から目をそらした。

 私はachaが生まれてくれて以来、娘べったりの父親だった。

 娘に対して、「achaはパパの一番の宝物だよ」といつも言っていた。

 幼い娘は目を見開いて私のその言葉を嬉しそうに聞いていた。

 それと同じ言葉を娘からもらい、娘とこれまで過ごしてきた年月を思い、私は床に突っ伏した。

 生きよう。

 突っ伏しながらそう思った。

 サクジョウコンが残ったが、いましばらく生きてみよう。

 生きられないかもしれないが、生きられるまで生きてみよう。

 泣きながら私はそう思った。

 最後に娘はこう結んでいた。

 「生まれてきて本当によかったって思ってるよ。achaはパパとママが愛し合った証拠だなって思ってる。だからこれからも自分を大切にして生きていきたい。パパがachaを大切に想ってくれてるように、achaもパパを大切に想ってるよ」

 前途は多難。

 かつて愛したその妻は今の私にとって恐怖の存在以外のなにものでもない。

 そんな彼女とこの先も夫婦でいられるか。

 無理だと思った。

 娘は離婚してもいいと書いている。本心ではないだろう。

 なにより、妻が離婚を承知しないだろう。

 こんな夫のどこがいいのか、それとも別の思惑があるのか、彼女は私との離婚を拒否しつづけてきた。

 この先も拒否しつづけるだろう。

 妻と一緒に暮らせば私のウツは治らない。

 逆にもっと悪くなるのではないかと思う。

 そうなればこの先も仕事ができるかどうか、怪しいものだ。

 それでは妻の機嫌がさらに悪化する。

 私のウツはもっと悪くなる。

 悪循環が続き、事態がもっと深刻になるのはほぼ間違いない。

 しかし、今は娘を悲しませたくない。

 それで私の気持ちは決まった。

 もうしばらくはここにいる。

 娘を守る。

 そのために邪魔だと判断したら妻であろうとぶん殴る。

 そう思ったら少し気が楽になった。

〈ナナカマド〉

 今回の私の自殺行はこうしてどこかの駅にひとまず辿り着いた。

 次の行き先はわからない。この先のことは何もわからない。

 ただ、今は自殺を繰り返してはいけないという抑制が私に働いている。

 院長のK先生、主治医のI先生をはじめとする病棟の人々、友人たち…。

 彼らが私を救おうとしてくれたのはまぎれもない。

 彼らを裏切る勇気が今の私にはない。

 娘からの手紙が決定打だった。

 娘を裏切ることは、もう二度とできそうにない。

 少なくとも今はそう思っている。

〈おわり〉