非差別民も同じ人間だ!
中世から近世にかけて穢多・非人(えた・ひにん)といった賤民身分が存在していた。
「穢多」は奈良時代に始まったようで、鎌倉時代までには奈良と京都に「穢多」が存在したことが明らかになっている。
彼らは京都鴨川河原などで小屋住まいをし、都の民のために賤業に従事した。
いわゆる河原者である。
「賤業」とは、有名なところでは、死んだ牛馬の解体やその革の加工の仕事である。
殺生を禁じる仏教が広まったことと、血を穢れとして嫌う神道(しんとう)の影響から、動物の死体を扱う穢多たちの仕事が賎業と見られるようになった。
また、刑吏・捕吏・番太・山番・水番、祭礼などでの「清め」役や各種芸能ものの支配(芸人・芸能人を含む)、草履・雪駄作りとその販売、灯心などの製造販売、竹細工の製造販売などの仕事も行っていた。
「非人」は、罪人・世捨て人・乞食・ハンセン病患者など、多様な人々を含んでいた。
基本的な職掌は物乞いだったが、町内の掃除や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話も担当したほか、芸能にも従事していた。
「穢多」と「非人」は似たような仕事に従事していたわけだ。
特に江戸期に入ると士・農・工・商に身分が分けられ、「穢多・非人」は、その「士・農・工・商」の下に置かれた。
人間とは見なされていなかったようだ。
住む区域が制限され、それが後に「被差別部落」になっていく。
私が「穢多・非人」の存在を知ったのは、司馬遼太郎の『燃えよ剣』を読んでからだ。

京都で新選組を作った近藤勇と土方歳三は、京都守護職お預かり浪士として攘夷志士(主に長州と土州の志士たち)たちを斬りまくった。
尊王運動が討幕運動になると、最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は政治を朝廷に返還した(大政奉還)。
それで幕府は消滅した。
討幕運動の急先鋒だった長州と薩摩と土州は、政権を返上して一大名になった徳川家を潰そうとした。
慶喜は謹慎して逼塞(ひっそく)したが、薩長土の官軍は承知しなかった。
江戸総攻撃のため軍を江戸に進めた。
新選組は慶喜のあとを追って江戸に舞い戻った。
徳川家は攘夷志士たちを斬りまくった新選組の存在を迷惑に思い、彼らを江戸の外に追いやるため「甲府城を守れ」と近藤にささやいた。
しかし新選組隊士の数は激減していて、軍隊を作るには人数が必要だった。
そこで誰が思いついたのか、江戸浅草の隔離地に住んでいた「穢多」を新選組に付けることにした。
「旗本にしてやる」と穢多たちに言ったらしい。

それで多くの人数を得た近藤は、甲陽鎮部隊として甲府を目指して進軍した…。
私が「穢多」という人々が存在していたのを知ったのはそのときだ。
それからは、「穢多・非人」に関する書物をたくさん読んだ。
それで上のような知識を得た。
明治になると、政府は近代化改革のひとつとして国民国家形成のため賤民制度を廃止し、「穢多・非人」を他の身分と同じく「平民」に編入した。
しかし、穢多・非人と同一の身分とされることを嫌う人もいて、彼らを「新平民」と称すなど差別が根強く残った。
穢多・非人の集落は、伝統的な身分差別の意識の残存により差別対象となり、「被差別部落」あるいは「未開放部落」などと呼ばれるようになった。
被差別部落の居住者は先祖代々同じ血筋で固定されたものと誤解されていることが多いが、これは間違いで、歴史的には被差別部落で財をなし成功した者が被差別部落の外へ流出すると同時に、被差別部落の外で食い詰めた犯罪人や無職者が生活費の安い被差別部落の中へ流入することが繰り返されてきた。
京都市内のある部落では、京都部落史研究所の調査の結果、半数を超える「部落民」が部落外からの流入者と判明したこともある。
1937年(昭和12年)に京都市社会課が市内の8箇所の部落を対象に行った「京都市における不良住宅地区調査」では、「部落民」のほぼ半数が外部からの流入者と特定された。
また、日本統治時代の朝鮮半島から内地に渡った朝鮮人が被差別部落に住み着いた例も多い。
こうした歴史により、「被差別部落」に住む人々は差別視されることが多かった。

私が仙台の小学生のころ(約60年前)、小学校のすぐ近くに馬蹄(ばてい)部落という部落があった。
崖の下に馬蹄形に粗末な家が並んでいたのでそう呼ばれるようになったのだろう。
その部落の子どもたちも私の通う小学校に通っていた。
彼ら彼女らは一様に粗末な服を着て、みんなに嫌われていた。
いじめられることも多かった。
ただ汚らしく見えるというだけで いじめられていたのだと思う。
後になって思えば、馬蹄部落も被差別部落だったのではないかと思う。
その子どもたちが粗末な服を着ていたのは、親が満足な職業に就けなかったからではなかったか。
政府は部落解放とか同和政策とかを行ってきたので、そのころになると被差別部落民でも学校に通うことができるようになっていたようだ。
しかし、被差別部落民を雇う会社が少なかったのではないだろうか。
今でも非差別部落は特に関西に多く残っている。
彼らの中には、牛や豚の解体や内臓(ホルモン)の加工に従事している人たちが多いそうだ。
死んだ牛馬の解体やその革の加工が「賤業」とみなされていた昔の名残がそこに見られる。
革の加工に従事する人も多い。
ただし近年、革加工のことが「レザークラフト」と呼ばれるようになると、誰もがその仕事に従事したり趣味にしたりするようになった。

ホルモン加工に従事する人たちは、自らの仕事をいまだに「賎業」と思う人が多いということを、何かの本で読んだことがある。
今の若い人は「穢多・非人」という言葉も知らないだろうし、彼らが従事していた動物の解体や内臓処理や革加工が「賎業」とされていたことなども知らないと思う。
革加工はレザークラフトというカタカナ名になって市民権を得た。
内臓処理業者も、ホルモンがこれほど有名になって人々に好まれるようになったのだから、胸を張って「俺たちはホルモンを作っている!」と自信を持って生きてほしい。

在日朝鮮人の人たちも、「俺たちは天皇の祖先なんだぞ!」と堂々と叫んでほしい。
なぜなら、稲作技術を持って主に朝鮮半島から渡来した弥生人から天皇の祖先が出たと思うからだ。
天皇の祖先が古代朝鮮人だったことについては、これまで何度も書いてきたので、ここでは省く。
ただ、そう考えると古代史の謎の多くが解けるということだけ書いておく。
とにかく、祖先が「穢多・非人」であろうと朝鮮人であろうと罪人であろうと、今は同じ日本列島に住む同じ人間なのだから、自らを卑下するような生き方はしてほしくない。
