ノックの向こう側|ショートショート【ノックの音が】
ノックの音がした。
男は、書斎の奥でペンを走らせていた手を止めた。
時計は午前二時を指している。こんな時間に訪ねてくる者など、いるはずがない。耳を澄ませると、再び、微かな、しかしはっきりとしたノックの音がした。それは、ドアからではなく、壁の中から響いてくるかのようだった。
男は恐る恐る壁に触れた。ひんやりとした漆喰の感触。そこに、わずかな振動が伝わってくる。まさか、壁の中に誰かが? だが、この屋敷は曾祖父の代から続くもので、隠し部屋など聞いたこともない。
ノックの音は続く。規則正しく、しかしどこか焦っているかのように。男は、何かを訴えかけているようなその音に、奇妙な既視感を覚えた。
男は壁に耳を押し当てた。ノックの音は、さらに鮮明になった。そして、その音の合間に、微かな、しかし聞き覚えのある、囁くような声が聞こえたような気がした。
「…ここに…いる…」
それは、十年前にこの家で謎の失踪を遂げた、妻の声だった。
男は斧を手に取り、躊躇なく壁を叩き割った。漆喰と木材が飛び散り、現れたのは、小さな空間だった。そして、その中に、錆びた南京錠のかかった、古びた金属製の箱が置かれていた。男は南京錠を壊し、蓋を開けた。
箱の中には、埃まみれの古びたテープレコーダーと、一冊の古い日記帳が収められていた。日記帳の最初のページには、妻の筆跡でこう記されていた。
「壁の向こうから、ノックの音がする。助けを求めているようだ。私は、この音の主を助け出す」
男は混乱した。妻は、助けを求めていたのは、壁の中の誰かだと書いていたのだ。男はテープレコーダーの再生ボタンを押した。
「…助けて…ノックの音が…止まらないの…」
妻の声が響いた。しかし、その声は、苦しみに満ちている。そして、その声に重なるように、規則正しいノックの音が聞こえてきた。それは、まさに今、壁の中から聞こえてくるノックの音と同じだった。
男は再び日記帳を開いた。最終ページには、こう殴り書きされていた。
「私は…私自身が…ノックしている…」
その瞬間、男の脳裏に、別の記憶が蘇った。それは、幼い頃の記憶だ。この書斎で、男が、一人で遊びながら、壁をトントンと叩いていた、他愛もない記憶。しかし、その記憶の中のノックの音は、今の壁からのノックの音と、寸分違わぬリズムを刻んでいた。
男は壁の穴の奥を覗き込んだ。暗闇の奥に、何か光るものが見える。それは、小さなカプセルだった。カプセルの中には、さらに小さなテープレコーダーが収められている。
男は震える手でカプセルを取り出し、再生ボタンを押した。
「…助けて…ノックの音が…私が…ノックしているの…」
それは、紛れもなく、今の男自身の声だった。
男は理解した。妻は、過去の自分が壁の中から発していたノックの音を、誰かの助けを求める声だと誤解し、その声の主を助けようとして、この壁の秘密に触れたのだ。そして、その結果、妻自身が壁の向こうに囚われ、今度は自分がノックを発する側になったのではないか。
男はカプセルを握りしめた。ノックの音は止まない。その音は、まるで自分自身が発しているかのように、男の心臓に響く。この屋敷は、ノックの音によって世代を超えて連鎖する、奇妙な監獄だったのだ。
男は、妻がそうしたように、日記帳を手に取った。最初のページには、何も書かれていない。男はペンを握り、ゆっくりと文字を書き始めた。
「壁の向こうから、ノックの音がする。助けを求めているようだ。私は、この音の主を助け出す」
星新一氏の書籍に「ノックの音が」があり、収録されている15作品全ての物語が「ノックの音がした」で始まる。
同じ書き出しでもそこから様々なストーリーが展開される私の好きな書籍の一つである。
なので、今回「ノックの音が」ショートショートを作りたいなと思いました。
皆さん、どれかお好きな作品ありましたでしょうか。
いいなと思ったら応援しよう!
もしこの記事が少しでも役に立ったり、楽しんでいただけたりしたら、チップをいただけるととても嬉しいです!
いただいたチップは、今後のより良いコンテンツ制作のための書籍代📚とnote購入🗒️、他の方へのチップ代💰に使わせていただきます。
いつも応援ありがとうございます!