傷ではなく刃物に薬を塗ると治る|非科学が本当に「効いてしまった」理由
「そんなの、さすがに私は信じませんよ」
——健康情報やネットのウワサ話について、そんなふうに思ったことはありませんか。
私も医療の現場にいる人間として、長らく同じように考えていました。科学的な訓練を受けていれば、おかしな情報は見抜ける。そう信じていたのです。
ところが、ニセ科学や陰謀論の歴史をたどっていくと、その自信がゆっくり崩れていきました。だまされていたのは、無知な人でも、うっかり者でもありません。当時の一流の知識人であり、教育者であり、軍の医師たちでした。
つまりこれは「頭の良し悪し」の話ではなく、人間の脳の構造そのものの話なのです。
今日は、教科書にはあまり載らない五つのエピソードを通して、私たちの認識の死角をのぞきに行きたいと思います。
「刃物に薬を塗ると傷が治る」——17世紀の知識人が信じた治療法
まず、17世紀のイギリスで真剣に議論された「武器軟膏」という治療法の話から始めさせてください。
これは、刃物で怪我をしたときに、傷口ではなく傷を負わせた武器のほうに軟膏を塗る、という治療法です。現代の目から見れば失笑ものでしょう。ところが当時、これは「合理的で先進的な治療」として知識人に支持され、その効果は証明されているとまで見なされていました。
なぜでしょうか。
答えは、拍子抜けするほど単純です。当時の軟膏や傷薬は極めて不衛生で、それを傷口に直接塗ることは、感染症を招いて治癒を遅らせる原因になっていました。一方、武器軟膏の作法に従えば、傷口には何も塗られず、清潔な布で覆われるだけ。結果として、人間が本来持っている自然治癒力が邪魔されずに働き、傷はきれいに治ったのです。
つまり、治ったのは事実だった。けれど、治った理由がまるきり違っていた。
人は「結果」を手にすると、その背後にある複雑な要因を飛ばして、いちばん物語として気持ちのいい説明に飛びついてしまいます。相関関係と因果関係の取り違えは、統計学の教科書の一行としてではなく、人類がずっと繰り返してきた生活習慣なのだと私は思っています。
現代の水素水も、マイナスイオンも、構造はまったく同じです。「使ったら調子が良くなった」という体感そのものは、多くの場合、本当なのでしょう。プラセボ効果も含めて、身体は確かに反応します。だからこそ厄介なのです。嘘をついているのは商品ではなく、私たちの脳が結んだ因果関係の線のほうなのですから。
「江戸しぐさ」——善意が、義務教育を通り抜けた話
次は、悪意ではなく善意が暴走した例です。
雨の日にすれ違うとき、傘を外側に傾けてしずくをかけないようにする「傘かしげ」。船や座席で少しずつ腰を浮かせて席を譲り合う「こぶし腰浮かせ」。江戸の商人たちが持っていたとされる、美しいマナーの数々。
2004年に公共広告機構(現ACジャパン)のCMで紹介されたことをきっかけに、これらは一気に社会に広まりました。そして最終的には、小学校の道徳の教科書『私たちの道徳』や、中学校の公民の教科書にまで掲載されるに至ります。
ところが、原田実さんの調査によって明らかになったのは、これらが歴史的にまったく根拠のないものだという事実でした。
私がこの話でいちばん背筋が寒くなったのは、その先です。「なぜこんな素晴らしいマナーが現代に伝わっていないのか」という当然の疑問に対して、「明治維新のとき、新政府軍が江戸っ子を大虐殺したからだ」という説明が用意されていたというのです。歴史的事実に反する、完全な陰謀論的ナラティブが、道徳の物語の内側にきちんと組み込まれていた。
なぜ、教育やメディアという知識のチェック機関が、ここまでするりと通してしまったのか。
理由は「いい話だったから」だと私は考えています。子どもに思いやりを教えることは社会的に正しい。その正しさが優先された瞬間、「それは事実なのか」という問いを立てること自体が、なんだか野暮で冷たい行為に見えてしまう。
フェイクニュースは、怒りや恐怖だけに乗ってやってくるわけではありません。感動と善意という、いちばん警戒しにくい入口からも入ってくる。私はこれを、消毒された手術室に、白衣を着た人間がそのまま歩いて入ってくるようなものだと思っています。服装が正しいと、誰も止めないのです。
「ゲーム脳」——測っていたのは、脳波ではなく筋肉だった
三つ目は、私が心理や脳の領域に関わる者として、最も苦い教訓だと感じている事例です。
2000年代初頭、『ゲーム脳の恐怖』という書籍が数十万部のベストセラーとなりました。テレビゲームをやりすぎると前頭前野の働きが鈍り、脳波が重い認知症の人と同じ状態になり、キレやすくなる——。教育関係者も保護者もこれを信じ、メディアも大々的に報じました。
しかし専門家の検証で判明したのは、この理論が基礎的な科学の作法を欠いたものだったということです。
提唱者は、被験者がゲームをしているときの「脳波」を、頭頂部ではなくおでこで測定していました。ゲーム中、人は画面を追って目を上下左右に激しく動かし、まばたきを繰り返します。目のまわりの筋肉が収縮すれば、そこには強い電気信号(筋電)が発生する。
つまり彼が「ベータ波の低下」として発表したものは、脳の活動ではなく、まばたきの筋肉が出したノイズだった可能性が極めて高いのです。
ではなぜ、これほど多くの大人が信じたのでしょうか。
「最近の若者はモラルが崩壊している」「昔の子どもはおとなしかった」というのは、いつの時代の大人も抱く定番の感想です。ちなみに統計を見ると、異常な少年犯罪はむしろ戦前の日本のほうが多かったことが知られています。それでも私たちは、この感覚を手放せない。
ゲーム脳理論は、その不満と、新しいメディアへの漠然とした恐怖に、あまりにもぴったり合致しました。自分の信じたい結論を補強する情報だけを集めてしまう確証バイアスが、「前頭前野」「ベータ波」という科学らしき単語で装甲を得たとき、批判的思考は静かに停止します。
理解できないものは怖い。怖いものには理由がほしい。その願いに応えてくれる理論は、正しさよりも先に、心地よさで受け入れられてしまうのです。
血液型性格判断——娯楽の顔をした、ステレオタイプの原型
四つ目は、今も飲み会で話題になる「血液型性格判断」です。
まず前提として、この説は欧米にはほとんど存在せず、日本特有の現象です。ルーツは1927年、東京女子高等師範学校の古川竹二教授が発表した論文にさかのぼります。心理学や統計学の専門家からは、偶然による偏りや、誰にでも当てはまる曖昧な記述を自分固有のものだと錯覚するバーナム効果として、とうに否定されています。
私が知って驚いたのは、ここから先の歴史でした。
このブームに乗って、1925年から1934年頃にかけて、十数人もの軍医が軍事目的で血液型と性格の関係を真剣に研究していたというのです。「O型は射撃が上手い」「B型は機関艦のエンジン部門に向いている」。統計的根拠に乏しいこじつけが、人の配属を決める材料として扱われていた。
さらに深刻なのは、優生思想との結びつきです。当時日本の統治下にあった台湾で「霧社事件」という大規模な抗日反乱が起きた際、古川は、台湾人に反乱を起こす者が多いのは反抗的とされるO型の比率が高いからだと主張しました。そして反抗心を薄れさせるために、日本人と台湾人の結婚を奨励して台湾人の血液型構成を変えよう、という提案にまで踏み込んでいます。
血液型の話は、一見すると無害な娯楽です。けれどその骨格は、一つの集団をひとまとめにして同じ性質だと決めつけるという、差別とまったく同じ論理でできています。
根拠のない疑似科学が、国家のイデオロギーと手を組んだとき、それは個人の多様性を否定し、分断や同化政策を正当化する道具になる。「当たってるー!」の一言の背後に、こういう歴史が沈んでいることは、覚えておいて損はないと思うのです。
フロイトの糸巻き遊び——陰謀論は、誰かの「お守り」かもしれない
最後は、対策を考えるうえで最も大事だと私が感じている視点です。
精神分析の創始者ジークムント・フロイトは、自分の初孫が、糸のついた糸巻きを遠くへ放り投げては引き寄せる遊びを、飽きもせず繰り返しているのを観察しました。フロイトはこれを単なる遊びとは見ませんでした。母親がそばにいないという強烈な不安と欠乏感を、自分の手でなだめるための代償行為だと解釈したのです。
投げても、糸を引けば必ず戻ってくる。その反復のなかで、幼い子どもは「自分にはコントロールできる」という感覚を取り戻していく。
現代の陰謀論研究者は、この構造が、人が陰謀論に傾倒していく心理と驚くほど似ていると指摘します。
陰謀論に深く入り込む人の多くは、経済的な困窮や社会的な孤立、あるいはパンデミックのような、自分の力ではどうにもならない理不尽に直面しています。世界が偶然と複雑さで動いているという事実は、そういう状況にある人にとって耐えがたい恐怖です。
だから、「裏で世界を操る黒幕がいる」という物語を手に取る。混沌に、強引にでも秩序と因果を与えるために。そして同時に、「自分は真実を知っている側の人間だ」という自己肯定感を回復するために。
陰謀論は、彼らにとっての糸巻きなのです。
ここから導かれる結論は、私にとってかなり重たいものでした。もしそれが心のバランスを保つためのお守りなのだとしたら、正しい事実を突きつけて論破する行為は、泣いている子どもからおもちゃを取り上げるのとほとんど同じだということです。反発(バックファイア効果)が起きるのは、当然の反応でしょう。
家族が変な情報にハマってしまった、という相談を耳にすることがあります。そのとき必要なのは、たいてい論破ではありません。その人が何を失って、何を埋めようとしているのかを見ることのほうが、はるかに近道なのだと思います。
数字もまた、静かに嘘をつく
ここまで五つの事例を見てきましたが、もう一つだけ触れておきたいものがあります。ダレル・ハフの古典『統計でウソをつく法』に出てくる、「セミ・アタッチト・フィギュア」という詭弁です。
これは、証明したいことが証明できないとき、別の何かを証明して、それが同じことであるかのように見せる手口を指します。効果が示せないなら満足度を出す。安全性が示せないなら販売数を出す。数字は一つも嘘をついていないのに、読み手の結論だけがすり替わっている。
グラフや数値が出てきた瞬間に警戒が緩むのは、私たち医療職も例外ではありません。数字は誠実な顔をした語り手ですが、何を語らなかったかまでは教えてくれないのです。
総括——「自分もだまされる」という前提から始める
武器軟膏が示す因果関係の誤認。ゲーム脳と血液型が示す、未知への恐怖とイデオロギーの悪用。江戸しぐさが示す、善意の暴走。そして統計の巧妙なすり替え。
これらが証明しているのは、フェイクニュースや陰謀論、ニセ科学は、決してSNSのアルゴリズムが生み出したものではないということです。それは、パターンを見出したくなる脳の癖と、不安を鎮めたいという根源的な欲求に、いつの時代も寄生してきた普遍的な現象でした。
だとすれば、私たちに必要なのはプラットフォーム批判の先にあるものです。
一つは、知的謙虚さ(メタ認知)。「自分の脳もまた、心地よい嘘や、不安を鎮めてくれる単純な物語に容易に騙されるようにできている」という、少し情けない事実を認めること。
もう一つは、ネガティブ・ケイパビリティ、つまり知的な忍耐力です。答えの出ない問題を前にして、安易な結論に飛びつかず、わからないままの状態に耐え続ける力。これは詩人キーツが用いた言葉ですが、情報の濁流のなかでは、最強の防具になり得ると私は本気で思っています。
わからないまま持ち帰る、という選択ができる人は強い。断言できないことを断言しない人は、実はいちばん深く考えている人です。
おわりに
今日お伝えしたかったことを、あらためて整理します。
一つめ。「効いた」という体感は本物でも、その理由づけは高い確率で間違っている。武器軟膏を思い出してください。
二つめ。デマは怒りだけでなく、感動と善意という正面玄関からも入ってくる。いい話ほど、一呼吸置く価値があります。
三つめ。「科学らしい言葉」は中身の保証ではない。ゲーム脳の正体は、まばたきの筋肉でした。
四つめ。人を一つのラベルでまとめる話は、娯楽の顔をしていても、論理の骨格は差別と同じです。
五つめ。陰謀論にすがる人には、たいてい埋めたい穴がある。事実の提示より先に、その人の孤独を見てあげてください。
そして何より覚えておいてほしいのは、これらのどれ一つとして、「頭が悪いから引っかかった」話ではないということです。だまされたのは、当時の一流の知識人であり、教師であり、軍医でした。あなたが賢いかどうかは、この話の争点ではありません。
大事なのは、自分の脳の癖を知っている人になれるかどうか、それだけです。そしてそれは、才能ではなく習慣です。今日この記事を読んで「うわ、自分もやってるかも」と一瞬でも思えたなら、あなたはもう、その習慣の入口に立っています。
わからないことを、わからないまま抱えて歩ける人でいましょう。その不格好な誠実さこそが、これからの時代のいちばん強い護身術になるはずです。
長文にもかかわらず、最後までお付き合いくださりありがとうございます。これからも、いい意味で"ちょっとだけマニアックな"情報を届けていけたらと思います。
参考文献:山本弘『ニセ科学を10倍楽しむ本』、ダレル・ハフ『統計でウソをつく法』、原田実による「江戸しぐさ」に関する調査ほか
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